南部陽一郎はとても懐かしい名前である。ノーベル賞候補となりながら取れない人の代表として、日本では特に有名であった。
特に我家では、先代や秀才陽一郎の話はなんども話題となったので、ある種の感慨がある。親戚をみても本格的な物理屋さんそれも通常の研究者級の数人しかいないが、永遠のノーベル賞候補者であった南部家は祖父などの教え子や患者さんであったりして比較的身近な存在であっただけに、そこから理論や実験の物理またノーベル賞の歴史や本質などが決まって議論となるのであった。
勿論そこでの私の立場は、ノーベル賞に値しないのではないかとするものであった。ノーベル賞のHPはまだ見ていないが、新聞を見るとこの米国人の二分の一受賞を上手に紹介している。
特に我家では、先代や秀才陽一郎の話はなんども話題となったので、ある種の感慨がある。親戚をみても本格的な物理屋さんそれも通常の研究者級の数人しかいないが、永遠のノーベル賞候補者であった南部家は祖父などの教え子や患者さんであったりして比較的身近な存在であっただけに、そこから理論や実験の物理またノーベル賞の歴史や本質などが決まって議論となるのであった。
勿論そこでの私の立場は、ノーベル賞に値しないのではないかとするものであった。ノーベル賞のHPはまだ見ていないが、新聞を見るとこの米国人の二分の一受賞を上手に紹介している。
やはり、pfaelzerwein(家)さんは、凄いなって。
「私の立場は、ノーベル賞に値しないのではないかとするものであった」ってのは、どういう理由でなのか気になります。
ノーベル賞って、ノーベル数学賞がないように、実利に役に立つ研究(者)への授与というイメージがあったので、南部氏の研究は重要だけど、どうなのかって思ってたけど、さて。
まあ、ミーハーの小生は単純に感心するばかりだったけど。
しかし、その道筋が誤りでなかったことが今回の受賞理由なのでしょうが、後付けの「体系的な理論」は最近の論文のようです。
そうした道筋が結果として二分の一受賞であったことがなによりも多くを語っているのでしょう。
参照:
A Dynamical Model of Elementary Particles based on an Analogy with Superconductivity I, (with G. Jona-Lasinio), Phys. Rev. 122, 345 (1961).
http://prola.aps.org/abstract/PR/v124/i1/p246_1
http://prola.aps.org/pdf/PR/v122/i1/p345_1
実利は何もダイナマイトのような文明である必要はなく、研究成果がそこから体系化されて文化を生み出し、それが人類の歴史を発展させて行くのが、基礎研究の実利と思われます。
毎年空振りが続くと先生も心苦しいのではないかと心が痛みます。