橋本篤『より添って』(編集工房ノア、2014年02月04日2刷発行)
橋本篤『より添って』には「認知症の人々と共に」というサブタイトルがついている。詩はそのサブタイトル通りの内容。ことばの冒険はない。そのかわりに認知症のさまざまな姿がわかる。「事実」をつたえるために、いわゆる詩人のことばを排除している。「詩的」といわれることばを排除している。論理も「詩的」であることを避けている。この作品の、どこに詩があるだろうか。
「ふみさんの徘徊」はホームの廊下を歩きまわる百歳を描いている。周りの人は「徘徊だ」という。
「タンポポの毛」という比喩が詩だろうか。「哲学の小道」という比喩が詩だろうか。そうかもしれない。「健常な神経細胞」ということばに私は橋本の「職業」読み取る。「知性」というものを自分の生き方としている姿勢も感じる。--でも、それは詩とは少し違う。
私が詩を感じる瞬間は、「本当にそうだろうか」という一行だ。
自分が見ている世界、そして見たことから判断していること、「本当にそうだろうか」と疑問に思う。疑問というのは、ソクラテスに始まる「散文」の精神なのだけれど、疑問からことばが動く--その動く瞬間に、私は詩を感じる。
そこにある世界--それが本当かと疑問に感じたときから、ひとは何をたよりにことばを動かすのか。自分の知っていること、「肉体でおぼえていること」である。
橋本は医師である。内分泌・消化器・精神医学の専門家である。だから「大脳」や「健常」「神経細胞」という、まず橋本に親しいことばが動く。橋本にとっていちばんわかりやすいことばなのだと思う。私はそのことばを「ことば」としてしか知らないが、橋本は「もの」として肉体で知っている。わかっている。
まず、そういう自分に親しいものを通って、「ふみさん」という自分ではない「肉体」へ動いていく。そのときに「タンポポの毛」が出てくる。これは「神経細胞」の神経の網(?)、あるいは神経の触手(?)のようなものかもしれない。タンポポの毛はぼんやりみつめると丸いけれど、よく見ると、その丸さはこまかく枝わかれた線でつくられている。脳全体を走っている神経の姿を見ているのかもしれない。そこに橋本の「肉体」のおぼえていることが重なっているのを感じる。「哲学の小道」も、橋本が京都の「哲学の小道」を歩いているとき、あ、タンポポが咲いていたなあ、タンポポの綿毛を見たなあ、という本当の体験があってでてきたことばなのだろうと思う。
「本当にそうなのだろうか」という疑問が、橋本を動かす。橋本の「肉体」を動かして、ことばを動かす。その橋本の「肉体」が「ふみさん」の「肉体」に重なる。橋本は「ふみさん」を見ながら、自分の「肉体」を見ている。別個の肉体、二つの肉体が、そのとき重なり合う。「大脳」も「神経細胞」も「タンポポ」も「哲学の道」も橋本には「わかる」。「わかる」ことを手がかりにして、他者と重なる--そういう運動が詩なのである。
ことばで「ふみさん」を追いかけながら、橋本は「ふみさん」になろうとしている。「認知症」「徘徊」ということばで閉じ込められているけれど、本当は、そこには「可能性」がある。橋本は「事実」を追いかけながら、「事実」を追い越して「可能性」をつかみとる。
ことばは、「流通言語」のを叩きこわし、ことばそのものの、まだ存在しない可能性を表現することだが、橋本のことばも「まだ存在しない可能性」へ向かって動いている。その動きの中に詩がある。その詩の出発点が「本当にそうなのだろうか」という疑問である。疑問があって、はじめて存在しない可能性をつかみ取ることができる。
橋本は、また別の見方(思想)もつかみとっている。「超高齢と認知症で苦しんでいる人々」の施設を回診しながら思ったことを書いた「ベッドの上の勝者たち」。その後半部分。
この詩では、橋本は「ハタと立ち止まる」、そして「本当なのか」と考える。「本当」を探す。そうするといままで見ていた風景とは違う「可能性」としての世界が見えてくる。その「可能性」は、その世界で生きてきた「肉体」が見る「可能性」である。
橋本は「そう思って眺めてみると」と簡単に書いているが、この「そう思って」のなかには橋本の「肉体」がある。認知症、超高齢のひとの姿と接しつづけるという日常を知らない私が「そう思って眺める」のとは違うのである。
自分自身の「肉体」が「おぼえていて、わかっていること」、それを動かし(つかって)、世界を組み立て直す--そのとき、そこに詩が生まれる。
私がいつも読んでいる詩とは違うのだけれど、橋本の書いていることばには、そういう詩がある。そして、その詩のあり方は、私がいつも読んでいる詩とは違わないということを知った。
橋本篤『より添って』には「認知症の人々と共に」というサブタイトルがついている。詩はそのサブタイトル通りの内容。ことばの冒険はない。そのかわりに認知症のさまざまな姿がわかる。「事実」をつたえるために、いわゆる詩人のことばを排除している。「詩的」といわれることばを排除している。論理も「詩的」であることを避けている。この作品の、どこに詩があるだろうか。
「ふみさんの徘徊」はホームの廊下を歩きまわる百歳を描いている。周りの人は「徘徊だ」という。
本当にそうだろうか
彼女の大脳の中に
わずかながらも残されている
