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現存在は、世界内存在であり、出現する世界そのものだ!現存在は「内」であって同時に「外」である! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第43節」(a)

2019-10-16 17:45:37 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第43節 現存在、世界性および実在性」「(a)《『外界』の存在と証明可能性との問題》としての実在性」

(4)「外界問題」:「実在的なものは『意識から』独立に存在しうるや否や」という問題!
F 「外界問題」とは「実在性」が「自体および独立性という性格」をもつことに由来する問題である。つまり「実在的なものは『意識から』独立に存在しうるや否や」という問題、もしくは「意識は実在的なものの『圏』内へ超越しうるや否や」という問題である。(202頁)
F-2 実在的なものの独立性とは「何からの独立性」なのか?「超越」とは「何を超越する」のか?(202頁)
《感想4》「外界問題」とは、「意識」とは何か、「外界」とは何かという問題、あるいは「意識」と「外界」の関係の問題だ。

(4)-2「世界が存在するのかどうか」((a)《「外界」の存在の問題》)、また「世界の存在は証明されうるかどうか」((a)-2《「外界」の証明可能性の問題》)という問いは、無意味である!
G 「そもそも世界が存在するのかどうか、そしてそれの存在は証明されうるかどうかという問いは、世界内存在としての現存在が立てる問いとしては・・・・無意味である。」(202頁)

《感想4-2》ハイデガーは言う。現存在は「おのれに先立つ存在」(①②)である。すなわち現存在は①《「投企」するおのれ》(「存在可能」)として存在するだけでなく、②「ある世界の内にすでに存在している」。つまり「おのれに先立つ存在は、なお、十全に表現すれば、ある世界の内にすでに存在していることにおいて、おのれに先立つ、ということを意味する。」(192頁)
《感想4-2-2》なんと存在は《無》でなく、《有》=《世界》だ。《「投企」するおのれ》は、すでになにものかであって、つまり《有》=《世界》の内にあって、あるいは《有》=《世界》そのものであって、《無》でない。奇跡のようだ!
《感想4-3》現存在の存在は、「関心」(気遣い)(Sorge)である。ハイデガーは言う。「現存在の存在論的構造全体」は次のような「構造式」で把握される。すなわち「現存在の存在とは、《(世界の内部で出会う存在者)のもとでの存在として、(世界)の内にすでに、おのれに先立って存在する》ということである。」(※「おのれに先立つ存在」①②)「この存在は、われわれが用いる関心(気遣い)(Sorge)という名称の意義をみたす。」(192頁)

(5)カントにおいては「事物」も「意識」も「客体的に存在している」(Vorhandensein)!
H 「『外界問題』も、いつも内世界的存在者(事物や客観)を念頭に置いて立てられている」。(203頁)
H-2 「カントにおいては、『現存在』(Dasein)という用語は、意識の存在をも、事物の存在をも、ひとしく客体的な意味で指している。」(203頁)
H-3 カントにおいて、デカルト同様に、「意識」も「客体的に(※事物的に)存在している」(Vorhandensein)!(203頁)
H-4 「物的なものと心的なものとが相ともに現前して存在している(※《客体性》を持つ)」とカントは主張する。(204頁)
H-5 なおカントは立脚点を「主観」のなかに、「私の内」にとっている。「カントがそもそも『私のそとなる事物の現存在』の証明を要求していることだけでも、彼が問題設定の立脚点を主観のなかに、『私の内』のなかにとっていることをすでに示している。」(204頁)
《感想5》カントにとっては、「意識」も「事物」も《客体性》を持つ。(※《客体性》とは、カントの言い方では《現存在》とは、《客体性》である。)

(6)現存在は、世界内存在であり、出現する世界そのものだ!現存在は「内」であって同時に「外」である!
I 「『世界』が何から独立に、何の『そとに』存在している」のか?(205頁) 
I-2 「現存在は存在者として、いつもすでに、ある世界の内で存在している」。(205頁)
I-3 「関心の存在様相における存在構成の『アプリオリ的原理』は、いかなる現存在的な前提や態度よりも、『より先なるもの』である。」(206頁)

《感想6》現存在は、モナドであり、世界そのものだ。世界内存在とは、世界そのものがそこに出現しているということだ。現存在は、世界内存在であり、出現する世界そのものだ。現存在は「内」であって同時に「外」である。
《感想6-2》現存在はモナドであって、現存在はそれ自身、世界・宇宙・超越論的主観性である。かくて例えば、空間・物はモナドの中にある。現存在(モナド)の外に超越的な客観的空間・物はない。(参照:102頁)
《感想6-3》あるモナドにとって「外」とは他モナドだ。間モナド的(モナド共同的)という意味で「外的」・客観的な空間・物はある。超越的とは、間モナド的(モナド共同的)という意味だ。(参照:102頁)

