日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

きんきんに寒い日々です

2018年01月28日 | Weblog

 こんにちは。
 今週は雪もふり、その後もひじょうに寒い日が続いていました。毎日が寒さとのつきあいが続いています。寒い日ばかりだと、温かい所や食事に身を寄せたい日々でもあります。

 そんななか雪に弱い首都圏は、電車は遅れるや乗れた電車は超満員になるやの日々窮屈な日々が続いてもいました。電車内は「おしくらまんじゅう」状態で体が痛いと感じる日々でもありました。それでも、それぞれの地域で住んでいる人たちも雪の怖さをできるだけ防ぐために、雪かきなどの様子もみられました。驚いたことに私の働く板橋区での雪かきは不十分で歩くことさえ不安でしたが、出向先の中央区では「雪が降ったのか」と思えるほどきれいに雪かきができていました。これも、そこに住む人たちの自然と暮らす気持ちがあらわれているような気がしました。

 自然と暮らすと(つきあう)といえば、群馬県の草津白根山が噴火もしました。噴石も多く飛んでスキーにきていた人たちや訓練中の自衛隊員のけが人を出しました。なかには、亡くなれた自衛隊員もいました。過酷な自然とのつきあい方はどうだったのでしょうか。
 今週は、日本は火山大国と地震大国ということを肝にめいじた週でもありました。


 2018年もはじまりました。
 さーて、今年はどんな本にめぐりあうのだろうかと楽しみにしているところでした。ところが、現実は給料はさがり、小遣いは下がり…という日々でもあります。そして、本は高い、というところです。本当は本を買って手元において再読をと思ってみたものの再読するような時間はこれかはだんだんなくなっていくような気がしました。

 今回紹介した本は、図書館で借りてきた本です。週に一度散歩のついでによる図書館でみつけたものです。図書館には、新刊本はなかなか読めませんが、時間をかけてじっくりさがすといい本がいっぱいあります(あたりまえですが…)。ただ、その場所にいく機会がないとできないということです。
 そして、どうしても再読したい本は古本屋やアマゾンでみて安い本を買ったりします。そんな出会いが大好きでもあります。そんな繰り返しの日々です。これからは、ますますこういう状態になってくるのでしょう。
 ちなみに、今月から「葉山嘉樹」という作家の本を読み始めています。ところが、この作家の本はほとんどが絶版でした。古本をみつけては買っています(一冊が高い)。だから、2ヵ月に一冊という買い方にしています。

 本は読まなくても死にません。これは事実です。でも、せっかく生きているのだから、他の人の生きている姿を見たり聞いたりしていくことがより楽しいものにしてくれるのだろうと思っています。しかし、その場所、その人に会うことは不可能です。その一端はできます。それが本だと思います。
……そんなふうに思いつつ、今年も『今月の本棚』をはじめていきたいと思います。



▼Pⅺ)一九八〇年代から現在に至るこれからの発展を振返るとがんの状は変わってきた。がんは、一般常識で治療不能と考えられていた不吉な病気から、たくさんの人がその病気を抱えながら生きる、それはしばしば長い期間であるような慢性疾患に変わってきた。慢性疾患として病気を抱える人々、そしてまた病気のあとを生きている人々に関わる医療的、社会的問題を扱うために長期的な戦略を計画することが重要になった。標準治療をして、適切なフォローアップと長期的ながんのケアについて、医師、看護師その他の人々を訓練志士、サイバーシップ・ケアプランを実行することが、このがんサイバーシップの新しい現実に伴ってもたされた課題である。

▼P105)身体と同じくらい、心も不確実なものになって、さまざまな点で予想がつかなくなった。いつも、自分のささいな問題は無視して、身体ついても将来についてもポジティブに考えようと自分に言い聞かせてた。たまたまその効果があった。しかし、ほとんどはその効果もなく、延長した化学療法のコースを完了したあとでさえ、自分の健康状態について悲観しないでいるのは困難だった。ほんのささいなことが突然私をつまずかせた。~時間が経つと消えてしまったことが、幸いにも、他の痛みが精神的な混乱につながることは少ないことがわかったが、けっして予想できなかった。

▼P165)私が、一番具合が悪くて絶望したとき、これらのありきたりな励ましは私を激怒させた。私はなりたくて病気になったわけではない。私にどんな短所があったって、それを「改善する」ためにがんになる必要があるとは思わなかった。時の経過とともに私の感情は成熟してきた。


 今年初めて読んだ本は『がんサバイバー』とう本です。
 加齢により悲しいことですが病気がそんなに遠くにあることではないことがつくづく感じた一冊でもありました。事実、私の職場でも何人かの人が、がんで入院している現実もあります。高齢で病気をしたら、まず「疑え」という気持ちがあることは事実でもあります。

