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清水克行『室町は今日もハードボイルド』:第1部第4話「ムラのはなし」奥琵琶湖の中世の「ムラ」菅浦と大浦との150年戦争(1295-1461)!『菅浦文書』(国宝)の合戦記!

2022-09-12 18:34:31 | 日記
※清水克行『室町は今日もハードボイルド、日本中世のアナーキーな世界』2021年:第1部「僧侶も農民も!荒ぶる中世人」(「自力救済」)

第1部第4話「ムラのはなし、“隠れ里”の150年戦争(1295-1461)」
(1)“奥琵琶湖の隠れ里” 菅浦と隣村の大浦との「150年戦争」!
(a)琵琶湖のいちばん北の奥に菅浦(スガウラ)という集落がある。最近、その古い家並みが「日本遺産」に認定され、“奥琵琶湖の隠れ里”として知られるようになった。
(b)ここはかつての「中世村落」菅浦があった所だ。ここで『菅浦文書』(国宝)が発見された。当時、菅浦と隣村の大浦は、両村の間にある日指(ヒサシ)と諸河(モロカワ)という田地をめぐり、村争いをしていた。『菅浦文書』によれば最初の衝突は1295年(鎌倉時代)、その後、150年間二つの「ムラ」の血なまぐさい死闘が続いた。

(2)公的な「荘園」「公領」のもとで、百姓の生活共同体としての「ムラ」!
(c)中世の「ムラ」とは何か?中世の地方社会には、いわば「行政区画」として「荘園」(都に住む貴族・寺社が支配する地方の土地)と「公領」(地方の国司の役所である国府が支配する土地)がある。「荘園」と「公領」は、年貢徴収のための編成だ。実際の百姓の生活は生活共同体としての「ムラ」を基礎単位に展開していた。
(c)-2 平安時代以来の支配制度としての「荘園」や「公領」が、鎌倉時代中頃から室町時代になると弛緩していく。これにともない生活共同体としての「ムラ」(日本史教科書は「惣村」と呼ぶ)が歴史の表舞台に浮上してきた。
(c)-3 この中世の「ムラ」が戦国から江戸時代を経て公的な地位を獲得すると、江戸時代の「村」となる「村」の規模は今の「大字」に相当し40-50軒くらいの家、人口400-500人位だった。
(c)-4 公的な地位を持たない「ムラ」は、個人で解決できない①領主との年貢などをめぐる問題、②隣接する「ムラ」とのもめ事などを解決するための近隣の住民同士の連携と言える。

(3)1445年の菅浦と大浦の戦闘&日野家の裁判:『菅浦文書』の合戦記(その1)!
(d)菅浦と大浦の「150年戦争」の最初の激しい衝突は1445年(文安2)3月大浦が菅浦に対し、山林への立ち入りを禁止する通告を一方的に寄こしたことに始まる。菅浦がこれを無視し山林に立ち入ると、7月、大浦側が周辺の村々とともに菅浦に総攻撃。その報復に菅浦側も周辺の村々とともに、また武士も加わり大浦に総攻撃した。(菅浦側の百姓7人戦死、武士の一族9人戦死。)(Cf. 当時の菅浦の成人男子数140~150人ぐらいだった。)
(e)その後、菅浦・大浦の共通の領主である京都の公家・日野家の裁判に、「日指(ヒサシ)と諸河(モロカワ)という田地の帰属の問題」は持ち込まれた。
(3)-2 裁判中、1446年にも菅浦と大浦の衝突が続く!
(f) 京都での日野家による裁判の進行中にも、菅浦と大浦の衝突が続く。1446年3月、菅浦の百姓1人が大浦側に殺される。ついに4月大浦と菅浦との「合戦」が行われる。それぞれの「陣」が張られ「矢合戦」も行われるが、大浦のリーダーが矢に射られ「討」ち取られた。さらに5月にも大浦と菅浦との「合戦」が行われ大浦側6~7人が戦死する。この時は騎馬も参戦した。
(f)-2 6月には大浦側3人が浜辺で殺害され、7月にはその報復として菅浦の4人が殺害された。

