日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

遠いロシアのワールドカップをみながら…

2018年06月24日 | Weblog

 こんにちは。
 雨が毎日に続いています。なにをするにも天気を見て…、という日々が続いています。それだけ、お天気が気になる民族だと思うと、だれかが言っていたように日本人は「農耕民族」なのだろうとつくずく思う毎日です。

 さてサッカーワールドカップは峠にかかり始めています。各予選ブロックの決勝トーナメントに進む代表チームも決まり始めています。コロンビア戦で大金星をあげた日本代表の今後を期待してしまいますね。

 今日、日本代表は深夜にH組のセネガル戦になっている。きっと、見ることもなく録画で済ましているのだろう。ワールドカップにどうしてこんなにも騒ぐのだろうと思うことがる。ある監督が「ワールドカップは戦争でもある…」というようなことを言っていった。相手の戦術、クセ、選手右利きか左かなどの特徴を徹底的に分析し、自軍を組み立てゴールにむかってチャレンジする動きがまさに戦争のようだということなのだろう。一時撤退をしながら、チャンスをつくる、一挙にアタック(カウンター攻撃)するというのが似ているのだろう。また、クラウゼヴィッツの『戦争論』まで飛び出してくるのである。

 まあ、こんな戦争ならいいだろう、と思いきや、これは前哨戦のような国もあることを忘れてはいけないのだろう。旧ユゴスラビアやクロアイチアやスイスやセルビヤなどはコソボ紛争の影をもちながら選手がチャレンジしているようにも見える…。選手は国を背負って戦っている。そんな思いを日本はあるのだろうか。次のポーランド戦はそん気持ちが起こさせる一戦でもあるように思える。




 今月は、ふと思い出したような本2冊の紹介です。どちらも新刊ではなくて昔から読み継がれてきた本です。レイチェルカーソンの『沈黙の春』はなんと15~16年前に購入してきたものの本棚のすみにねむっていたような本でした。ページをめくってみたら半分ほど読んだ後があったので、途中でやめてしまったのだろうと思います。どういうきっかけで、読んだのかその辺はすっかり忘れてしまったのですが、今回あらためて読んでみて、内容はちょっと古いと思いますが基本は同じ仕組みの現在を考えます。農薬の被害はきっとあるのだろうと思います。ですが、私たちのめに前に現れるのはほんの一部にすぎないということをらためて感じることができます。例えば医療被害などで、 子宮頸がん予防でワクチンをした女性が被害の被害。ほとんんど当事者でないと私たちにはわからない仕組みがほとんどです。知らないことを知ろうとすると、大きな分厚い壁がたちむかってくるのでしょう。それをひもとく糸口を待たせてくれる本なのだろうか…。そんなことを思う一冊でした。



■p25 人類がはじまって以来、いままで経験しなかった宿命を、私たちは背負わせれている。いまや、人間という人間は、母の胎内に宿ったときから年老いて死ぬまで、おそろしい化学薬品の呪縛のもとにある。

■p64 どこまで切れることなく続いてゆく毒の連鎖、そのはじまりは、小さな、小さな植物、そこに、はじめ毒が蓄積された…そのう考えても間違いはないだろう。だが、この連鎖の終わり…人間は、こんなおそろしいことがあるとうはつゆ知らず、クリア湖から魚を釣りあげてきて、夕食のフライにする。大量のDDD、それもくりかえしたDDDを口にすれば、どいう結末になるのだろうか。(「地表の水、地底の湖」)

■p79 植物は、錯綜した生命の網の目の一つ、草木と土、草木同士、草木と動物とのあいだには、それぞれ切っても切りはなせないつながりがある。(「みどりの地表」)


 休日にはよく多摩川に散歩にいく。歩いている道々、草木の愛仇をたくさんの虫たちが陽がのぼるやいなや活動を始めている。ときに刺されてしまう虫。暗い場所にいちもくさんに隠れる虫と、新聞を読んでいる目の前を大群で飛びかう虫たち。その動きがあまりにも不愉快に思うこともある。ときには、小さなアリが自分より大きな死骸になった虫を運んでいる光景をみたりすと面白くも思うことがある。地上に生きている虫たちは、自分がどれだけ生きて、どこに生きているかということなど考えているのだろうか思うことがある。

 そう思うと人類と虫とはながいつきあいなのだと思う。
 ときには、人間においしいものを提供してくれているのだろうし、時には人間に大きな害をもたらしてきたことも事実なのだろう。
 例えば、うまいワインがあるのは、飛びかう虫たちの受粉のおかげであり、デング熱などは同じ虫たちのせいでもあるのだろう。マラリアなどは蚊が媒介するなどと聞くと、やっぱり害虫になってしまうのだろう。

 『沈黙の春』はその虫たちと人類の興亡が書かれいる。それも一方的な人類の勝手な行動によってである。人間に害を出すのは害虫として駆除する方法を考えてきた興亡史でもある。さらに、その弊害を徹底的に実験、調査した本でもある。その結果、その害は、虫たちだけにとどまらず、虫を食している鳥たちも、さらにはその鳥を食べる肉食動物へとつながっていることを知らせている。さして、おそろしいことは最後はその害は、人間に戻ってくるということに警告を発している。生きていきために必要な「食物連鎖」のなかでどれだけ人間はバカなことをしてきたのかということを延々と述べている。

 その結果、もたらされる害は、つきつめていくと虫にも人間にも害であることを再認識させてくれる。ただ、虫と人間の違うのは、結果として利権がからみ、本当のところを隠してしまう人間のいるということだろう。その影響は弱者へと連鎖していくことだろう。
 例えば、原発事故でいちばん影響を受けたのはそこに住む人たちであり、生き物たちだ。それでも、同じように再稼働して事故が起きるまで知らん顔をしている人間の罪深いことがある。わかっていても、害をまき散らす人間がいるということも、それによって生きていくことさえ困難な人たちをつくってしまうこともわかっている。

