ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

知ってたけど意識があまりなかったことと、知らんかったこと

2018年01月04日 01時39分11秒 | 多文化共生のまちづくり
「1990年代の外国人の健康問題の深刻さを生んでいた大きな原因は最大30万人もの超過滞在労働者が就労し産業を支える構造がありながら、在留資格がなく健康保険に入れない状況のままになっていた」…ってやっぱりおかしいわな。同じ社会で生きているのに、人として生きる権利が保障されない状況が「ふつうにある」のはおかしい。夢や希望も持てなくなるような社会はおかしいし、何とかせんとあかんと思う。いきなり社会全部を変えることはできないけど、近いところからできることから少しずつ。

それから、「日本キリスト教会が昭和14年に在日朝鮮人教会を併合する。お祈りも日本語でするように強いる。」というのは時代背景を考えると、そうかと思うけれども、全然想像していなかった。そっか。


まだまだ小さなピンホールから社会を眺めているようなもんやな。
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ルーツによって立ち現れること

2018年01月04日 01時01分33秒 | 多文化共生のまちづくり
自分の考え、ものの見方の偏りとして、外国にルーツがあると聞くと…途端に「外国人性」が立ち現れる。いろいろなことを、そのルーツと結び付けて解釈しようとしたりする。いろいろなことを、それで納得しようとする。

でも、それってその人の生きてきた歴史や背景や環境やら、いろいろなことを見なくするんだろうなと思った。ダブルって両方あるということだから、両方関係してくる、それは切り離されて整理されているかもしれないし、もっと渾然一体となっているものかもしれない。ダブルって発想自体に純血主義的なものの考え方があるのかもしれない。だってダブルは別々のものが二つあるというのとは全然違う話なのかもしれないし。

自分の中で多様なものをどう整理しようとしているのか、どう解釈しようとしているのかという傾向を知ることは大事かもしれないって思う。それが出会いそびれにつながっていることもあるだろうし。

逆にそれ以外を「日本人」としてくくってしまうこともとんでもない話やなって思うけど、どこかで対比して解釈しようとするふしもあるな。「純」とか「外国」について考えてみてもいいかもなって思った。自分の中でもっともっと知りたいし、広げたい。
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