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オマル・ハイヤーム(1048-1131)「神のように 25」『ルバイヤート』岩波文庫、1949年:「何でも心のままになる」宇宙を新しく作れたらハッピーだ!見果てぬ夢!

2022-01-20 20:20:36 | 日記
  「神のように 25」

神のように宇宙が自由に出来たらよかったろうに、
そしたらこんな宇宙は砕きすてたろうに。
何でも心のままになる自由な宇宙を
別に新しくつくりだしたろうに。

《感想1》儘ならないor儘ならなかった人生。こんな宇宙は無くてよい。「こんな宇宙は砕き捨てる」。
《感想1-2》人は神になれないが、空想はできる。「何でも心のままになる」宇宙を新しく作れたらハッピーだ。見果てぬ夢。
《感想2》この悲しい宇宙。残虐な宇宙。宇宙で最も邪悪になりうる存在。それが人だ。人など存在しない宇宙がよかった。
《感想3》だが人は宇宙に生まれてしまった。善or幸福を、いくらかでも人が生み出すことができたら、宇宙に生まれた甲斐があったというものだ。
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中嶋聡(1955-)「『自覚』の障害としての分裂病」(その3):①幻聴・思考吹入・させられ体験など!②妄想知覚・妄想着想など!③意欲鈍麻(無為)・感情鈍麻・離人感など!

2022-01-20 18:08:25 | 日記
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収
※「自覚」:西田幾多郎の「自覚」に相当し、先反省的・非措定的なレベルの基礎的な「意識作用」であるとともに反省的・措定的なレベルの「意識作用」も含む。

(3)「自覚」(※意識作用)の病理から生ずる諸症状a他性が直接体験される症候群―幻聴・思考吹入・させられ体験など!(分裂病の領域①):「他性」とは、「私」の成立に伴って持ちこまれる「私」でないという性格、「私」に対する否定性だ!(98-100頁)
D 「自覚」(※意識作用)は、それ自身との間の差異性(※「(狭義の)自」-「自*」という構造)を根拠として、同一性(※「私」)を確立しようとする営みである。(98頁)
D-2  その結果体験されてくる「自己同一的な主体の実感」が「私」だ。(98頁)
D-2-2 「正常」では、「自覚」(※意識作用)を構成している「差異性」は、「私」の「同一性」のうちに吸収され、顕在的に現れてこない。(98頁)
D-2-3 「正常」では、「自覚」(※意識作用)を成立させている(根拠としての)「差異性」と(産物としての「私」に由来する)「同一性」(※「私」)との間には、「同一性」が「差異性」に対して優位となるような均衡が成立している。(98頁)

D-3 分裂病では、この均衡が、「差異性」優位の方向に傾く。(98頁)
D-3-2 分裂病では、「私」という自己同一的な主体は、その成立根拠となっている差異、つまり「私」でないという根拠を、解消できないままに主体内部の内に引きずっている。(98-99頁)
D-3-3 分裂病で「幻聴・思考吹入・させられ体験など」においてみられる「他性」とは、「私」の成立に伴って持ちこまれる「私」でないという性格、「私」に対する否定性だ。(99頁)
D-3-4 「私」に対する否定性の「例」:具体的な他者、何だかわからないが自分の外からくる何かの働き(電波・テレパシーなど)、あるいは「私」につきまとう漠然とした違和感など。(99頁)
D-3-5  これら病的体験、それらの解釈に由来する諸観念が、分裂病の患者に妄想症状を発生させる。(99頁)

《参考1》「自覚」は、「(狭義の)自」(産出する運動の契機)と「自*」(産出されたものという契機)(※「私」)からなる。つまり「自覚」(意識作用or広義の「自」)は、「(狭義の)自」-「自*」という構造を持つ。(93頁)

