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「1990年代 女性作家の台頭」(その2):「超現実を操る」笙野頼子『なにもしていない』等、多和田葉子『かかとを失くして』等、松浦理英子『親指Pの修行時代』!(斎藤『日本の同時代小説』4)

2022-03-17 17:31:57 | 日記
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(38)「超現実を操る――笙野頼子(ショウノヨリコ)、多和田葉子(タワダヨウコ)、松浦理英子」:笙野頼子『なにもしていない』(1991)、『二百回忌』(1994)、『タイムスリップ・コンビナート』(1994)!
B  1990年代前半の純文学シーンをリードしたのは、1980年代ポストモダン文学の流れを汲みつつ、独自の世界を構築した3人の女性作家、笙野頼子(ショウノヨリコ)、多和田葉子(タワダヨウコ)、松浦理英子だった。(134頁)
B-2 笙野頼子(ショウノヨリコ)(1956-)は『極楽』(1981、25歳)(※不遇の画家がひとつの作品を書き上げるまでの
鬱屈した思いを描く)でデビュー、その後、90年代に「単身女性」を描いた諸作品『なにもしていない』(1991、35歳)、『二百回忌』(1994、38歳)、『タイムスリップ・コンビナート』(1994、38歳)(芥川賞受賞)でブレイクした。(134頁)

B-2-2  笙野頼子『なにもしていない』(1991、35歳):「私」はオートロックの白壁ワンルームにひとり暮らしの30歳過ぎの女性。親から仕送りをもらう。本人は「ナニカヲシテキタ」つもりでも、世間では「ナニモシテナイ」としか見られない。彼女の手に湿疹ができ、それがこじれやがて苔のように彼女の身体で増殖する。植物化した彼女の身体から胞子のような妖精が飛び出してゆく。不思議な小説だ。(134-135頁)(※《書評1》ほとんど前2/3を占める手の湿疹の話。医者にかからない理由が、「何をしているのか」と訊かれたら不安だからだという。「ナニモシテイナイ」から。《書評2》一人称の私によるモノローグで語られる現実と幻想、強烈なエゴに捕われた強迫観念と被害妄想により魔術的に異化された言葉によってぐにゃりぐにゃりと歪む世界。)

B-2-3  笙野頼子(1956-)『二百回忌』(1994、38歳):単身女性が故郷の法事(二百回忌)に出るため帰省する物語。「法事の間だけ時間が二百年分混じり合ってしまい、死者と生者の境が無くなる」。(135頁)(※《書評1》片田舎の土地の狭さや親族の繋がりの煩わしさが不可思議な展開の中にもはっきりと読み取れる。《書評2》もう死んだ家族、その土地の記憶……あらゆるものが蘇り、織り成す狂騒のパレード。)

B-2-4  笙野頼子(1956-)『タイムスリップ・コンビナート』(1994、38歳)(芥川賞受賞):マグロと恋愛する夢を見た「私」が、マグロらしき相手からの電話で「海芝浦」に出かける。マグロらしき相手が言う。「ブレードランナーの世界なんだな、荒廃した産業の夢の後の、そんな、何もかもが終わった後の景色を見に行くんです。」紀行と妄想がないまぜになった作品。「工場萌え」の人々にも高く評価された。(135頁)(※《書評》海芝浦への小旅行で、意識の流れるまま主人公の思い出を非時系列的に綴る。夢と現実が交錯する中、主人公の過去と現在が重なり、笙野版コラージュが出来上がる。)