(4)日野家の裁判は菅浦の勝利となる!(Cf. 1449年)  
(g)日野家の裁判は、急転直下、菅浦の勝利となった。日指(ヒサシ)と諸河(モロカワ)は、菅浦の領有が認められた。菅浦の裏での政界工作の成功だった。『菅浦文書』の1449年の記述によれば菅浦側の京都政界への工作費用は2年間で「200貫文」(現在の約2000万円)だった。
(h)政界工作で後れをとって敗れた大浦の恨みは増すばかりだった。双方の村の領主の日野家は松平益親(マスチカ)を代官として送るが、大浦側は今回の敗訴の原因は彼にあると逆恨みした。1452年8月、大浦側が代官所を襲撃し、代官暗殺を謀った。(襲撃を察知し松平は危うく難を遁れた。)

(5) 1461年(寛正2)、菅浦・大浦の紛争の再燃&2度目の日野家の裁判:『菅浦文書』の合戦記(その2)!
(i)松平暗殺未遂事件の9年後、1461年7月、菅浦の行商人が大浦側に殺害された。これにより菅浦・大浦の紛争が再燃する。5日後、菅浦側が大浦の住人4~5人を報復として殺害。大浦側は即座に京都の日野家に訴訟を起こした。(2度目の裁判。)
(j)今回の裁判は日野家の当主、日野勝光(日野富子の兄)が自ら審理に臨んだ。勝光は争う村双方から代表者を出し、湯起請(ユギショウ)(熱湯に手を入れて火傷の重いほうを敗訴とする)によって決着をつけることを下命した。これは双方に遺恨が残らぬよう「神の意志」を問う呪術的な裁判方法だ。
(j)-2 湯起請(ユギショウ)の結果は、火傷の程度が少ない大浦の勝ちとなった。判定人は代官の松平益親(マスチカ)だった。

(6)菅浦滅亡の危機(1461年10月)!代官松平益親の政治的判断で、危機は回避された!   
(k)日野家の当主、日野勝光はこの湯起請(ユギショウ)の結果を知り、これまでの菅浦と大浦の村争いの紆余曲折への憤懣を、まとめて菅浦側にぶつけてきた。日野勝光は、代官松平益親と大浦に対し、菅浦に軍事攻撃をかけるよう命令を下した。
(k)-2 大浦は菅浦を「永代攻め失うべき(永久に地上から消滅させる)」ための準備を整える。1461年10月、松平益親を大将として、近隣の多くのムラや武士たちが続々と集結。さらに近江の国の諸郡の住人、松平の本拠の三河国の配下もはせ参じた。地上軍および湖上船団が菅浦に対する総攻撃体制をとった。
(k)-3  対する菅浦は成人男性140~150人。孤立無援だが、「要害をこしらえ」「城をかため」、老若全員が「目と目を合わせ」「ただひとすじ枕をならべ討ち死に」という決意を固めた。
(l)最期の覚悟を決めた菅浦の者たちの不気味な静寂に、代官松平と大浦の大軍勢が意外にも躊躇し始めた。
(l)-2 ここで菅浦側が起死回生の和平交渉に乗り出す。交渉の窓口は近隣塩津の地頭・熊谷上野守(コウズケノカミ)。ムラ(菅浦)のリーダー2人が頭を丸め、総大将松平のまえに「降参」の意思表示に出向く。あわせて謝罪のしるしに、集落内の家にみずから火が放たれた。
(m)この菅浦の全面降伏の姿勢に、代官松平の態度も軟化した。松平は「かつて大浦側から命を狙われた」ことに許しがたい思いも抱いていた。ここまで菅浦側がプライドを捨てて降参してくれば、これ以上菅浦を攻撃する必要もない。かくして松平の政治的判断で、菅浦滅亡の危機は回避された。
(n)こうして菅浦は以後、「多少の不衡平があってもガマンして、紛争を起こさない」ことを誓う。事実、これ以後、江戸時代に至るまで、菅浦と大浦の間で衝突の事実は、いっさい確認できなくなる。
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