 『沈黙の春』は人間のいかに自分勝手に生きてきたかへの警告でもあるのだろうと思う。「そうは言っても、こうして今まで生きてきたのだから」という人たちもいることは確かなことである。そういう人たちへは、「生き方を考えてみてください…」と言っているようにも思える一冊でもあると思える。
 便利、快適、安全がいかに不安定ななかで、誰かが犠牲になっていることをつくずく考えさせる本でもあるのだろう。
*化学薬品をそうとう憎んでいる。人間勝手し放題に反省と改革を切に望んでいる。日々の足元に生きる小さな生き物の助けをかりて生きていることを知れ!…とも言っているようなカーソンさんです。
※『複合汚染』(有吉佐和子著)も同じような内容であります。




 久しぶりの北杜夫さんの作品である。以前『楡家の人々』という小説を読んだことを思いだした。この小説は、ある医院の家族の人たちを描いたものだった。今回の小説も家族のことを書いている作品だ。

 時代は日露戦争が終わったあたりだから明治時代から始まっている。ブラジル移民政策に新天地を求めた人たち話。移民の条件が家族であること、妻帯者、兄弟であることなどがあった。移民をした人たちの中には、兄弟だ、家族だという条件をいつわった者もあったという。中味は他人同士であったり、遠い親戚のいとこ同士であったりしたともいう。移民の理由は、今の貧しさからの逃避。国としては新しい資源を求めてまず民間人をおくり、開拓して植民地にしようとう政策だあった。スローガンには「新開拓地に夢をつくろう」というものだったかもしれない。いずれにせと、国と貧しい人々が利害が一致して移民が実行されたのだろうと思う。

 しかし、新開拓地でまっていたものはとてつもない原始林であり、医者もいない未開拓地。そして、マラリアによる移民の多くの死者がでていく土地でもあった。移民しても、移民先の開拓地がマラリアによって全滅してしまい、ブラジル国内でさらに移動。移動先で安住できたとしても、太平洋戦争の影響もでてくる…。

 ぼくがこの本を読みたくなった理由の一つには、「これから家族はどこへ向かっていくのだろうか」ということがあった。家族を支えているのは貧しさだろうか、豊かさだろうかということも考えてみたかった。『輝ける碧き空の下で』の作品は裸一貫で移民して人々は何をもって支えて生きたのだろうかということを読んでみたかったのだろうと思う。
 貧しく苦しい移民の人たちを支えてきたものは何だったのだろうかと思えたからだもある。移民の理由が「貧しさからの脱出」という移民者から、少しずつ開拓も軌道にのって豊かになっていくなかで何を考えて生きていったのかということも読んでみたかったのだと思う。
 事実「貧しから脱却」した矢先におきた戦争もあった。それでも、家族が知恵をふりしぼって生きていく姿が素晴らしいと思えたのだった。足らないものは足りている者からの協力が大切なことなのだと思う。貧しさは恥ではなく、そこから支え合っていくことが大事なのだと思う。
 
 この小説には、むかうべき方向があるように思う。
 そんなことを考えた本だった。
*時代に翻弄される人々…それはなにをかくそうぼくの姿であり家族のかたちであります。その家族をくいものにする人たちは「勝ち組」なのだろうかな。秋葉原で殺人意見を犯した男性を思うと、「悪党」とは割り切れないものがあるような日々でもある。




【新富町駅】
 仕事で一週間に一度、「新富町」で降りる日々が続いている。本社の板橋区からバスと電車を利用して約1時間ばかりのところである。東日本大震災があるまで永田町で降りていた。震災後、会社は千代田区から板橋に移った後のことである。

 もし、震災かが起こっていたなかったらどうだったのだろうかと思うことがある。築60年以上の建物だったので「そろそろ」と思っていたのかもしれない。それでも自社ビルであればそうもいかないだろう。なぜななら、自社ビルであれば家賃を払う必要もなく、その分利益もあるからだ。なんともやりきれないことが起こったと思っただろう。震災後、ビルの壁にはヒビが目につくことが多かった。震災の揺れの時は避難したのは前の道路であったり、近くにあった図書館でもあった。一夜明け、動き出した電車にのり家路にむかった記憶がある。

 会社は、翌年に工場のある板橋区に引っ越していた。
 館内に残った一部のお客が溜池山王に引っ越した。そのときから、出向という形で仕事が続いている。そこでは「一人職場」となり、通勤するようになった。家賃が高いということで、お客の方が引っ越した。それが新富町だった。スペースがなく狭いビルになってしまった。これまで通り、仕事をするパソコンの置き場はなかったため常時いることが困難になった。そのため一週間に一度出向して仕事をするようになった。そして、ぼくは定年退職後は「契約社員」としての日々が始まった。

 日々、これでよかったのだろうか…と思うことがある。これからも続くであろういまのお客に対して正社員の対応が大事ではないかということである。そんなことを思いながら週一度の出向は続いている。
 仕事は生活を支えるために必要なことだろう。それが、会社の利益を得るお客であれば契約社員が出て行って仕事をしていていいのだろうかと思う。なぜなら、賃金も安くなり、ボーナスもなくなった社員に「同じように仕事を…」はむなしく聞こえるばかりではないか。賃金が安くなろうと税金は、しっかりと取られていく現実の中で、会社のいうことはなんとも「ウソ」のように聞こえてしまうのだった。「ウソ」も思いこめば「本当のように」というのが人間の心理のなかにあるというが、やっぱりウソっぽいと思う年である。
 そんなことを、思いながら週に一度降りる駅である。週に一度の出向日だけバスの時間、電車の時間を思い出す駅でもある。