(38)-2 多和田葉子(タワダヨウコ):『かかとを失くして』(1991)、『犬婿入り』(1993)!
B-3  多和田葉子(タワダヨウコ)(1960-)『かかとを失くして』(1991、31歳)は「わたし」が知らない相手と「書類結婚」する。彼は姿を見せない。「わたし」は病院で「かかと」がないと診断され、つま先歩きの地に足のつかない日々。つまずき続ける「わたし」は最後に「イカ」である彼を発見する。(135-136頁)
B-3-2  多和田葉子『犬婿入り』(1993、33歳)(芥川賞受賞):39歳の女性の家に、見知らぬ男性・太郎が住み着いてしまう。太郎は、見た目は人間だが、行動がまるで犬だ。ここに太郎の元妻が現れ、彼が犬化した事情を語り始める。(136頁)(※《書評1》気持ち悪いにもかかわらず思わず笑ってしまったが、なんだかさっぱりわからない。《書評2》犬婿がおしりを舐めたり、一時間もみつこの臭いを嗅いでいたりするのだからちょっとエロティック。)
B-3-3  『かかとを失くして』(イカと結婚する)も『犬婿入り』(犬との結婚)も異類婚姻譚だが、「共同体の中に異物が混入した時の違和感」を描いた亡命者の文学である。(筆者は大学卒業と同時にドイツに移住している。)(136頁)

(38)-3 マジックリアリズム、スリップストリーム、アヴァンポップと呼ばれることがある:笙野頼子、多和田葉子の作品!
B-4  笙野頼子(ショウノヨリコ)の作品(『なにもしていない』身体の植物化、『二百回忌』死者と生者の境が無くなる、『タイムスリップ・コンビナート』マグロとの結婚)も、多和田葉子(タワダヨウコ)の作品(『かかとを失くして』イカと結婚する、『犬婿入り』犬との結婚)も、「リアルな空間」と「非リアルな空間」が同居する。(136頁)
B-4-2  これらはマジックリアリズム、スリップストリーム(※ジャンルの境界を越えた幻想文学もしくは非現実的な文学)、アヴァンポップ(※マスメディア・コンテンツが使われ、前衛的=アヴァンギャルドな手法のアート)と呼ばれることがある。(136頁)
B-4-3  笙野頼子は「崩れゆく近代日本の姿」を描き、多和田葉子は「未知の社会の中に放りだされる不安」を描く。(136頁)

(38)-4 ある日の夕方、午睡から目覚めたら右足の親指がペニスになっていたという22歳の女子大生:松浦理英子『親指Pの修行時代』(1993)!笙野、多和田、松浦らの小説:「結婚も出産もしていない単身女性」に向けられる視線と格闘し、跳ね返して見せた!
B-5 もうひとり、1990年代にブレイクしたのは松浦理英子(1958-)だ。『親指Pの修行時代』(1993、35歳)は、ある日の夕方、午睡から目覚めたら右足の親指がペニスになっていたという22歳の女子大生・真野一実の物語だ。波乱に満ちた恋愛遍歴の末、性的異端者を集めて見世物にする「フラワー・ショー」に参加する。ビルドゥングスロマン(教養小説)(※主人公がさまざまな体験を通し性格・思想の発展、人間的成長の過程を描く小説、自己形成小説 、成長小説)の形態を模した世紀末の奇譚だ。(136-137頁)(※《書評1》誰もが持っているのに、タブーとされている性の問題に焦点を当てた小説。いままで当たり前だと思って享受していた価値観、無意識に差別していたものに気付いていくさまが非常に面白い。《書評2》性的な快楽を取り扱っていますが、主題は非性的な快楽であるという作者自身の解説を見て、目から鱗が落ちる思いでした。)

B-6 1990年代の 笙野頼子(ショウノヨリコ)(1956-)、多和田葉子(タワダヨウコ)(1960-)、松浦理英子(1958-)らの小説は①「自分探し」・「ニート」(※Not in Education, Employment or Training、NEET、就学・就労せず、職業訓練も受けない)・「こじらせ女子」(※世間がいう「女のコって可愛いよね」の中に自分を当てはめられない女子;周囲から「変わってる」「面倒くさい」と見られる女子)など、21世紀に登場する概念を先取りし、また②コンピュータがもたらした「バーチャルリアリティ(仮想現実)」を言語化したものだった。(斎藤美奈子氏評)(137頁)
B-6-2  そして彼女らは③「現実と幻想がいりまじった作風」によって、「結婚も出産もしていない単身女性」に向けられる視線と格闘し、跳ね返して見せた。それは極めて新鮮だった。(斎藤美奈子氏評)(137頁)
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