自然な行為としての慈悲

2006年10月21日 | メンタル・ヘルス

 今日は、これから秋の山を見に行きます。紅葉が始まっているでしょうか。

 なので、今日も簡単に『摩訶般若波羅蜜経』の一節をご紹介して記事にすることにしました。


 一切衆生を救済(ぐさい)し、一切衆生を捨てず。是の事あるも、亦(また)是の心有るを念(おも)わず。是れを菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、一切衆生の中に於て、利益安楽心(りやくあんらくしん)を生ずと名づく。」(金剛品第十三)


 菩薩という大乗の理想は、自分だけでなく生きとし生けるものすべてを救いたいという願にあります(これは下手をすると誇大妄想といってもいいくらいの理想ですね)。

 しかし、それがふつうの自意識的な願望と違うのは、「一切衆生を救済する」という事実があるにも関わらず、それを「念わず」つまり意識しないというところです。

 分離した実体としての私が、分離した実体としてのあなたがたをお救いしたいと思うのではないのです。

 般若波羅蜜・三昧が深まれば深まるほど、自然に心の奥底から他者と自分との一体性の実感が湧いてくるので、自然に他者=自分の利益や安楽につながるような行動をしてしまう、ということでしょう。

 唯識で説明すれば、「念う」のはマナ識にコントロールされた意識の働きです。

 「利益安楽心」というのは、平等性智に裏付けられた妙観察智成所作智の働きのことでしょう。

 そういう深い大きな心になれるよう――ということはまだなっていないという意味ですが――般若波羅蜜・三昧を精進していきたいと思っています。

 これから山を見に行くのも、自然との一体感を少しでも実感したいからです(と、別に言い訳をする必要もないんですけどね)。

 今日、明日、天気になーれ!



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