 毎日雨空ばかりみていると時々、青い空が恋しくなってくる。なんとも身勝手な気がするがそれが人情だろう。ときに人間はわがまま動物だ。

 「今月の本棚」という週なのでついでに気になる記事が新聞で紹介しておきたい。
 「止まらない書店数の減少」(毎日24日付「社説」)である。
 「町中の書店が消えていく」といく記事であった。「…1996年をピークに長く続く出版不況のなか、書店を取り巻く環境は厳しくなっている。書店調査会社アルネディによると、今年5月1日現在の全国の書店数は1万2026店。10年前に比べ3割近い減少だ。一方伸長しているのが、電子出版市場だ。昨年は電子コミックの販売額が初めて紙を逆転した」。

 便利さはわかるがそれでも書店数は減るのは悲しい話。情報を得るとき、パソコンやスマホで済ましているだけではことの本質は見えないというのがぼくの持論である。最後はやっぱり、ちゃんと自分の手元のものがいちばん信用できるのではないかと思う。
 とはいえ、年々賃金も下がれば小遣いも減るのは世の中の常識だろう。そうなれば、本を買うお金などないのが現実になってきている。せめて新聞だけはと買って読もうと思う。その代わり図書館に行っては面白そうな本を探して借りてくる日々である。しかし、生来の怠け者で本を借りてきてもおよそ3分の1くらいしか読まないことが多い。それでも、面白くてしようがないのは「延長」して読むようにしている。世の中知らないことばかりだから面白いのだろうと思う。


 さて、今週はお天気が続きますようにと願う日々である。
 これまでの史上最低の契約を身をもって(賃金)感じ取る週になるだろうか。やってられるかなー、という元気も年々失せてくる。株主総会もあるそうだが、これは全然かやの外なので、どうでもいいと思っている。最近、役員の声も聞かなくなったなあー。

 6月も今週で終わりです。
 梅雨がはじまり、大阪北部地震があり、国会が延長されました。山歩きに行こうと計画しても、当日雨が降っていることが多いので延期にするほかありません。仕方がないでしょう。雨の日は天気の日よりリスクは高くなります。静かでいいのは若いうちです。無理がきかないことは自分がいちばん知っているつもりです。来月の連休のころにまた計画していこうかと思います。
 そしてもうひとつ、住宅ローンのことも考えなくては…と思いつつ日々が過ぎていきます。これからのことを少しずつ勉強していかいなといけなのでしょう。誰もやってはくれませんからねー。

 来週木曜日にはサッカーワールドカップ決勝トーナメントをかけたポーランド戦があるようです。すでに、ポーランドは予選敗退となってしまいましたが、予選最終戦「意地」の1戦になるかもしれません。
 
 読んでくれた人、ありがとうございました。

サッカーワールドカップがはじまりました

2018年06月17日 | Weblog

 こんいちは。
 毎日雨が降ってきそうな天気です。体も気持ちも滅入ってしまうような気がします。休日の散歩もつねに折り畳みの傘を携帯しています。小雨が降り出すと歩行距離も短くなっていくようです。そして、散歩中考えることも小さくなっていくような気がします。
 こんな季節にはどんなことを注意していったらいいのでしょうか。散歩中に唯一気持ちを楽にさせてくれるのは、途中咲いている花々です。やはり、アジサイは雨上がりがいいようです。それに、夏を感じさせてくれるひまわりもいいですね。

 さて今週はサッカーワールドカップロシア大会が始まりました。時差もあり、テレビ観戦では深夜になっています。日本からずっと北の国で行なわれいることを思えば、少しは気温がすずしくて選手にとってはいい環境のようです。
 試合のなかでさすがと思ったのはポルトガル対スペイン戦でした。どちらも高いサッカー技術をほこる国だけあって見ていてもあきずにみることができました。だいたいワールドカップクラスの試合はミスを出した方が負けるようです。(日本代表はこの形でよくくずれますね)。やはり、まだまだなのでしょうか。「世界に送れること何年」と感じる日本代表の試合です。それでも、できるだけミスをしないように選手たちの頑張りにはす応援してしまいます。
 今回はどうでしょうか。しばらく寝不足の日々が続きそうです。

 世の中は、国会の風物詩ともなった「強行採決」が今週もありました。15日にカジノを含む統合型リゾート(IR)実施法案が衆院内閣員会で自民、公明両党のと日本維新の会の賛成多数で強行可決を映していました。
 ひらたくいえば「ギャンブル促進法」という審議でのできごとでした。この様子を何度みせられたか…。「働き方改革法案」のときも国会議員が議長席を取り囲んで右往左往している中継をみたのも今月のことではなかったのでしょうか。日本の国会は話し合いは既成事実の場になってしまってあとは、独裁を装わずいかにも「民主主義」をやっているように見せかけては強行採決が繰り返されていた日々です。どうしてこうまでのなってしまうのか、これが今の政府与党(安倍首相)の姿なのでしょう。それを、指示する公明党もおなじなのでしょう。このままでは、ほんとうに話し合いの場が危機的状況にあるという気がします。民主主義ということばをよく聞きますが、大事なことは「誰の」という主語です。いまは、この主語のない世の中になっていているような時代におもえるのです。それも、国会です、という答弁が聞こえてきそうですが…。





【競艇場前駅】
休日にはほとんど行っている。「競艇場前」駅。競艇をやりにいくのではなく、散歩の途中、必ず見る駅の名前である。休日の午前10時ごろは、開催日にはボートのエンジン音が多摩川の土手まで聞こえてくる。騒音には相当気をつかっているようだが、それでも音が聞こえてくる。基地のジェット戦闘機の迷惑な地響きするような音ではない。住民は耳にのこるエンジン音にせっかくの休日になにを思っているのだろうか。

 とはいえ、競艇開催の朝には駅の階段を何人ものオジサンがあがっていく。今日の予想を胸にエンジン音がする競艇場にむかっていく。その姿はレジャーのようで楽しそうにもみえる。降り口はふたつあって、競艇にいくものと、住宅地へと出口となっている。休日にはほとんどが、雨にもぬれず競艇場に続くアーケードの出口をめざすようだ。

