BLOG「こころ模様」の都筑さんの新著「あたたかな気持ちのあるところ」を読む。その出版の紹介に手触りのよい製本などとあって興味を持った。こうした読み物の執筆は初めてと言う。
「健太くん、こんにちは。この間は、成田空港まで見送りに来てくれてありがとう。…中略…一人で向うのと、誰かに手を振ってもらうのではおおちがいだからね。」と、一年間に亘るおじさんとその甥っ子との文通が始まる。これは、おじさんのベルギーでの滞在期間に相当する。終始平易な文で書かれた文字通りの交換書簡の体裁である。
おじさんは、搭乗するやいなや結婚40年記念旅行の夫婦に出会ったりして、読者を人と人との間に並行に流れる時の狭間へと誘う。
おじさんと甥っ子との40年間の年齢差は、全篇を通して此処彼処で派生する時の渦巻きのメインストリームとなっている。それは、あたかも気圧の高い所から低い所へと流れる大気の様に、過去から未来へと一方的に流れる宿命から逃れる事は出来ない。謂わばその体感速度は、飛行する航空機の対地上速度のようである。向い風であればそれだけ速度は遅くなり、追い風であればそれだけ速度は速くなる。しかし、パイロットには対空速度も重要なのである。
作者は、それを欧州での一人の時間と日本での忙しい時間として表すだけでなく、おじさんに流れる時間と甥っ子に流れる時間として、またはそれを甥っ子の主観的な時間としても表現している。
「…このままじゃ、中学生活はあっと言う間に終わってしまいそうです。それなのに、一日はとても長く感じる。特に授業中。…」。
こうして読者は、自らの過ぎ去った時の世界へと不覚にも放り込まれ、エアーポケットのような時の渦に身を任す人となる。こうした幾つものキーワードは、次から次へと連想の渦を巻き起こす。それは、たとえ読み手の個人差が大きいとしても、誰にでも覚えのあるようなエピソードとして語られる。それを逐一と挙げるには及ばないが、それが蕎麦やアスパラガスの食事であったり、初めてのTV受信機やケイタイの道具であったり、スキー行や温泉の旅行であったり、夜汽車または夜行バスの交通手段であったりと、なんら特別でもない月並みな概念だけでなく、新宿や京都、神戸や姫路、八ヶ岳など特定の地名、コルマールやベルンなどの特別な町やオステンドからラムスゲイトへのフェリーの旅といった特別な体験などが、全く違った条件で読む人其々に働きかける。
これらの固有名詞や一般的な普通名詞などは、日常茶飯の用語であって、例えばネットに於けるニュースなどの文脈で出て来ても特別な意味を持ち得ない。しかしここでは、雲の上から刻々と変わる地上を眺めながら大陸横断をするような、地理的・時間的な移り変わりを想起させる文脈で用いられるので、一寸不思議な意味を持つ。それは、現代のアメリカ小説やベストセラー「ノルウェーの森」に於ける不意に出会うビートルズの調べの記号論的使用の類型かもしれない。しかしそれらに於ける観念連合が、専ら劇場的BGMとしてムード作りに向けられているのに対して、ここでは明白に現実的で肯定的な目標としての価値を担っている。実際、ここで扱われる名曲「レットィットビー」が、甥っ子とそのお父さん、そのおじさん、ジョン・レノンを繋ぐヒンジともなっている。その繋がりは、謂わば地球と共に静止する事なく廻り続けて生成し消滅する、大気の渦のようなものである。それがここで語られている内容である。
こういった書籍を、甥っ子の年齢である生意気盛りの中学生が読んで、それを 素 直 に解釈するかどうかは解らない。寧ろ、おじさんが再三語っているように、「足が短い」というようなコンプレックスをも、その 当 時 の苦々しい記憶をも懐かしくも感じる世代は、ようやくこうした語りのメッセージに心を開いて、それを素直に受け入れる事が出来るのだろう。そして、それらの世代の各々が皆、初 め て 迎える未知の人生を真摯に模索している。
