すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

スベロッタに座布団1枚

2019年12月20日 | 雑記帳
 様々な施設や場所の名づけを、土地の方言を生かして命名することはかなり一般的だ。秋田駅前の「アルヴェ」は広く知られているし、道の駅にも「ネマーレ」「オガール」などある。本町では道の駅施設でなく運営会社名を「オモシェ」としている。まあ一つのパターンとなった。最近見つけた、秀逸な例を紹介する。


 それは湯沢市の稲川スキー場。「スベロッタ」というネーミングだ。うーん、よく考えられている。当然、スキーから「滑る(すべる)」となり、「~~しよう」という勧誘の用法で「すべろう」、そしてこの最後の「ッタ」がポイントになるだろう。これは、共通語としては「て」「って」「てば」に該当すると考えられる。


 「~~するなって」や「~~しようって」という使い方で、「主張を強く伝える意を表す」という意味である。つまり「すべろうって」と強く誘いかける言い方が、秋田弁では「スベロッタ」。これはまさにスキー場にぴったりだ。しかもスキー人口の減少が深刻な今、運営にかかわる人々にとって切実な思いが重なる。


 それにしても、最近「~~~ッタ」とあまり口にしなくなった気がする。学級担任現役時代は、「ヤレッタ」「ハシレッタ」カタヅケレッタ」などという命令強調形は若い頃の定番だったなあ。それから少し柔らかく「ヤロウッタ」「ガンバロウッタ」へ移ったのかな。気持ちは変わらないつもりでも、状況変化が見える。


 「スベロッタ」と言わなくとも、昔は冬でも子どもは身体を動かしたかったし、ゲレンデを求めて集まったものだった…。今の状況になった理由は数々あれど、強制・命令言葉を早々に諦めた私たちにも責任はあるか。ここは思い切って「スベレッタ」に改名しては…それは無理ダベッタ、もうヤメレッタと内なる声が呟く。

令和を生きる覚悟として

2019年12月18日 | 読書
 平成という枠組みで時代を語る意味はどこにあるのか。30年間という括りを、個人と重ねてみる作業によって見いだせるのではないか。いつの場合も語ることによって、ほんの少しは自覚的になれる気がする。「ポスト・ヒストリー」そして「小さな肯定」は、今回の振り返りや読書によって得た貴重なキーワードだ。


2019読了106
『街場の平成論』(内田樹編  晶文社)


 平成の始まり、終わりを告げたのは「昭和」だけでなく、ベルリンの壁やソ連の崩壊に象徴される「東西対立」、そして我が国の「経済成長」であることは大方の見方だろう。それらは白井が言うところの「ポスト・ヒストリー」…厳密に定義づけできないが、精神的な意味で進展する歴史は終焉したことを示している。


 歴史の終わりとしての様相は「成熟の拒否」「感情の劣化」という語に象徴され、具体的に挙げられた例が「国民の文芸的リテラシーの崩壊的低下」という点に胸を衝かれた。教育の責任は大きい。象徴天皇の退位によって改元された訳は、その努力に対する敬意であった。そういう感情を日常的に意識化させることが大切だ。


 鷲田が引用した中井久夫の文章「日本では有名な人はたいしたことがない。無名の人が偉いのだ。めだたないところで、勤勉と工夫で日本を支えている」…この「勤勉と工夫」の人に、もし自分たちが当てはまったとしても、そうした者は「矛盾の解決と大問題の処理が苦手」とする。この傾向そのままに平成が進んだ。


 まさしくその通りの30年間だった。政治家と同じように得意げに口にした「バランス感覚」は、「大変動」には通用しないのかもしれない。しかし、もはや繰り言に意味はない。オリンピックに湧くのは結構だけれど、その裏側こそもっとしっかり見なければならない。鷲田は橋本治の今年2月の遺稿を最後に置いていた。

 「『失われたものの数をかぞえる』というのは後ろ向きのことで、我々が考えなければいけないのは、『失われていないもの、残されているものの数をかぞえる』ということではないでしょうか。」

