ぱたぱた仙鳩ブログ

徳島から書道文化を発信します。

クラフト作家たちのおひな祭り展

2012年01月28日 | インポート

Hina2 1月28日(土)、八寸先生の作品が展示されているということで、徳島市立木工会館に「クラフト作家たちのおひな祭り展」を見に行きました。場所は徳島市福島町1丁目8-22です。

木工会館では、様々な工芸の作品展がいくつか行なわれており、楽しめました。そのうちの一つが標記の展示です。八寸先生の作品は右写真のように、様々な種類の小さな陶器の夫婦雛を様々なアイデアで飾りに仕立ててあります。小さなものは雛の高さが1㎝に満たないものもあります。

中には、お皿に描いたものや、動物の雛もあり、楽しく見させて頂きました。タコやウサギの雛もあり、発想の豊かさに感心しました。

Hina3 せっかくなので一つ購入しました。右写真の、掛けるタイプです。雛の高さは1cm程度、全体でも3cm程度で、ひもがついていて、画鋲で壁に掛けることができます。

展示は、八寸先生の他にも、何人かの様々な分野の工芸作家が雛飾りを制作されていました。布を使って押絵飾りにしているのもありました。

小さな住宅だと、大きなひな人形セットは飾ったり保管する場所に困りますが、このような小型のペアだけの雛だと扱いが簡単です。

このようなことは江戸時代にも考えられていたようで、やはり掛け軸に夫婦雛を描いた「描き雛」もあります。ひな祭りの時だけ広げて掛けて、それ以外の時は巻いてしまっておけます。

展示は3月4日(日)まであります。

この展示のほかに、那賀町の木工製品の展示が興味深かったです。ヒノキの多目的板を買ってきました。いつか、書を加えて作品化したいと思っています。


田宮天神社

2012年01月21日 | インポート

Tamiyatennjin 1月21日(土)、朝、散歩に行きました。今住んいるところの近くに「田宮天神社」があります。

この天神社は、江戸時代には、大宰府天満宮、京都の北野天満宮に次いで日本全国に知られた天神だったそうです。今は、そこまで有名だったことは信じられないほど、普通よりもちょっと大きいかなと思うぐらいの神社ですが、江戸時代中期から、明治30年代までの徳島は、人口規模で、日本の10本の指に入っていた大都市でしたので、そういうことが有ってもおかしくありません。

Mitizane 伝説によれば、菅原道真が時平の讒言によって大宰府に左遷が決まって、直後に難波から船で出港し、須磨・淡路島沿いに船旅をしますが、春の嵐に遭遇し、阿波別宮川(現在の吉野川)から雪の浦に漂着し、現在のこの地に滞在した。住民たちが様々に旅情を慰めたので、道真は深く喜んで約6ケ月間滞在し、その間に村の子供たちに儒学と書道を伝授する学校を開き、和歌を残されたということです。道真が大宰府に行ってから、彼はここを「阿波の旅屋」と懐かしがって、阿波の人々もここに社殿を作り、この地を「旅屋村」と唱え、これがのちになまって「田宮村」となった。学校の跡は「菅原寺」とした。1585年に蜂須賀氏がこの地に入国し、この寺社を保護し、発展したというものです。

この伝承には、眉唾な部分もあるのですが、道真に対する深い尊敬が長く続き、この寺社が発展して、全国的にも有名だったことは確かなようです。ここには連歌堂も作られ、月例の連歌会が行われたり、祭りでは競馬や相撲大会も催されていたそうです。

現在は道真のレリーフが石に彫られ、飾られています。社殿も改築されて立派です。昭和初期まではこの神社の境内に小学校がありました。

道真は若いときに讃岐の国司として、現在の香川県にも数年住んでいたので、徳島にとっても親しみやすい人だったと思います。実際にこの地に半年も住んだかどうかはわかりませんが、大阪から福岡へ船旅をする途中に嵐を避けて立ち寄ったことは十分あり得ます。後の源平合戦の時に屋島の戦いに船で向かった義経が嵐に流されて徳島の南部の海岸に漂着し、そこから山を越えて屋島の裏側から平家の本陣を攻めて勝っている事実もあるからです。

道真は悲劇のヒーローでしたが、彼が死後に学問の神になって、子供たちの学問に力を与え続けたことを、彼自身は今喜んでいるのではないかとも思います。また、日本に「学問の神」なんていう存在があること自体がとてもすてきなことだと思っています。


災害史に学ぶ阿波の歴史

2012年01月16日 | インポート

Saigaikennkyuu 1月15日(日)、午後13:00~17:00は、文化の森イベントホールに、徳島地方史研究会主催の「災害史に学ぶ阿波の歴史」と題する公開研究会に参加してきました。しばらく前に松茂町の「敬渝碑」に関する研究をしたので、関連する発表などがあって、それを視聴したかったからです。

3.11の東日本大震災以来、東南海地震に関しても、現実味を帯びてきました。非常にタイムリーな研究会です。

4名の研究者の方から、それぞれ興味深い発表がありました。(敬称略)、現在、会の代表をされている徳野さんは、数年前に私が徳島県文書館で古文書講座に参加した時に、古文書を教えて下さった先生でした。

