すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

今年の「大雪」の日は…

2019年12月08日 | 雑記帳
 二、三日前から喉がいがらっぽい。こまめにイソジンでうがいをしているが、復調には到らない。今日は暦上の「大雪」。公私ともに多忙の一日だ。午前は、町活性化センターで「青少年育成町民会議」の作文発表大会がある。準備へ出かける前に、コンビニで栄養ドリンクとのど飴購入する。これで何とかしのげるか。


 表彰、挨拶と大過なく過ごし、小・中学生の発表に聴き入る。35回目で何が変わり、何が変わらないのか。子どもたちの話の中味と照らし合わせてみる。盆踊りという伝統に込められた思い、牛の世話を懸命にする家族とそこに起こる不慮の死…幸も不幸も、どこか似たような風景をかなり昔にも見たことがあった。


 小さい子の発表に、インドネシアへの父の出張、工務店のトラックでマグロを運ぶというエピソードが登場する。きっと35年前なら稀な話だ。引き起こされた感情に差はなくとも、周囲の状況はやはり目まぐるしく、子どもの育ちに今後どんな影響を及ぼすのだろう。そんなことを考えながら、昼食後は図書館へ。


 今月下旬に開催するブックフェスタのリハーサルだ。協力者を頼んでの新規の企画。隣接する会館ホールでPCを使うため手順を確認する。参加人数が読めないのでかなり大雑把だ。しかし職員には「あまり人が多すぎて、こちらが困ったらそれは大成功と言える」と変な理屈で納得してもらう。二週間後が楽しみだ。


 夕刻から久しぶりに親しき仲間と一献傾けた。楽しいひと時であった。しかし、学校の中から様々な活動が消えていくことに寂しさを感じる。ずっと危惧してきた特別活動の減退。それが、日本の学校の良さだったはずなのに…。老兵の愚痴か。今日放映された「ふるさとCM大賞」をみると、自分の特活好きが判る(笑)。

『波』によって波立つ胸

2019年12月07日 | 読書
 新潮社のPR誌を定期購読している。600号を数えたそうだ。同じように毎月届く『ちくま』と較べると、『波』の方は小説に読み応えがある気がする。まあ好みの問題ではあると思うが。さて、「創刊600号記念短編」と銘打って筒井康隆の書き下ろしに冒頭10ページが割かれている。その題名は、「南蛮狭隘族」。


 これは…なんとも理解しがたい話だ。話者が南方での戦死者だろうと想像はつくが、話題が多すぎて相当の知識がないとついていけない。ただ、読み進めると、独特である話の筋の脱線のさせ方が妙に懐かしい。ああ、やっぱりオレは高校の頃ハマっていたんだ。レベルは遠く及ばずとも、思考のズレ方が気持ちいい。


 このブログに何度も感想を書いている『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の単行本はずいぶんと評判らしい。「四冠達成記念」(本屋大賞など)の座談会も記事になっている。毎月最初に読んでいる連載だ。今月号も著者の息子である「ぼく」は、とても興味深い話題を提供してくれた。「社会を信じること」。


 それは10月に東京で起きたことがもとになっている。台風時の避難所でホームレスが追い返された件が英国でも報道されたのだそうだ。「社会」とは何かを考え、どのスケールで物事に対するかが問われる情報世界になっていることは間違いない。我々は多様性の現実を突きつけられた時の行動原理を持ち得ているか。


 はらだみずきという作家の連載小説を通読した。今回が最終回、幼い頃一緒に暮らした祖母が入院し、放置された庭の世話を始めた主人公がその庭とともに再生する話だ。題が「やがて訪れる春のために」。その答は平凡だけれど沁みた。「与えられた場所で、あるものを生かし、できることを工夫し、楽しみながら続けたい。

パクリの師走を歩き回る

2019年12月06日 | 雑記帳
 『ちくま』12月号、穂村弘が「絶叫委員会」という連載に、自作の歌を載せている。

 冬。どちらかといえば現実の地図のほうが美しいということ

 少し解釈に悩む一首である。
 「どちらかといえば」で比較されているものは、「冬」と「現実の地図」か。
 それとも「現実の地図」と「現実でない地図(夢想したもの等)」なのか。
 また「現実の地図」とは比喩なのか、という疑問もわいてくる。

