車中のラジオがクオリティ・オブ・ライフについて議論していた。何時もの夕方の討論番組である。健康を意識するばかりに病気になるとかの話しでもある。「放射線を気にすると余計体調が悪くなる」と言うのと似ている。そもそもなにもせずにどこも痛くも痒くもなければ肉体は死んでいるのである ― 同じように不具合があるならば動かしておいた方が使えるのである。
なるほど平均寿命が長くなって特に60歳過ぎの男性の更年期障害によるホルモンの変調から高血圧などの問題が一般的な話題になった面もあるようだが、そもそも加齢は避けれない訳で、如何に体を動かせるようにしておくかだけしかないのである。
同じような意味合いで、アンティエージングを考えると、大げさに言うと肉体と精神の乖離を如何にコントロールして行くかにあるだろう。最も若くして顕著に現れるのは、腹具合で、既に少年期から青年期においても成長を終えた人間が盛んに腹いっぱい食べ続けると肥満になるのは当然なのである。
そうした食生活や低下した運動消費の生活が続けられると、ある時点で様々な生活習慣病となり、それを放置していくと身体の障害へと直ぐに結びついていくことは明らかなのである。問題は、直接間接的に制御できる肉体を如何に乖離させずに制御していくかに掛かっているといえるのかもしれない。
この冬初めての本格的な寒気である。外気温摂氏零下五度で霜だけでなくて至るところが凍りついた。昨日運動できなかったので、漸く冬休み開けのパン屋に今年最初の訪問である。その足で二十分コースを走った。冷始動だったので危ぶまれたが、丁度万歩計を忘れていたので、ゆっくりとあせらずに走り出すと、先日の急坂に慣れたのか登りが殆ど平坦と変わらなく感じた。これならばいつでもスパートできる走り振りである。そのまま降りてきても十分時間があったので、もしかすると記録的な速さになっていたかもしれない。少なくともそのまま峠まで駆け上がっても良さそうであり、足に来ないことを急坂で確認していたので登りを走る自信がついてきた。
そのことはクライミングにおける壁の威圧感への心理とよく似ていて、威圧感が消えるだけでも可也登れることを保証する。要するに庇を含む急勾配を厭わないようになると、大きな一歩を踏み出すことになる。殆ど同時に走りに進展が見られるようになったのは、足の先までに酸素が回るようになったからに違いない。これは楽しみになってきた。急坂も含めてこのままもう一押し負荷を増やして行きたいところである。プラトーを乗り越えて走り続けるとその先には一体何が見えるのだろう?
なるほど平均寿命が長くなって特に60歳過ぎの男性の更年期障害によるホルモンの変調から高血圧などの問題が一般的な話題になった面もあるようだが、そもそも加齢は避けれない訳で、如何に体を動かせるようにしておくかだけしかないのである。
同じような意味合いで、アンティエージングを考えると、大げさに言うと肉体と精神の乖離を如何にコントロールして行くかにあるだろう。最も若くして顕著に現れるのは、腹具合で、既に少年期から青年期においても成長を終えた人間が盛んに腹いっぱい食べ続けると肥満になるのは当然なのである。
そうした食生活や低下した運動消費の生活が続けられると、ある時点で様々な生活習慣病となり、それを放置していくと身体の障害へと直ぐに結びついていくことは明らかなのである。問題は、直接間接的に制御できる肉体を如何に乖離させずに制御していくかに掛かっているといえるのかもしれない。
この冬初めての本格的な寒気である。外気温摂氏零下五度で霜だけでなくて至るところが凍りついた。昨日運動できなかったので、漸く冬休み開けのパン屋に今年最初の訪問である。その足で二十分コースを走った。冷始動だったので危ぶまれたが、丁度万歩計を忘れていたので、ゆっくりとあせらずに走り出すと、先日の急坂に慣れたのか登りが殆ど平坦と変わらなく感じた。これならばいつでもスパートできる走り振りである。そのまま降りてきても十分時間があったので、もしかすると記録的な速さになっていたかもしれない。少なくともそのまま峠まで駆け上がっても良さそうであり、足に来ないことを急坂で確認していたので登りを走る自信がついてきた。
そのことはクライミングにおける壁の威圧感への心理とよく似ていて、威圧感が消えるだけでも可也登れることを保証する。要するに庇を含む急勾配を厭わないようになると、大きな一歩を踏み出すことになる。殆ど同時に走りに進展が見られるようになったのは、足の先までに酸素が回るようになったからに違いない。これは楽しみになってきた。急坂も含めてこのままもう一押し負荷を増やして行きたいところである。プラトーを乗り越えて走り続けるとその先には一体何が見えるのだろう?
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