原色のツートンカラーのジャケットを羽織って、お土産物屋に来た、韓国なまりの流ちょうな日本語を話す中年女性。
何にでも興味を持って、手にとってひねくり回しながら、大きな声で矢継ぎ早に質問をする。
そのうち、商品のお茶を取り上げると
「これ、原価いくら?」
店員は初め、言われた意味がわからなくて、
「そこに書いてあります。600円です」
「そやし、原価いくら?」
だんだん意味がわかってきて
「売値は、600円です」
と答えたものの、後で、猛烈に頭に来て、
「日本人だったら、想像もつかないことを言う!」と、カンカンになっていた。
確かに、日本文化ではあり得ない言動だ。いや、駆け引き文化の中東でもあり得ない。
日本人でも、商売を知らない家庭で育った人には、時々、『原価で売ってよ』と思う人もいるが、そんなことを口に出す人はいない。
商売人は値ざやで生活をしている。
時には原価を切る商品もあるが、その場合は、見切りバーゲンで商品を処分し、他の商品で埋め合わせをして利益を出す。
そうしなければ商人は生きていけないのだが、収入は給料として入ってくるものだと思っている人には、それが解らない人がいる。
同時にそういう人は、就職先がなければ生活できないと思っている。
そのように、日本の中でも、生き方の原理の違いはあるものの、それなりに互いが察しあって、秩序と文化が保たれている。
しかし、国や民族が違うと、日常の常識がまったく通用しない「カルチャーショック」がある。
冒頭の、土産物屋の客は、相当、流ちょうな日本語だから、10年や20年は日本で暮らしているのだろうが、どういう環境であれ、生い立ちの文化のまま暮らしているようだ。
国際化
日本は外国移民を受け入れなければやっていけないと言われているが、多くの日本人はカルチャーショックに慣れてないし、「原価いくら」みたいな、生存権に関わるショックには我慢できない。
ところが逆に、状況によっては、『答えなければいけないのかな』と思ったり、『答えたらいい人に思われるかな』の思惑で答えてしまう。
この場合、聞く方は魂胆も期待もない。言ってみているだけだ。だから、答えを聞いても、ありがたがりもしないし、「しめた!」とも思わない。たまたま、そういうもの(答え)にデッ食わした、自然環境だと思うから、バカにする気もないが、こちらに感謝もしない。
だから、こちらの「つもり」に拘ると、イチャ文を付けられたと、逆ギレする。恩が帰ってくると日本流の期待をしてはいけない。
日本と中韓の文化が大きく違うのは、相手を人と見るか景色と見るかだ。
狭い日本で暮らしていると、自分と相手は同じ人間だと思わなければ、すぐ自分に災いが来る。日本は、察しあい、思いやりの文化だ。
しかし、大陸文化は、目の前の人は家族や身内ではない。行きずりの自然環境だ。
自然環境は、自分に都合の良いように扱わなければならない。おだてたり、なだめたり、おどしたり、時には穴をこじ開けるダイナマイトとして、最も効果的な賄賂を使う。
相手のためを思ってするのではない。あくまで自分のためであり、相手もそうだから、相手を得させて喜ばせなければならない。
それが自然とのつき合い方だ。
台風や地震には逆らわない。強い者にはへつらい裏切り、とりやすい木の実はむさぼりとる。
権力と無秩序が同居するワイルドな大陸文化に、穏やかな島国育ちの日本人はとても太刀打ちできない。
しかし、日本人はもともとそういう文化を何度も受け入れて、今日の日本文化を築いてきた。少し、忘れてしまっているだけだ。
世界大移動時代に、江戸時代のようには異文化を拒否できない。
拒否すれば反って抹殺され飲み込まれてしまう。
日本文化を守り発展させるためにも、
異文化を受け入れ、かつ、鎖国する。
それには、日本がひと塊で一色になるのではなく、徹底してローカル色を出していく。地域の自治が堅固であれば、日本全体が、一斉に外国に飲み込まれることはないし、地域、地域の変質が、徐々に全体的な変化を生み出すことにもつながっていくだろう。
島国というものは流入者があるので、案外、ローカル色が強く残る。イギリスもインドネシアも、フィリピンも、台湾も、統一が難しかったし、統一された日本でも今日まで、お国や、なまりがあった。
それが、一斉に塗り替えられることのない島国の強さだろう。
もう一つ言うと、日本は東北アジアの一員として考えるより、ASEANや、海洋国家連合として考える方が、心情的に良い関係が保てるような気がする。