 新しさは常にやってくるが振りまわされず、今までのことの「小さな肯定」に力を注いで、令和を生きたい。

脆くなった土台を感じて

2019年12月17日 | 読書
 今年3月に刊行された本だがもうぼろぼろである。何度も読み込んだから…ではない。頻度の多い風呂場読書でなっなんと二度も落水させてしまい、ページ同士くっついてしまった箇所が多く、可哀そうだ。それで二冊目を注文中、いや単に汚れたからではなく、非常に考えさせられる文章が多く読み返したいと思った。


2019読了106
  『街場の平成論』(内田樹編  晶文社)



 編者の内田以外の執筆者は、平田オリザ、ブレイディみかこなど8人。うち5人の単著は持っている。考え方に惹かれる面々が多いのだろう。ただ、平成30年間の振り返りとなると、やはり専門分野や個人生活を主とするので、外国暮らしや生命科学、宗教問題など知識が少ない分野は難しい。ただ「気分」は伝わる。


 乏しい知識でも、日本の「国力」が衰えたことは理解できる。そしてその理由として、現政権の長期支配を挙げたくなる人も多いだろう。私もそうだ。しかし内田は、その判断に与せずこう語る。「安倍政権の繁盛は『結果』であって『原因』ではない」。この指摘は実に鋭い。問われるのは、個と時代との関わりである。


 だから、昨日まで拙文と承知しつつ、平成の自分や学校をある面から振り返ってみた。しかしこの本を読み進むにつれ、この30年間に起こった数々の出来事にどんな向き合いをしてきたのか、考えざるを得ない。経済、外交、重大事件、災害…安全地帯に居たように思えても、実はその土台が確実に脆くなっている


 様々な点において二極化、多極化が進んでいることを意識していても、では自らどう動くか、その手がかりが見えない。そんな現状において、納得し心に刻んでおきたい論考が二つあった。白井聡氏の「ポスト・ヒストリーとしての平成時代」と鷲田清一氏の「小さな肯定」である。いくつかメモを残しておきたい。

知性の不調を掘り起こす⑤

2019年12月16日 | 教育ノート
 相変わらず「僅かな努力の証し」が欲しかったのだろう。野口芳宏先生の個人誌に憧れ、平成7年「私の国語教室~すぷりんぐ」という冊子を作り、その後退職まで計9冊続けた。様々な思いからその作成を理由づけられるが、確実な一つは「研修」の強調であった。それが表裏を問わず仕事を支える矜持と信じた。


 教頭になって数年後、夏休み中のいわゆる「自宅研修」が取り沙汰された。それまで包括研修という形で認められていたが、周到な計画と報告を求められるようになった。当たり前のことをしなかったツケである。いつだったか「研修」と動静に表記した教頭は、全県でお前一人だと皮肉交じりに言われた年があった。


 平成18年校長になり、満を持して学校経営のキーワードを「つながる」とした。その後同様の語は近隣で乱発されたが、当時はまだ新鮮だった。ここに込めた「人・学び・仕事」の3要素は間違いないと考えるが、個々の自由度を上げたい願いは独りよがりだった感を否めない。策略を凝らす知恵が足りなかった。


 平成終盤、学校は露骨に暗黒化していった。それは学習状況調査の定着であり、いじめ・体罰といった調査の継続に象徴される。それらが揺さぶったのは明らかに「教師に対する信頼」という、教育の基盤である。数多くの論者が指摘しているはずだが、現場人は「なすがまま」の状況で、次第に筋力が失われていった。


 脈絡のないような文章を書きつつ感ずるのは、先取りをする力の無さである。言い訳をすれば目の前の仕事に没頭してきたと言えるが、実際はそれゆえに陥った視野狭窄である。学校現場に近い人々の集団的症状といえないか。それゆえ平成30年間に見失ったこと、手離したことの多さ、大きさを今嘆いているのだ。

 了~あとは読了篇で

知性の不調を掘り起こす④

2019年12月15日 | 教育ノート
 「秋田の新酵母」という比喩を用いたのは、当時「秋田流花酵母(AK-1)」が開発され話題をさらっていたからである。91年には全国新酒鑑評会では金賞数でトップに輝いていた。それはともかく教育界はどうだったか。新興勢力に対する圧力はいつの時代にもあり、珍しくもない。要はどのように根づいたか、である。


