すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

巨人は正反対の方向から

2012年02月15日 | 読書
 『橋本治と内田樹』(ちくま文庫)

 「二大巨人」という形容詞はふさわしくないのだろうか。
 いずれ,自分はこの対談集の大部分読みとれなかったので,到底立ち向かえない相手という意味で正しいと思っている。

 もう第一章から駄目でついていけなかった。
 橋本治という不可解極まりない?存在のことばに,さすがの内田教授も「はあ。」という返答を何度か重ねている。
 私ごときが理解しようなどとは百年早いよ,という声が聞こえる気がする。

 二章になったら,多少教育の話題も出てきたりして,なるほどと時々うなずける場面もでてくるが,それでも話は至るところで様々な方向へとび,また訳がわからなくなる。

 せめて,ああこれは近づけるかもしれないと思ったことぐらいメモしておきたいと,ページ端を折った箇所を書きつけてみる。


 (橋本)
 技術って,「だいたいできてるから,もうちょっとちゃんとできる」って形で進歩するんだと思うんで,「遊ぶ」ということが実は技術の習得だということを忘れちゃったから,「だいたい」からジリジリジリッと完成度高めていくことができなくなったんだろうなと思うんですよね。


 (橋本)
 服は自分を見せるためにあるんじゃないんです。服を見せるためにあるんです。服が似合うためには,着た自分を引き算するしかないんです。

 
 (内田)
 脳はむしろ経験をファイルして,カタログ化して,どんどん片づけようとするでしょ。でもね,きちんと分類して,ファイルしちゃうと,もうストックとして引き出すことができなくなるんですよ。



 ところが,キーボードをたたいて改めて文字にしてみると,どうもこれらは常識的とは言えないとはっきりするわけで,そうした物事を疑ってみる,いや極端に言えば逆さにしたところに見えてくる真実もあるという共通点に気付く。

 そういえば,エピソードとして取り上げられた『淀五郎』という芝居噺の筋も,死ぬ気の役者に対して心構えなどで諭すのでなく,純然たる技術論を語って教えるという件があり,興味深かった。

 全ては正反対の方向から攻めてみる,という一つの人生訓が浮かびあがってくる。

 そうすれば,この立ち打ちできない対談集だって,「へえへえ,実にわかりやすくて,彼等はこんなこと言っているんですよ」とあえて口にしてみることだって,まんざら無駄とは言えない気もする。