日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

連休なれど、どこへいったやらの日々です。

2019年04月28日 | Weblog

 

  こんにちは。はやくも10日間の連休がはじまりました。盆暮れでさえこんなに長い休みは学校時代の夏休みや冬休みいらいのことでしょうか。仕事をするようになっては、身内の忌引きが結婚以来の休みともいえるのではないのでしょうか。いずれにせよ、働くようになってから、用事がない休みは初めてだといっていいでしょうか。過ごし方によっては、薬にも毒にもなる10連休をどうすごしているのでしょうか。

 さて、ぼくの場合といえば当面は今まで出来なかったことを一つずつやる日々でもあります。その一つに「山歩き」がありました。休日を利用していつもの高尾山にいってきました。連休ということもあって混雑するのだろうと考えていたのですが、実際のとこrそれほどの混雑もなくゆっくり歩くことができました。この時期のいちばんのお目当ては、なんといっても花を見つけられることがよかったですよ。

 さて、そのほかにやることといえば身の周りの資料整理(役にたつとは思われないけれど)もあります。まあ、ガラクタかなー。ニュースの記事などもありました。10日間という日々ではたいしたことができないいと思います。それでも、目の前のできることから始めるしかないようです。

  

ヒトリシズカ(センリョウ科)高さ10~30㎝の多年草。

イカリソウ(メギ科)

 

ムラサキマムシグサ(サトイモ科)

花の名前参照『高尾山 花と木の図鑑』(菱山忠三郎著・主婦の友社)より

 「1カ月に一度は山歩きをやりたい・・・」と思っているうちに月日は過ぎとうとう春になってしまったように思う。せめて、春の連休には実行したいと思っていて、やっと行くことができたという一日でもあった。昨日の雨もあり「どうかな」心配していた。でも、そのおかげで陣馬高原からの富士山や丹沢方面の残雪がとても美しかった。

 この時期山るきのお目当ては景色よりも、春を待っていた花たちを見るのも楽しみでもありました。山道を歩いていると、道脇にけなげに咲いた花がたくまさしを見せる季節でもありました。この時期をのがすと、おそらくもう一年間はおめにかかれない花もあります。(写真)

 若いころは、はやく登って頂上で料理をしてうまい昼ごはんが目的だったようだった日々から、今では人知れず、一年を耐え抜いた植物の美しい姿を見に出かけるようになったように思う。その分、歩きながら道脇の草むらを眺めるのでどうしてもゆっくりなってしまうので、できるだけ早く出かけるのが原則になってしまうようになった。早起きは苦にはならない。この時期は、日の出も早いのでうれしいことにもなっている。

 年々、山歩きをする目的も少しずつ変わっていくようだ。高い山にいくのも楽しい山歩きになる。ただ、体力が高度差についていけないことを受けとめることも大事に思う。事実、今日、「北アルプスで遭難」というニュースも流れている。

※「山岳遭難 4人死亡」(朝日29日)富山県と岐阜県の堺の北ノ俣岳(2662m)、富山県の雷鳥沢(2560m)、長野県の槍ヶ岳(約2800m)、唐松岳の八方尾根付近(約2500m)で遭難者があいついで発生している。みんな死亡が確認されている。


 

  4月がきたと思いきやもう月末という思いです。初旬は長い間いっしょに仕事をしてきた知人の訃報だった。中旬では、出向先では尊敬する編集長が倒れて、即検査、そして入院をしてしまいました。人間の寿命がいつなのか、どこでなのかとうことを考えた日々でもありました。生命あるものはいつかは息絶えて死を迎えるものだとは覚えていてます。それにしてもこうもたて続けに周辺で起きていると、自分にもどかで「寿命のシグナル」がどこかで小さく鳴りはじめてくるころではないのだろうか、といことを感じています。まさに『平家物語』の冒頭「諸行無常」の世界でもありますか。

 

p31 喧嘩なら相撲取りともやって見せるが、こんな大僧を四十人前へ並べて、只一枚の舌をたたいて恐縮させる手際はない。

 p35 おれは何事にもよらず長く心配しようと思っても心配できない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな影響を与えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈するかまるで無頓着であった。

 p38 冗談も度を過ごせばいたずらだ。焼餅の黒焦のようなもので誰も誉め手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行っても構わないという了見だろう。

 p52 おれは勇気がある割合に智慧が足りない。こんな時にはどうしたらいいかさっぱりわからない。わからないけれども、決して負ける積りはない。

 p67 「どうせ経験には乏しい筈です。履歴書にもかいときましたが二十三年四カ月ですから」

 p179 (坊ちゃんいわく、四国の不浄の地を去った後)その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。 月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日におれを呼んで坊ちゃん後生だから清が死んだら、坊ちゃんの御寺へ埋めて下さい。御墓なかで坊ちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

