詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(48)

2019-02-05 09:54:52 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
48 カフェの入口にて

あたりの人々の言葉に耳をとめて、
わたしはカフェの入口に目をむけた。
そして見た、エロスがその技のかぎりを
尽して作ったような美しい姿態を--

 このあと「美しい姿態」の描写がつづく。描写の特徴を池澤は、こう説明している。

人物を直接に形容する言葉はない。修飾はすべてその部分にむけられ、そのため形容詞にも性の区別のあるギリシャ語で書かれてなおかつ、この美しい人物は男とも女とも限定されない。

 私はそのことよりも、「美しい姿態」にもかかわらず、そのことばが「視覚的」ではないことがおもしろいと感じる。書き出しの「言葉に耳をとめて」がそのままカヴァフィスの詩の特徴だ。耳で聴く美しさだ。目をむけても、目で見ているのではなく、「ことば」で聞いている。「声」で確かめている。ことばの動きを追っている。ことばの動きが詩だ。

四肢は均整も見事に形造られ、
彫像を思わせ丈高く、
顔は情感豊かに作りなされ、
しかも神の指はその額と、眼と、唇に、
ある想いを残していた。

 「均整」「見事」「情感豊か」。これはことば(抽象)であって、具体ではない。「彫像」が視覚を刺戟する比喩かもしれないが、どんな彫像かは具体的にはわからない。ことば(声)は与えるが、視覚は与えない。あくまでも「音楽」なのだ。
 最後の二行は「指」によって、「触覚」を刺戟する。
 「美しさ」は、カヴァフィスにとって「耳」で聞いて、「指」で触れて確かめるものだ。
 「聴覚」と「触覚」は不思議だ。
 耳は全方向に開かれていて、どの方向の音も聞き取る。眼には死角があるが、聴覚には死角はない。そして耳と「音」は距離的に離れている。眼は対象と接触してしまうと見えないのに、耳は対象と接触しても聞こえる。聴くために耳をくっつけることもある。
 一方、指(触覚)はかならず対象に触れる。離れたまま指で感じることはできない。





カヴァフィス全詩
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1 コメント

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池澤夏樹のカヴァフィスー48 (大井川賢治)
2024-05-08 17:50:20
読みすすんでふっと思いました、カヴァフィスは死の寸前まで、このような美と性と官能の詩を書きつづけたのでしょうか?

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