 いったい「がん」とは何ものなのでしょうか。そんな疑問がながい間ありました。若いころは、遠い存在としてあったようでしたが、定年が終わり再雇用となってからは、ほとんど次にかかる病気はがんではないかと思うようになりました。

 今回読んだ『がんサバイバー』という本は、アメリカの若い医師が偶然に自分の体の健康診断をした結果、がんが見つかってからの手記です。
 それまでの、なんの病気もしていなかったし、通常は健康そのもので、がんが発見されるまでは身体には痛みも症状もなかったようです。しかし、がんが発見されてから家族や友達などを巻き込み生活が変わっていきます。
 手術もがんによって破壊された体の部分を繰り返します。

 それでも生きている。人間のしぶとさのような中で、それを支えている人たちとの関係も病気に対する修復を繰り返します。
 「がん」とは、とても怖い病気である一方で、人の生命力をためしているようながんこな病気でもあるものなのでしょう。それでも、万が一罹ってしまったら、いったい人はなにを対抗手段としていくのでしょうか。
 今回の『がんサバイバー』は、そんな問いをしているような本でした。
 病気のかかってしまったことは悲しいことですが、人は悲しいばかりでは生きていけないことも肝にめいじているような感想です。

※ちなみにこのがんを描いた小説『白い巨塔』山崎豊子があります。がんそのものより、医療ミスを扱った裁判モノです。映画にもなっています。この本は40年ほど前に読んでいました。



「私の本当の人生はどこにあるのか。今日まで生きてきた、今も生きている現実の時間は仮のものにすぎず、映画館の暗がりで憧憬に息をつめながらスクリーンに見入っている時間、その中にいる自分こそが真の自分ではないのか。……フランス語に《それはシネマだ》という表現がある。作りごと、夢みたいな話だという意味である。シネマのように――そのように作りものの、夢のような人生。シネマとしての人生を生き、人生としてのシネマをみつづける。」(本文より)
北九州の港町に生まれ育った少年が、初めて暮らしたパリの地。街を往きかう若い男女、テーブルに座ったまま凝っと宙を見つめる老人、そこで著者がみたのは孤独と連帯のあいだにゆれる人間のドラマだった。老年にさしかかった今も、映画館通いは密かな愉しみ。『みんな元気』『愛に関する短いフィルム』『数に溺れて』『セックスと嘘とビデオテープ』『童年往事』『ひと月の夏』……京都、大坂、パリでみつづけた数々の作品を、生と死に想いを馳せながら静かにやわらかく語る本書は、私的映画エッセーのひとつの極致であるとともに、このすぐれた短編作家の精髄の披瀝である。【紹介文抜粋より】



 私は、映画は年に数本くらいしかみにいくことがない。
 『シネマのある風景』を読むと、映画はほんとうに身近な話題を私たちに提供しているものだなとうことを思う。そう思うと、一つの映画をみて日々の生活をふり返ってみれば、映画と同じような悲しみや怒りを感じいるのだろう。

 昨年、みた映画、ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』という映画。
 ストーリーは、イギリス北東部ニューカッスルで大工として働く59歳のダニエル・ブレイクは、心臓の病を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり必要な援助を受けることが出来ない。悪戦苦闘するダニエルだったが、シングルマザーのケイティと二人の子供の家族を助けたことから、交流が生まれる。貧しいなかでも、寄り添い合い絆を深めていくダニエルとケイティたち。しかし、厳しい現実が彼らを次第に追いつめていく…(抜粋)

 自分には合わない社会と悪戦苦闘するダニエルは、一生懸命に生きる。それも他人の手をかりて。その関係がないよりも大切に描かれた映画だったように思う。
 最近は、DVDなどで気軽にみることができるご時世でもある。家族でみるのもいいし、一人で予定を組んで映画館でもみるのもいい。それでも、見終わってふりかえればきっと、同じようなシーンがどこあにあるのだろう。それはどうしてなのかということを問いつめてみればまさに『シネマのある風景』のような文章ができあがるのかもしれない。ただ、日々の追われるような時間のなかで暮らしていると、じっと立ち止まって考えるような時間が削られ、だれかの儲け話のなかにいることが多い。

 映画のなかの役者のひとつひとつのセリフのなかに、ある時間、ある場所を思い出せるようなシーンがあるようでもある。それを、つくることが大事なような気がする。

 映画の話ではよく、「映画は時代を映す鏡」だという言葉がある。(その時代の文化や歴史を語っている)。そして、映画は最大のプロパガンダ(宣伝効果)をもっているともいう。そんな歴史のなかでつくられてきた映画を感じながら、自分の指定席をつくりたいものだと思う。



