スピルバーク監督作品「ミューニック」について記事が載っている。クリスマス前に慌てて米国封切りとして、オスカーのノミネートに間に合わせ、出演者には緘口令を引いて、自らは珍しく作品について語ったと言う。フィクションでありながら、モデルともなっているモサド関連で映画化された「ギデオンの剣」のモデルなどは、偽りの語りで謝礼を取ったとして裁判沙汰になったような裏事情もあるらしい。
イスラエルの情報局モサドとパレスチナ解放軍の「目には目を、歯には歯を」の猫と鼠の追いかけっこを、ミュンヘンオリンピックのテロ事件を絡めて描いた作品の様である。「シンドラーズリスト」のような興業的成功も全く見込めないらしい。ユダヤ系のジャーナリストなどは、退屈で一面的な映画で、監督自身や台本作家が落ち着いていないのはこのためと言う。実際、ドイツにおける公開も一月の末であり、イスラエルにおけるそれも前宣伝に追われているようだ。
「暗黒の九月」テロ事件の時のバイエルン警察の突撃で死亡した代表選手被害者家族にも賛否両論があり、一方では映画の感性を賞賛しながら、一方ではその死によって稼いでいると批判している。モサドの当時の責任者で何らの相談も受けなかったツヴィ・ツァミールは、「スピルバークが俺のお陰で稼ぐのに、切符を買うのも吝かでは無いけれど」と言いながら、「映画で金を儲けるのが主で、スピルバークにとって事実など如何でも良いのだろう」と言い切る。
クリントン政権の外務省に措いて中東を専門としていていた、現在も中東政治のシンクタンクに属するデニス・ロスが呼び掛け人となって、マンハッタンのユダヤ人会で試写会が開かれた。氏は、シュピルバークに二つのシーンを追加させたと言う。それは、アヴネルスの母親とモサド射殺隊の隊長のモノローグのシーンのようだ。こうしてロス氏が言うように、イスラエルの為にもユダヤ人の為にも良い映画となっているらしい。
さて、スピルバーグ映画の本質に迫ろうと言いたいところだが、プロディース作品ぐらいは知っているが監督作品はTVでさえ「シンドラーズリスト」を真面目に観たぐらいで「ET」すらも十分に観ていない。何も言う資格は無い。それでも、自らが言うように「何ら社会を変えようとしない」映画で、史実にも余り拘らない 芸 術 作 品 を観て感じる点は幾つかある。
一つは、映画が配給されるような地域のお客さんのステレオタイプな感受性や月並みな反応を熟知している事。それも、エンターテイメントを求めて、映画館へと足を運ぶお客さんを良く知っている。一つは、映画によって彼らの普遍的な世界観を共有する事が出来る。それも出来る限り、知的な世界観でなくて、共通の文化的意匠や巡り合わせを提出する事に重きが置かれる。一つは、政治的な次元から注意深く離れる事で、二項対立よりも多極化された視点で描く事が出来て、如何にも公平に真実を観ていると思わせる事。
その反面、オスカー・シンドラーのように有能な企業家が自らが自己を破滅に導く過程すら釈然としない映画運びとなるのである。所詮ハリウッド映画と諦観するのは容易だが、観る者に日常の感情を重ね合わさせ、そうして思考するのを阻止する。何となく心に残るのは、赤いブラウスの女の子だったりする。一体このような作品は、何なのか?