(3)-2「自覚」(※意識作用)の病理から生ずる諸症状b内在性(※「私」)に対する事実性(※狭義の「自」)の優位として説明される症候群―妄想知覚・妄想着想など!(分裂病の領域②)(100-103頁)
D-4「妄想知覚」とは、例えば、駅の階段に黄色い雑巾が懸けてあるのを見て、「あれは自分が気違いだと町中に知らせためだ」と独自の意味づけをして知覚することだ。(100頁)
D-4-2 「妄想着想」とは知覚場面と無関係に、例えばベッドに横になっている時、突然「自分はスウェーデン王家の娘である」と頭にひらめきそれを事実として信じてしまう。(100頁)

D-5 「体験」において、「生の体験」に関し、「私」の体験として吸収・内在化できない残余が残る。(101頁)
D-5-2 この残余を「自覚」(※意識作用)内部の問題として、「私」に対する他性として体験すると、a群(分裂病の領域①)幻聴・思考吹入・させられ体験などが生じる。(101頁)
D-5-3 それとも、その残余を「生の体験」(※狭義の「自」:自己意識的でない意識作用や行為)に対する(※狭義の)「自覚」(※「私」or「自*」)の内在化の取り残しとして、「生の体験」の外在化とその結果としての「事実性」の亢進という形で体験すると、b群(分裂病の領域②)妄想知覚・妄想着想などが生じる。(101頁)

《参考2》「体験」(※広義の「自」or広義の「自覚」)は、「生の体験」の契機(※狭義の「自」:自己意識的でない意識作用や行為)と狭義の「自覚」の契機(※「私」or「自*」)が結びついて成立する(96頁)
《参考2-2》「体験」(※広義の「自」or広義の「自覚」)は「生の体験」(※狭義の「自」:自己意識的でない意識作用や行為)の与える「事実性」と狭義の「自覚」(※「私」or「自*」)の与える「内在性」とが絡み合って成立している。(97頁)
《参考2-2-2》「生の体験」という、それ自体は誰の体験でもない、無名的に生起している「事実」を、狭義の「自覚」(※「私」or「自*」)が「内在化」している。(97頁)
《参考2-3》「生の体験」(※狭義の「自」:自己意識的でない意識作用や行為)という、それ自体は誰の体験でもない、無名的に生起している「事実」を、狭義の「自覚」(※「私」or「自*」)が「内在化」する。
《参考2-4》中嶋は「論考2」(論文「自我障害」)で、「体験」を、「生の体験」(※狭義の「自」:自己意識的でない、ただ無名的な生命の営みにすぎない意識作用や行為)と「私」(自己意識or「自*」or狭義の「自覚)の複合と考えた。(95頁)
《参考2-5》「自覚」(※「体験」or広義の「自」)は「狭義の自」-「自*」という構造を持つ(93頁)。
《参考2-6》「自覚」(意識作用or「体験」or広義の「自」)は、「狭義の自」(産出する運動の契機)と「自*」(産出されたものという契機)からなる。(93頁)
《参考2-7》「自覚」(意識作用or「体験」or広義の「自」)は、「先反省的・非措定的なレベル」の基礎的な意識作用(※狭義の「自」)であるとともに、「反省的・措定的なレベル」の意識作用(※「私」or「自*」or狭義の「自覚」)も含む。

《参考3》中嶋の「論考2」(論文「自我障害」)では、「体験」を、「生の体験」と「私」の複合とする。(86頁)
★「生の体験」:「私」の関与なしに自生的に生起している体験。
★「私の体験」:「生の体験」を「私」が引き受けることによって、体験が「私の体験」として成立している。分裂病ではこの「引き受け」が障害されている。

《参考4》中嶋の「論考1」(論文「意識作用の構造の問題としての分裂病性自我障害」)は、意識作用の2つのレベルを区別する。(86頁)
★意識作用のレベル1「自」:先反省的・非措定的なレベル。「それ自身をいつもすでに知っている働き」としての構成する働き(「自己差異化」の営み)。(86頁)
★意識作用のレベル2「私」:「日常的に与えられている主体の実感」(86頁)。
★「幻聴・思考吹入(スイニュウ)・させられ体験など」(分裂病の領域①)の「他性」の起源は、狭義の「自」が「私」に対して「他性」を帯びることだ。(狭義の「自」→「他性」となる。)(86頁)

