こんにちは。
雨が毎日に続いています。なにをするにも天気を見て…、という日々が続いています。それだけ、お天気が気になる民族だと思うと、だれかが言っていたように日本人は「農耕民族」なのだろうとつくずく思う毎日です。
さてサッカーワールドカップは峠にかかり始めています。各予選ブロックの決勝トーナメントに進む代表チームも決まり始めています。コロンビア戦で大金星をあげた日本代表の今後を期待してしまいますね。
今日、日本代表は深夜にH組のセネガル戦になっている。きっと、見ることもなく録画で済ましているのだろう。ワールドカップにどうしてこんなにも騒ぐのだろうと思うことがる。ある監督が「ワールドカップは戦争でもある…」というようなことを言っていった。相手の戦術、クセ、選手右利きか左かなどの特徴を徹底的に分析し、自軍を組み立てゴールにむかってチャレンジする動きがまさに戦争のようだということなのだろう。一時撤退をしながら、チャンスをつくる、一挙にアタック(カウンター攻撃)するというのが似ているのだろう。また、クラウゼヴィッツの『戦争論』まで飛び出してくるのである。
まあ、こんな戦争ならいいだろう、と思いきや、これは前哨戦のような国もあることを忘れてはいけないのだろう。旧ユゴスラビアやクロアイチアやスイスやセルビヤなどはコソボ紛争の影をもちながら選手がチャレンジしているようにも見える…。選手は国を背負って戦っている。そんな思いを日本はあるのだろうか。次のポーランド戦はそん気持ちが起こさせる一戦でもあるように思える。
今月は、ふと思い出したような本2冊の紹介です。どちらも新刊ではなくて昔から読み継がれてきた本です。レイチェルカーソンの『沈黙の春』はなんと15~16年前に購入してきたものの本棚のすみにねむっていたような本でした。ページをめくってみたら半分ほど読んだ後があったので、途中でやめてしまったのだろうと思います。どういうきっかけで、読んだのかその辺はすっかり忘れてしまったのですが、今回あらためて読んでみて、内容はちょっと古いと思いますが基本は同じ仕組みの現在を考えます。農薬の被害はきっとあるのだろうと思います。ですが、私たちのめに前に現れるのはほんの一部にすぎないということをらためて感じることができます。例えば医療被害などで、 子宮頸がん予防でワクチンをした女性が被害の被害。ほとんんど当事者でないと私たちにはわからない仕組みがほとんどです。知らないことを知ろうとすると、大きな分厚い壁がたちむかってくるのでしょう。それをひもとく糸口を待たせてくれる本なのだろうか…。そんなことを思う一冊でした。
■p25 人類がはじまって以来、いままで経験しなかった宿命を、私たちは背負わせれている。いまや、人間という人間は、母の胎内に宿ったときから年老いて死ぬまで、おそろしい化学薬品の呪縛のもとにある。
■p64 どこまで切れることなく続いてゆく毒の連鎖、そのはじまりは、小さな、小さな植物、そこに、はじめ毒が蓄積された…そのう考えても間違いはないだろう。だが、この連鎖の終わり…人間は、こんなおそろしいことがあるとうはつゆ知らず、クリア湖から魚を釣りあげてきて、夕食のフライにする。大量のDDD、それもくりかえしたDDDを口にすれば、どいう結末になるのだろうか。(「地表の水、地底の湖」)
■p79 植物は、錯綜した生命の網の目の一つ、草木と土、草木同士、草木と動物とのあいだには、それぞれ切っても切りはなせないつながりがある。(「みどりの地表」)
休日にはよく多摩川に散歩にいく。歩いている道々、草木の愛仇をたくさんの虫たちが陽がのぼるやいなや活動を始めている。ときに刺されてしまう虫。暗い場所にいちもくさんに隠れる虫と、新聞を読んでいる目の前を大群で飛びかう虫たち。その動きがあまりにも不愉快に思うこともある。ときには、小さなアリが自分より大きな死骸になった虫を運んでいる光景をみたりすと面白くも思うことがある。地上に生きている虫たちは、自分がどれだけ生きて、どこに生きているかということなど考えているのだろうか思うことがある。
そう思うと人類と虫とはながいつきあいなのだと思う。
ときには、人間においしいものを提供してくれているのだろうし、時には人間に大きな害をもたらしてきたことも事実なのだろう。
例えば、うまいワインがあるのは、飛びかう虫たちの受粉のおかげであり、デング熱などは同じ虫たちのせいでもあるのだろう。マラリアなどは蚊が媒介するなどと聞くと、やっぱり害虫になってしまうのだろう。
『沈黙の春』はその虫たちと人類の興亡が書かれいる。それも一方的な人類の勝手な行動によってである。人間に害を出すのは害虫として駆除する方法を考えてきた興亡史でもある。さらに、その弊害を徹底的に実験、調査した本でもある。その結果、その害は、虫たちだけにとどまらず、虫を食している鳥たちも、さらにはその鳥を食べる肉食動物へとつながっていることを知らせている。さして、おそろしいことは最後はその害は、人間に戻ってくるということに警告を発している。生きていきために必要な「食物連鎖」のなかでどれだけ人間はバカなことをしてきたのかということを延々と述べている。
その結果、もたらされる害は、つきつめていくと虫にも人間にも害であることを再認識させてくれる。ただ、虫と人間の違うのは、結果として利権がからみ、本当のところを隠してしまう人間のいるということだろう。その影響は弱者へと連鎖していくことだろう。