 現実にはこれは公営のギャンブルへの入り口のようにも見える。
 最近「ギャンブル依存症」ということがよく聞く言葉である。それはいま審議されている「カジノ法案」があるからだろう。人間の欲望をくすぐるギャンブルにはまってしまう危険ということなのだろうか。人生を「うん」にかけて賭けにでるということなのだろうか。

 政治が公営ギャンブルに直接かかわったものに都知事の美濃部亮吉都知事を思い出す。選挙に「公営競技」廃止を公約にした人だ。そして老人医療の無料化をやった人でもある。ぼくにとっては、これが政治だろうと思える。大事なのは、ギャンブルいもやらず年金の人たち(弱者)をいかにカバーするのが政治だろう。ギャンブル依存症が増えるのは「自己責任」で片づけたい人、いやこれは政治の責任ではないのか…という議論がおこなわれない国会に、美濃部都知事の業績は大きいのではにかと思う。ここでも、主語が「誰のための」をいれて考え…みればもっとやり方があるのではないかと思う。
 人生で「ピリっと」とした日々を送るために賭け事も大事だなあ、とは思うけれど生活までも危機に追い込むギャンブルはどうかと思う。そうは言っても、人生において一発賭けることもあるだろう。それが公営ギャンブルとなってしまう怖さもあることを意識させる政治も必要なのではないだろうか。



 最近読んだ新聞記事に「人材難どう解消する?」を読んだ。
 内容は<少子高齢化の進展とともに、多くの企業が人手不足に悩まされて…>という記事。その解決に「労働環境・福利厚生の改善」でという回答がありました。社員がやめないようにするために環境をよくしようという取り組みなのでしょうか。ほかに「中東採用制度、外国人人材の活用」、さらに人工知能(AI)やロボットを使う企業がありました。

 政府は「高齢社会対策大綱」では公的年金の年齢引き上げ、希望者船員に65歳を超えても年齢に関係なく働き続ける社会を目指すといっています。

 では実態はどうか。ぼくの職場では、65歳まで定年以降(60歳)再雇用という形式をとっている。その真意は契約書にはないのだがまず賃金がさがる、残業代がさがるというものになっている。
 これでまずやる気がなくなる。さらに若い人たちが中心に仕事が進む。それはいいが、どう見ても「自分勝手」にやっている感がある。まさに、自分だけの間口のなかで仕事をしている状況だ。だから、しごとが個人の負担になり、ぼくに言わせると無駄な残業代が増えていくように見える。正直なと再雇用者と仕事をしようという気がないようにもみえる。なぜならだろうと思うと、自分の仕事を崩されてたくないのだろうとうことなのだろと見える。だから、避けているようだ。だから、ぼくも何にもいわず自分の仕事だけを進めている状態だ。これでは、65歳定年制とは中身がないばかりが、高齢者が苦情を言われる図があるようにも見える。正直なところ、ぼくは苦情をいわれるだけだろうと思うと何も言わない方がいいだろうと思っている。

 高齢化対策は「高齢者の技術や経験」を活かして…という。しかし、実態は「余計者」のようなところがあるのが実態ではないのだろうかね。
 65歳定年制にというならば、ちゃんとした賃金の保障もしなくてはならないだろうし「同一労働・同一賃金」となる。先月だろうか運送会社の裁判でもその点が解決されていない。
 
 東京五輪も間近。建設労働者が増えるだろがうが従事すべく労働者が日本にはいない。そこで、外国人労働者に滞在期間を長くして安く使うのだろうか。結局「働きか方改革」でもっと低所得者にもその法律を使えるようにしようという本音がみえみえ。日本の高齢者も同じようにつかえればともくろんでいるのでは…と思うのはかんがえすぎだろうか。安い賃金で働かせる仕組みははじまっているように思える。



 正直なところ、サッカーワールドカップでここ1カ月はサッカー漬けとなるような気もする。いやなことも忘れて…といいたいが、どうもひっかかる「年金」「ローン」の現実…。どうにか解決策をと考えている日々である。だから「働き方改革」に望むのはちゃんと賃金を払え、ということを書いてボヤイテいるのが実情なんだろうなあーと。上がるのは平均年齢と物価くらいだろう。それに追いつくこともなく日々を小金を使いつつ生きている高齢者のボヤキと思ってください。少しずつ、ものでも減らして捨てて…生きていく覚悟のようなものをつくっていくことも大事なのでしょうか。一つにこれまでためた本なども、少しずつ部屋から消えるような工夫が必要になっていることを日々痛感します。最期はなにも残さずに行きたいものです。そんなことをボチボチ考え始めています。

 最近、同じようにブログをやっていた知人がやめてしまったようです。更新もしていないようでそのコーナーは見なくなってしまいました。ずっと続けるのは仕事と趣味ですが、ブログは消えてしまったようです。ちょっと寂しい気もしました。とは言っても「めんどうくさい」と思うのも正直なところでしょうか。ぼくは、いまのところまだあきずに更新していますが…。しかし、パソコンが壊れたり何らかの事故で更新できなくなったときは、もし読者いましたら勘弁してくださいね。
 ぼくの方はこの欄は「資料」だと思って更新しています。一週間の様子を更新しています。

 ぼちぼちできればいいくらいだと思います。
 来週は雑誌の仕事が追いこみです。ちょっと忙しくなります。それが終われば、一日休みを頂いて山歩きでもいてくる予定です。
 今週はこの辺で失礼します。サッカー日本代表の活躍を期待したいところですが、外国の試合の方が百倍もおもしろいことも事実です。それでも代表。頑張っていい試合ができるといいですね。
 読んでくれた人、ありがとうございました。


