スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

馬場と木村&母の歯の痛み

2013-09-20 19:06:17 | NOAH
 ラッシャー・木村が本格的に全日本プロレスで仕事をするようになったのは,1984年の暮れ,世界最強タッグ決定リーグ戦からでした。1983年の夏にテリー・ファンクが引退。天龍の成長もあり,この時期から馬場のパートナーは鶴田からドリーに移り,鶴田は天龍と組むようになっていました。しかしこの年にテリーが復帰,ファンクスが再結成されることになり,馬場のパートナーが空白に。極秘パートナーとリーグ戦に参加すると発表されていましたが,その正体が木村だったのです。
 しかしこのチームは長く続かず,早くもリーグ戦の最中に仲間割れ。そうして国際血盟軍が結成されることになりました。ちょうどジャパンプロレスと全日本プロレスの提携が始まったシリーズで,長州たちが鶴田と天龍を,木村が馬場に相対するという形が,これ以降はしばらく続くことになります。この世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦は横浜文化体育館で,僕はライブで観戦しましたが,そのときにはすでに馬場と木村は戦っていたということになります。
 ただ,仲間割れ自体は必須であったともいえます。木村はこれ以降は全日本で仕事をしていますが,もっと以前には単発で全日本に出場したことがありました。これは木村が国際プロレス時代のことで,僕のプロレスキャリアがスタートする前のこと。1975年には両団体のエースとして対戦。これは黒い呪術師が乱入した影響で馬場がフォール勝ちしたとのこと。ただ,僕はこの試合のことはいっかな知りません。その後,1978年2月にもシングルマッチがあり,こちらは過去映像として視たのですが,非常に不可解な判定で,馬場のリングアウト勝ちということになっています。
 そうした過去の経緯を考えれば,木村が馬場のパートナーとして全日本に参戦するというのはおかしな形。仲間割れして対戦することになるのは,おそらく織り込み済みであったのでしょう。木村を自然な形で全日本に参戦させ,また馬場のパートナー不在という事態を回避するための措置であったのではないかと思っています。

 4月16日の火曜日。は妹を作業所まで送っていった帰りに,I歯科に寄ってきました。これは母に歯の痛みがあったためです。予約を取っていたわけではないのですが,診察はしてくれたとのこと。年齢に相応した歯槽膿漏が原因であると診断されたそうです。薬品を注入した後,レントゲンの撮影をして帰宅しました。レントゲンの撮影を行ったということは,これ以降,通院するということになります。歯科はいろいろあるのですが,ここは根岸駅の近くで,母は妹の送りの際には必ず通りますから便利。また,僕も通っていて,推薦できる歯科医という印象で,それを母にも伝えてはありましたから,I歯科を選ぶことになったようです。この日であったか記憶が定かではありませんが,歯科助手の配慮について母と話したことがありますが,やはり母にとっても,手の温かさは印象的であったようです。僕はこの日は磯子でした。磯子は近いですから,帰ったのも午後4時15分頃でした。
 母の次の通院はこの週の金曜日。日付でいえば4月19日ということになります。ただ,この日は何も特別の治療はせず,歯石の除去作業を行っただけでした。僕はこの日は長者町で,早くに終りまして,午後3時45分くらいには家に戻れました。
 4月22日の月曜日が内分泌科の通院の日。5日にインスリンの注射針の入手のために出向いていて,この月は2度目となりますから,保険証の確認は行う必要がありません。機械に診察券を通してすぐに中央検査室へと向いました。ところがこの日は中央検査室の受付に人が不在で,少しばかり待たなければなりませんでした。中央検査室に限らず,みなと赤十字病院の何かしらの受付に人が不在というのは,僕はこのときがただ一度の経験です。並んでいる患者があるために待たなければならないのはよくあることですが,こういうケースは非常に稀だといえるでしょう。人が戻ってきたとき,名札の部分に研修中とありましたので,まだ不慣れな部分があったのだろうと思われます。
 ここでは採尿と採血ですが,この日は採血をするための技師もひとりしかいませんでした。これも珍しいことです。
コメント
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