おじさんが語る人生の岐路に関する説法が、必ずしもそのような擦れたおじさん・おばさん達の参考になるとは思わない。それでもオリーブの育て方の比喩に文化の意義が、または文化の継承が、人との繋がりまたその記憶の継承が語られる時、白紙の地図に思い思いのシュプールを描いて、道標無き道(未知)を歩んでいる我々の励ましとなるであろう。
同様に、その甥っ子の年齢へと向う小学校高学年の学童がこういった書物に出会う事が出来たらどうなのだろう。そこに描かれているのは、先を見越した希望に満ちた未来に違いない。幾多の児童文学が存在して、その多くは大人の読みものとしても名作である事が多い。そして、タイムマシンに乗った心持で、ここに刻まれる40年の時差は一体何を意味するのだろうと考える。どうもその歳月は人生の折り返し点に相当するらしい。
まだまだいくつもの気になるエピソードがある。悉く挙げて行くと多くの頁を引用しなければいけないが、特に印象に残ったおじさんの回想を振り返る。
「…君の曾おじいちゃんの二郎さんは、若い頃、フランスまで密航しようとして、見つかったことがあるんだって。…明治生まれの人ってすごいことするなって思ってね。」と、隔世の感を禁じ得ず。
「家の間取り図をよく書いていた。自分の住んでいる本当の家じゃなくて、想像した家の間取り図なんだ。」と、これは未知の時空の設計図を描く様な姿で面白い。
もう一つ、「…小さい子がおじさんの方を見たりするんだ。あまり見かけないような顔つきだな、なんて思っているのかもしれない。」の箇所も、幼な子の目を通した世界が未来を描くような情景となっている。
回想は、他者の目を通して将来への希望となり、過去の将来は、将来の過去となり、将来の過去は現在の将来となる。要するに未知の将来こそ希望であると語っている。
終わりに掛けて、教育問題にも軽く触れている。学校に於ける学級の生徒の人数と教師の負担は、何処でも語られる定量化された問題である。PISAの評価は、こうした量の解決で向上するかもしれない。しかし、本書で描かれているような教育の質の重視は、ルネッサンス期に於ける本来の学問の基本である、「真の創造」は「希望の将来」と同義と見做す者には待望される、ヒューマニティー教育を問う。
その質こそが、この書物の装丁から感じられる。それでも、受け取った時にはあれっと思う軽さがあった。なぜならば、ネットでの説明からもう一回り大きなフォーマットと紙の重さを勝手に想像していたからである。その錯覚の意外な重量こそが、文化であって、通常ならば五日ほどで到着する郵便が税関で止められて到着が三週間以上掛かった空間と時間を想起させる、ヴァーテュアルな世界では存在しない質量なのである。
平易な文章は、日本学の学び手達に是非読んで貰いたい思う。先ずは個人的に薦めて、回覧してみる心算である。其の内に、折角美しく仕上がったこの書籍は段々と汚れてくるかもしれないが、それもなにかこの本には似つかわしいような気がする。
「健太くん、こんにちは。この間は、成田空港まで見送りに来てくれてありがとう。…中略…一人で向うのと、誰かに手を振ってもらうのではおおちがいだからね。」と、一年間に亘るおじさんとその甥っ子との文通が始まる。これは、おじさんのベルギーでの滞在期間に相当する。終始平易な文で書かれた文字通りの交換書簡の体裁である。
おじさんは、搭乗するやいなや結婚40年記念旅行の夫婦に出会ったりして、読者を人と人との間に並行に流れる時の狭間へと誘う。
おじさんと甥っ子との40年間の年齢差は、全篇を通して此処彼処で派生する時の渦巻きのメインストリームとなっている。それは、あたかも気圧の高い所から低い所へと流れる大気の様に、過去から未来へと一方的に流れる宿命から逃れる事は出来ない。謂わばその体感速度は、飛行する航空機の対地上速度のようである。向い風であればそれだけ速度は遅くなり、追い風であればそれだけ速度は速くなる。しかし、パイロットには対空速度も重要なのである。
