できることから始める:無財の七施+1

2006年05月26日 | メンタル・ヘルス





 私たちは、六波羅蜜というと何かすごいことをしなければならないのだと思い、すぐに自分には無理だと思うか、逆に無理をしてしまいがちです。

 しかし私の考えでは、布施も含め六波羅蜜はリハビリのメニューのようなものですから、回復度に合わせて徐々にやる必要があると思います。

 いくら人の役に立ちたいといっても、やっとベッドから起きて歩行練習を始めたばかりの人が、突然アフガンにでも行って炎天下の重労働のボランティアなどをしたら、すぐに倒れて、かえってまわりの人に迷惑をかけてしまうでしょう。

 泳げない人が、溺れている人を助けようとして飛び込んだら、自分も溺れてしまって、救助員に二重に手間をかけてしまいます。

 しかし、仏教の歴史の中でもそういうことがよくあったようで、「非力(ひりき)の菩薩救わんとしてかえって溺る」という言葉もあるそうです。

 ですから布施も、自分のいまの実力に応じて、無理のない程度にすこしずつやるのがいいんですね。

 溺れる人を助ける救助員になりたかったら、まず先に泳ぎをおぼえる必要があります。

 その場合、最初はボードにつかまってバタ足をするといった程度の練習から始めるわけです。

 幸い、例えば『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』というお経に初歩的メニューが書いてあります。

 「無財(むざい)の七施(しちせ)」といって、財力・実力がほとんどなくてもできる布施です。

①眼施(げんせ) 人をやさしい眼で見ること

②和顔施(わげんせ) やさしい顔をすること

③言辞施(ごんじせ) やさしい言葉をかけること

④身施(しんせ) 体を使ってできることをすること

⑤床座施(しょうざせ) 席をゆずること

⑥心施(しんせ) 心で思うこと

⑦房舎施(ぼうしゃせ) 宿をお貸しすること

 この7つです。

 人を見る時、なるべくやさしい目で見るようにしましょう。

 人にはなるべく笑顔で接するようにしたいものですね。

 激しい言葉、とげのある言葉を使わないで、やわらかなやさしい言葉を使うように心がけましょう。

 やさしい言葉というのは、時として本当に救いになるものです。

 旧約聖書に「優しい舌は命の木である。乱暴な言葉は魂を傷つける。」(箴言15・4)という言葉がありますが、本当にそうだと思います。

 それから、たとえ小さなことでも体を使ってできることをしてあげるように気をつけたいですね。

 例えば、体が不自由な方は、ちょっとものを取るのも大変で、そんな時そばにいる人が頼むとこころよく気軽に取ってくれるとすごく助かるのだそうです。

 電車などで、めんどくさがらないで、照れないで、必要だと思われる方にさっと席を譲るようにしましょう。

 私も、なるべくそうしていますが、でも、時に自分がとても疲れているとパスさせていただくこともあります。

 must化はしないことにしているからです。

 なかでも「心施」など、「心で思っても何もしなければ何にもならないではないか」と思われるかもしれませんが、そうではありません。

 苦しい時に誰かが思ってくれるだけでも、大きな心の支えになりますし、また心の深い思い・祈りはしばしば――必ずではないにしても──実現します。

 「念ずれば花ひらく」という言葉もあります。

 唯識の考え方からいうと、人間の心は奥深いところで他の人とも宇宙ともつながっていますから、私の思いが宇宙の働きと共振すると、私が何もできなくても、宇宙が他の人のためにそれを実現してくれることがあるようです。

 よかったら、実験してみてください(私の実験したところでは、100%ではないが、かなりの程度実現するという感じです。)

 具体的なやり方としては、私の訳したD・チョプラ『人生に奇跡をもたらす7つの法則』(PHP研究所)などが参考になるでしょう。

(ただ予めお断りしておきますと、残念ながら、全体としての宇宙は部分としての私の思いどおりになるとはかぎりません。私の思いが宇宙と共振しない場合もあるようです。)

 以上の項目の中の1つ、2つなら、私たちでも、お金がなくても、力がなくても、いつも必ずはできないにしても、なるべくそうするように心がけることはできますね。

 まあ、最後の宿をお貸しするのは、自分に家がなければできませんけどね。

 ところで、以上の七施に、私は人の言葉・思いに耳を傾けてあげるという布施を加えるといいのではないかと思っています。

⑧傾耳施(けいじせ) 人の言葉や思いに耳を傾けること

 七施の名前にならって、「傾耳施(けいじせ)」と呼びましょう。

 これもまた、財力がなくてもできることです。

 ただ、本格的にするには、かなりの根気と非常な共感力が必要ですが。

 ひたすらに耳を傾けるだけのように見えるロジャーズ派カウンセリングに大変なトレーニングが必要であり、したがってまたプロのカウンセリングは有料であるように、「相手の気持ちに深く共感しながら、しかも感情的に巻き込まれてしまわない」というのは、決してやさしいことではありません。

 でもともかく、人に聞いてもらえ、わかってもらえるだけでも、大きな慰め、救いになることがあります。

 できるだけ、聞いてあげるという布施も実行していきたいものです。



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コメント (4)
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