 寒さもほんものになってきました。
 寒い中でも元気にとびまわっていたいと思っても、「寄る年波にはかてない」状態です。まずは体を動かして体を温めてから…という毎日でもあります。そして今月も終わりです。はやいですね。
 1月は、幕開けから人の死に直面し別れた月でもありました。年が年ですから、身近な人たちもそして自分も、そお遠い話ではないのだということがわかります。仕事ではだんだん、若者とは距離がひろがっていくような日でもあります。それは仕方のないことなのでしょう。ときどき、私たちが先頭になってやれることはいったいなんだろうかと思うことがあります。
 きっと、いかに「終末」をつくれるかということでしょうか…。自然とそんな話には耳を傾けません。それが正常でしょうかね。

 来週は「再雇用の契約」があります。内容は前年とまったく同じです。ところが給料だけは下がるのですが(なんかおかしい…ふつう上がるでしょうね)。年金などは国が法律で決めてしまっているのので、政権が変わるとかしないとどうにもなりません。労働条件は、それぞれの職場の状態にあったものでなくてはなりません。そう考えると、その条件をつくるのは経営側でもあり私たち従業員です。その話し合いで決めるころができます。
 さて、どうなることかね。

 今週はこの辺で失礼します。
 インフルエンザが流行しているとニュースでも聞いています。くれぐれもその流行には乗らないようにしてください。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

大寒…身も心も凍るのは

2018年01月21日 | Weblog

 こんにちは。
 寒くなってきました。一日ずっと温かいところでいたい日々です。
 外へでれば、息も白く、寒さが目にみえるめやすとなっているようです。こんな寒さのなかでも水仙や蝋梅はけなげに咲いて、香りまでだして寒さを楽しませてくれるようです。
 もうちょっとすると韓国で冬季五輪が始まるかと思うと、こっちも冬の楽しみでもあります。冬季はメダルは期待できそうもないけれど、寒さのなかを白い息に包まれながら競技にけんめいな選手たちはみる人を楽しませてくれると思うと待ち遠しい思いでいます。

 さて今週は、どんなことがあったのでしょうか。今回は、新聞記事ではなく、ひごろいちばん世話になっているテレビについて気になることがありました。


 昨年のくれから暇をみつけてはテレビを見るたびに思うのは、最近テレビ番組が「つまらなく」なってきたように見えた。それは、お笑いタレントや俳優の出るクイズ番組が多く、少しもおもしろくない。さらに、私たち夫婦がいつも楽しみにしているサスペンスが番組が少なくなったようにも思える。さらには落ち着いてみるべき時の番組がなくなってきていているようにもみうけられるのではないかと思う。とくに最悪と思えるのは、日曜の朝のテレビ朝日のサスペンス番組。内容はいいが、放送する時間帯が落ち着かない時間である。
 妻とも「なぜ、日曜にのこの時間なのだろうと…」といぶかしがっていました。そんな中で、これはと思う番組もある。それがNHKで放送している『奇跡のレッスン』という番組。
たとえば、奇跡のレッスン「ラグビー編~エディー・ジョーンズ~」

「奇跡のレッスン」、今回のテーマは、「ラグビー」。「最強コーチ」は、W杯で日本代表を指揮し、南アフリカを破った、あのエディー・ジョーンズさんだ。現在イングランド代表監督のエディーさんは、番組史上最も短い5日で、「あの勝利が奇跡ではないことを証明する」と言う。日本一を目指す都内の高校生を指導し、最終日、格上の大学生と勝負することに…。果たしてエディーさんはどんな指導をし、どんな結末を迎えるのか?【NHK解説より】

 今回は、東京の高校生のラグビーチームのコーチをした放送。それなりに有名なラグビーチームだった。それでも、チーム内には選手になれず日々を黙々と送っている子もいる。そして、その子のが「なぜ、スタメンに選ばれないのか?」という問いについて諦めてしまっている。そこで、コーチのエディーさんはいろいろ試してみる。そして、選手の弱点を見つけてはアドバイスする。弱点を強化することが一選手のそのチームへの貢献度になる。それが強くなる一歩だと…。その子のがスタメンにでることで、また違う補欠の選手も「ぼくにもできる」と思いつつスタメンになるために工夫をしながら練習に参加していく。そのなかでそれぞれの選手同士の「リスペクト」もでてくるのだろうと思えた番組であった。
 番組のなかで、いつも補欠でった子が自分にできるプレーに自信をつくていく様子が顔の表情にはっきりと出てくるのもよかった。「目が輝いている…」というのはこういうことなのだろうと思った。