 短気でケンカ早くて、誰にた新潮社文庫案内よりいしても見栄をはらず馬鹿がつくほど正直な坊ちゃん。こういう人間は世の中にはなじめずはじきだされることが多いだろう。それでも、一つひとつ坊ちゃんの理屈をならべれば知識などよりはるかに大切な味わいのある人間だ。世間という中にあっては生きづらさもある。それを支え、励まし応援してくれる人が清なのだと思う。そして坊ちゃんも清ほどできた人間はいない、と語る。四国の赴任先で教養のある人間に囲まれていく日々。生徒や「狸」「赤シャツ」「野だいこ」とあだ名をつけたな人間たちの中での生活は、まさに今の社会の今をうつしだしているかのように見える。

 人はそれぞれ置かれた時代や場所によって、その時代の人間に変わっていくことを強要されている。それがいかにも「大切だと」というように時代も一緒に追いかけていく。追いつくことを励まされ、応援され追い着き着地点につこうとする。そうして変わっていくことが、あたりまえであるかのように時代は励ましている。だけれども、それがその人の本当の姿のかは別であるのだろう。自分自身を置き去り、忘れたところで気づかされてくれる人が、それが唯一無二の親友なのではないかと思う。身のまわりにそんな人はいるのだろうか。ケンカ友だちであれ、幼なじみであれ、家族であれ。自分のまわりにいる人間で、清のようなやさしい人はいるのだろうか、そしてそんな人に気づいているのだろうか…。誰かの思いをいつでも持ち続けたいという人がいるのだろうか。そう考えると無鉄砲な坊ちゃんは幸せな人だったのかもしれないと思う。

 【内容】熊本の高等学校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物の総てが目新しい世界の中で、自由気儘な都会の女性里見美禰子に出会い、彼女に強く惹かれてゆく……。青春の一時期において誰もが経験する、学問、友情、恋愛への不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から失恋に至る過程の中に描いて『それから』『門』に続く三部作の序曲をなす作品である。(新潮社文庫案内より)

p15 元来あの女は何だろう。あんな女が世の中に居るものだろうか。女と云うものは、ああ落付いて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか。大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するに行けるところまで行ってみなかったから、見当も付かない。

p106「この空を見ていると、そう考える。―君、女に惚れたことがあるのか」三四郎は即答ができなかった。

p190 三四郎が広田の家に来るには色々な意味がある。一つは、この人の生活にその他が普通とものと変わっている。ことに自分の性情とは全く容れないところがある。そこで三四郎はどうしたらああなるのだろうと云う好奇心から参考の為め研究に来る。次にこの人の前に出ると呑気になる。世の中の競争が余りに苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣にあるが、世外の功名心の為めに、流俗の嗜欲を遠ざけているかのように思われる。

p247 三四郎は思い切って、この間国元へ三十円の不足を請求した。充分な学資を月々貰っていながら、ただ不足だからと云って請求する訳にはいかない。三四郎はあまる嘘を吐いた事のない男だから。請求の理由に至って困却した。

p260 下宿の二階へ上って、自分の室に這入って、坐ってみると、やっぱり風の音がする。三四郎はこう云う風の音を聞く度に、運命という字を思い出す。ごうと鳴って来る度に竦みたくなる。自分ながら決して強い男とは思ってはいない。考えると上京以来自分の運命は大概与次郎の為に製られている。

 読み終えて考えたことは、青春時代ってというのは「いつも誰かの(女性)のことを笑顔を求めて暮らしていた」ということだろう。とはいえ、個人的にそうであっても他はしらないが・・・。それでもいつでもどこでも女性はいた。あるときは、それが理由であったり、あるときは励みでもあったりした。失恋もするが、それでもまた、新しいめぐり合いを求めて動きまわっていたように思う。こと、青春時代には「めんどう」などとは思わなかった。小説「三四郎」も表面では冷静を装っていても、心の中はいつも女性の影があったような小説である。

 時代は変わる。28日の「天声人語」(朝日新聞)を読んでいたら、今の恋愛観のことを書いていた。日本の近代化には恋愛は必要だと説いた福沢諭吉を紹介し、さらには芥川龍之介、林芙美子、竹久夢二などの言葉を載せていた。そして今。内閣府が数年前、20代と30代の男女に「恋人を欲しいですか」と尋ねたところ、欲しくないと答えたのが4割もいたという。最も多い理由うは「恋愛が面倒」だとか。新聞ならぬ、ぼくもこれには驚いてしまう。いったいどうなっているんだ・・・、とも思えた。男性にとっては女性の存在は、どれだけ力になっているのか、もったいない。「原始、女性は太陽だった」ではないか。これは極端すぎると思うが、「非正規社員」が増える理由の一つもあるように思えてくるが。これからの三四郎はいったいどこへいくのだろうかと思うのだった。

 
【富士に月見草がよく似合う】
 ぼくの記憶が正しければ「富士には月見草がよく似合う」といったのは『富嶽百景』のなかで太宰治だと思う。これは、山あいのから見た富士山をみたのだろう。日本人であれば、おおよその人は富士山をいろいろな角度から眺めているのではないかと思う。ぼくが子どもの頃は、通学路の道から空気が澄んだ冬の日などはよく見えたものだった。西に富士山、東に筑波山がみえたものだった。それも、頭だけの富士山だった。

