詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」

2024-02-23 23:06:24 | 映画

ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」(2024年02月23日、キノシネマ天神、スクリーン3)

 山荘で男が死ぬ。自殺か、他殺か、目撃者はいない。第一発見者は男の息子、視覚障害がある。殺人なら男の妻が犯人だ。裁判になる。裁判劇のようだが、、、、。

 映画が始まってすぐ、男の妻がインタビューを受けている時、大音響の音楽。男(夫)が大工仕事をしながら、かけている。この音楽を聴いた瞬間から、この映画は映像ではなく、音の映画だと気づく。

 実に繊細に音が拾われている。山荘での会話には屋外の風の音が混じりこむ。必要がない音だが、観客に耳をすませと要求する。音を聞き逃すな、と。

 実際、裁判の最初のクライマックスは、男が録音していた夫婦喧嘩の声、物音である。それを、どう理解するか。

 しかし、これは見かけのトリックというか、ほんとうの見せ場ではない。

 ほんとうの見せ場というか、耳をぐいとつかんで離さないのは、少年がラスト近くで弾くピアノ。これがすばらしい。いつも練習している曲だが、練習だから上手ではない。それがたどたどしい音から、数秒、実に透明な、美しい音楽にかわる。

 この瞬間、映画の結末、裁判の結果がはっきりとわかる。

 そして、音楽が予告したとおりの判決になるのだが、それで終わりではない。

 その結末は、真実かどうかわからない。

 わかるのは、それが少年の聴いた(見たではない)事実、少年の心が決めた事実であるということだ。それを、判決前の少年が弾くピアノの音が象徴している。

 あの音、ああああ後思わず声に出したいくらいに素晴らしい音。あの音を聞くために、もう一度、見てもいいかなあ、と思う。

 そして、おまけ。

 いつも少年に寄り添っている犬が、ほんとうのラストシーンで、最後の大活躍。少年のこころを代弁する。その時も、犬の歩く足音が効果的につかわれている。

 最初から最後まで、一つの音も聴き逃してはいけない映画。

 だからこそ、少年を視覚障害という設定にしている。そして、これは、少年の成長物語でもある。裁判劇ではなく、映画でしか表現できない音のドラマである。

 

 


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