 これはいい番組だなあ、と思った。

 テレビといえば、ぼくの子どもの頃はまだ白黒だった。それも、近所の友達の家に見に行ったこともあった。自分の家にテレビがある生活なんて考えられなかった。それが、豊かになったからか、自宅でもみることができるようになった。子どもの会話は、試験の答えではなく前日テレビでみたヒーローの話だった。そして、一人に一台。とうとう自分だけのテレビが持てるようになった。そうすると、なぜだか昔ほどテレビは面白くなくなっていた。それはなぜだろう…と考えると、触発される番組が少なくなった気がした。笑っているのはタレントや俳優だけで、視聴者がおきざりにされているような気がした。それが最近のテレビ番組のような気がする。
 だから、『奇跡のレッスン』という番組がいいと思えるのは、エライ人や偉大な選手を取り上げているのではなく、足元からみた人の在り方を考えさせるからでしょう。それぞれの選手の歴史をひもとけば、どこかで出会う人によっていい選手になっていくのでしょう。その中で投げかけられたアドバイスがとてもいいと思うのが『奇跡のレッスン』のいいところなのでしょう。
 



 職場を本社に異動して見渡せば『オジサン』的存在に気がつき今日まできました。そして「いつまで働くの?」のと自問自答の日々でもありました。そうこうしていうるちに、政府が『65歳定年制』さらには『70歳定年制』をももくろんでいるような『働き方改革』などという言葉が耳にはいるようになりました。そして、身の周りから日々姿が見えなくなっていく様子を訪ねると「入院したよ」や「自宅療養だよ」…。さらには「通院で帰った」ということを聞くことも多くなったきました。ここにきて、オジサンは貴重な戦力どころか戦力離脱をして病院で休んでいるのが現実ではないかと思えた。

 定年後は病気になり戦線離脱…が現実がこれほど身近になってきたのかということを痛感した日々。
 いったい何がいけないのか、同僚と話をすれば「結局、定年後は低賃金で責任ない仕事が多く、モチベーションという言葉はなくなっている」ということだった。では、いったモチベーションを持つために何が大事なのか? それがこれから考えるテーマだろうと思えた。


大規模修繕がはじまりました…「土」の行く先は? 土に還りたし、されど土はなし
 いよいよ『大規模修繕工事』が下旬ごろから始まるようです。「もう、そんなに経ったのか…」と思っています。それを思った後に、「あと何年ローンが」と重い気持ちになります。この休日は、集合住宅建築物の共有部分の片づけをしまていました。なぜか、各部屋のベランダも共有部分なのには驚きました。ベランダに住人の所有物がたくさん置かれています。私の場合、棚や鉢植えの花や洗濯の物干しざおがあります。15年間育てや植物もあります。そして空いた植木鉢や土もたくさんありました。
 この期間を利用して、使わなくなった植木鉢や土を処分しようと片づけていて、ふと不思議に思ったことありました。植木鉢はプラスチックなのでそれなりに処分できるのですが、さて土は…と思いつつどこへ処分すべきなのだろうかと思いました。土はと地球からの贈り物です。作物を育て生物が育つなによりも大切なものでしょう。人間もいずれは土にかえっていきます。

 その土をどう処分したら…と考えてしまいました。
 東京ではゴミとして扱っていないようです(当然でしょうか)。

 調べてみたところ、少量の土であればゴミとして出せるようです。
 他には、地域によっては、「近所のホームセンターには、不要になった土の回収BOXが設置」されていたりするようです。あるいは、あるマンションではいらなくなった土だけおけるスペースがあるようです。あるいは、公園などに捨てる人もいました…等など。
 真剣に考えると「土」についてけっこう考えさせられることが多いように思います。それそのはずです。自分らの住んでいる足下には確実に土があり、生きて行くために食物も土がなければ、どんなに化学は発達したところで大切なものだと思いました。

 「土」で思いうかべる小説には長塚節という小説家に『土』という小説があります。
 茨城の農家を描いた作品です。土から育つ作物を得るのも自然環境のなかで生きる人々を描いた小説です。土に作物をつくることは、多くの人の手がかかり、それぞれの人間の思惑が肥料となってできていることをつくづく感じる作品です。
 もうひとつ、土の処分方法として思いうかべるのは映画『大脱走』
 1963年公開のアメリカ映画。監督はジョン・スタージェス。出演はスティーブ・マックイーン。ドイツの捕虜収容所にいる連合軍の集団脱走を描いた異色の戦争映画した。脱走をするために、収容上の地下にトンネルつくる。そこで出てきた土の処分方法がおもしろかったです。それぞれの、捕虜がポケットに土を入れて運動場へでたときに、穴のあいたポケットからズボンのすそをつたわせて地面にに流して捨てるシーンがありました。これは、一人ではムリですが。それでも、やる気であればできるでしょうね。
 そういえば最近、ミミズをみたことがなくなった。まだ姿を見せる季節ではないのでしょうが、昨年も土に生きるミミズを見なかったような記憶である。土の偉大な掃除屋さんです。土のよしあきはこの虫によって決まるといっても過言ではない大事な生き物です。