 県内に限らず、平成初期から中頃にかけて法則化運動が提起した教師の指導言の明確化はかなり浸透した。私個人は授業づくりネットワーク運動に参画して、異質なものから学ぶことをベースに教材開発したり、自覚的な指導行為のあり方を探ったりすることに傾倒した。見える範囲では多様な広がりが展開されたが…。


 臨教審答申以降、次々打ち出される教育施策に右往左往している状況があった。新学力観、そして小学校では生活科そして総合的な学習の時間。考え方からいえば実践にダイナミズムを与える印象だが、具現化は困難だった。国政や地域社会の変容と同時進行していた学校組織の硬直化が、新しい風を苦く感じさせていた。


 サークルは平成5年に大きな曲がり角を迎えた。集約は第9集で止まった。ちなみに執筆者は5人だったが、学級通信に関する沼澤提案を受けて各自が論を述べる特集も組んでいた。当時では高レベルと評価できる。しかしそれ以降は、数年不定期な形で会を持ったが継続できなかった。理由は自らの意識の低さに尽きる。


 平成10年代後半から交流を持ち、刺激をうけた堀裕嗣氏が語る「中景」の喪失という観点に見事に当てはまっていた。目の前の近景や、国・県規模の遠景に注意は払っても、中間的な集団や役割の衰退をくい止められなかった。それは個人主義、市場経済といった流れに呑み込まれた結果と言えるだろう。

 つづく~次回で締め

知性の不調を掘り起こす③

2019年12月14日 | 教育ノート
 「本当の敵を…」と昨日書いた後に、サークル集約(第6集)を見返していたら、当時の私たちの「気分」を見事に表す拙文に出会った。
 少し情けない感じもするのだが、面白いので再録してみる。現役の方もいるので実名は避けた。
 (やや長文です)

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 「ヤクザがこわくて酒がのめるか!」


 法則化運動の秋田合宿に、R先生、Z先生、それにS先生と一緒に参加した。
 市内に入ると、かなりの数の警官が目につく。信号で止まると、突然後ろにいた覆面パトカーが急発進し、左折する。ここ数日来、ヤクザの発砲事件のため厳重警戒が続いているとのことである。

 「流れ弾が恐いよお」という人もいたが、やはり夜の帳が降りると、「せっかく秋田まできたのだから・・・」という思いが頭をもたげ、会場のホテルから外に出てタクシーを拾うことにした。
 通りかかったタクシーに手を挙げたが、心なしか止まるのが遅いようだ。乗りこむと、口を開いた運転手が語るには「ヤクザかどうかを確かめるため」とのこと。
 さらに「ついさっき、そこでドンパチやった」という話。びっくりしながらも、目はやはり川反の方を向いていた。
 そして、心は今日のことを振り返っていた。


 Z先生が苦戦し、R先生も突っ込まれた論文審査。なんと創世記を小学校の教材にしようという模擬授業。そしてその後のパーティー、挨拶に立たれた野口芳宏先生の言葉にいささかショックを受けた。
「私のいる県ではね。向山講演会の参加者名簿を手に入れチェックするんですよ。」

 思想的なことが絡んでいる場合には。何度となくそういったことを耳にした(これに対しても私は反対です。憲法違反です)。しかし法則化運動までがその対象にされるのでは・・・さすが千葉である。
 振り返って、わが秋田はどうか。そうした傾向はないのか。
 ないとは言い切れまい。現にこの合宿は国語がメインで、中央の著名人、そして付属小の教官も授業するというのに、市内から参加者はきわめて少ない。多少なりとも県内の国語に通じている(と思っている)私が知っている顔はほとんどない。

 無関心なのか。そうかも知れない。
 ただ、次のような危惧は十分にある。
「この合宿、会に参加すれば、一派とみなされると考えている。」

 法則化批判?をしている高名な先生方の指導を受ける秋田の国語教育界から考えると、そんな予想もたつのである。
 教育奨励貢を受けたほどの教師が公開で授業し、その後ろ盾として県教育界の重鎮T先生も参加なさっているのだ。なぜこんなに人が集まらないのか。

