DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

最果タヒ(1986-)「ヘッドフォンの詩」『死んでしまう系のぼくらに』 (2014年、28歳)

2017-01-01 07:53:07 | 日記
音楽がなくても生きていける
恋をしなくても友達がいなくても
夢がなくても才能がなくても生きていける
獣みたいに餌を食べて体育をして生きていける
私の名前 それをノートに書いて くりかえし自分で読んで
読んで 読んで はい、と答えて 私

ヘッドフォンの詩

《感想》
 詩を読んでなるほどと思う。同感する。《名前》は、不思議なもの。この私という存在を指示する《音あるいは文字》としての言葉。
 世界の中に出現し続けている《この身体をもつこの心という存在》、それが「私」。
 その何年にもわたる連続して出現する存在を、一挙に指示する不思議な物。それが、《音あるいは文字》としての言葉であるところの「私の名前」だ。
 名前を「書いて/くりかえし自分で読んで/読んで 読んで はい、と答えて 私」。言葉の謎。
 「音楽」も、「恋」も、「友達」も、「夢」も、「才能」も、私の存在を指示しない。私の存在の確認にとって、それらは不要だ。
 身体は、私に不可欠だ。心は身体と連関し、身体を維持しないと心は存在できない。心の存在にとって、基礎は身体である。だから「獣みたいに餌を食べて体育をして」身体を維持すれば、心は存在でき、「生きていける」。
 獣も私も、身体なしに、心を持てない。
 原理的に、私とは、心(モナド)である。身体もまた、私の心(モナド)に属する。
 私の心(モナド)のうちに、《(私の)身体と身体外の物》からなる全体としての物世界がある。
 だが私の心(モナド)は、(私の)身体が「餌を食べて体育をして」維持されないと、消滅してしまうように構造化されている。
 獣の心(モナド)も、そのように、構造化されている。
 ただ「獣」は、《音あるいは文字》としての言葉であるところの「名前」を、持たない。だから獣は、獣自身の何年にもわたる連続して出現する私という存在(《この身体をもつこの心という存在》)を、一挙に指示することが出来ない。
 獣は、言葉を持たないので「私の名前 それをノートに書いて くりかえし自分で読んで/読んで 読んで はい、と答えて 私」という《存在を一挙に指示されて、自ら把握する》不思議な体験をしらない。
 「ヘッドフォンの詩」は、言葉の謎、「私の名前」の謎を主題としている。

I can live even if I don’t hear music.
I can live even if I have neither love nor friends.
In addition, I can live even if I have neither dreams nor talents.
Like beasts, I can live as long as I eat and physically exercise.
I write my name on a page of my notebook, and read it by myself repeatedly.
I read it, and I read it. Then, I reply, “Yes.” As a result, here am I.

A POEM OF HEADPHONES
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