BLOG「Ganze Lieben, Ganze Freuden」にてパフォーマーの心理としての示唆を得た。そこでは本番前の「ソルフェージュ」が話題となっているが、その視点は、大きな示唆を与える。故ジョルジュ・リゲティは、経験豊かな作曲家としても有名であるが、二十世紀後半に頻出したパフォーマンスを表に打ち出し、決して伝統的な美意識を無視した前衛派の創作家ではなかった。
アイン・ドイツェス・レクイエムは、新古典主義作家ブラームスの出世作として、ルターの訳によるドイツ語のレクイエムとして知られている。オーケストラ演奏だけでなく、合唱を主としてピアノ源譜のみならずオルガンなどを使った演奏も共同体の合唱団などで演奏されているものと思われる。
そのドイツ語の歌詞は、管弦楽を使った名演奏では部分的には良く聞き取れないが、先輩ヴァーグナーが劇場の奈落構造を変えてまで、声を通るようにしたのとは異なる意味で、ブラームスは声を充分に巧く扱っている。
声と言う楽器は、熱を帯びたり硬直したりするもので、そこが無機的な楽器と異なるとしているのはヘーゲル教授である。「肉体的で性的」として、マンの「ファウストュス博士」における主人公の性格つけで、ヴァーグナーにおける人の声のヌーディティに比して、古楽の声楽における頭を捻らした「形式」が補うそれも何ひとつ処女的なものでない事が挙げられる。
つまりここにおいても、ルターの教会音楽の単純とは正反対の意味で、歌い手の生理が良く考えられているようで、その音楽の、歌詞の進む方向が、まさにベートーヴェンなどでは心理として扱えたものが、パフォーマーの逡巡、躊躇や当惑であったり、迷いであったり、確信であったりする。そのような仕掛けは、ネットで見つけたシェンカーシステムによる楽曲分析でも明らかになっている。そしてその仕掛けにただ二重や多重の意味を持たせるのではなく、それを弁証法的な話法としている。
そこではウアリニエーなる概念で、ミクロの変化が大きな枠組みを用意しているかのような解析がされるのだが、まさにそれは上で言う「形式」を取り去って有機的な関連を齎す理由つけとなっているようだ。因みにハインリッヒ・シェンカーのこの分析法は英米でこのように今でも盛んに使われているらしい。このブルックナーの弟子であるユダヤ人に従った者には、作曲家ヒンデミットと指揮者のフルトヴェングラーが挙げられる。更にシェーンベルクは、第一次世界大戦敗戦の痛みにあった1921年のドイツでの有名なルーファーヘの語りかけのなかでも、シェンカーの試みについて触れている。
こうした分析法が伝統的な演奏実践の場を固定化した、要するにシェーンベルクが指す「今後百年間のドイツ音楽の優位性」の土台であり、第三帝国における人気指揮者の野蛮な演奏行為への場を保障した罪悪と出来よう。そこにて失われたパフォーマンスとしての場への配慮と文化行為としてのパフォーマンスをブラームスのこの作品にみるのも強ち誤りではないであろう。
二十世紀後半においてもそうした文化的なパフォーマンスは、必ずしも前衛的な井手達のボイスなどの非伝統をモットーにしたもののみに存在したのではなくて、それこそ頭を捻らした違う装いの中でも存在したことを指摘しておけば充分だろう。
余り重要ではないことであるが、ドイツ音楽を得意としていた故カルロ・マリア・ジュリーニの実況録音を聴くと、そのアウフタクトが大変おかしなことになっている。アーティクレーションに拘る音楽家となっていたが、その真意は全く理解不可能である。この指揮者のブラームス演奏も人気がある筈なのだが、まるでヴェルディーのドン・カルロスのように響かすヴィーンの音楽家達は怯え当惑していたのだろうか?
アイン・ドイツェス・レクイエムは、新古典主義作家ブラームスの出世作として、ルターの訳によるドイツ語のレクイエムとして知られている。オーケストラ演奏だけでなく、合唱を主としてピアノ源譜のみならずオルガンなどを使った演奏も共同体の合唱団などで演奏されているものと思われる。
そのドイツ語の歌詞は、管弦楽を使った名演奏では部分的には良く聞き取れないが、先輩ヴァーグナーが劇場の奈落構造を変えてまで、声を通るようにしたのとは異なる意味で、ブラームスは声を充分に巧く扱っている。
声と言う楽器は、熱を帯びたり硬直したりするもので、そこが無機的な楽器と異なるとしているのはヘーゲル教授である。「肉体的で性的」として、マンの「ファウストュス博士」における主人公の性格つけで、ヴァーグナーにおける人の声のヌーディティに比して、古楽の声楽における頭を捻らした「形式」が補うそれも何ひとつ処女的なものでない事が挙げられる。
つまりここにおいても、ルターの教会音楽の単純とは正反対の意味で、歌い手の生理が良く考えられているようで、その音楽の、歌詞の進む方向が、まさにベートーヴェンなどでは心理として扱えたものが、パフォーマーの逡巡、躊躇や当惑であったり、迷いであったり、確信であったりする。そのような仕掛けは、ネットで見つけたシェンカーシステムによる楽曲分析でも明らかになっている。そしてその仕掛けにただ二重や多重の意味を持たせるのではなく、それを弁証法的な話法としている。
そこではウアリニエーなる概念で、ミクロの変化が大きな枠組みを用意しているかのような解析がされるのだが、まさにそれは上で言う「形式」を取り去って有機的な関連を齎す理由つけとなっているようだ。因みにハインリッヒ・シェンカーのこの分析法は英米でこのように今でも盛んに使われているらしい。このブルックナーの弟子であるユダヤ人に従った者には、作曲家ヒンデミットと指揮者のフルトヴェングラーが挙げられる。更にシェーンベルクは、第一次世界大戦敗戦の痛みにあった1921年のドイツでの有名なルーファーヘの語りかけのなかでも、シェンカーの試みについて触れている。
こうした分析法が伝統的な演奏実践の場を固定化した、要するにシェーンベルクが指す「今後百年間のドイツ音楽の優位性」の土台であり、第三帝国における人気指揮者の野蛮な演奏行為への場を保障した罪悪と出来よう。そこにて失われたパフォーマンスとしての場への配慮と文化行為としてのパフォーマンスをブラームスのこの作品にみるのも強ち誤りではないであろう。
二十世紀後半においてもそうした文化的なパフォーマンスは、必ずしも前衛的な井手達のボイスなどの非伝統をモットーにしたもののみに存在したのではなくて、それこそ頭を捻らした違う装いの中でも存在したことを指摘しておけば充分だろう。
余り重要ではないことであるが、ドイツ音楽を得意としていた故カルロ・マリア・ジュリーニの実況録音を聴くと、そのアウフタクトが大変おかしなことになっている。アーティクレーションに拘る音楽家となっていたが、その真意は全く理解不可能である。この指揮者のブラームス演奏も人気がある筈なのだが、まるでヴェルディーのドン・カルロスのように響かすヴィーンの音楽家達は怯え当惑していたのだろうか?
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