魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

弟妹世界

2012年06月29日 | 兄弟関係

アメリカのあきれるほどの訴訟社会は、良く知られている。
近頃はアメリカ式正義を押しつけられた日本でも、いくぶんそういう傾向が出てきている。

しかし、日本の場合、喧嘩両成敗と言われるように、争いそのものが罪であると考えられてきた。「青洞門」の話など、アニメにして世界に無料で配布してほしいぐらいだ。(ことに、中東や東アジアなど)

これは、仏教と儒教を取り入れ、原産国以上に深化させた日本の文化による。

易経の「訟」では、「終われば凶なり」と説く。
訴え事は、誠意が通じない時に起こすものだから、白黒の決着をつけるものではない。先ずは自分自身を省みて自分の誠意を尽くし、それでも、相手が解ってくれない場合、いわば、防御策としてとる手段だ。

したがって、相手をたたきのめすための手段ではない以上、相手だけではなく、社会のみんなに解ってもらうことによって、波風を治める為のものだ。
最後の上爻では、「例え強引に勝訴しても、衆目が拒否すれば、何の意味もない」と説く。つまり、表面の正義より、社会全体との調和の方が本質だと教えている。

こうした教えが、発祥の地よりもむしろ日本の底流に根付いたのは、島国日本の環境が、喧嘩下手で、ひたすら自省で生きる「一人っ子」の風土だからであり、争いに明け暮れる世界の兄弟達には、理屈は解っても、自省するゆとりが無かったからだろう。

民主主義と訴訟社会
世界の基本は、やはり、弟妹型の原理で動いている。弟妹型とは、民主主義的な多数決の論理であり、みんなが良しとするものが「正しい」ことになる。

誰か偉い人の意向ではなく、直接間接に民衆に選出される、法とその専門家による判断で「合理的に」白黒をつける。
法秩序に対する信頼が、判決に合理性を持たせ、ボタンを押すと、ガチャンと白黒がつくような「便利な」社会が、民主主義の法治社会だ。

これは、いかに合理的であるかが主体で、いかに人道的であるかは忘れられている。

思惑の異なる者の対決を、いかに調和させるかではなく、どちらを排除するかの争い。
自分が正しいと信じ込み、第三者に判断して貰わなければならない両者には、自省や、歩み寄る気持ちは生まれない。

これは、親や長子からガッンと、やられるまで主張し続ける弟妹型の典型であり、アメリカ社会が訴訟から抜けられないのは、やはり、アメリカ文化が、弟妹型であることを表している。

今日の世界情勢の中で、長子型の中国や、長子一人っ子の日本が、協議や裁定の場で、上手く立ち回れないのは、多国間のコンセンサスを読む状況判断ができないからだろう。
この点、弟妹型の南北朝鮮などは、遥かに上手く立ち回っている。

長男中国が長年のクセで、命令を叫びまくるのは、放っておけば良いとして、不器用な一人っ子の日本は、他国と同じように権利を得ようと競っても決して得にならない。

従来通り、一歩引いて、賢くて可愛い人の印象を保ち続けるのが最良の策であり、出かけて行くより、お招きしてお持てなしをする方が、確実に生き残る道だろう。

ただし、ただの「素敵な人」では、いざという時、無視される。
お招きした人を各国のリーダーへ導く人材育成と後見。各国との利害を絡ませた個別の絆など。周到に育てていくことが肝要だ。