(3)-3「自覚」(※意識作用)の病理から生ずる諸症状c「自覚」(※意識作用)の病理の「経済的効果」(※意欲的行為・感情表出等への効果)として説明される症候群―意欲鈍麻(無為)・感情鈍麻・離人感など!(分裂病の領域③)(103-106頁)
D-6 (ア)「意欲鈍麻」(「無為」):分裂病では「やる気そのものがなくなってしまう」。(Cf. うつ病では「本人はやる気があるつもりなのに、やろうとしてもできない」。)意欲低下への苦痛感はないように見える。Ex. 食事もとらず一日中臥床している。(104頁)
D-6-2 分裂病では、(広義の)「自覚」(意識作用or「体験」or広義の「自」)内部の差異性と同一性(※「私」)の均衡が差異性優位に傾いているため、正常よりも弱い同一性(※「私」)しか得られない。そのため分裂病では、正常に比べて、同じ強さの(狭義の)「自覚」の同一性(※「私」)を得るには、より多くの努力を要する。(104-105頁)

《参考5》(広義の)「自覚」(意識作用or「体験」or広義の「自」)は、それ自身との間の差異性(※「(狭義の)自」-「自*」という構造)を根拠として、同一性(※「私」or「自*」or狭義の「自覚」)を確立しようとする営みである。(98頁)
《参考5-2》その結果体験されてくる「自己同一的な主体の実感」が「私」だ。(98頁)
《参考5-2-2》「(狭義の)自」は「他性」となり、「自*」は「私」となる!
《参考5-2-3》「幻聴・思考吹入(スイニュウ)・させられ体験など」の「他性」の起源は、狭義の「自」が「私」に対して「他性」を帯びることだ。(狭義の「自」→「他性」となる。)(86頁)

《参考5-3》 「正常」では、(広義の)「自覚」(※意識作用or「体験」or広義の「自」)を構成している「差異性」は、「私」の「同一性」のうちに吸収され、顕在的に現れてこない。(98頁)
《参考5-3-2》 「正常」では、(広義の)「自覚」(※意識作用or「体験」or広義の「自」)を成立させている(根拠としての)「差異性」と(産物としての「私」に由来する)「同一性」(※「私」or「自*」or狭義の「自覚」)との間には、「同一性」が「差異性」に対して優位となるような均衡が成立している。(98頁)

《参考5-4》分裂病では、この均衡が、「差異性」優位の方向に傾く。(98頁)
《参考5-4-2》 分裂病では、「私」という自己同一的な主体は、その成立根拠となっている差異、つまり「私」でないという根拠を、解消できないままに主体内部の内に引きずっている。(98-99頁)
《参考5-4-3》 分裂病で「幻聴・思考吹入・させられ体験など」においてみられる「他性」とは、「私」の成立に伴って持ちこまれる「私」でないという性格、「私」に対する否定性だ。(99頁)

D-7 (イ)「「感情鈍麻」:分裂病では、感情表出が乏しくなる。(狭義の)「自覚」(※「私」or「自*」)の「同一性」の強さの定常状態が下がり、「私」が積極的に関心を働かせ感じることが少なくなる。かくて「たまたま生起している浮動的な気分や断片的情動に身を任せている」のが定常状態となっている。(105頁)
《参考5-5》ここで「自覚」は、広義の「自覚」(意識作用or「体験」or広義の「自」)でなく、狭義の「自覚」(「私」or「自*」)である。

D-8 (ウ)「離人感」:分裂病では(狭義の)「自覚」(※「私」or「自*」)の「同一性」が弱まり、「私」が成立しても、その実感は薄い。Ex. 患者が訴える。「自分が何かをしているという感じがあまり感じられなくなってきました。」(106頁)

(4)まとめ:分裂病の基礎的障害は、「自覚」の同一性と差異性をめぐる弁証法、また「体験」を構成する「自覚」と「生の体験」をめぐる弁証法の障害だ!(107頁)
E 分裂病の基礎的障害は、(広義の)「自覚」(※意識作用or「体験」or広義の「自」)の同一性と差異性をめぐる弁証法、また「体験」を構成する(狭義の)「自覚」(※「私」or「自*」)と「生の体験」(※狭義の「自」:自己意識的でない意識作用や行為)をめぐる弁証法における障害である。(107頁)