 それで…、私ですが土のう袋を買ってきていれました。温かくなったら何か育てようかと考えています。今、木々は冬眠の季節です。静かな様子でしっかり土から栄養を蓄えてきるころなのでしょうか。はやく温かくなるといいですね。

 「大規模修繕」は5月初旬までの予定だそうです。これにはまいっています。足場が組まれれば、直射日光はみることもできないそうです。



 寒さは雪をつれてきそうです。都会ではちょっとの雪でも大騒ぎで電車が遅れることはあたりまえのようです。そこでは、マニュアル通りというか手慣れたうんざりするほどの「〇〇のため遅れました。お客様には申し訳ありません」が聞こえてくる。それも、一日何度もきくとなると辟易する。そんなに謝るくらいなら、謝らないようにすることを考えているんか…という気にもなってくる。謝られても遅れがでないわかではない。大事なことを忘れてマニュアル通りやっていれば、事故が起きないという保証はなにもない。そんな気もした。

 1月も終わりかけています。今年はどんなことを更新していこうかと考えていますが、なかなかまとまらず週末を送っているのが現実です。
 今回、「大規模修繕」が5月ごろまであるので、その内容を追ってみました。いまのところ、まだ足場ができていないので動きもないようです。足場ができて、修繕の動きがあるのでしょう。そんなときどんな様子で考えたかを更新できればと思います。



 月曜日には雪が降っていました(上写真)。寒いわけです。
 寒さもきびしくなってきました。
 また、一週間が始まります。何かの刺激を受けて熱くいきたいところです。
 インフルエンザもはやっているようです。無理せずいきたいものです。
 今週はこんへん失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。


 

しごとも始まりました

2018年01月14日 | Weblog

 こんにちは。
 毎日寒い日がつづいています。北陸など日本海側では大雪の天気予報がいわれています。今年は、雪の多い年なのでしょうか。センター試験が実施される次期に大変なこと雪、試練でもあるのでしょうか。私の住む近所にもセンター試験の会場があり、朝早くから小さな駅にたくさんの人が降りていきます。
 寒さだけでなく、大雪の地方はこの時期が大変でしょう。いずれにせよ、この試験をこえなければ自分の一歩が踏み出せないのであれば仕方がないのでしょうか。それにしても、少子高齢化でセンター試験をやるほどがあるのでしょうかね。

 さて、今週はまだ政治や経済もスタートライン前のようでニュースもすくなかった一週間であった。その分スポーツは満開で、冬季平昌オリンピック2018の話題が多かった。また、あいかわらずの相撲界では力士だけでなく行司までもニュースになった週でもあった。そして、忘れてならないサッカーワールドカップロシア大会がせまっている。「待たぬ月日は経ち易い」などという気もする毎日ですが、どんな1月を送っているのでしょうか。


 今週わたしがいちばん気になった話題はスポーツではなく、野菜の値段、と成人式の詐欺事件でありました。
 野菜は日常の食卓に欠かせない食物だろう。それが食べられなくなってしまう生活はある意味、異常だろうなあ…と思う。体にいいし、安いし、生でもいける…との三拍子そろった食物がなくなるのは社会の異常もあるが体にも異常がきたすことになるのではないかと思います。野菜の高値の原因は気候によるものが多いというニュースがある。確かに生ものだから、前日収獲あるいは朝収獲し、午後には店頭にならんでいないとおいしくいただけないものだから大変といえば大変です。値段が高いのは気候変動が大きな影響をきたしていることは事実なのだろう。需要と供給の関係がくずれた結果の高値になているだけなら理解できるが。今年は日本海側の大雪もあるし、土からのめぐみの前途が心配になってしまったニュースだった。日常食べるものは「安い・うまい」ものがいいし、体にいいと思う。最近は、遺伝子組み換えなどで大量に生産ができるものもあるようであるが、私はそういうものは嫌いである。ただでさえ、日頃から自分の遺伝子化が変化しないようにしているのに、他からの遺伝子云々は遠慮したいのだ。


 晴れ着のレンタル・販売「はれのひ」(横浜市)が成人式の日に連絡を絶ち、東京、神奈川、茨城3都県で振袖を着られない被害者が出た。神奈川県警の被害相談では2年先の式に向けて予約金を払ったケースも。和服業界の関係者は「少子化を背景に業界が顧客を先食いしている」と指摘。(11日・毎日抜粋)

 このニュースを聞いて思い出したのは、昔のテレビ出演をしたいたデーモン閣下が中野区で成人式に参加した服装がいつものいでたち「わがはいの成人式はの服装は仕事のできる服で…」といった言葉の記憶がよみがえった。
 そう考えれば振袖で仕事をすることはめったにあるものじゃない。それが、成人式だとなぜあんなにも着飾って、さらには自分で着られないものを着ていくのだろうという疑問が残った。
 通常和服で仕事をしている人を見かけたことはない。振袖をきて仕事をしてはいけない…という法律もないのだろうが、機能性を考えたら無理だろう。それでも一生に一度、という、うたい文句もあるからだろうか…。