 あれから半世紀近くたった今では、通勤電車のなかでもその姿は見えている。朝は雪景色の富士山、そして、帰りにはうんがよければ夕焼けの空の下、真っ黒なになった富士山。そんな眺めをみる機会はよほど余裕がないければ見えないことは事実になった。目に入る景色から、目にいれる景色に変わったきたのも時代がそうさせていったのだろうと思う。事実、富士ヶ丘とか富士見町などの地名が付いたところは必ずどこからか富士山が見えたという。しかし、それがビルが建っては壊されまた建つ繰り返しの時代によって、とうとう見えなくなったということをよく耳にする。

 ぼくにとって、いまいちばん富士山の景色がきれだなと思う場所と時間は、通勤帰りの駅のホームから見える、オレンジい色を背景にした真っ黒な富士山だ。一日の仕事がおわる夏の夕方、駅のホームから運がよければ夕焼け空の中、ビルの間から見えるのだった。見ていると、どっかりと黒い山の姿が美しく、そしてどっしりとして「動かざること山のごとく」の山らしい姿である。そんな眺めの中で、「人生なにがあってもこんなふうにしっかり、大地に根をおろしていたいなー」と思うからだろう。裏を返せば、それだけ今のいるところが不安定なのかよくわかるような気もしてくるのだった。


 「10連休」がスタートしました。どこへいくのでしょうか。職場の上司は「故郷へ帰ってくる」といっていました。そこで、「正規社員はいいなあ」と思い、契約社員になって給料も減らされた今となっては、遠いところは無理だろうと思えてしまうのでした。そもそも「後期高齢者雇用促進制度」が消えるにも時間の問題でしょうか。それは「65定年制」になればいらなくなるだろうし、さらに「働き方改革」で「70歳定年制」にでもなったら、忘れられてしまいだろうと思えるからだ。

 いったいこの国の企業は正規社員をほんとうにつくろうとしているのだろうかね。なぜなら、派遣会社がますます大きくなっていく時代です。それで、政治にも大きな影響力を持つようになっている時代ですからねえ。大手企業があるということは、それに関連した下請け、孫請けというのも存在するであろうし、ますます繁栄しないわけがないだろう。そして、派遣社員となった人たちを束ねる労働組合も細々とあるにはあっても、そうとう腹をくくって闘わないといけない状況がある。ブラック企業という時代はなくなっているわけではない。そんな時代に「子どもをつくろう」とか「女性の活躍できる社会」とかいう政治スローガンは、白々しく聞こえてくるのはぼくだけだろうか。
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※ちなみに朝日新聞27日号に「非正規2117万人」平成年間で2.6倍という記事がありました。「『平成』は非正規雇用者が増え、東京一極集中が強まり、魚離れも進んだ――。平成最後の平日となった28日、政府統計を用いて30年間の変化を分析した結果を総務省が出した。非正規労働者は2008年リーマンショック後の派遣錐や年越し派遣村など、平成を通じて正規雇用者との待遇差や不安定な地位が社会問題となってきた。1989年817万人から18年には約2・6倍の2117万人に増え、いまや就業者数の3人に1人が非正規になった。一方で18年の正規雇用者は3423万人で微減した。」
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 と伝えている。これでますます不安定な社会であることが証明されている。さらに派遣会社がますますハバをきかせる世の中になりつつある。働く人たちはばらばらにされていく、と思う。
 なんとも怖いのは、身内が身内を見放す(見放すしかない)ような時代の足音がだんだん高くなっているように思えることだ。父親が自分の娘を性的暴行しても判決では「無罪」となる国になってしまった。いったい誰に助けを求めりゃいいんだ・・・という時代でもある。

 今のところ、10連休になっていちばんいいことは、レジャーや買い物ができることじゃなくて、自分の身の周りを客観的に見る時間少しできたと思うことぐらいだろうか、ね。
 さて、休日の後半はどんな休みをとうのでしょうか。ぼくは、あいかわらず金のかからない貧乏休日ですが・・・。
 4月も終わります。知人の訃報、仕事先の方の入院など・・・。大変な4月でもありました。平成が終わろうとこの流れは続きます。自分の体も同様な年齢の人たちの災難を多く聞きます。少し注意していきたい5月です。
 ちょっと、更新がずれてしまいました。(記録は、日曜日ですが実際は遅れて更新しています)。まあ、休みなのでお許し下さい。それでは、楽しい休日を送って下さい。
 読んでくれた人、ありがとうございました。


桜が散り、10連休が近づいて

2019年04月21日 | Weblog

 


 