(7)実在論は誤りで「存在論的無理解」にもとづく!観念論も誤りで「粗雑な実在論」におとらず素朴だ!
J 「実在論は実在性を、実在的なるものごとの間での実在的な作用連関によって存在的に説明しようと試みる。」これは誤りで、「存在論的無理解」に基づく。(207頁)
J-2 「存在は存在者によって説明できず、実在性はただ存在了解においてのみ可能である」。(207頁)
K 「観念論が、あらゆる存在者を主観なり意識なりへ還元するということであるならば・・・・方法的には、もっとも粗雑な実在論におとらず素朴なものである。」(208頁)
K-2 「観念論」が、「存在は決して存在者によって説明されず、いかなる存在者にとってもいつもすでに『超越的なもの』である」という意味なら、ここに「哲学的問題設定の唯一の妥当な可能性」がある。(208頁)

《感想7》現存在は二重に「おのれに先立つ存在」である。すなわち現存在は①《「投企」するおのれ》つまり「存在可能」として、おのれに先立つ存在である。また②現存在は「ある世界の内にすでに存在している」ことにおいて、おのれに先立つ存在である。(192頁)
《感想7(続)》現存在の存在は、「関心」(気遣い)(Sorge)である。「現存在の存在論的構造全体」は次のような「構造式」で把握される。すなわち「現存在の存在とは、《(世界の内部で出会う存在者)のもとでの存在として、(世界)の内にすでに、おのれに先立って存在する》ということである。」(192頁)
《感想7-2》参考:「けれども存在(※無でなく有であること)は、存在了解(※ノエシスとノエマの分裂的統一としての意識)というようなものをおのれの存在にそなえている存在者(※現存在、モナド)の了解のなかにのみ『ある』のである。」(183頁)
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映画『真実』(2019年):女優ファビエンヌの5層の像が錯綜する!現実のカトリーヌ・ドヌーブを含めれば6層の現実を観客は見る!

2019-10-16 09:05:20 | 日記
※ 映画『真実』La verite(2019年、仏・日合作)是枝裕和監督

フランスの国民的大女優ファビエンヌが自伝本『真実』を出版。それを祝うため、アメリカに暮らす娘で脚本家のリュミールが、夫でテレビ俳優のハンクと娘シャルロットを連れ、フランスの母のもとを訪れる。母の自伝を読んだリュミールは、そこに、事実でないエピソードが書かれ、重要な人物が全く書かれていないことに憤慨する。リュミールは母を問いただすが、ファビエンヌは意に介さない。やがて母と娘の間の隠されていた愛憎が明らかになっていく。女優であることを何よりも優先する母ファビエンヌをカトリーヌ・ドヌーブが演じる。

《感想1》自伝本『真実』で家族の歴史を母ファビエンヌは自分の観点から書く。不要な人物・出来事は書かない。娘リュミールは、母の観点は誤りだと、母を批判・非難する。
《感想2》自伝本『真実』が、映画化される。母ファビエンヌは映画に出演し、自分自身を、娘リュミール役の俳優を相手にして演じる。
《感想3》この映画ではファビエンヌの5層の像(①②③④⑤)が錯綜する。①自伝本『真実』に描かれたファビエンヌ像、②現実のファビエンヌが覚えている過去の自分(本『真実』に描かれない事実が過去にある)、③娘リュミールが覚えている過去のファビエンヌ像、④自伝本『真実』の「映画」の登場人物として、俳優ファビエンヌが演じるファビエンヌ像(娘リュミール役の俳優を相手にする)、⑤現実のファビエンヌと現実の娘リュミールとの対話の内で新たに形成され母娘に共有されるに至る母ファビエンヌ像。(これを娘の脚本家リュミールが新たな別の脚本にする。)
《感想4》母娘に共有されるに至る母ファビエンヌ像(⑤)が、心温まるもので、映画はハッピーエンドだ。
《感想5》:女優ファビエンヌの5層の像とは、つまり5層の現実があることだ。この映画は5層の現実からなる。そして現実のカトリーヌ・ドヌーブがいる。この現実を含めれば6層の現実を観客は見る。


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