Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

カウンターテノール?!

2017-12-31 | 文化一般
承前)ロココ劇場でのニコラ・アントニオ・ポルポーラ「ミトリダーテ」のドイツ初演は可成りの価値があった。ドルトムントに移る支配人のナポリ楽派を取り上げるシリーズの最後を飾る初演だったようだが、これだけの作品がイタリア語での初演となるとやはり驚く。これだけという中にはその芸術的な価値が最も大きな意味を持つのだが、その音楽的な批評よりも、むしろ美学的な社会的な批判によってそれほど顧みられていなかったと思う。

その事情は初演当時のロンドンのオペラ事情とも深く関わっているが、一時はヘンデルのオペラ団に圧勝したもののその後には作曲家自身も貧困の中で一生を終えるような所謂時代遅れになってしまった背景がある。勿論去勢した歌手が少なくなった時代では、また現在のようにカウンターテノールブームでどこにでも替えがいるような時代になっても、その裏声よりも女性のアルトの声の方が望ましいという人も少なくない ― アルトも中性的な可笑しな声の歌手はいくらでもいるが。要するにこれらの作品などが際物と捉えられた社会的な背景もあるのだろう。その前に時代遅れになって廃れたこと自体がやはりこのエポックを際物にしている。

しかし今回準備としてモーツァルトのそれなども比較して、カウンターテノールの問題は残るのだが、決して初期の子供のモーツァルトの作品より芸術的な価値が低いとは思えないのである ― まさしくこのロココ劇場でサマーセミナーを受けるまでのつまり前古典派の啓蒙を受けるまでの神童の作品にどれほどの名作があるのだろうか。どちらの作品に劇場上演する価値があるかと言えば必ずしもモーツァルトではないと言えよう ― 初期の作品でそれ程真面な演奏はなされている様子が無い。寧ろ、ハイドンの先生でもあったポルポーラの技法にエポックを観察する方が面白いのではなかろうか ― 同時代の重要な作曲家はハッセなど沢山存在する。

さて肝心のカウンターテノールであるが、今回の主役のミトリダーデを歌ったデーヴィット・李という人は世界的な活躍をしている人のようだがその声の質もイタリア語のリズム感もカナダ人とはいいながら韓国人らしかった。先日のミュンヘンでも韓国人歌手を聞いてその充実ぶりは凄いとは思うのだが、この人の声は駄目だった。本物のカストラートの力強さとも声が違うのだが、そちらの方の声で売っているらしい。最後の死に直面する歌だけは聞かせたが、何かそこに粘着質な歌いぶりがあってこれも好ましくなかった。

今回は、我がツイッターのフォロワーであるレイ・チャニスという今売り出し中のカウンタテノールに誘われた形で出かけたのである ― 際物のカラヤン二世クレンツィス指揮のパーセルでジュネーヴでデビューしている。若い歌手であり、ヤコブスやショルの世代と比べて、どの程度歌うのかは全く未知であった。結論からすると、技術的にも安定しているだけでなくその声の軽やかさと肌理の細かさは今まで聞いたことのない質の声だった。特に今回の役柄はその声質の主役との対比においてとても得難かった。出演自体も飛び入りしたようで準備が充分でなかったのか、初日などは声が小さいなどの批評も読み取れるのだが、彼の歌う最終日では全くそのようなことが無かった。身体が反映するとかいう批評もあったが、それならば彼の胸膜の方が李よりもよく鳴る筈だとハッキリ分かった ― 本番の腹ごしらえはオムレツでするということだが。要するにいい加減な批評は幾らでもある。

彼とデュオを歌ったヒロインは、スカラ座のプロジェクトでアダム・フィッシャー指揮で夜の女王を歌ったヤスミン・オェツカンで、ドイツのトルコ人系女性のようだが、この二人のペアーはなかなか良かった。若さだけでなく技術的にも安定していたからだ。ソロに続くその変奏のようなデュエットの様式感が重要であるからだ。声の威力からするとまだまだなので、オペラ界で一流になるのかどうかはまだ分からないが、注目に値するだろう。管弦楽も俄然真面目に演奏していた、まるで当時のロンドンのようだ。

そのほかにもユダヤ女性、韓国人、シナ人、アメリカ人などもいてインターナショナルなアンサムブルになっていた。丁度舞台の作り方も夏のピーター・セラーズのそれを彷彿させる有刺鉄線なども戦争シーンで出てきており ― 軍靴だけが戦場シーンで置かれているのも「タンホイザー」のカステルッチにも似ていて ―、黒人がいなかったぐらいの違いである。それゆえにどうしてもタイトルロールをティートュス役のラッセル・トーマスと比較してしまう。

この作品上演の価値があったのは、このシフラ役に適役の歌手がいるかどうかに尽きるようだ。彼のファリネリのライヴァルであったセネシーノの役であるから、当然である。それゆえに32分音符、16分音符の鮮やかさだけでなく、その後にヒロインとのデュオが続くなど技術的にも音楽的にもそして何よりも声がものをいう。独特の軽やかさとその抜けの良さと、アリア「ローマに対して」の力強さにも欠けなかったのだが、本物のカストラールのあの胴声となるとどう鳴るのだろうかとも思う。すると上の韓国人のようになってこれまた困るのである。

Ray Chenez - Marzia(rol) "Confusa Smarrita" Catone in Utica, (Cesare) Franco Fagioli,(Collage)

Ray Chenez - Non ti minaccio sdegno - Vinci's "Catone in Utica" (Marzia)

Mitridate Porpora Duetto Alexandra Zabala,Sara Allegretta

Bartoli - Jaroussky duetto 'La gioia ch'io sento' - Porpora



参照:
モーツァルトを祀り上げる 2006-10-03 | 音
生きてる内にもう一度! 2007-10-03 | 文化一般
バロックオペラのジェンダー  [ 音 ] / 2005-02-20

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