 こにちは。

 桜が散り、今はハナミズキがきれいです。そして天気が快晴となれば少しずつ体が外へと向いていきます。日課でもある休日散歩をしていると軒下にツバメの巣がありました。ツバメが出たり入ったりと忙しく飛んでいるようすをみると春になったんだな、と思います。多摩川では多くのスポー好きがボールを追いかけていました。やっぱり若い人の動きはぼくの比ではありません。どこまでも飛んでいくボールを追いかけてはスポーツを楽しんでいました。身も心もちょっとは冬の時よりも軽くなったように感じる季節ですかね。そして、町中では市議会選挙の「最後のお願い」の連呼が多く聞こえていました。小さな町ですから、散歩の歩く道筋には次々に宣伝カーにあう休日でした。みんな、必死なのでしょうね。だれもが失業者にはなりたくありませんから。

【政治はいったいどこから来て、どこへいくのでしょうか】
 町角にこだまする候補者の「最後のお願い」という言葉をきく1週間でした。自分が住んでいる町にどんな政治家がいるのか理解できる週でもありました。40人ほどの候補者がところ狭しと宣伝カーでやってきては、これまでの自慢のようなことばかりを訴えていました。地方議会の選挙でっすから、なかなか新聞のニュースになりません。こんな時くらいしかなじみがないのも正直なところです。国会議員のニュースは新聞でよく読みますが、地方議会まではニュースにならないことが現実です。18歳から選挙権が持てたとしても、実際のところそれほど「政治」という言葉は教科書の中くらいにしか出てこないのでは思います。
 それでも自分たちの住んでいる町の環境や福祉などを決めているのはその土地の議会なのです。この時ばかりは、無視することもできません。本当は、地方自治という言葉が生かされれば、沖縄の基地問題などもいい方向にむいていくのでしょうね。小さくても、「住んでいる町は住んでいる人が決める」ということがいちばんなのでは思います。

 「政治っていったいなんだ?」と、(この時期くらい)思うことがあります。そして浮かぶのは『猿の惑星』というSF映画です。宇宙船になった主人公が迷って辿りついた惑星。そこでは猿たちが議会をつくり惑星の将来について多くを語っていました。そして、多数派をにぎる議員たちの政治をみみることができます。自分たちの都合のいいようにするために過去を隠す議員(権力者)。そして、本当に目指さなければいけない政治を作ろうとする議員(少数派)の物語がありました。その攻防が人間社会そのものにも見えました。まだあります。

 『スミス都へ行く』という映画です。議員の突然の死によって、その代理として議会に送られて行ったスミス。政治の世界はまったくの素人だった彼が、少年たちのために法案を作りそれを提出したのですが、その法案が取り上げるべき少年のためのキャンプ場にはすでにダム計画が持ち上がっていたのでした。それも、資本家に牛耳られた議員も多数、自分の保身のために賛成側にまわっていたのでした。そのやり方の異議をとなえたスミスは、あらゆる手段によって妨害されます。新聞社も抱き込んだ資本家のやりたい放題によってうちのめされます。それも、資本家がスミス議員はキャンプ計画によって私利私欲のためにやられたというでっち上げによってです。しかし、スミスは、政治は本当に必要としている人のためにあるはずだと自分の汚名をはらそうと議会で自分の政治信条を延々と語ります。「辞めるべき私ではない」という信条をもって徹夜をして弁明します。政治は一人のためにあるのではない・・・。当たり前のことを当たり前として通ることが大事ではないかということを語ります。この映画をみていると、本当に政治が必要としているのは一握りのひとたちではないということがよくわかります。そういう政治が、この国に希望を育てるのだということを確信をもって伝えます。

 要は住民から集めた税金の使い方について議論するのが「政治」でもあるように見えます。そのお金がどう使われるのか、誰がどのように使うのか、そしてそれが誰のためになるのか・・・。その中で議論されることが、政治のモラルであり、人びとのルールとも言えるのではないのしょうか。それも、誰もが将来に希望が持てることが大事です。

 それぞれの利益の代表と政治家が一緒になって政治を行うのが国会でしょうか。ぼくにとっていちばん注目しているものでは、例えば、年金を減らす政治が賛成できません。生活が危うくなるからです。そうしたら、今度は政治は「働き方改革」というのをつくって、「年金を減らす分どこかで働きなさい」という政策が出てきました。これでは、今まで期待していた政治ではないのではと思います。減らす部分を間違えているとも思えます。どこまで人をばかにしている議会なのかとも思います。(個人的に思いますが・・・)

 小さな町の選挙とあなどってはいけません。これが、国の政治の基本の形をつくっていることが現実だからです。とくに今の政権には強く言いたいところです。労働力を確保するために、少子高齢化がすべての理由になっているような政治ではこの先、もっと暮らしずらくなっていくのことでしょうかね。政治を仕事にする人たちには、もっと働きやすい環境をつくってほしいものです。非正規だとか正規だとかのない仕組みが基本にあってほしい社会を目指してほしいものです。

 
 
 まちにまった10連休・・・、と喜んでいる人がきっと多いのでしょうか。でも、正直なところ素直に喜べないのが現実といったところでしょうかね。職場では連日「仕事の前倒し」がある。これには、まいった。ぼくの老体にはきつい日々が待っていた。なにが一番きついかといえば時間に追われることだろうか。ただでさえスピード・効率化とは無縁の異動になってやっていた仕事がハイスピードを要求され、追われる日々になっているかのようになっていた。