《参考6》(広義の)「自覚」(※意識作用or「体験」or広義の「自」)を成立させている(根拠としての)「差異性」と(産物としての「私」に由来する)「同一性」(※「私」or「自*」or狭義の「自覚」)との間の弁証法!(98頁)
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中嶋聡(1955-)「『自覚』の障害としての分裂病」(その2):「体験」は、「生の体験」の契機(自己意識的でない意識作用や行為)と「自覚」の契機(※「私」)が結びついて成立する!

2022-01-20 12:09:26 | 日記
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収
※「自覚」:西田幾多郎の「自覚」に相当し、先反省的・非措定的なレベルの基礎的な「意識作用」であるとともに反省的・措定的なレベルの「意識作用」も含む。

(2)-3「自覚」(意識作用or広義の「自」)と「体験」の構造c「生の体験」と「自覚」(意識作用or広義の「自」)(※「私」): 「生の体験」という、それ自体は誰の体験でもない、無名的に生起している「事実」を、「自覚」(※「私」)が「内在化」している!(95-98頁)
C-8  中嶋は「論考2」(論文「自我障害」)で、「体験」を、「生の体験」(自己意識的でない、ただ無名的な生命の営みにすぎない意識作用や行為)と「私」(自己意識)の複合と考えた。(95頁)
C-8-2  本稿の立場からすると、「論考2」の「私」は、「自覚」(先反省的・非措定的なレベルの意識作用)(広義の「自」)(Cf. 西田幾多郎の「自覚」概念)と呼ばれてよい。(95頁)
《感想》「自覚」は「(狭義の)自」-「自*」という構造を持つ(93頁)。中嶋が「論考2」の「私」を「自覚」と呼ぶのは、「自*」(産出されたものという契機)に焦点を当てるからだ。

《参考1》「自覚」(意識作用or広義の「自」)は、「(狭義の)自」(産出する運動の契機)と「自*」(産出されたものという契機)からなる。つまり「自覚」(意識作用or広義の「自」)は、「(狭義の)自」-「自*」という構造を持つ。(93頁)

《参考2》中嶋の「論考2」(論文「自我障害」)では、「体験」を、「生の体験」と「私」の複合と考える。(86頁)
★「生の体験」:「私」の関与なしに自生的に生起している体験。
★「私の体験」:「生の体験」を「私」が引き受けることによって、体験が「私の体験」として成立している。分裂病ではこの「引き受け」が障害されている。

《参考3》中嶋の「論考1」(論文「意識作用の構造の問題としての分裂病性自我障害」)は、意識作用の2つのレベルを区別する。(86頁)
★意識作用のレベル1「自」:先反省的・非措定的なレベル。「それ自身をいつもすでに知っている働き」としての構成する働き(「自己差異化」の営み)。(86頁)
★意識作用のレベル2「私」:「日常的に与えられている主体の実感」(86頁)。
※ここでの「私」は、産出された「自*」である。(93頁)
※(先反省的・非措定的なレベルの)広義の「自」(西田の「自覚」)は、「(狭義の)自」-「自*」(「私」)という構造を持つ。(93頁)
★「幻聴・思考吹入(スイニュウ)・させられ体験など」(分裂病の領域①)の「他性」の起源は、(狭義の)「自」が「私」に対して「他性」を帯びることだ。(狭義の「自」→「他性」となる。)(86頁)

C-9 「体験」は、「生の体験」の契機(自己意識的でない、ただ無名的な生命の営みにすぎない意識作用や行為)と「自覚」の契機(※「私」)が結びついて成立する。(96頁)
C-9-2 「体験」は「生の体験」の与える事実性と「自覚」(※「私」)の与える内在性とが絡み合って成立している。(97頁)
C-9-2-2 「生の体験」という、それ自体は誰の体験でもない、無名的に生起している「事実」を、「自覚」(※「私」)が「内在化」している。(97頁)
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