はやくも台風5号発生、こんな季節でしたかね

2018年06月10日 | Weblog

 こんにちは。
 梅雨入りをしました。はやくも台風が発生しています。なんでも大型でつよい台風というニュースです。雨も大変だと思っていますが、台風とは…。台風がこんなに早くくるとはいったいどうなってしまっているのでしょうか。こんなはんずではなかったような気がします。そして、明日は接近してくるとのこと、都会の弱点を露呈する通勤にはやっかいだと感じてしまうのかと考えてしまいます。
 そんなかでもツバメが巣作りを始めていました。今年は昨年より巣作りの場所が少ないように思えるます。年々、住みにくくなっているのでしょうかねえ。



 さて今週、忘れてならない年でもあるよう事件から10年目と「秋葉原殺傷事件」が新聞で報道せれていました。その事件に遭遇してしまった人たちの特集記事が多くありました。通り魔事件としてありますがその内容を深くさぐってみるといろいろな背景があるようです。

 この時代「負け組」「勝ち組」という言葉がありました。市場原理を最優先させる時代でもあり社会が分断の流れが大きな溝をつくっていました。そして、その時代の小泉政権が「自己責任」という世の中にあふれた時代でもありました。そして、戦時下のイラクに自衛隊派遣の際にイラクの武装グループが邦人3人を人質にして撤退を要求した事件がありました。人質だった一人の今井紀明さんが帰国後批判があいつぎました。「非国民」とののしられ、自己責任論がいわれもしました。

 とくに元議員の亀井静香さんの言葉が印象的でした。「すべてを環境や貧乏のせいにするのは間違いだ」「格差があれば憎しみも生じる度合いが強まる。格差社会で困っている人に手を差し伸べるのが政治だ」と。
 格差がますます広まる時代の入り口にあってこの言葉は今の政治家にきかせてほしいものです。



 今週、サッカーワールドカップロシア大会の強化試合がありました。西野監督になってからこれで2試合目のスイス戦がありました。ガーナ戦と似ていて、取りあえず反則をしてペナルティキックを決められました。やはり、格上ともなるとゴールエリア内では迫力があるように見えます。

 今回のワールドカップ戦では正直なところこれまでの2試合(ガーナ、スイス戦)をみていて「まだまだ」という思いだけがあります。まだまだ、チームがまとまっていないような点が目につきます。練習不足でコンディションがよくないかのように見えます。
 監督が突然の交替ということもあって選手もまだまだまとまっていないようにも見えます。こんなことは外国ではけっこうあるようですが、ぼくがこれまで見た来た代表監督のなかでは初めてのことだと思えます。4~5年ほどかけてチームづくりをやってきたことを考えればその何十分の1の期間…、勝てといっても無理でしょう。相手は、全部格上の代表チームです。それでもサッカーでは時には、全然格下のチームが勝ったりすることもあります。それもサッカーの面白いところです。しかし、さすがにワールドカップの試合となるとこれは奇跡にちかいことです。

 今回は条件が悪いなかでのワールドカップ参加に見えます。短い期間でどれだけコンディションをつくりあげられるのかが大事なことです。
 どれだけの試合内容をみせてくれるのかが楽しみでもあります。今後の代表の歴史にいい経験にしていけばいいと思います。
 以前にもフランスワールドカップの予選の時にも加茂監督が成績不振でコーチの岡田さんが監督に代わった時代がありました。岡田監督のプランを選手に短い期間で理解してもらい、選手たちも頑張った経験があると思います。それを考えると、また西野監督がやってくれると思います。勝つために必要なものはいったい何でしょうか。

 代表選手一人ひとりの人生を賭けた戦いがワールドカップです。
 どんな戦術で、どういうサッカーを展開していくのか楽しみです。





 先月、1月から始まった「大規模修繕」が終わりました。この修繕は15年に一度行われる管理組合の予定です。そして15年後(2033年)に二度目の修繕が実施されることになります。そのころは、ぼくはとっくに「古希」をすぎているころです。過ぎるところか、この世にいないかもしれません。
 そんなことを思ってしまいました。修繕計画といっても、いちばん修理が必要な外壁コンクリートの劣化にともなう部分の修繕が主だったようにみえます。あとは、ペンキの塗り替えも多いようでした。けっきょく、劣化の部分を隠してるような感じにも思えましたが…。

 そして、突然上階の人の引っ越しのあいさつがあった。この人たちとは唯一よく話をしていたので驚いてしまった。あーあ、もっと話しておけばと後悔してしまった。「主人は北区、妻は新宿区、子どもは23区内の大学と高校と通勤に遠いし引っ越しを考えていたんです」との理由だった。理由はそんなことよりもっと身近な現実的なことだろうと思いつつ、会話をしたあとで、ぼくは突然、ローンの残高を調べてしまったのでした。これは他人事ではあるまいと…。

 そんななか考えたことが15年間のローンについてでした。とくに驚いたにはローンではらっている中には当たり前ではあります「金利」の返済の実に高額だということです。マンションの値段の約半分以上にも思えました。大げさにも思えますが、それだけの金利をはらってもまだまだローンは続くという現実でした。金利の返済プラス借金の返済をしていることになっています。
 そしてぼくの年齢…もありました。
 世の中には「老後の資金」などということで○○○万円くらいということを書いています。その数字をみたら「ぼくたちは送れないのでは…」と思えてしまうほどの数字でもありました。でも老人(ぼくも)たちのほとんどはそんな理想に近い数字のなかで生きているようにも思えません。それでも、どうにか日々の中を送っているのでしょう。そんな気がします。事実、「孤独死」などのニュースを聞くたびに、これが現実なんだと思います。それはそれでとあきらめ…という事実もあります。

 そして一方で思うことは日本という国は「弱者」に対しては冷たい国なんだなあ、と思います。他人や社会のせいにしてと言われそうですが、でも、ぼくの身の周りには遊んでいる人はいません。病気になっても通院しながらや入院したりと、がんばっているように思います。そんな人たちへの対応があまりにも冷たいと思えます。以前友だちが「死ぬまで働け」ということか、と冗談にに聞こえたことも、冗談ではないようにも思える世の中になっているようです。そんな中で生きているということも現実。
 これからは、ちょっとその仕組みや対応も考えて行動していくことも大事なのでしょう。若くないのですから、少しでも体力あるときボチボチ始めようと思えた「引っ越しのあいさつ」でもありました。これは自分で解決をしなかればならないことでしょうから。