 さらに、「後期高齢者雇用促進法」で65歳まで再雇用されている人はまだいい。65歳以上で働いているアルバイトは10連休をどうするのだろうか。他人事ではない。身じかにそいう人もいる。

 5年ほど前、4月は千代田区で働いていた。会社の帰り道に新入社員らしき若者の姿を多く見かけたものでした。楽しそうでもあり、大変そうでもあったあの光景は今の場所では見なくなった。見るのは、派遣社員の団体や非正規社員であろう人たちだ。働くことには変わりはないのだろうが、正規と非正規では生活基盤の安定感がちがうことは、これまでのニュースなので多く語られてきたところだろう。それでも、非正規社員が増え続けるのはいったい何の理由があるのだろうか。

 これまで、なんにつけ「価値観の多様化」ということばを多くいわれてきた。それでは正社員、非正規社員の選択もあるだろうと考えていた。それは、それでよかった。ところが、社内の従業員が正規社員より非正規社員の数が多くなってから、「なんか変だ・・・」と思うようになった。会社内の事情があるにせよ、ちゃんとしている会社にしたければ正規社員としてあげないといけいなのではないかと思った。それは、仕事に対するモチベーションがちがうだろうし、事故や病気になった場合、会社の対応も違うのだろう。それだけ、会社は従業員に対する責任は思いだろうし、簡単に解雇できなくなるはずだと考えている。

 これで得をするのは大手派遣会社だろうなあ・・・と思う。派遣会社が儲かって派遣社員の生活が苦しいのはオカシくないかと思う。今後は外国人がたくさん働きにくる。この外国人は一度派遣会社に登録するのだろうか。以前、派遣の人と話をしたことがある。「交通費で電車代はでるがバス代が出ない」と言っていたことを思い出した。「働き方改革」は結局はどこかの野党政治家がこれは「働かせ方改革」で「企業がいちばん働かせやすい」となっていくのではないかと思った。


 4月が始まったと思いきや、5月の連休に突き進んいるような日々です。
 巷では新しいスーツを着込んだネクタイ姿の新入社員を団体を多く見る季節なのだろうか。ところ変わればではで、今の会社でははスーツ姿の若者より作業服をきた人を多くみかけるようになった。ビジネス街ではなく工場や倉庫が多い地域だからだろう。トラックがばかりが目立つ道路でもある。

 新聞を読んでいたら、朝日新聞の『天声人語』の記事に「初任給」のコラムが載っていた。そういえば、40年くらい前にぼくも「初任給」をもらったのだろう。コラムでは「初任給」を誰のために使いましたか、という内容だった。ぼくの場合、誰のためではなく自分のためにだけ使っていたのだろうと思う。東京で独身で働きに出ていくようになって食べることだけが楽しい日々でもあった。また、会社に入社してたくさんの人にめぐり会ったことが楽しかった。。職場もよく会話もはずんでいた(今とはぜんぜんちがうなあ)。

 新しい生活をしていくことがこれほど楽しいということを自覚させてくれたのも会社だったのだろう。そんなことをきっと感じていたのでしょう。いまとなっては、一緒に働いていた人もほとんどいなくなりました。亡くなった人もいます。
 労働組組合でも地域の集まりでもそれぞれの意見があったのだろうと思います。
 ときは流れて、今の人たちとは労働組合のことも職場のこともほとんど話さなくなりました。これでいいのだろうかと思いつつ日々を送っています。
 
 「平成」もカウントダウンの時期です。ぼくにとって、平成の時代に働いたのがいちばん長かったのだろう。とてもいい時代とはいえないが、若さがこれを補っていたのだろうか、「令和」となるであろう5月のことを考えるといまよりはずっとましだったかもしれない。なにがよかったかといえば、「どうにか働いていれば生活できる」という気持ちを持たせて働かせてくれた時代だった思います。そして、これからは「働けど働けどわが暮らし楽になたず」のという気がします。それは、きっと若者が元気になっていないからだろうと思います。忖度ではなく、一緒に痛みを分け合う仲間がいないからでしょうか・・・。それを作る環境もなくなっていく時代になりつつあるからでしょうか。
 また明日から連休前の追い込みが始まります。とはいえ、結局出来る範囲はきまっています。あとは、どうにかなるのでしょうか。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

4月半ばですが、寒さもあります。

2019年04月14日 | Weblog

こんにちは。

 はやいもので4月も半ばです。桜は寒いせいもあるせいでしょうか。今日くらいまではみごろでしょう。あとはお天気でかでしょうか。休日によく行く多摩川の散歩道の桜はまだまだ見ごろでした。そして、人がたくさん出かけていました。天気のいい日は、寒くもなく暑くもなく、この時期がいちばんいいのかもしれませんね。ツバメの巣作りが始まってもいました。足元にはテントウムシなども動き始めていました。ときどき寒さはもどりますが、自然は少しずつ春本番にむかっているように見えます。この時期は生命の躍動感をつくずく目にすることもできます