 それでも成人式には、振袖でいくのはいい。個々人のおしゃれをどうこういうつもりはない。問題はそれを「弱み」につけこまれ詐欺にあってしまったということだろう。それも2年前に予約するほど計画性があるのだから注文する人も、それを計画的にだます方も念いりだということはおどろいた。私にも娘がいるが、どこでどう聞いてくるのか20歳に近づいてくると、どことはなく連絡や葉書が舞いこんでくる。「こんなお店知らない」という始末。それでもやってくることは事実である。なんとも、念入りで計画的であることには感心するだけである。「生涯に一度」とは大切な一日でもあるはわかるように思う。でも一生に一度の着物は不経済だし、もったいないと思うのが本音というところだ。
 最近、病気に気になっている毎日であると、毎日の日々のなかでの行動がどれも「生涯に一度」だけ。明日はどんな「生涯に一度」があるのだろうか考える日々である。なにも成人式が「生涯に一度」とは限らないと思ったニュースだった。その生涯に泥をつけた詐欺の容疑者を考えると怒りになってしまうが、一方で成人式を迎えるも当事者も冷静な対応が大事ではないかな…と思った。他人のことは冷静に見えるが当人にとっては大変なことだろう。今後は、契約のありかたなどが問われいくのだろうか。
 とはいえ、成人された人たちにはおめでとう。よくぞ20年間生きてこられた。これからも体に気をつけていってほしいなあ…と思う。
 ちなみに私の20歳のときは、学生でアルバイトをしていました。背広も一着もないない時期でした。それを思えば、恵まれている人たちの災難でもあったのでしょうか。




 今年も、週に一度出向に行っている職場がある。
 「3カ月」がまだ続いている職場である。なぜか、落ち着く職場である。「どうしてなのだろう…」と思うことがある。おそらく「利害」関係を考えた場合、本社よりは少ないからだろう納得している。ここでは、ただ今日片づけるものに集中していける。さらに、一つのことに集中できるからだろう思える。

 ときどき「いつまで…」という気持ちがあるなか、出向先のほうが居心地がいいようになってきたように思うことがある。昨年5月に本社に異動になり仕事をはじめていましただが「何かちがう…」との違和感がありました。その理由を考えながらの一年でもありました。定年後、再雇用となり日々送る中での違和感でした。世代が違うのだろうかとか、責任の持ち方が違うからだろうかと考えているうちに終わった一年だった。

 最近は、どちらかと言えば出向先にいるほうが気持ちが楽になっているようになっています。話も多くしているのだろうと思います。そして思うことは、居心地のいい場所とは自分のことをどれだけ知ってもらうために話しているところなのだろうと思います。そう考えると、本社では、一日いて十分に会話をした記憶がないことに気づきます。
 けっこうこれでいいのではないかと自分に言いきかせています。無理をしている会話は結局のところ自分にストレスをかけるし、相手にも気を使いすぎるだろうと思いからです。今年の、私の目標としては「できる範囲でやっていこう!!」ことにしています。無理することなく、焦ることなくやれることはできればいいと思う。

 まだ今年はやっと、飛行機が離陸をはじめた状態のようで少しずつエンジンが温まりつつ、エンジン全開までもう少し時間がかかるようnなった。
 気象天候やエンジンの調子を考えながら、今年一年どうのりこえていくのか…焦らずいきたいものだ。18年目の更新、ゆっくりやっていこうと思っているところです。



 今週末は連日、用事がたてこんでいて更新はできるのかな…と思いましたがどうにか、一週間の宿題も終わったようにできました。
 本来は新年度は新企画をと考えているのですがなかなかうかびません。今年も、日々あったことを更新のネタにしていくしかないようです。
 それでは、今週はこの辺で失礼します。明日は忙しそうな予感…。まいったねえ。
 寒さもまだまだ続きます。しばらく、マスク、マフラーははなせませんね。
読んでくれた人、ありがとうございました。





2018年がはじまって…

2018年01月08日 | Weblog

 新年もはじまりました。それぞれの故郷に帰った人、旅行に行った人、受験勉強に日々送った人、と今年もいろいろな正月を送ったことだろうと思います。
 私は両親もいなくなり、帰る故郷は遠くなっています。今年は地元でいました。それでも、恒例の初詣と盆暮れの墓参りだけはやり終わった正月でした。
私は、年をとるにつれ正月は楽しいということより、寂しい気がします。それは、また一年始まったという喜びもつかのまで、一方で体の衰えを痛感する正月に気がつくからでしょうか。「おめでたい」というのは、意味がちがってきたように思える正月になってきました。それでも、世間は楽しい雰囲気いっぱいです。それはそれで大事なことですから否定はしません。
 そんな思いの正月でした。
 さて、仕事も待っていることでしょう。少しずつ体を仕事モードに戻す日々が近づいています。
 どんな一年になるのでしょうか。




