Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

言い得て妙な表現方法

2020-11-13 | 雑感
森の中でエンジンが掛かるかビビることは無くなった。だから自分の都合のよい晴れ間を狙って行けた。しかし雨雲レーダーほどには陽射しは無かった。走り乍でも車で帰宅できるのかどうか分からないのとは大分違う。ガレ―ジで掛けるとブレーキの踏み方の為にABS不良などの警告が光った。これも全てブレーキについているマイクロスイッチが影響している。だからギアーも入らなかった。その代りブレーキを踏み込まないでもエンジンが掛かることが分かった。

長い間の不調は電源劣化による電磁石由来であり、ギアーが入るも入らないもマイクロスイッチによる。今後はエンジンを掛けてからブレーキを踏み込んでギアーを入れることにする。エンジンを動かすと正常な位置に戻ることがあるようだ。インディケーターのターミナル電圧は今朝は67%程に落ちていた。警報と係っていると思われる。漸く自由な機動性を取り戻した。冬タイヤが路面に吸い着いて気持ちがいい。

今夜は再び無観客演奏会中継がベルリンからある。再び只券を使う時だ。ショスタコーヴィッチの交響曲八番が演奏DCH生中継される。先日の九番があまりに素晴らしかったので今回も生を観ようと思う。年内の予定では、年末は無料中継もあるので、ペトレンコ指揮はロックダウンが続く場合12月初めにフォアアールベルクの代わりに指揮、中継される可能性がある。その時は新たに購入しなければいけない。

九番と八番の楽譜も落としてあるので、先ずはヤンソンス指揮の全集から当該の二曲を聴いた。九番はオスロフィルの演奏で、悉く主題を浮き立たせないような、同時に裏を聴かせるわけでもなく楽譜の冒頭から後ろまでを、極端に言えばMIDIの様に流していく。本全集が評価を受けたのも故人のショスタコーヴィッチへの見識とか見解が注目されて時間を掛けて制作されたからだった。

実際にその言い分はここにも反映されていて、内容の多面性という事では一つの表現方法だと思う。しかし先日のペトレンコの各々の主題が語りだすその音楽を聴いてしまうと、これほどまでに何も語らないのは、故人が最後まで尊重していた、ソヴィエトのプロレタリアートの音楽としか理解できない。つまり表面上は誤魔化して音楽を最後まで流してしまうという流派である。同じ流派にいる演奏家は知らないが、同様の教育がなされていたものと思う。そういう指揮者がカラヤンコンクールで認められてと、とても良く分かる時代構造背景だ。そしてザルツブルクでのオスロフィルへの喝采もそうした土壌の上に成り立っていた。

八番は、管弦楽団がどこだか分からずにブラインドで聴いていたが、音楽的に表現できることを悉くすり抜けてどんどんと先に進む。BR交響楽団中心の全集だったから、ミュンヘンのそれに比較すれば技術的にも洗練されていて同時にあまりにも非音楽的なので訝っていた。ところどころの鳴り方がハリウッドのそれで、その通りピッツバークの交響楽団演奏だった。初めて聴く楽団だが、やはりビッグファイヴでは絶対有り得ないほどの能天気さである。なるほど日本などでは評価が高い筈の非音楽性だ。

どなかたかの表現を借りれば「太筆書きの指揮」で、言えて妙である。リズムの処理も大まかで、アゴーギクも寧ろ大きな枠組みで計算されているような指揮である。音程などへの配慮も全く同様で、どうして此の侭演奏させているのだろうと思うところがありとても平均律的だ。ソヴィエトの音楽教育はそうだったのだろう。要するにレニングラードの聴衆から辺境の少数民族まで万人が同じように聴こえる明快な音響が目されている。故人が得意にしていたような、まさしく作曲家の思いが秘められていたジャズ組曲とかそのものである。

それでも、それ故にこの全集はとても価値があると思うのは、正真正銘のソヴィエトのショスタコーヴィッチの記録だと思うからだ。マリス・ヤンソンスの才能やその実力以上にこの指揮者の存在価値はそこにあったと思う。少なくともオスロで活動の同時代ではそこまでは把握できなかった。まだソヴィエトも存在していた。



参照:
聖像破壊者と伝統回帰者 2020-11-02 | 文化一般
新年遅くまで次々と 2020-11-08 | 暦


コメント
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