 さて今週はどんな週だったでしょうか。気になるニュースを2つ。

自民党政治家・桜田義孝五輪相が辞任(東京/4/11)

 桜田義孝五輪相(69)=衆院千葉8区は10夜、閣僚を辞任した。東日本大震災の被災地を地盤とする自民党衆院議員パーティーで議員を「復興以上に大事」と述べるなど、不適切な発言が相次いだ責任を取る必要があると判断した。道路整備を巡る「忖度」発言で事実上更迭された塚田一郎元国土交通副大臣に続く政権メンバーの辞任。21日投開票の衆院大阪12区、沖縄3区両候補補欠選挙を控える安倍政権に打撃となる。後任には鈴木俊一元五輪相(衆院岩手2区選出)を充てる方針だ(4月11日東京新聞)。

 これまで、大臣の発言はたた問題にされてきました。それでも。今回の桜田五輪相のような人はけっこういたのだろうと思います。そしてどれも、その発言に責任をもっている人だから問題になることを自覚していないことです。昨年では、五輪経費を1500億円のところ「1500円」と間違えたり、五輪選手候補だった水泳の池江瑠璃花子選手の病気では「がっかりした」といっていた。参院内閣委での宮城県石巻(いしのまき)を「いしまき」と連発。さして道路整備での議員を「復興以上に大事」ととどめをさした発言もあった。

 どうしてこうなってしまったのだろうか・・・と頭をかかえるほど。それでも大臣辞職で終わろうとしている。まさに「トカゲのシッポ切り」状態だろうなあ。問題の本質は一議員の問題はなく、今の政権の問題があるのではないかと思うのは当然だろう。塚田一郎国土交通副大臣では、自分たちの利益誘導優先の発言をしていました。それを「忖度」だと言ってもいました。これは、「忖度」でもなく、政権の暴走している証拠ではないのだろうかと思えてしまう。こういうことが、「当たり前」になってしまいようなことが一番不安を覚えます。こんなことが常態化すれば「こんなものだろう」と考えるようになることが怖いです。そして、こんな議員に税金を納めていることに不満を覚えますよ。野党はこの発言の「元凶は安倍政権にある」ということで首相の任命責任を問いたいとしています。まさに、権力の長期政権はくさるということをつくずく思う出来事です。

漫才師・ケーシー高峰さん死去(東京/4/11)

「医事漫談」で知られたタレントのケーシー高峰(本名・門脇貞夫)さんが8日午後3時30分ごろ、肺気腫のため福島県いわき市の病院で死去した。85歳だった。山形県出身。漫才家として活動後、1968年に米医療ドラマ「ベン・ケーシー」と憧れの高峰秀子さんにちなんだ現在の芸名に改め、漫談家に。日本大医学部で学んだ経験を基に、聴診器を持った白衣姿で医学情報を楽しく語る医事漫談で人気を博し、「グラッチェ」「セニョール」などのせりふも流行語となった(東京/4/11)

 ぼくが好きな漫才師は、「昭和ノイル・コイル」「てんぷくトリオ」「いくよくるよ」「サンドイッタマン」「中川家」「いとしこいし」などである。それぞれ、亡くなったりして今は聞けけない人ばかりになってきた。唯一お正月番組で一年に一度見ることもあるくらいだろうか・・・。ほとんど昭和の人たちだ。みんな子ども頃テレビをみていて笑っていた人たちだ。なにがそんなに人をいきつけるのかを深く考えたことはなかったが、きっとみんな時事ネタが少し入っていたりして、政治を笑ってしまって覚えさせてくれた人たちだったのではないかと思える。

 そういえば、最近の漫才師は世の中の、とくに政治のネタが少なくなったような気がする。それどこころか漫才師で活躍していない人も多くなったように思う。漫才より出演料がいいのだろう。漫才師も生活があるから仕方のないことかもしれない。芸の世界を語った世阿弥の「風姿花伝・花伝書」という本がある。そこでは、芸人がいかに日々の芸に打ち込む覚悟を語っている。「一日休めば・・・、二日休めば・・・」ということを思い出す。要は、日々精進して芸を学ぶということなのだろう。そんなことを思うと、やはり大きな笑いの裏には芸の練習がきっとあるのだろう思う。そんななかケーシー高峰んさんの医事漫談は笑った。毎日の病気予防として、こういう人の話を聞いて、おおいに笑うことが大事だろ思います。生きている芸人はもっと笑える芸をと思う。