 もし私の予想が、ほんの少しでも当たっているとすれば、まさしく秋田はヤクザの街である。
 「いいものはいい。」「勉強して何事も取り入れていこう。」という発想に圧力がかかっている。
 そこからの流れ弾は、確実に子どもにはねかえっていく

          
 必ず立ち寄らなければならない川反「蘇州」。
 日本酒を藪多く取り揃えている店である。四人で杯を傾けた。

 おもうほど ようほどに
 「秋田の酒は、宮城の酒に負けているなあ。」
 「そういえば、東京で飲んだあの新潟の酒、うまかったなあ。」
 と舌が感じてしまう。

 酒の国秋田はもうだめなのか。
 いや、期待はある。秋田の新酵母である。

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 1991(平成3年)3月に集約の「あとがき」として書いたものである。

 あれから30年近く経ち、思うことは … 明日へ。

知性の不調を掘り起こす②

2019年12月13日 | 教育ノート
 学校を退職した春に、回顧録を数回書きつけた。85年から勤めた学校は六年も在籍したのでさすがに思い出が多かった。そこには詳述していないがサークルを正式に立ち上げ、極めて限定的な実践にねらいを絞って活動した。最初は体育科の後転指導。「一人残らずできる」をどう具現化するか、技術を追い求めた。


 当時を知る人であれば、それは向山洋一氏の提起した跳び箱指導に影響を受けていることはピンとくるだろう。つまり普通学級における全員達成、そして学力保障という課題に焦点が当てられていた。それは、良くも悪くもまだ牧歌的な学校現場の姿と、教師の指導力格差の問題を浮き彫りにしたとも考えられる。


 そこから改元をまたいで数年間、月例サークルを続けた。提出レポートは増えていたが内容は玉石混交だった。皆、自分に対しての「僅かな努力の証」を求めていた。ただ現場の世代交代が進む中でモチベーションの一つになっていたとはいえるだろう。学校外の場を定期的に持つことで、目や腕は鍛えられていった。


 教育技術の法則化運動が示した実践の受けとめは未消化なまま、若い教員が増えていった。例えば初期の代表的指示「ゴミを10個拾いなさい」を数の限定という原則に留めてしまう短絡的思考が一般的だった。子どもにとってより価値ある教師になりたい願いはあっても、そのベクトルがふらついていたように思う。


 ゆえに、徐々に広がる社会変化に意識的だったかという点では非常に心許ない。10年後に完全実施される学校週5日制へ向けて、平成4年9月に第2土曜休業が実施された意味は大きく、当時は少し騒いだが結局のところ全てが消費に結びつく潮流に飲み込まれた感を持つ。本当の敵を見損なっていたということか。

知性の不調を掘り起こす①

2019年12月12日 | 教育ノート
 先週ある大会挨拶の原稿を考えたとき、主催する会ができた35年前の事を少し調べた。土曜日友人と一献を傾けた時、学校の活動が変わりゆく様に少し驚き、寂しさを禁じえなかった。日曜日に『街場の平成論』(内田樹・編 晶文社)を読み始めた。編者によるまえがきを読み、もう一度あの頃をおさらいしたくなった。


 本で語られるのは、当然平成元年(1989)からが中心であるが、昭和60年(1985)を一つのポイントとみたい。以前、誰の論述か失念したが、その年が教育界におけるエポックメイキングな年と位置付けられたことを覚えている。歴史的には中曽根内閣のもと、臨時教育審議会が第一次答申を出したことが大きいと言える。


 私は三校目の学校に移動した年だ。以前回顧録として断片を書いたことがある。前年に「教育技術の法則化」運動が産声を上げ、書籍が月々に出されていた。それから数年間で全国的な広がりを見せた。しかし秋田での風はまだ弱く、当時宮城で持たれた全国合宿には県内から4名しか参加しなかったという記憶がある。


 臨教審答申が3年続けて出され、教育の自由化、個性化が声高に打ち出されていた。それが学校現場にどんな力を及ぼしているか深く考えないままに、目前の実践だけを見ているような日々が続いた。85年にサークルを正式に発足させ、月例会をして年間集約をまとめた。忙しさを充実感と勘違いしていたかもしれない。