 もし「現実の地図」が、例えば「目の前の風景」を意味する比喩ならば、一昨日から降り続いた雪の中にいる者としては、「美しい」とは思えないなあ。
 と、突然自分に引き寄せてみる。
 そこで、パクリの一首を。

 冬。どちらかといえば現実の雪のほうが重たいということ



 同じ号で、これも連載している詩人最果タヒが、次のような題をつけて、いつものごとく独白している。

 希望的観測2.0

 この「2.0」という書き方、そもそもは「Web2.0」からきているはずで、一時期、ずいぶん拡張した使われ方をしていた。ウィキによると

 新世代のものを表す冗談として、本来規格やバージョンとは無関係であるものの名称に「2.0」を付与する流行を作った。小数点以下1桁まで含めた表記であるが、そのことにも特に意味は無い。

 2.0だけでなく、3.0も4.5なんてのもあった気がする。
 こうした表記上の流行は終わった気もするが、「希望的観測」という、精神上の働きに付けてみると、案外おしゃれな気もする。

 そこで、年末に向けて一つパクリのキャッチコピーを。

 漸進的片付け2.0

 そもそも「漸進」と口にした時点で、刷新できないことはかっている。

変化しない感覚に向き合う

2019年12月05日 | 読書
 精神年齢と言ったりするが、よくも悪くも身体の実年齢とかけ離れていると思うことが、時々ある。


Vol.182
 「人間は齢を経るにしたがって老獪という成熟を手に入れることができるが、感覚だけはほとんど変化しないし、進歩もしないという実感がわたしにはある。」


 月曜に読み終えた『路地裏で考える』の中の一節である。
 妙に説得力を感じた。
 著者の平川が、詩人谷川俊太郎と対談した時に、谷川が若い頃の散文は恥ずかしくて読めないが詩なら読めると答えたことに、共感を示した一言だった。

 ずっと昔「人は誰でも25歳までは詩人である」という句を聞いたことがあった。
 実際の区切り年齢はともかく、若さが詩とつながっているという考え方が古くからされていたことは確かだろう。
 しかし、それとは別に一人一人のなかにある「感覚」は実はあまり変化せずに残っていて、要はそれを表現できるかどうかという考え方もあろう。


 ここで「老獪」「成熟」とは何ぞやということになる。

 経験を積むことは精神の成長を促すが、それはやはり論理面が大きく、感覚面としては乏しいのかもしれない。
 とすれば、悪賢いのは論理であって、感覚は清いままに残されている可能性だってある(都合のいい解釈だ、これが老獪かも)。

 もちろん、稀有な体験によって、大きく影響をうける人も存在するはずだ。
 けれど一般的には、幼少期から青年期まで根づいた感覚は案外頑固なのかもしれない。

 「人は誰も、自らの感覚に向き合ったとき詩人になるのだろう。」と平川は重ねて言う。

 繰り言は仕舞いにして、感覚に向き合ったとき表現への手蔓があるならばたぐり寄せてみたいと思っている自分はいる。

生活水準低下中の買い物

2019年12月04日 | 雑記帳
 最近というか、徐々にということだが、物を買わなくなっている。もちろん食べ物や飲み物、それから本、そしていくつかサプリなどは変わらないのだが…まあ、エンゲル係数だけが高く(つまり、原則でいえば生活水準の低下)なっているのは収入からすれば当然なのだが。数えるほどしかないこの頃のお買い物は…。


 百均で買ったものは膝のサポーター。寒くなる前から膝の調子は気にしていて、いろいろと揃えているが、前に買ったときに結構使えたので購入することにした。安価なものは劣化が早い。ただこれは今までの経験だと10回以上はもちそうだと判断した。品切れだったのが先日入っていたので、思わず5箱も大人買い(笑)。


 齢をとるにつれ夜中に目覚めるとなかなか再び眠るのが難しくなってくる。こういう時は何回も寝返りをうつが、枕のようなものを抱えると少し気分が安定する。いわゆる抱き枕だ。今までクッションのようなものを代用していたが、とうとうダメになり量販店で購入する。千円也。抱えて持ち帰るときが少し恥しい。


 印刷機に「もう少しでインクパッドが一杯になります」といった警告が出たので、調べてみたら修理に出すか、自前でパッド交換するしかないようだ。結構面倒だ。このプリンターは約三年半、よく頑張ってくれた。教員現職時代よりずっと使用頻度が高くなったのはシール作り等に精を出したからだ、買い替えよう。