【野山に身をおけば、みえてくることもある】
この季節、生物にとっては活発な行動しやすい時期だと思う。川に眼をやれば魚は産卵の季節だ浅瀬に集まってくる。鳥は鳴き声を競っている。花はいっせいに咲き花粉を運んでもらうようできるだけ目立っているよだ。そして、人間はそんな野性を求めているように外へ寝ころぶ姿も多くみるようになた季節となっている。そしてアウトドアーを楽しみ人たちも多く見る。
 アウトドアーのいいところは、外に身をおくことで少しの不便さを経験することだろう。その不便さ補うための行動を身につけることも大事なことだと思える。例えば、火を起こすために、いつもと違う形で火をつけてみよかとか、いつもは焼いて食べているお肉をちがうやり方で食べてみるとか、新しい選択肢を見つけることができることもいいところだと思う。ぼくは、山歩きをして忘れ物をすることが多い(本当は忘れないのがいいのだが)とき、その忘れ物とおなじことの出来る道具を自然のなかでさがしてみることが楽しかったりする。それに、野グソもいいかもしれない(これが気持ちがいいのだ)。ちょっと不謹慎だがこれも大事な経験であるのだと思う。それをやるかやらないかは、あるいはガマンしてしまうかはそれぞれの選択肢だろう。
 でも、ウォッシュレットのあるトイレばかりがトイレではないし、昔は自然を工夫して共存していたのだろうと思う。(参考:『くう・ねる・のぐそ』伊沢正名著)

 全部できなくても、それを選択する一歩手前の行動を探す・・・。そんな生き方もさがす経験のできる場所を探すのも楽しいと思います。

 

 先週は友人のお通夜、告別式と流れるように終わった週でもあった。ぼくの日々でもある再雇用制度という身分で仕事が始まった。お客のクレームやら、都合やら、職場のイマヤミやら、という日常が始まった。そして、仕事の中に少しずつ寂寥感を小さくしていった。忘れることができない思い出やケンカの数々も日々小さくなっていくようだ。そんなか、ときどき訪れる寂しさもあることは事実なのだろう。ぼくと同じ共通点をもつ人がまた一人いなくなった・・・ということが残っていく。

 齢を重ねてくるとどこが悪いというわけでもなく体の節々が痛み出していく。あるときは朝起きたときにとくに感じる痛みである。いろいろな人の老いをきくと、老いるということの第一は何らかの痛みと付きあう人生であるらしい。この痛みが老いに拍車をかけるように動きがにぶっていく原因であるらしい。(事実、階段の昇り降りはいそぐことさえあきらめている)

 とにかく、人の一生はいつかは終わるということは消せない事実だということだ。それでも生きたいという望みは持ちちつつ、明日がまた始まるだけだせめて、ひとときの楽しみもみつけながらさらに多くの苦労を試練として生きていくほかあるまいなあーと思う。明日は明日の風に吹かれて、今日は今日の風に吹かれながら「生老病死」という言葉が現実的になっていくことを体は教えてくれるだろう

 老いてずるさばかり身につけてきあただけではない自分を考えてまた明日から始めるしかないように思う。生きてる間は生活することを考え、行動していくしかないのだろう。身近の人の死が言葉にならずとも身をもって教えてくれた日々を思い出しながらいこう。

  町行く選挙宣伝の広報車の声が聞こえはじまた日曜日だった。今日、市議選の告示日だったようだ。今年の選挙で目立っているのは立候補者が少ないということが報道されたいた。事実「無投票」という地域もあるという。候補者にとっては正直なところよかったと思っているのだろうか。それにしても、他人ごとのような選挙は、いずれ投票の付けは自分にかえってくることなのだといえる。いちばん、身近なのは今の国会(国政)だろうか。選んだ候補者が「辞任」してしまう結果になるのは、選んだ人にとっては悲しい出来事だろう。そして、そのつけは選んだ人以外にも及ぶ・・・というのがいちばん強烈に残る。ぼくは、今の政権与党のやりかたは、なんにつけ答えになっていない審議にはあ然とすることが多い。そして、有権者のことは置き去りにされて、国会議員の保身ばかりにはしっている政治がまかりとおる時代になっているようだ

 まあー軍事独裁政権とはなっていないということはいいが、それにしてもいまは独裁政権には変わりはないように見える。公明党も変わってしまった。今は政権にすがりついているだけの政党になってしまった感がある。そうぼくには見える。自民党と同じなのは宗教と政治が根っこで結びついているように見えることだ。

 さて、ゴーレウデンウイークに突き進む日々が始まる。10連休のおかげで仕事がなんでもツメツメになっている。あまりうれしくもない休みだなーと感じている。再雇用も終わりアルバイトの人は囲まったなー・・・と言っていた。休みが欲しいが、ありすぎてもねえー。4月から「働き方改革」ということがいわれいる。いわれだしたと思いきや「残業代未払い企業」労基署より「是正勧告」を受けていた・・という新聞記事が多く読んだ。なんてえーことはない、ちっとも企業は労働者のための働き方は考えず「働かせ方改革」だという言葉が頭をよぎった。人口減少で労働力が少なくなって外国人を受け入れるために「入管法」もかえたけれど、外国人と一緒に働く職場の方はいっこうにかわろうとしていないじゃなのだろうか。