 劣化があるのは外壁はもちろんですが、ローンを払う側の経済状態や体力でもあるようです。こちらも、どんな形になるか「修繕計画」が必要な時期に来ているように思えます。
 『ボーと生きてんじゃないよー」と言われそうですが…。



【中野駅】後悔の多い駅でした

毎日の通勤途上駅である。座席に座れる第二のチャンスの場所でもある。ここで東西線、総武線に乗り換える人がいるからでもある。
 最近は、駅前にビール会社が建ち、有名大学も建っていた。およそ30年前にはなかった。
 あったのは中野区役所と中野サンプラザでありました。ぼくにとって中野サンプラザといえば「アルビン・エイリー」のダンスを妻と観に行ったところでもありました。あれはもう30年ほど前でしょう。もちろん今のビール会社や大学もありませんでした。駅前にドーンとあった建物にあっとうされていました。なんといっても田舎育ちであったのでこんなに大きな建物でダンスを見ることも初体験であったと思います。「こんなにも人間の肉体が表現力があるのか」と感動したところでもありました。

 もう一つあるとすれば、ここの駅に田舎の母と一緒に降りた駅でもあります。妻が子供を産んで一週間くらいは大変だろうということもあって、生れてはじめて東京に来たのでした。今思うとどんな気持ちだったのだろうなあ、と思います。田舎では土とともに一生を送った母にとっては、土のないコンクリートだらけの都会をどんな気持ちでいたのだろうかとお思います。
 ここに降りたのは、子どもが生まれて何かが贈り物を…と思ったのでしょう。それじゃ、子どもの洋服をいれる箪笥を買うために降りたの駅でした。その箪笥は今でもシールがいっぱい貼られてあります。今ではぼくが使っていますが…。今おもえば、都会に来た時の母の感想をきいおけばよかったな思うばかりです。赤ちゃんの世話などで忙しかったのでしょう。いまでは、それもかなわぬことに後悔する駅でもあります。

 この駅は、時代の流れと共に変わっていくことが強制されているようなところにも思えます。それに抵抗した区でもあるように「革新」という区長もいた時代には生き生きしてようです。区役所のビルに「憲法を生活に生かそう」と垂れ幕があったりして、頑張って実践した区でもあったように思います。ちゃんと政治というものを身近にしようと頑張っていた区であったように思います。今の政治家はなんか自分の立場があやふやというか、ウソも方便といわんばかりになっていて、主義主張がぐらぐらしていていることを見るにつけ中野区の政治の歴史は大事だと思いますが。



 最近「格差」という言葉が身にしみてきこえる気がします。とくに年齢とともに職場でも正規社員と再雇用の格差、あるいは病気入院から職場復帰した人との格差など。
 人は健康があたりまえのような世の中になってしまっているように思えます。だから、働くことはまず健康な体でということなのでしょう。しかし、生きていれば、ある時病気になってしまうことも事実です。けがをすることもあります。そして、どうしようもない老齢化です。その時の準備をとよくいいます。けれど、準備するための教育や職場環境、労働条件など、その場しのぎの間に合わせだとしたら、どうでしょうか。
 自分でできることはやれるとしても、それを全体にいきわたるようにするためには全体で考えて、実行していくしかないのです。

 それで全然できていない…のが現実ではないのでしょうか。
 せめて、「65定年制」などということを考えていれば、賃金を少しはよくするとか具体性がほしいところです。人を酷使するだけの65歳定年制では困るのです。そんな気がします。

 梅雨本番プラス台風。昔はこんなことは考えれませんでした。
 なんともいやな自然環境になってきました。少しは楽しいことがないのでしょうかね。例えば、サッカーワールドカップで日本代表がベスト16に残るとか、宝くじを買ったら当たるとか、そんなことは大歓迎ですが…。

 今週はこの辺で失礼します。



6月:年金受給資格証書がきたけれど。

2018年06月03日 | Weblog

こんにちは。
 6月になりました。暑さも初夏になってきたなあ…と思うわせる日もあります。いまは梅雨のい合い間の晴れ休みというところでしょうか。これからだんだんと暑くなってくるのでしょうか。週末に知人の息子の運動会があると話していました。ちょっと暑いのですが、雨よりはいいのでしょう。
 ぼくにとっては冬よりまだいい、と思いつつ夏がくるのを待っています。
 いつも散歩をしている道すがら、商店の軒先にツバメの巣作りが終えていよいよ夏だなあ…と思いました。子育てが始まります。


■日本サッカー協会は31日、14日開幕のワールドカップロシア大会の日本代表23人を発表しました。強化試合のガーナ戦は、守備のシステムをためしたものの、難なく突破されて負けてしまいました。前監督解任からまだ日が浅いせいでしょうか、西野監督はどんなサッカーをみせてくれるのでしょうか。今回の代表には、これまでの経験者を多く選出していました。平均年齢も28.3歳と高齢でもあります。さて、五輪でブラジルに勝った「マイアミの奇跡」を再びおこしてほしいものです。

 今月はまちに待った「サッカーワールドカップロシア大会」がありますね。日本選手の活躍を期待したものですが、今週のガーナ戦を見るかぎりでは「まだまだ」です。ホジッチ監督が解任されて西野新監督になって日がささいのですから仕方がないといえばそれまでです。それでも、ミスが決定的に多い方が敗者になるのはプロフェッショナルの法則です。今週、強化試合のガーナ戦もそれが端的にあらわれたと一戦でした。PKを与えたミス(反則など)はやはり経験と技術が大切だなということをものがたっています。とくにディフェンスの牧野選手のミスが多く出たのは残念でした。強いチームはウィークポイントを徹底して攻撃の拠点として展開します。今回もそれが見られた試合であったと思います。
 それにしても、ディフェンスがほとんど「穴」状態のスリーバックはまだ機能していませんでしたねえ。基本は正確なパスとコミュニュケーションが足りないように思えました。