「骨」
ぼくの目のまえに白く焼かれた骨
涙、楽しみ、苦しみ、雨、雪、酒、女、子ども…
すべてを経験してきた生きたあかしの骸が
白くちいさくおかれてある。
最期になにを話しておきたかったのか
小さな息の最期になにを呑込んだのか
それらのすべてが
いまは語れない
〇  〇
生きたものたちが骨をかこみ
思い思いの気持ちでシワの多くなった手に箸を持ち「橋渡し」
小さな白い灰に思い出をひろう
ひとつ、ふたつ、と
頭の中に消えてはうかぶ世の中の
あまたに流れるそれぞれの時間(とき)
あしばやにかけぬけていくその姿
わすれていく日々
あしたから骨を背負い
生きていくことだろう
〇  〇
鳥はその小さな骨を土に返し
土のなかではまだ生きて行く
そして植物が育つ
育つ植物は花を咲かせ実をつくる
実を食べ鳥は飛んでゆく
人は土に返って何を遺すのだろうか
それぞれの「こころ」に花を咲かせたのだろうか
〇  〇
ぼくの目のまえの骨がある
地べたにころんでも
またはい上がり
土に返る前にもうひと仕事
目にみえないお思い出をひとつふたつ
誰かの栄養で今日を生きている意味なのかもしれない
忘れては歩いていくこと
それが生きていることかもしれない




 新年になった。2018年。
 巷では「オメデトウゴザイマス」との言葉がよく聞かれた一週間だった。私にとっては今年から最低の年金支給開始の年となるはずだ。世間では「少ない…」という声を多く聞く日々だった。「本当にそうか」という気持ちを持ちつつ、一度年金機構事務所を訪問して自分の年金の内容を確かめたいと考えている。本当に少ないのかどうか、実際に自分の気持ちを確かめてみようと思うのだ。おそらく世間の大部分の人が言うように「少ないのだろうな」ということを確かめに行くことになるのだろう。
 そんなことを年頭に思った。そう考えたら「なにがめでたい」のだという気持ちもあるのだろう。これまでにいろいろと政治の悪さを見聞したものの実際自分の身になって考える一番の近道は、年金のことを考えるときかもしれない。なぜなら、自分の生活を支える土台の一部のことである。少ないより多い方がいいに決まっているのだからなおさらだ。
 今年初めに思うのは、悲しいかなこの現実をいかに自分に納得させて一年をすごしていくかということなのかも知れない。
 若いときは考えもしなかった「老後」がいままさに入口にきている状況なのだという理解と納得をいかに自分のなかで消化させ生きていくのかということが今年最初の思いだ。





 ことし最初の「山歩き」にいってきました。本来なら新年早々に行ってこようと思っていたのですが、身内の諸事情によりとうとう正月休みもの最後の日曜日になってしまいました。
 当日は天気はよく、風もなくゆっくり歩くのにはいい一日でした。それに、冬は寒いのですが空気が澄んでいるために遠くまで見渡せるます(写真上)。

 朝も明けぬうちに出かけ、いちばんのバスに乗り込む予定がバスの発車時間を間違えで30分ほど待たされたのがきつかったです。寒いし、ただただ並んでいるだけは体によくありません。1本遅れると30分待ちは当たり前の土地にいくことを忘れていました。さらに、冬の日の入りは早いことを考えれば少しでも早い時間に出かけてくることがベストです。(帰りに、暗くなってあわてて歩くと事故のものとですよ…)

 冬の寒さは身にこたえますが、少しずつ体を動かすうちに温まります。その時間がくるまでじっと我慢して歩いていくことが大事です。そして、その汗をうまく調節して歩くのも大事なことでしょうか。そして、かいた汗をうまくコントロールしながら頂上までめざすのんびりとした山歩きが面白いことの一つでもあります。最近は、化学繊維(速乾性)もあります。かいた汗を調節してくれます。
 この時期、山道には霜柱もあり、気を付けないあと滑ってしまう場合もあります。霜柱の山道には、土がのって一見分からないので注意して歩く必要があるでしょうか。それに、その土が歩くたびに舞い上がるので、団体の後を歩くと土ぼこりの中を歩くようになってしまうのが困ってしまう点です。(できるだけ団体様の後は歩かないようにするのが、この時期の高尾の歩き方もしれません)。