作者は、それを欧州での一人の時間と日本での忙しい時間として表すだけでなく、おじさんに流れる時間と甥っ子に流れる時間として、またはそれを甥っ子の主観的な時間としても表現している。
「…このままじゃ、中学生活はあっと言う間に終わってしまいそうです。それなのに、一日はとても長く感じる。特に授業中。…」。
こうして読者は、自らの過ぎ去った時の世界へと不覚にも放り込まれ、エアーポケットのような時の渦に身を任す人となる。こうした幾つものキーワードは、次から次へと連想の渦を巻き起こす。それは、たとえ読み手の個人差が大きいとしても、誰にでも覚えのあるようなエピソードとして語られる。それを逐一と挙げるには及ばないが、それが蕎麦やアスパラガスの食事であったり、初めてのTV受信機やケイタイの道具であったり、スキー行や温泉の旅行であったり、夜汽車または夜行バスの交通手段であったりと、なんら特別でもない月並みな概念だけでなく、新宿や京都、神戸や姫路、八ヶ岳など特定の地名、コルマールやベルンなどの特別な町やオステンドからラムスゲイトへのフェリーの旅といった特別な体験などが、全く違った条件で読む人其々に働きかける。
これらの固有名詞や一般的な普通名詞などは、日常茶飯の用語であって、例えばネットに於けるニュースなどの文脈で出て来ても特別な意味を持ち得ない。しかしここでは、雲の上から刻々と変わる地上を眺めながら大陸横断をするような、地理的・時間的な移り変わりを想起させる文脈で用いられるので、一寸不思議な意味を持つ。それは、現代のアメリカ小説やベストセラー「ノルウェーの森」に於ける不意に出会うビートルズの調べの記号論的使用の類型かもしれない。しかしそれらに於ける観念連合が、専ら劇場的BGMとしてムード作りに向けられているのに対して、ここでは明白に現実的で肯定的な目標としての価値を担っている。実際、ここで扱われる名曲「レットィットビー」が、甥っ子とそのお父さん、そのおじさん、ジョン・レノンを繋ぐヒンジともなっている。その繋がりは、謂わば地球と共に静止する事なく廻り続けて生成し消滅する、大気の渦のようなものである。それがここで語られている内容である。
こういった書籍を、甥っ子の年齢である生意気盛りの中学生が読んで、それを 素 直 に解釈するかどうかは解らない。寧ろ、おじさんが再三語っているように、「足が短い」というようなコンプレックスをも、その 当 時 の苦々しい記憶をも懐かしくも感じる世代は、ようやくこうした語りのメッセージに心を開いて、それを素直に受け入れる事が出来るのだろう。そして、それらの世代の各々が皆、初 め て 迎える未知の人生を真摯に模索している。
おじさんが語る人生の岐路に関する説法が、必ずしもそのような擦れたおじさん・おばさん達の参考になるとは思わない。それでもオリーブの育て方の比喩に文化の意義が、または文化の継承が、人との繋がりまたその記憶の継承が語られる時、白紙の地図に思い思いのシュプールを描いて、道標無き道(未知)を歩んでいる我々の励ましとなるであろう。
同様に、その甥っ子の年齢へと向う小学校高学年の学童がこういった書物に出会う事が出来たらどうなのだろう。そこに描かれているのは、先を見越した希望に満ちた未来に違いない。幾多の児童文学が存在して、その多くは大人の読みものとしても名作である事が多い。そして、タイムマシンに乗った心持で、ここに刻まれる40年の時差は一体何を意味するのだろうと考える。どうもその歳月は人生の折り返し点に相当するらしい。
まだまだいくつもの気になるエピソードがある。悉く挙げて行くと多くの頁を引用しなければいけないが、特に印象に残ったおじさんの回想を振り返る。
「…君の曾おじいちゃんの二郎さんは、若い頃、フランスまで密航しようとして、見つかったことがあるんだって。…明治生まれの人ってすごいことするなって思ってね。」と、隔世の感を禁じ得ず。