 今回のワールドカップで活躍を期待する選手はフォワードの武藤選手です。初めてのワールドカップです。世界にどんなアピールをするのでしょうか。


■契約社員や定年後の再雇用された社員が、正社員の賃金との差額を支払うよう勤務先の会社に求めた「長沢運輸訴訟」と「ハマキョウレックス訴訟」の判決が1日、最高裁第二小法廷でありました。正社員と非正規社員との不合理をどう解決していくかを考える判決でした。

 この判決は注目していたのだが、「同じ労働をしているにもかかわらず賃金になぜ違いがでてきてしまうのか…」という疑問の応える判決ではなかったようです。どうしてこうした「不合理」がまかり通ってしまうのかいつも思います。会社でも、非正規と正規社員との違いをどう説明しているのでしょうか。その辺がよくわかりません。いずれにしても、正社員と同じ危険をおかしたり、同じ仕事をしていれば賃金も同じになるということは当然だと思います。

 長沢運輸の判決内容を詳しく読んでいら、<年収は定年前の約500万円から約350万円に減った>ということで不服を訴えた。判決では<再雇用者には年金の支給が予定されていることを踏まえ、正社員との格差を容認>したと説明。代理人の宮里弁護士は<労働力が不足し、高齢者が重要な位置づけになる中、判決は働きがいの観点でもマイナス。社会に与える影響について、裁判官の想像力が求められるのではないか>(2日/朝日)とした。

 この判決には以前から注目をしていたが、ちょっとの前進はあったものの、いちばん注目度の高い賃金の格差はあい変らず厳しいものだった。
 世の中は「同一労働同一賃金」とはいうものの、現実は少しもそうなっていないようである。同じ労働をしても、格差があればこれはあ「賃金差別」であるのだろうかと非正規社員は考えるのは当然だろう。そして、働く意欲を失わせることの要員でもあるように思う。「年金がある」という内容でも、その年金の微々たる額は、今まで働く現場から見れば賃金を「補てん」できるものになっていない。

 けっきょく、その場しのぎの戦力という気持ちにさせる判決だった。
 ぼくも、非正規社員となってから「全額といわないが…」と思いつつ会社に要求した経過があるが、会社は金のかからない労働条件は変更しつつも金額に関することについては、首をたてにふることはなかった。
 正直なところ、会社の対応に対しては、こちら側の対応を示すように日々を送っているのが現実だ。例えば、責任の最終は職場管理職に持たせることや、正社員と同じ仕事はしない、作業の軽減化などをするようにしている。
 本当は、これまでの経験や技術を後継者にうまく伝えていきたいと思うが、賃金の格差がある以上、その時間さえもなく仕事に振り回される日々だ。そして、正社員の方も、遠慮してなにも言わなくなっている。なにか足りない…というか、賃金の格差をつけることで職場はぎくしゃくしている。(ぼくは、そのことについて会社の責任だと言ってきている)。
 いずれにせよ、65歳定年制が完全に実施されるまでには、この手の問題はずっと続くことだと思う。労働組合もこの点についてもっと模索する時期がやってきているように思える。




「年金」
年金受給証書が届いた
ふと
国が老人に仏壇に置かれた香典にも思え
なにやらさようならつげる声がきこえた

こともあろうか
世を騒がせたウソつき為政者大臣印が
「受給資格証書」にいすわり
なにさまかという態度にみえた

あるものは大金を異国の銀行に預金し
あるものは公文書を偽装し
あまたの納税者をだまし
まんまと税金を免除かとつぶやいてみせた

ひたいに汗して働いた労働者は
預ける銀行さえも「不安」を日々にもちながら
「社会保障」とはきこえても
ほんとうはいったいどこへと思いながら
届いた紙切れに
国家のありかをやっと知った

老いて頼られるうちは
働くしかない
だまされていても
日々は待ってはいない
そして「年金に不安」の日々に
わが祖国はなにをしてきたのか思いつつ
年金の振り込みを待つ日


 「森友」「加計」「働き方改革関連法案」などこれまで安倍内閣はどれも強引にあるいは暴力的に進めてきた5月が終わった。まさに、私たちは安倍首相が船長の「泥船」の乗客のように思えた。そして、これらのすべてにおいて、あくまでも身の潔白、さらには労働者のために…という他人の助言をもきこうとしない為政者の群れをつくりつつある日々のように思えた。まさに「唯我独尊」という言葉がはられたスーツを身にまとい突き進んでいるかのようだ。

 政権がの進めることは何が何でも…力ずくでも、あるいは自殺者が出ても、あたかも当事者が関係ないような対応のニュースを多く目にした月でもあった。これまで、政権のすすめかたは危険だと暗示した記事によって多く語られてもいた。その政権が「改憲」するとは、とんでもないとも語られてきた。
 セクハラ、パワハラ問題も出てきた。まさに「Me too」が世界中に警告をいていたことを待っていたかのように、女性に対する差別が大手をふるってきたか明らかになった。さらに、日大のアメリカンフットボール部員の暴力的タックルであるために問題となった。ここでも、いちばん正直にことの反則の行為を謝罪したのは選手自身であったのには驚いた。監督・コーチはことの問題の説明には煮え切らない、保身第一の記者開会見だった。よっぽどで選手のほうが大人に見えた。揚句のはてに監督・コーチとも辞任で幕がおりたかのよう見えた。しかし、ことの本質(本丸)には近づいてはいない。

 6月は国会の会期末でもある。 
 「働き方改革関連法案」も参議院にうつる。どんなことが語られるのか。
 この法案の注目するところは「残業時間」である。すでに「過労死」が多くなっている中でいかに労働者の健康を守るかが大事な視点となってくるのだろうと思う。野党は「残業代ゼロ法案」ともいっている。