ドイツ連邦内に措いて映画館入場者は、昨年度は前年比二割減となった。米国に措いても業界の苦戦が伝えられる。ゲームソフトやTVメディアと並んで映画興業にも翳りが見えて来た。これらは全て、仮想の世界観をスクリーンに写す事によって商業的に成り立って来た。映像表現の可能性とは別にして、劇映画は演劇を代行するのかと言う古い問いが再び繰り返される。
シュピルバーク氏は、今春より250台のカメラをパレスチナとイスラエルの子供の前で廻して、それを双方でお互いに交換して行くらしい。しかしそうして写されるものが、テロへと駆り立てられるパレスティナの若者達を、銃口から逃げ回り石を投げる子供達を写すニュース映像よりも、充分に知らしめるものとなるかどうかは判らない。
参照:
少し振り返って見ると [ 雑感 ] / 2005-10-08
ポストモダンの貸借対照表 [ 歴史・時事 ] / 2005-09-02
イスラエルの情報局モサドとパレスチナ解放軍の「目には目を、歯には歯を」の猫と鼠の追いかけっこを、ミュンヘンオリンピックのテロ事件を絡めて描いた作品の様である。「シンドラーズリスト」のような興業的成功も全く見込めないらしい。ユダヤ系のジャーナリストなどは、退屈で一面的な映画で、監督自身や台本作家が落ち着いていないのはこのためと言う。実際、ドイツにおける公開も一月の末であり、イスラエルにおけるそれも前宣伝に追われているようだ。
「暗黒の九月」テロ事件の時のバイエルン警察の突撃で死亡した代表選手被害者家族にも賛否両論があり、一方では映画の感性を賞賛しながら、一方ではその死によって稼いでいると批判している。モサドの当時の責任者で何らの相談も受けなかったツヴィ・ツァミールは、「スピルバークが俺のお陰で稼ぐのに、切符を買うのも吝かでは無いけれど」と言いながら、「映画で金を儲けるのが主で、スピルバークにとって事実など如何でも良いのだろう」と言い切る。
クリントン政権の外務省に措いて中東を専門としていていた、現在も中東政治のシンクタンクに属するデニス・ロスが呼び掛け人となって、マンハッタンのユダヤ人会で試写会が開かれた。氏は、シュピルバークに二つのシーンを追加させたと言う。それは、アヴネルスの母親とモサド射殺隊の隊長のモノローグのシーンのようだ。こうしてロス氏が言うように、イスラエルの為にもユダヤ人の為にも良い映画となっているらしい。
さて、スピルバーグ映画の本質に迫ろうと言いたいところだが、プロディース作品ぐらいは知っているが監督作品はTVでさえ「シンドラーズリスト」を真面目に観たぐらいで「ET」すらも十分に観ていない。何も言う資格は無い。それでも、自らが言うように「何ら社会を変えようとしない」映画で、史実にも余り拘らない 芸 術 作 品 を観て感じる点は幾つかある。
一つは、映画が配給されるような地域のお客さんのステレオタイプな感受性や月並みな反応を熟知している事。それも、エンターテイメントを求めて、映画館へと足を運ぶお客さんを良く知っている。一つは、映画によって彼らの普遍的な世界観を共有する事が出来る。それも出来る限り、知的な世界観でなくて、共通の文化的意匠や巡り合わせを提出する事に重きが置かれる。一つは、政治的な次元から注意深く離れる事で、二項対立よりも多極化された視点で描く事が出来て、如何にも公平に真実を観ていると思わせる事。
その反面、オスカー・シンドラーのように有能な企業家が自らが自己を破滅に導く過程すら釈然としない映画運びとなるのである。所詮ハリウッド映画と諦観するのは容易だが、観る者に日常の感情を重ね合わさせ、そうして思考するのを阻止する。何となく心に残るのは、赤いブラウスの女の子だったりする。一体このような作品は、何なのか?
ドイツ連邦内に措いて映画館入場者は、昨年度は前年比二割減となった。米国に措いても業界の苦戦が伝えられる。ゲームソフトやTVメディアと並んで映画興業にも翳りが見えて来た。これらは全て、仮想の世界観をスクリーンに写す事によって商業的に成り立って来た。映像表現の可能性とは別にして、劇映画は演劇を代行するのかと言う古い問いが再び繰り返される。
シュピルバーク氏は、今春より250台のカメラをパレスチナとイスラエルの子供の前で廻して、それを双方でお互いに交換して行くらしい。しかしそうして写されるものが、テロへと駆り立てられるパレスティナの若者達を、銃口から逃げ回り石を投げる子供達を写すニュース映像よりも、充分に知らしめるものとなるかどうかは判らない。
参照:
少し振り返って見ると [ 雑感 ] / 2005-10-08
ポストモダンの貸借対照表 [ 歴史・時事 ] / 2005-09-02
「シンドラーのリスト」を思い出すと怖いような気がします。事実アメリカで見た人の話では、皆棒立ちになっていたとか・・・
ショッキングであることは間違いないようですね。
この映画も観ていないでのでいけませんね。TVで観るかヴィデオ・DVDで繰り返して観る事も少ないです。更に映画館で観衆と観るのは更に少ないです。上のような映画も出向いて期待して見ると違う効果が予想出来ます。感じ方が変わるでしょう。
それでも、評論等で指摘される点は変わり無いかもしれません。特にこういう大物のプロデュース作品は、容易に一刀両断されないというのが、彼らの総合的な実力なのでしょう。