 今週はこの辺で失礼します。あーまた体が痛い。今週も老いを感じながらはじめるだけだ。

読んでくれた人、ありがとうございました


桜が満開のなか、散り際のそれぞれを思う。

2019年04月07日 | Weblog
 
 桜の花が咲き始めてお花見のシーズンたけなわというところです。それでも。いまだに朝夕冷え込む日もあります。桜の花の下にはシートをひいた花見の人たちが集まっています。
 毎年のこととはいえ、この日を一年でいちばん楽しみにしている人もいるのでしょう。それは、それで楽しいことではないかと思います。ただ、年々、一緒に花見をする人が減っていくことは、風に吹かれて花びら散っていくように人生という中で自分の散り際があるのだろうと思うと寂しさもありますね。今年はどうでしょうか…。
 
『弔電』
見知らぬ、未登録の数字
危うさをおぼえていた
<もしもし○○ですが、>
あー。先輩…
若い声が携帯をゆるがしていた
<今日はこの時期しごとで行けないなー>
<・・・・・・・・・・・・?>
<弔電を打っておくよ>
声の響きで携帯の揺れる
会話が終わり形態を静かに置いた
あの若さで・・・逝ってしまうなんて
<バカダナー。オオバカダヨー>という声に
悔しさが伝わってきそうだった

小さな水漏れのおとが<ポトリ>と鳴った
ぼくは通夜の闇を考えていた
人は死んだら「天国」なんかにいきはしない
ずーっといくつまでも生きていた「死」を思い出すだけ
そして後悔だけ
いくらたくさんの思いでの人たちが来ても
うまい味も、声の音も、あやしいにおいもなくなっていく
阿武隈のふもとからいっしょに歩きたかった
静かに風に消されるような静かな足音で
天を友と呼べるような心持になって歩きはじめたかった

またポトリと水漏れの音が聞こえた
<うまいものをまた食べにいこうや・・・>
声もきこえてきたように思えた
 
 
【温かさは人も軽くしてくれますね・・・】
 春になりました。行く人も軽装で動きやすくなってようになりました。
 いつものように多摩川に散歩していても人の往来が急に多くなったことに気づきます。自転車で、あるいはベビーカーと一緒に、杖と一緒に・・・。それぞれの動きやすさと一緒に動き始めているようです。そして花々もたくさん目にすることもできるとあれば、人の往来も多くなってくるのは当然でしょうか。
 寒い月日を忘れ、温かさを満喫する時期なのでしょう。
 行動範囲もひろがります。これから少しの期間、こんな光景をみることができることは四季を楽しむ絶好のチャンスなのです。
 さて、どんな楽しみ方ができるのでしょうか。
 老体にあったものを探すこともこれからの楽しみ方なのではないのでしょうか。
 
 これまで入退院をくりかえしていた知人が今月亡くなった。
 とうとう逝ってしまったか・・・と思う。いつも見舞いにいっても語ることもなかった。毎月、できたての月刊誌を届けていた。読んだ感想はきいたことがなかった。いつも帰り際に、「お元気で」とか「よくなってうまいもの食いにいこうな」となぜ言えなかったのだろう、ということだった。自己嫌悪になって電車に乗り込む日々だったように思う。
 
 死は生あるものに訪れにるだろう。それがぼくであってもおかしくないことだろう。
 人の死は順番にいけば仕方がないことだ、と忘れられていくのだろうと思う。しずれ「生老病死」という具合でいくのだろう。知人の場合は病死であった。もうちょっと生きていられたかもしれないと後悔ばかりつづくのが現実だ。
 思い起こせば、知人と一緒の会社に勤めて40年以上一緒にいた。新人の時代から部所が異なったものの同じ屋根のしたで働いてきたときもあった。そして一緒に飲みにいったり、若いときは山登りにいった。そんなことを思うと、病気になることさえ信じられないことだっただが・・・。
 
 人の一生はどこでどう転ぶかはわからない。
 彼から受け継いだものは何だったのだろうかと思う。定年退職後、よくここまでもったなあーという気持ちしか残ってはいなかった。それでも、どうにかここまでこられたのは知人の何らかのものを受け継いでいたからかもしれない。
 そう思いながら、これから契約社員もやっていくしかないのだろう。ある日突然、こういうことだったのかなー、と思えればいい。
 
 
 やっと春らしくなりました。
 春らしくなったと思ったら、突然の訃報にあわてていた週でした。
 中国、東北、甲信越、東北・・・と彼のこれまでの親しい友人に連絡先を見つけてはファックスを送っていました。ついには連絡先もみつからない人もでてくることもありました。そえぞれの生活をあり、仕事もあり・・・などで。突然で連絡先でもあわてていたようでした。それでも、連絡がおわり、ふとこんなにいるのには個人なりの良さがあったのだろうと思えた週でした。
 とはいえ、それが何だったのかは、いまだに分からないような日でした。
 
また忙しくなる日々です。
 来週は忙しそうです。選挙もあるでしょうし、悩む4月です。
 すこしずつもとに戻すペースをつくっていくしかないようです。
 読んでくれた人、ありがとうございました。