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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(113 )-2 百田氏の誤り②:「靖国参拝」について百田氏が昭和天皇の意図を推測するのに、そう推測する史料を示さないのは無根拠で誤りだ!

2021-11-04 15:47:32 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)  

(113)-2 百田氏の誤り②:「靖国参拝」について、百田氏が昭和天皇の意図を推測するのに、そう推測する史料を示さないのは無根拠で誤りだ!(435-436頁)
L -3  百田尚樹『日本国紀』は「昭和天皇が終戦記念日に靖国神社を親拝されなくなった理由はわからないが、もしかしたら『自分が行けば、私人としてか公人としてかという騒ぎが大きくなる』と案じられたのかもしれない」(百田471-472頁)と述べる。
L-3-2  百田氏の誤り②:百田氏は「理由はわからない」のに、「案じられたのかもしれない」と昭和天皇の意図を推測する。だが、そう推測する史料を示さないのは無根拠であり、誤りだ。(435頁)

L-3-3  昭和天皇の「親拝停止」の理由が、1978年の「A級戦犯の合祀」にあったことは、様々な史料から読み取れる。しかしこれについて、(A)「停止の時期」と(B)「富田メモ」との関連で、否定する見方がある。だがこの「否定する見方」はいずれも誤りと考えられる。(435頁)

L-3-4 昭和天皇の親拝の(A)「停止の時期」に関しては、昭和天皇の最後の親拝が1975年で、A級戦犯の合祀は
1978年だ。A級戦犯の合祀以前に親拝をやめているので(停止が先で合祀があとなので)、「親拝停止」と「A級戦犯の合祀」は無関係との主張だ。
L-3-4-2 この(A) 「停止の時期」に関する主張は、昭和天皇の靖国参拝が「毎年行われていた」との錯覚の上に成り立っている。しかし昭和天皇の靖国参拝は数年に一度だった。戦後の親拝は1945年、52年、54年、57年、59年、65年、69年、75年で、以後、行っていない。(※昭和天皇は1945-75年の30年間で8回だから平均4.3年ごとに「親拝」している。1975年のあと次の「親拝」予定は早くても1979年頃だ。ところが以後、全く「親拝」をやめた。)1978年の「A級戦犯の合祀」によって、昭和天皇は靖国参拝を「停止」したと言える。(435-436頁)

L-3-5  (B)「富田メモ」すなわち「宮内庁長官・富田朝彦(トモヒコ)が記していたメモ」は2006年、日経新聞が報道した。「富田メモ」1988年4/28の記述では、「A級が合祀され、その上松岡(※松岡洋右元外相)、白取(※白取敏夫元駐イタリア大使)までもが・・・・」と昭和天皇が合祀に不快感を示し「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と述べたとある。(436頁)
L-3-5-2 この「富田メモ」が全文公開されていないので「怪文書だ」と否定する者がいる。(436頁)
L-3-5-3  だが「富田メモ」が否定される理由は、ほぼないと言える。根拠は以下(ア)(イ)(ウ)。(436頁)
(ア)非公開部分があるのは、昭和天皇のプライベートについて書かれているからだ。
(イ)「親拝」停止について、同じような内容は『卜部亮吾侍従日記』などによっても追認できる。
(ウ)「富田メモ」の報道に際して日経新聞社は、社外メンバーを含めた研究委員会を設置しているので信頼性は高いと言える
。メンバーは東大教授御厨貴(ミクリヤタカシ)、現代史家の秦郁彦(ハタイクヒコ)、作家保阪正康、富田知子(富田朝彦夫人)。(436頁)
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