 条件は、今のインクに在庫があるのでそれを使用できること。しかし同じA4サイズは発売されておらず、わずかに一つの機種がヒットした。なんとA3仕様。使いどころは…と考え、読み聞かせの拡大コピーが可能になるだろうといい言い訳を見つけた(笑)。2.5万と割高なれど、これもまたきっと孝行してくれる。

路地裏の大人として生きる

2019年12月03日 | 読書
 著者の使う「路地裏」は「路地」とほぼ同義と見ていい。地方に生まれ育ち都会暮らしに縁のない者にとって、その雰囲気はわかっても日常の暮らし方が違うし、理解の及ばぬ箇所もあるだろう。しかし「人家の間の狭い道路」という意味を考えると、強者とは異なる視点で歩む同士のようなシンパシーを感じている。


2019読了105
『路地裏で考える』(平川克美  ちくま新書)



 言葉を紡ぐことに対しての誠実性がいつも感じられる。内田樹経由でこの著者に出会ったが、冷徹にしかも生活実感を伴って綴られる文章は心に沁みてくる。だから逆に、政界やマスコミ界に見られる「言葉の陳腐化」現象の薄っぺらさを見通せる。元経営者である著者はきっと、例えば「one team」などは使わない。


 その言葉をどれほどの熱意を持って語り、実践するかが問われているのであり、利用して何かを成し遂げようと思考する者たちに、言葉は汚されていく一方だ。嘘や欺瞞に満ちた言語状況を浄化したい。その重要さを語る一言はこの書ではこう記される。「長い時間を貫いて指南力を持ちうる言葉の中に、真実は宿っている。


 野口芳宏先生がよく口にする「利他」と「公益」。これは教育基本法の目的に照らし合わせた行動原理として示された語だ。それは「子どもが大人になる契機」と同一の方向を持っている。それは「自分以外の人間のために生きなくてはならないという自覚を持ったとき」である。その覚悟を備えさせるのが教育だろう。


 世相をとらえたエッセイの他に、映画、そして旅を取り上げている。紹介された『湯を沸かすほどの熱い愛』はすぐに観た。「国家の規制を踏み越えなければ実現しなかった」と書かれた意味に納得した。旅の温泉宿にあって「路地裏的視点」は、様々なこの国の現状を浮かび上がらせている。要は眼差しの鋭さなのだ。

雪道を行く、師匠の言葉

2019年12月01日 | 教育ノート
 昨日は花巻の野口塾へ。前夜からの雪は残っていたが、秋田道は県境の峠を越えたあたりから、通常の道路状況だった。山脈を境にがらりと空が変わるこの季節を改めて痛感する。心が少しだらけてきたときは、野口芳宏先生の話を聞くことが何よりの薬になる。幼子抱擁と同様、発する気に触れると元気づけられる。


 研修会はまず模擬授業が4名。それぞれが個性的な進め方をしながら、学習用語をきちんと押さえている点はこの会ならではの骨幹が見える。お昼前の神部秀一先生の音読・朗読講座は楽しかった。喉の調子を崩されて苦しそうだったが、その理論と実演は見事だった。「自分の読み方」を変えさせられた時間となった。


 午後からは発問道場の実技篇と理論篇。題材は「ごんぎつね」である。今回の参加者について特筆すべきは、新任3年目までの方が十数人いたことである。先生はその方々を指名し、作った問いを黒板に書かせた。私のようなリピーターには実に愉快な(笑)時間となった。と同時に「問いに正対する」意味を改めて考えた。


 最後は「本音・実感の道徳授業」の講座。ここはまさしく野口節全快の一時間だった。先生のお話の特徴の一つに「造語」がある。印象付ける効果がてきめんで、参加者が今まで耳にしたことのない熟語等をズバリと語る。従ってメモせざるを得なくなる。今回は「良師良問」と「善行快感」の二つ。意味も明快だ。


 自主性、主体性、自発性等、教育界で尊重される美辞麗句を取り上げて、疑義を呈した。そしてキーワードとも言うべき「多様性」を、安易に初等教育で扱うことを批判、そのうえでこう語られた。「子どもは『真面目』の塊りでいいんじゃないか」。教師が「流行」にとらわれていると、心の体幹は強くできないと悟る。