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出村和彦『アウグスティヌス』第4章(その2):「もの」(事柄)は「時間」の中にあるが、神は「永遠」の存在である!被造物の生の有様は「時間的な限界のある何ともあわれなもの」である!

2022-11-18 18:32:54 | 日記
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第4章「一致を求めて」(その2)
(21)-5 『告白』(第3部)第11巻:「永遠と時間」の問題!「もの」(事柄)は「時間」の中にあるが、神は「永遠」の存在である!
(f)『告白』(第2部)第10巻を受けて、(第3部)第11巻は「記憶」(メモリア)を「永遠と時間」の問題に捉え直して論じる。Cf 「記憶」(メモリア)とは私の精神の働き、つまり「私」(エゴ)であり、「考える」(コギト)ことである。(100頁)
(f)-2 想起される「もの」(事柄)は「時間」の中にあって「造られた」のに対し、それ(ものor事柄)を超えて「造る」神は「永遠」の存在である。(100頁)

(f)-3 では「時間」とは何か?「それが誰かに問われないときは自分はそれを知っていると思う。しかし、問われて説明しようとすると、それが分からないのです」とアウグスティヌスは問いを深めて行く。(101頁)
(f)-3-2 この一節は、現象学者フッサール(1859-1938)が『内的時間意識の現象学』序論で引用し、「時間の問題に取り組む人ならば誰でも『告白』第11巻14-28章は今日もなお徹底的に研究すべきものである」と言及している。(101頁)

(f)-4 アウグスティヌスは、片時も止まることのない時間を「三つの時がある。過去の現在、現在の現在、未来の現在である」という現在の意識(志向性)という切り口から分析する。(101頁) 
(f)-4-2 アウグスティヌスが時間を論ずる真意は、「まだ存在しない未来を期待し、もはや存在しない過去を想起し、捕捉しがたい現在を意識して生きて行く」生の有様そのものが、「時間的な限界のある何ともあわれなもの」であることを気づかせることにある。(101頁)
(f)-4-3 アウグスティヌスは、人間が「時間を超えた永遠の存在」(※神orイデア)に呼び集められるべき存在であるという視点に立つ。(101頁)

(21)-6 『告白』(第3部)第13巻9章:ほんとうの知恵への愛(哲学)、神への愛!「私の重さは私の愛である」!
(g)『告白』第13巻(最終巻)9章には「私の重さは私の愛である」という言葉がある。アウグスティヌス『告白』は、聖書を理解しつつ(神への愛!)、ほんとうの知恵を愛し求める哲学(※愛知=フィロソフィア)の探究の書である。(102頁)
(g)-2 そしてその哲学は自ら歩み心身をもってにじり寄るように実践する哲学であった。それゆえ『告白』は、次の一節で結ばれている。「[神である]あなたから求め、あなたにおいて尋ね、あなたのもとで[聖書という]戸を叩かねばならない。そうすることで、求める者は与えられ、尋ねる者は見いだされ、叩く戸は開けられるであろう。」(『告白』第13巻38章)(102頁)
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