鎌倉市大町に安国論寺があります。日蓮聖人は30歳くらいのころ、この地に庵を結び、鎌倉での布教活動の傍ら、文永元年(1260)に『立正安国論』を書き、時の執権北条時頼に建白しました。そして隣の妙法寺とともに「松葉ヶ谷の法難」の地として知られています。
写真は、日蓮聖人が毎日富士山に向って法華経を唱えたとされる富士見台から鎌倉市内を写したもの。左の端の稲村ケ崎から霊仙山、長谷山と続く鎌倉西部の山稜ごしに富士山が拝めます。
『立正安国論』の建白後、数度にわたり松葉ヶ谷焼打ちなどの法難にあった日蓮聖人はどのような想いで富士山を拝んだのでしょうか。その堂々とした変わらぬ姿をみて、釈尊に代って衆生を救えるのは、法華経とお題目で宣教する自分しかいないと強く思ったことでしょう。日蓮聖人が立っていた場所と同じところでみる富士山。やはり美しい山です。
そしてもう一つ。後日分かったことをお知らせします。日蓮聖人が最後に草庵を結んだ身延山久遠寺の位置を地図で確認してみました。鎌倉と富士山を結ぶと、その先の身延山(1153m)と七面山(1989m)付近につながりました。その七面山の山頂の一部は身延町の飛び地になっており、敬憤寺というお寺もあります。日蓮聖人が30歳のころ毎日みていた富士山。その先にある身延山。日蓮聖人は自分の終焉の地を身延山に決めていたとしたら・・・。もし事実なら、正確な地図も測量技術もない時代に。これは驚きですね。