 この法案は3つの柱でできいる。①高度プロフェッショナル制度(高プロ、残業代ゼロ制度)創設、②残業時間の罰則付き上限制度、③正社員と非正規シャンとのとの不合理な待遇差をなくす「同一労働同一賃金」となっている。
 ここで問題なのは、野党が一部専門職の残業代を払わなくする制度について反対している。とくに残業代を払わないとうことは、企業の残業代への負担のしばりをなくすことになる。結果、いくいらでも残業をさせるようになるし、その制度が、年収が低い労働者にも導入された場合、これまでの多くの過労死でなくなっていった遺族に対してなんの対策にもなっていなくなってしまうのではないかということ。

 これは労働基準法にもかかわる重大な問題だと…。なにより「過労死」が増えていく危険があるということになる。けっきょく、企業は利益をあげるが、労働者の生活を壊す危険がおおきくかかわっているということが重大だ。今後のことを考えれば、憲法や沖縄も大事だが、ぼくにはこの「働き方改革」がどうなっていくかが第一に思える。なぜなら、暮らしをささえてるのは唯一、生産手段をもたない者にとっては日々の労働だからだ。

 その応えの一つとして今月に新潟県知事選挙がある。
 これまでの安倍政権への解答になるのかもしれないなあ…。
 とはいえ、これからの身近なところへの変化をどう理解していくかいうことが最も大切なことになってくるだろう。
 どうもめんどうなことばかりが多くなってきたようだ。それに今月から再雇用という身分で、不安定な日々が続きそうだ。こうも勝手に法律を作られては右往左往している人のことなんか考えていないのではと思う。いやに皮肉っぽくなってしまったようだ。どちらにしろ、老齢でもう棺桶に足を突っ込んでいる。あと何年生きられるかは神のみぞ知る…ということだ。ただ、生きている間は納得したことを言ってくれる人に出会える日を楽しみたいと思うだけである。それだけだ。




【浅草駅】
 浅草駅を降りて、言問橋(ことといばし)の方へむかって歩くと靴や靴にまつわる道具の店が目に入る。
 皮の匂いがする。記憶がよみがえるのは新品の野球のグローブの匂いだ。
 浅草といえば浅草寺。都内屈指の観光スポットであるのだが、ぼくにとっては一年に一度の靴のバーゲンにむかう土地だ。道をいけば、観光客が歩くすがたが多い。それも、中国人だろう人々が圧倒的だ。地下鉄銀座線もようやくきれいになり観光客をむかえている。昔から変わらないのは天井の低さ…、これは今も昔も同じ。
 地下鉄の天井の高さを変えるのは簡単にはいかないらしい。列車は美しくなったと思う。地上では観光バスが多い景色を眺めれば、地下鉄はほとんど働く人を運んでいるにちがいない。
ぼくにとっては、浅草はちょっとのぞいた土地でしかない。この土地に足を運ぶようになったのは年に2回の靴のバーゲンあるからである。それも、自分の子どもが働いている靴会社のバーゲンだから行くだけである。ときどき、ほり出し物もあって、安くなった靴を買い求める。

なんの因果だろうと思うことがある。今は亡き兄も靴を商売にしていた時代があった。それも完成品ではなく靴のある部分を作っていた。子ども心に「この靴はいったいどんな靴になるのだろう」といつも思っていた。皮の紳士靴である。「どんな人がはくのだろう」。運動靴しか知らなかった子ども時代にそう考えたこともあった。靴は、はいて早く走れる靴しか興味がなかった時代だった。はいている靴がその人の人柄まで表現するなどとは関係ない時代だったのだろう。
 今は、その想像していた靴をはき、ときどきは磨いてはている自分がいる。
 そして、今は靴にも場所を選んではく靴もあることを身近に感じている。例えば登山靴。ぼくの登山靴はもう30年以上もはいている。靴底はビブラムであるが減ってきている。それでも靴底以外はぴかりと光っていて、はいて山歩きをするのには何の問題もない。山歩きだけでなく、台風などのときもはいていることが多い。頑丈なのだろう。酷使している。そのことにっよってぼくの安全が保たれているのだろう。

 靴は時代によって流行があるようだ。最近の紳士靴は魔法つかはいているような先がとがったデザインのようだ。ぼくはまったく興味にないデザインなのだ。
 とはいえ、靴は最先端でもその職人はいまだに「親方」という言葉が耳にはいるたびに労働組合もない会社が多いのだろうと思う。ここでもいまだに「女工哀史」のようなものが残っているのだろうと思う。子どもの労働条件を聞くたびにそう思う。
靴を磨きつつ、働く条件も磨かない時代につくづくいやな世の中だ思う。



 今月はサッカーのワールドカップを楽しみにしている。さてどんな試合をするのだろうか。予想は一勝もできずに終わるのでは終わるのではないのだろうかと思う。まだまだ…。ミスのない試合がどれだけできるのだろうか。

 だんだん暑くなってきた。暑いなかの散歩はきつい。それでも日影を求めてあるく工夫も必要になってくるだろう。いままで気がつかなかったことも探せるかもしれません。

 「年金の証書」をまざまざと見たら、数字があっけなくならべれていて「自分が働いて受け取るお金がこんなに少ないの」と思えた一瞬でもありました。それでも、ミスの多い年金機構からちゃんと届いただけでもありがたく思いつつ眺めた証書でした。

 さて6月に入りました。国会も今月で終わるようです。どんなドタバタがあるのやら。もしかして「解散」なんてことがあるかもしれませんよ。
 前回の解散はやっぱり電通の社員が「過労死」でなくなって、その後「働らきかた」の国会に入る前でした。なにがなんでも採決してしまおうという民主主義も一度や二度なら、と思うが再三繰り返すという暴挙はファシズムではないのではないだどうろうか。身内が自浄能力もなくなってしまったということなのだろうか。これは危険ではないかと思いますが…。

 今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。