DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

「世間的-自己」は、「呼び声」としての「良心」によって打ち破られなくてはならない!「おのれの自己」を聞くのだ! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第2章」「第55節」

2019-12-23 22:02:37 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」「第55節 良心の実存論的=存在論的基礎」

(6)世間(das Man)に聞きとれているありさまは、「呼び声」(der Ruf)としての「良心」(das Gewissen)によって打ち破られなくてはならない!現存在は世間的-自己(das Man-selbst)に聞きとれて、おのれの自己(das eigene Selbst)を聞きのがしている!
K 「世間(das Man)の公開性(Öffentlichkeit)と世間話(空談、das Gerede)のなかへおのれを紛らわせているとき、現存在は世間的-自己(das Man-selbst)に聞きとれておのれの自己(das eigene Selbst)を聞きのがしている。」(271頁)
K-2 「世間(das Man)に聞きとれているありさまは、打ち破られなくてはならない。」(271頁)
K-3 「かような打破の可能性は、いきなり呼びとめられることのなかに含まれている。」(271頁)
K-4 この「呼び声」(der Ruf)が「良心」(das Gewissen)である。

《感想6》ハイデガーは言っている。①「疎隔性」(Abständigkeit)(※他者との差異を意識すること!)、②「平均性」(Durchschnittlichkeit)(※他者と同じようであることを求める!人並み!)、③「均等化」(Einebunng)が、「世間(das Man)の存在様相」としての「公開性」(Öffentlichkeit)(※自明として受け取られること)をなす。「公開性(※①+②+③)はすべてを曇らせ、しかもこうして蔽われたものを、なにか周知のもの、万人に供されたものと公称する。」(127頁)
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