健常な神経細胞たち
紡がれるものは
タンポポの毛のような
ちいさな知性かもしれない
けれど そんな知性にとって
廊下はたのしい哲学の小道だ
「タンポポの毛」という比喩が詩だろうか。「哲学の小道」という比喩が詩だろうか。そうかもしれない。「健常な神経細胞」ということばに私は橋本の「職業」読み取る。「知性」というものを自分の生き方としている姿勢も感じる。--でも、それは詩とは少し違う。
私が詩を感じる瞬間は、「本当にそうだろうか」という一行だ。
自分が見ている世界、そして見たことから判断していること、「本当にそうだろうか」と疑問に思う。疑問というのは、ソクラテスに始まる「散文」の精神なのだけれど、疑問からことばが動く--その動く瞬間に、私は詩を感じる。
そこにある世界--それが本当かと疑問に感じたときから、ひとは何をたよりにことばを動かすのか。自分の知っていること、「肉体でおぼえていること」である。
橋本は医師である。内分泌・消化器・精神医学の専門家である。だから「大脳」や「健常」「神経細胞」という、まず橋本に親しいことばが動く。橋本にとっていちばんわかりやすいことばなのだと思う。私はそのことばを「ことば」としてしか知らないが、橋本は「もの」として肉体で知っている。わかっている。
まず、そういう自分に親しいものを通って、「ふみさん」という自分ではない「肉体」へ動いていく。そのときに「タンポポの毛」が出てくる。これは「神経細胞」の神経の網(?)、あるいは神経の触手(?)のようなものかもしれない。タンポポの毛はぼんやりみつめると丸いけれど、よく見ると、その丸さはこまかく枝わかれた線でつくられている。脳全体を走っている神経の姿を見ているのかもしれない。そこに橋本の「肉体」のおぼえていることが重なっているのを感じる。「哲学の小道」も、橋本が京都の「哲学の小道」を歩いているとき、あ、タンポポが咲いていたなあ、タンポポの綿毛を見たなあ、という本当の体験があってでてきたことばなのだろうと思う。
「本当にそうなのだろうか」という疑問が、橋本を動かす。橋本の「肉体」を動かして、ことばを動かす。その橋本の「肉体」が「ふみさん」の「肉体」に重なる。橋本は「ふみさん」を見ながら、自分の「肉体」を見ている。別個の肉体、二つの肉体が、そのとき重なり合う。「大脳」も「神経細胞」も「タンポポ」も「哲学の道」も橋本には「わかる」。「わかる」ことを手がかりにして、他者と重なる--そういう運動が詩なのである。
どんなことがあっても
決して怒らない
たとえ後ろから叩かれたって
ウフッと笑うだけである
オヤツだって最後の最後まで
手を出さない
誰からも暖かい声を
かけられるふみさん
彼女のまわりにある日常は
生活の隅々にまで広がる無欲の海
ことばで「ふみさん」を追いかけながら、橋本は「ふみさん」になろうとしている。「認知症」「徘徊」ということばで閉じ込められているけれど、本当は、そこには「可能性」がある。橋本は「事実」を追いかけながら、「事実」を追い越して「可能性」をつかみとる。
ことばは、「流通言語」のを叩きこわし、ことばそのものの、まだ存在しない可能性を表現することだが、橋本のことばも「まだ存在しない可能性」へ向かって動いている。その動きの中に詩がある。その詩の出発点が「本当にそうなのだろうか」という疑問である。疑問があって、はじめて存在しない可能性をつかみ取ることができる。
橋本は、また別の見方(思想)もつかみとっている。「超高齢と認知症で苦しんでいる人々」の施設を回診しながら思ったことを書いた「ベッドの上の勝者たち」。その後半部分。
最近私はハタと立ち止まる
この人たちは本当に弱者なのか
本当に気の毒な人々なのか
ここまで生きてきた彼ら
眼の前は
見渡す限り九十歳前後の人々ばかり
百歳を超す人もチラホラ見える
この歳にまでたどり着けず
無念な思いのなか
倒れて逝ってしまった多くの人々がいる
そう思って眺めてみると
眼の前の弱者は
突然光り輝く商社に見えてくるのだ
よく頑張ってこられましたね
たくさんのハードルを越えてこられたのですね
困難に打ち勝つコツを教えてくれませんか
この詩では、橋本は「ハタと立ち止まる」、そして「本当なのか」と考える。「本当」を探す。そうするといままで見ていた風景とは違う「可能性」としての世界が見えてくる。その「可能性」は、その世界で生きてきた「肉体」が見る「可能性」である。
橋本は「そう思って眺めてみると」と簡単に書いているが、この「そう思って」のなかには橋本の「肉体」がある。認知症、超高齢のひとの姿と接しつづけるという日常を知らない私が「そう思って眺める」のとは違うのである。
自分自身の「肉体」が「おぼえていて、わかっていること」、それを動かし(つかって)、世界を組み立て直す--そのとき、そこに詩が生まれる。
私がいつも読んでいる詩とは違うのだけれど、橋本の書いていることばには、そういう詩がある。そして、その詩のあり方は、私がいつも読んでいる詩とは違わないということを知った。
詩を読む詩をつかむ | |
谷内 修三 | |
思潮社 |
御一読下さい。
「より添って」は認知症の人々を目の当たりにしている一人として読みました。
谷内さんの視点を参考に再度読んでみます。
この著者の新刊があるようです。