徳野隆 「近世史料から見る阿波の地震と津波」

中村豊 「考古遺跡からみた災害 -徳島県を中心に-

大川沙織 「石造物からみた徳島の地震・津波」

松下師一 「阿波北方における南海地震の歴史的検討」

過去にも日本には大地震が何度も起きており、南海地震を見るならば、90~150年に一度は必ずおきます。これは大陸プレートの動きで、徐々に海底が押されてきて、それが限界に来るのがこの期間だからです。

その都度、この地域にも大きな被害があって、それを記録したものも残っています。特に幕末の安政大地震・終戦後の昭和大地震の記録は多く残っています。

マグニチュードは0.2上がると規模は2倍になる。3.11の地震はM9.0で、安政大地震(M8.4)の8倍の規模だったこと、昭和大地震(M8.0)は比較的規模は小さかったこと、などがよくわかりました。(松下氏談より)

安政大地震の際の記録が敬渝碑です。上記後半の2人の研究者がこの碑についても紹介して下さり、また改めていろいろ考えることができました。

今後、3.11規模の地震がこの地域に来た場合は、安政地震の8倍の規模ということになりますから、被害も碑に記載された以上のものになるわけです。

南海地震は、ほとんどの場合、東海地震と連動します。巨大な東日本大震災が起きてしまい、海底のひずみが生じているはずですから、90~150年という期間を待たずに次の地震が来てしまう可能性もあります。心の準備が必要だと、改めて感じました。有益な研究会でした。


鳴門木津の金刀比羅神社の狛犬

2012年01月08日 | インポート

Kotohira 1月8日(日)、今日は久しぶりに時間が取れたので、午前から、論文資料収集に行きました。鳴門市撫養町木津の金刀比羅神社の境内に、備前焼の狛犬があるといいいます。問題はそれについて書いた石碑なのですが、それに付随して狛犬の写真を撮りました。

鳴門撫養は、かつてはにぎやかな港があった場所で、金刀比羅神社は海の神様です。木津山は、鳴門インターチェンジ入口の少し東側にあります。安政南海地震の折には、多くの人たちがこの山に避難して、命が助かったということです。今後起きる南海地震の折にも、重要な避難場所になるはずです。Komainu

ここから東に行く山沿いには本当に神社や寺院、墓地が多くあります。このような場所は大地の気が集中しているパワースポットの一種で、独特の雰囲気を持っています。金刀比羅神社の本殿は、鳥居から百メートルほど、急な階段を上るとありました。この森は本当に神秘的です。

問題の狛犬は階段を上りきったところに一対が立っていました。本によれば、明治26年に奉納された、備前の伊部焼のものだそうです。

通常の狛犬は石製ですが、焼き物、しかも備前焼の狛犬というのは初めて見ました。しかも高い台の上に置かれ、保護のために金網で囲まれているのには驚きました。

茶色の品の良い狛犬ですね。右写真は向かって右側に置かれている、口を開けている「阿」形の方です。

「狛犬」と書いていますが、もともとは「高麗犬」であり、朝鮮半島経由で入ってきました。しかも、朝鮮半島に来る前はアジア大陸の真ん中を横断して西からわたってきました。本当の源は古代のイラクの神殿の左右を守っていた霊獣である、獅子とユニコーンです。それが証拠に、片方の頭には一本の角が生えている場合が多いのです。

二種類の別の霊獣は、わたってくる間に雌雄の獅子に変わっていきました。しかも阿吽形で、陰陽を表現するようになりました。これが、寺院だと、仁王様に変わります。

これについて書いた碑は、また論文で詳しく報告予定です。


徳島「がんばりや にんにく店」 チラシ題字

2012年01月07日 | インポート

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1月7日(土)、今日は授業は休みですが、ゼミ学生の4年生である道廣紗弥さんが来て、卒論の追い込み作業を指導しました。卒論は1月20日が締め切りですし、来週はセンター入試の会場になりますので、大学が使えませんから、この3連休は4年生にとっては重要です。

彼女の卒論テーマは「現代生活におけるデザインとしての書の活用について」というもので、書道の表現を生活や商業などにいかに活かすかという研究です。実際に、このブログで既に紹介した籠屋町商店街の横断幕、サンマ祭りやグルメフェスタの表示なども、彼女の卒論研究の一部でもあります。

12月に行なったのが、彼女の書表現を商店のチラシ原稿に使ってもらうという取り組みで、籠屋街のスーパーマーケット「がんばりや にんにく店」の年末年始のチラシの題字を担当させていただきました。このお店の名前は面白いですが、「みんなげんきになるお店~ちょっと臭いけど、なくてはならない名脇役者」というコンセプトを知ると、なるほどと思います。お店は徳島市の籠屋町商店街アーケードにあります。

彼女は店舗に何度か足を運び、社長さんの販売コンセプトを十分理解しながら、表現に活かしつつ大きな画用紙に墨で、依頼されたいくつかの言葉を書きました。印刷屋さんにスキャナーで取り込んでもらい着色すると、上の写真のように出来上がります。これは年末年始売りだしの間、6種類できて、新聞のチラシとして入れてもらうとともに、店頭でも飾られました。昨日、6日まで続いたそうです。

実際のチラシを今日、本人から見せてもらいました。とても良い出来です。明日、お店に行って、社長さんやお客さんたちから反応を聞いて、それを記録してから考察して研究します。これによって、書道がデザインとしてどのような価値を持つのか、分析するわけです。

卒論発表会は2月9日(木)、徳島駅前の四国大学交流プラザ5Fで行なわれます。一般の方も聴くことができますので、興味のある方はお出かけください。