 『街場の平成論』は「知性の不調についての点検報告書」だと内田は書く。当時自分がどんな未来を描いていたか、その姿は実に矮小ではなかったか、と今想うのはまさしく「知性の不調(貧困か)」ではないのか。極私的な振り返りが何かの役に立つとは思わないが、気持ちに任せて今後掘り起こして書いていきたい。

なんとかなると夜道を歩く

2019年12月11日 | 雑記帳
 朝目覚めたら、ほんの少しだけ喉の痛みはとれたような気がした。今月最初の読み聞かせがあるので一応「朝読み」(笑)をしてみる。完璧には遠いがなんとかなるだろうか。持ちこむのは『ふつうに学校へ行くふつうの日』『おおにしせんせい』。どちらも学校が舞台で、先生がきっかけをつくる話だ。初披露となる。


 午前中は、21日のブックフェスタに向けてプログラム作り。協力者の方々が披露するタイトルも決まり、あとは粛々と準備を進めることになる。クイズとゲームを担当する自分の段取りさえしっかりすれば、これもなんとかなる。昼食後、小学校へ行き五年生相手に読み聞かせ。持参の水を飲み飲みなんとか無事終了。


 その後すぐチラシ配りで町内の小学校とこども園を廻る。考えると全部で七地区もある。もれなく回って配るのに時間は大丈夫か。しかし道路状況もよく案外苦にならず約1時間半で配り終えた。途中CM放送のことで声かけてくれる方もいた。皆さん、イベント計画を伝えると好意的に受け取ってくれたのが嬉しい。


 図書館に戻って2時間ほどは、事務処理をしつつ合間にゲームに予定している「ペットボトルダーツ」を実際にやってみる。大きいペットボトルの口を目掛けて割り箸を落とし中に入れる単純なゲームだが、これが意外と難しく一回も入らない。高さの調整が鍵か。参加者層にもよるし当日裁量でなんとかなるだろう。


 CM制作の反省懇親会を18時半より町内某所で。体調は相変わらず今一つ。慎重にビールを飲みだすが、ワインに移る頃にはそれも忘れるほどなので、案ずるより…となった。わいわい騒ぎながらCMアイデアが豊富に出てきて楽しい。3時間ほどで会はお開き。「なんとかなるものだ」と思いながら夜道を歩いた。

ソウスレバ、言い訳しよう

2019年12月09日 | 雑記帳
 土曜日「あきたふるさとCM大賞」を観た方が「『そうすれば』が秋田弁だと言われたことに驚いて、その後のCMのなかみが頭に入らなかった」と、笑えるような笑えないような感想をツイッターに挙げていたと娘から聞かされた。発案から構成、シナリオ、編集まで担当した者としては、これは少し書いておきたい。



 作品前に流されるメイキングビデオで、こんなことを説明シナリオとしてスタッフの一人に語ってもらった。「秋田県人が、秋田弁と意識しない秋田弁。それが『そうすれば』です。意味は『そうすると、では、そのためには、そういうことで』などたくさんあります。たくさんの魅力ある羽後町にふさわしい言葉です」。


 通常使われる「ソーシェバ、シェバ、ヘバ」もパネル化して付けた。厳密に言えば「そうすれば」は標準語であり、その意味が多様化しているという事だ。私達がほとんど気にしないその多様な使い方に、戸惑っている人は確かにいた。きっかけとなったのは、かつて秋田大学にいた言語学の日高先生の文章であった。


 今調べ直すと、『秋田のことば』の中に「秋田のことばあれこれ」というコラムで載っていた。秋田に引っ越してきた県外者は「さまざまな手続きの中で、『ソウスレバ』に戸惑う」ことを書いている。標準語では「仮定条件」つまり前言の行為等を引き継いで使われるのが普通だが、秋田では単に接続詞としても使う


 一般の方のブログにもあった→「べこ夫婦の釣りバカ日記」。日高先生は秋田弁の特徴として「バ」の表現多用を挙げていて、「方言的な表現を標準語風に変換して作りだされた『疑似標準語』」と示している。代表例は「そうすれば、さようなら」。この使い方の許容度が本県は高い。「そうすれば」だけでも別れられる。