 さて、陣馬高原の展望は…。
 この日は、最高の眺めをみることができました。雪化粧をした富士山を中心に右奥に雪の南アルプス、左に丹沢などが見えました。遠くには江ノ島の海でしょうか鏡のように浮き上がって見えました。冬の空気は澄んでいるせいでしょうか遠くまで見渡すこともできました。私はこの時間がいちばんいいわかでもなくおまけのような眺望でした。私のメインは景信山まで尾根歩きです。ゆっくりと左右を眺めては、枯れ枝に止まる鳥もみることもできました。夏では木々の間から鳴く鳥の姿はみることはあまりできません。


 最近、高尾山への登山する人が増えているように思えます。10年前の今頃は、歩く人もまばらでした。それも、小さなデイパックでの山歩きした。今は、いいのか悪いのか日帰りでも本格的に格好です。こんなに大きなザックが日帰りで必要なのか思うえる人も多く見かけます。何人かであれば、頂上で温かいものを食べるので食料やコンロなどで大きくなるのでしょうか、仕方がないことです。それでも、人の歩いている人の中にも大きなザックをかついでいる人を多く見かけます。ときどき「何が入っているのかな?」と思うことがあります。人それぞれ、日帰りであろうと、人それぞれのスタンスで山歩きを楽しんでいるのでしょうね。重い荷物を背負ってゆっくり歩く人、軽い身なりで歩く人、それぞれの楽しみ方があっていいのだと思います。

 しかし、いやなこともあります。ザックは大きく本格的な登山の気持ちはけこうなのですが、それなりのマナーも必要でしょう。北アルプスなど高くて大きな山行には当然大きなザックになります。まして、乗り合いバスの中では背負ったまま乗り込んでくる人は少ないと思います。しかし、高尾山くらいだと背負ったまま乗り込んでくる猛者もいます。これは大変迷惑でザックが満員バスのなかで顔に当たったりします(私も当たってしまった)。低山とはいえ山は山です。荷物はそれぞれ持っているのですから、満員バスに乗ったら気をつかってほしいものです。そんな思いを帰りのバスの中で味わってしまうと、一日の楽しさがだいなしになってしまうこともあります。当日そんな経験をしていますと「なんとなくいやになってしまう…」ということです。
 なんかの縁で同じ山、同じバス乗り合わせた偶然です。お互いがいい一日だったと思えるものにしたいものです。単独でいくとつくづくそんな思いが残ります。団体でいくときも、お互いが注意できる関係をつくることが楽しいものになるのだと思いますが…。
 そう感じた山歩きでした。

 若いとき(30~40年前)は家族で山歩きにいったものでした。そのとき使った道具もまだ使っています。そのときの登山靴もときどき磨いてはつかっています。残ってるのは妻の登山靴です。まだきれいなのです。いまは、病気やひざ痛でそれどころではない様子です。ときどき、老夫婦の山歩きに出会いあます。のんびりとした様子を見ていると思い出したりします。

 今年も高尾山を中心に「山歩き」ができれば思います。一ヵ月に一回程度できればいいのですが。そして、そこで考えたことや様子を伝えられればいいのですがね。



 いまごろは、正月気分も抜けてくるころでしょうか。
 今年の正月は大変でした。突然の身内の不幸の連絡をもらって三が日明けのお葬式でした。「人の死は突然やってくる」とは思っていますがそれが、自分と関係の深いところで来るとは…、世の中分からないものです。それでも、ようやく終えたころは「これから」が不安になっていました。
 そんなこともあって、どこかで新年らしい一日を…と思い山歩きにいってきたのだともいえます。ゆっくり歩いて汗をかいて(働いて)、下山してまた一歩前と思える生活ができればいいものですが…。

 とはいえ、もう私にとっても「人の死」は他人事ではなくなっているように思えます。一日一日、自分なりの「終活」も必要なのでしょうか。現実、子どもよりは確実に先にいく予定なのですから。
 明日からまた、いつもと変わらぬ日々がくるのでしょうか。できれば、昨年の今頃よりも楽しいものを探していたいものです。そして、見つけていたいものです。
 2018年が始まったというのに、昨年からの片づけはそのままです。さらに今年今月末から「大規模修繕」が4カ月くらいかけて始まる予定です。その片づけもまだ…。何かとせわしない日々の始まりでした。少しずつ片づけていければと思います。

 さて、今年のブログ更新が今日「成人の日」から始まります。
 どんなことを…と考えてと思っています。今年は11年目になりました。
 ただ、今年は定年後「再雇用」から「契約社員」に65歳までなることは確実です。年金もちょっとでるようです。今年はこの「年金」に多く考えることがあるように思えます。もっと、年金のことを知らないといけないなあ、と思います。ちょっとは参考になるといいですね。

 では今年も、時間がありましたらよろしくお願いします。
 読んでくれた人、ありがとうございました。