最近は手軽な短編ばかり読んでいましたが、ひさびさにはまった一冊を一気読みしました。
寒くて体が縮こまっているせいか、自転車で滑るのが怖くて徒歩が多くなったせいか、肩こりMAXになり、マッサージに行きました。そこで流れていたのが何かを受賞した作家さんのインタビュー。おっとりとしたいかにも主婦っぽい話し方なれど、「人は家族がいても、わいわいと賑やかにしていても、それは紛らわされているだけで本当は孤独なもの。自分の中にいる何人もの自分を見つけ、対話して友達になることが必要」といった内容が妙に心にひっかかり、radikoで番組情報を調べてそれが「おらおらでひとりいぐも」で芥川賞を受けた岩手出身の若竹千佐子さんとわかりました。
先日も天声人語にとりあげられていたものの、書き写した時には「永訣の朝」を連想した程度だったのですが、やはり作者の肉声って強いですね。もうそうなったらスイッチ入っちゃって、すぐに書店に走りました。
アマゾンでは出荷待ちになっていたその本は、あっさりレジ横に「銀河鉄道の父」とともに積んでありました。
いきなりの東北弁。夫には先立たれ、子どもも独立し、74歳、ひとり暮らしの桃子さんが、自分の中のたくさんの自分と対話し、自分の人生というものを振り返りつつ孤独を前向きにとらえていく、わかりやすいかといえばそうでもない、かなり観念的と感じられる部分が多い作品ではありますが、私にはものすごいツボな部分がたくさんありました。
過去の若竹さんのインタビューなどを見ると、作家自身、27歳で結婚して50代半ばで夫と死別しています。27年間は娘の時代、次の27年間は妻としての時代、そしてあとの27年間はひとりの時代と、くくっています。娘の時代は親の支配の下、妻の時代は夫の副班長(この表現ウケた)あるいは応援団。今は全てから解放された自分自身の時代だと。作品の中でも最愛の夫は心筋梗塞であっという間に逝ってしまいますが、誤解を招きかねない表現であるけれど、夫は私に自由な生き方をさせるために解放してくれたのではないかとさえ感じることがある。という話が妙に胸に落ちました。
それでも、作品中の桃子さんは孤独に押しつぶされそうになると病院へ行き、誰彼かまわず話しかける。それもわかる。そういうおばあさんはいつも待合室で見かけます。「かわいいお子さんですね、いくつ?」とかね。
現実部分と心の中のたくさんの自分との対話で構成されていますが、現実の(自分との対話だって現実ですけれど)部分では娘の「老い」にぎくりとしたり、息子を騙るオレオレ詐欺に遭ってお金をとられたり、また娘に借金を頼まれて断った際に「どうせお母さんはお兄ちゃんのほうがかわいい」と捨て台詞を吐かれたり、かなりリアルで、特に娘が桃子さんに「買い物して行ってあげようか?どうせもう〇〇ないでしょ?」といったさりげない会話に、おお!うちとおんなじと、まるで私と母のことか?!(借金は頼まないけど)と思える部分が多くてこわいほどでした。いつも元気印なのに、ちょっとどこかが痛くなると不安でいっぱいになるのもおんなじ。
自分の中のたくさんの自分と対話する。桃子さんの場合は出身地の岩手県、遠野の言葉で。
作家の夫は脳梗塞が直接の死因となっているけれど、それが原因の自動車事故で亡くなったそうです。50代半ばで、2人の子どもを抱えた専業主婦。どんなにか大きな不安に押しつぶされそうになったことか想像もつきませんが、きちんと自分の心と向き合い、どう生きるべきかを整理し、こうして「老い」の前向きな強さを表現できるのはものすごいことだと思いました。そして、それを語りながらも「なんだかえらそうなこといっちゃいますけど」「なんていったらいいかうまく言えなくてごめんなさい」と笑ったり、柔らかさや謙虚さを忘れていないお人柄にもすっかり魅了されました。
ひとり暮らしを続けている私の母は、「今が一番幸せだと思う。年取って、自分がこんなに幸せな気持ちで暮らせるのは本当にありがたいこと。」と、最近よく言います。日中はデイサービスにでかけたり、ご近所が寄ってくれたり、私も家族もできる限りの手助けや見守りをしているつもりだけれど、ひとりの夜はやっぱり寂しいだろうなと申し訳ない気持ちでいる私にとっては救いの言葉ではあります。桃子さんのように誰に気を使うこともなく自由を楽しんでいるのだと思いたいです。
自分を励ますのは自分。工藤直子さんの「のはらうた」にある詩を思い出しました。
おまじない
みみずみつお
こわいとき となえる
おまじないがある
じぶんにむかって
こういうんだ
「おい、ぼくよ
ぼくがいるから
だいじょうぶ
ぼくがいるから
だいじょうぶ」
すると
ぼくがふたりいるみたいで
げんきになる