「家の間取り図をよく書いていた。自分の住んでいる本当の家じゃなくて、想像した家の間取り図なんだ。」と、これは未知の時空の設計図を描く様な姿で面白い。
もう一つ、「…小さい子がおじさんの方を見たりするんだ。あまり見かけないような顔つきだな、なんて思っているのかもしれない。」の箇所も、幼な子の目を通した世界が未来を描くような情景となっている。
回想は、他者の目を通して将来への希望となり、過去の将来は、将来の過去となり、将来の過去は現在の将来となる。要するに未知の将来こそ希望であると語っている。
終わりに掛けて、教育問題にも軽く触れている。学校に於ける学級の生徒の人数と教師の負担は、何処でも語られる定量化された問題である。PISAの評価は、こうした量の解決で向上するかもしれない。しかし、本書で描かれているような教育の質の重視は、ルネッサンス期に於ける本来の学問の基本である、「真の創造」は「希望の将来」と同義と見做す者には待望される、ヒューマニティー教育を問う。
その質こそが、この書物の装丁から感じられる。それでも、受け取った時にはあれっと思う軽さがあった。なぜならば、ネットでの説明からもう一回り大きなフォーマットと紙の重さを勝手に想像していたからである。その錯覚の意外な重量こそが、文化であって、通常ならば五日ほどで到着する郵便が税関で止められて到着が三週間以上掛かった空間と時間を想起させる、ヴァーテュアルな世界では存在しない質量なのである。
平易な文章は、日本学の学び手達に是非読んで貰いたい思う。先ずは個人的に薦めて、回覧してみる心算である。其の内に、折角美しく仕上がったこの書籍は段々と汚れてくるかもしれないが、それもなにかこの本には似つかわしいような気がする。
感想文を綴ってみたのですが、手に余る行為でした。こうした読み物から何を読み取ったかと、自らに問うているような感じです。本書に戻って、また感想文を読み返してといった按排です。
BLOGで一年間を同時進行形で覗いてきた者にとっては、何処までかフィクションで何処からがノンフィクションなのだろうかと興味の湧くところです。
丁寧に感想が書かれていて、またあのふわふわとした気持ちを思い出しました。
都筑さんからのコメントもあってびっくり!
すごいですね☆
また遊びに来ます。
言葉の使い方は違うかもしれませんが、大人も結構うわふわとした気持ちがあるのではないでしょうか。日常生活の忙しさに紛らわせているだけですが。
こうして交流が出来るのもBLOGのお陰です。こちらこそまた宜しくお願い致します。
トラックバック、コメントいただき、ありがとうございました。
上に、都築さんのコメントがあり、驚いてしまいました。
やさしい本だなぁと思います。
またゆっくり寄らせてくださいませ。ほんとにありがとうございます
「がむしゃらに前だけしかみていないでいるのは
とってもつまらない、さびしいこと」- なるほど。
こちらこそまた宜しくお願い致します。
satominさん、感想も拝読しました。
『あたたかな気持ちのあるところ』に「日頃私が漠然と思ったり感じたりしていること」を見つけられたようですね。そうなんです。普通に人間的なことでなのです。
こちらでの紹介を見て、本を読み、それが大切な一冊となり
その思いを書き手の方にお伝えできるというとてもともて贅沢な嬉しい思いをさせていただきました。
こういう素敵な廻り合わせに今、とても感激しています。
それもこれも、最初はこちらのブログから
ありがとうございました。^^
こちらこそ大変嬉しく思います。
実はストラスブールに行ってきました。^^
これば、本を読む前に決まっていたのですが
『コルマール』は本の記述でつい、行ってきました。
そして、本の中の『今日からフランス語は使えません』これを読んだので
ケールの街に行ってライン川を眺めた時いろんな思いなったのでした。