例えば、原発事故でいちばん影響を受けたのはそこに住む人たちであり、生き物たちだ。それでも、同じように再稼働して事故が起きるまで知らん顔をしている人間の罪深いことがある。わかっていても、害をまき散らす人間がいるということも、それによって生きていくことさえ困難な人たちをつくってしまうこともわかっている。
『沈黙の春』は人間のいかに自分勝手に生きてきたかへの警告でもあるのだろうと思う。「そうは言っても、こうして今まで生きてきたのだから」という人たちもいることは確かなことである。そういう人たちへは、「生き方を考えてみてください…」と言っているようにも思える一冊でもあると思える。
便利、快適、安全がいかに不安定ななかで、誰かが犠牲になっていることをつくずく考えさせる本でもあるのだろう。
*化学薬品をそうとう憎んでいる。人間勝手し放題に反省と改革を切に望んでいる。日々の足元に生きる小さな生き物の助けをかりて生きていることを知れ!…とも言っているようなカーソンさんです。
※『複合汚染』(有吉佐和子著)も同じような内容であります。
久しぶりの北杜夫さんの作品である。以前『楡家の人々』という小説を読んだことを思いだした。この小説は、ある医院の家族の人たちを描いたものだった。今回の小説も家族のことを書いている作品だ。
時代は日露戦争が終わったあたりだから明治時代から始まっている。ブラジル移民政策に新天地を求めた人たち話。移民の条件が家族であること、妻帯者、兄弟であることなどがあった。移民をした人たちの中には、兄弟だ、家族だという条件をいつわった者もあったという。中味は他人同士であったり、遠い親戚のいとこ同士であったりしたともいう。移民の理由は、今の貧しさからの逃避。国としては新しい資源を求めてまず民間人をおくり、開拓して植民地にしようとう政策だあった。スローガンには「新開拓地に夢をつくろう」というものだったかもしれない。いずれにせと、国と貧しい人々が利害が一致して移民が実行されたのだろうと思う。
しかし、新開拓地でまっていたものはとてつもない原始林であり、医者もいない未開拓地。そして、マラリアによる移民の多くの死者がでていく土地でもあった。移民しても、移民先の開拓地がマラリアによって全滅してしまい、ブラジル国内でさらに移動。移動先で安住できたとしても、太平洋戦争の影響もでてくる…。
ぼくがこの本を読みたくなった理由の一つには、「これから家族はどこへ向かっていくのだろうか」ということがあった。家族を支えているのは貧しさだろうか、豊かさだろうかということも考えてみたかった。『輝ける碧き空の下で』の作品は裸一貫で移民して人々は何をもって支えて生きたのだろうかということを読んでみたかったのだろうと思う。
貧しく苦しい移民の人たちを支えてきたものは何だったのだろうかと思えたからだもある。移民の理由が「貧しさからの脱出」という移民者から、少しずつ開拓も軌道にのって豊かになっていくなかで何を考えて生きていったのかということも読んでみたかったのだと思う。
事実「貧しから脱却」した矢先におきた戦争もあった。それでも、家族が知恵をふりしぼって生きていく姿が素晴らしいと思えたのだった。足らないものは足りている者からの協力が大切なことなのだと思う。貧しさは恥ではなく、そこから支え合っていくことが大事なのだと思う。
この小説には、むかうべき方向があるように思う。
そんなことを考えた本だった。
*時代に翻弄される人々…それはなにをかくそうぼくの姿であり家族のかたちであります。その家族をくいものにする人たちは「勝ち組」なのだろうかな。秋葉原で殺人意見を犯した男性を思うと、「悪党」とは割り切れないものがあるような日々でもある。
【新富町駅】
仕事で一週間に一度、「新富町」で降りる日々が続いている。本社の板橋区からバスと電車を利用して約1時間ばかりのところである。東日本大震災があるまで永田町で降りていた。震災後、会社は千代田区から板橋に移った後のことである。
もし、震災かが起こっていたなかったらどうだったのだろうかと思うことがある。築60年以上の建物だったので「そろそろ」と思っていたのかもしれない。それでも自社ビルであればそうもいかないだろう。なぜななら、自社ビルであれば家賃を払う必要もなく、その分利益もあるからだ。なんともやりきれないことが起こったと思っただろう。震災後、ビルの壁にはヒビが目につくことが多かった。震災の揺れの時は避難したのは前の道路であったり、近くにあった図書館でもあった。一夜明け、動き出した電車にのり家路にむかった記憶がある。
会社は、翌年に工場のある板橋区に引っ越していた。
館内に残った一部のお客が溜池山王に引っ越した。そのときから、出向という形で仕事が続いている。そこでは「一人職場」となり、通勤するようになった。家賃が高いということで、お客の方が引っ越した。それが新富町だった。スペースがなく狭いビルになってしまった。これまで通り、仕事をするパソコンの置き場はなかったため常時いることが困難になった。そのため一週間に一度出向して仕事をするようになった。そして、ぼくは定年退職後は「契約社員」としての日々が始まった。
日々、これでよかったのだろうか…と思うことがある。これからも続くであろういまのお客に対して正社員の対応が大事ではないかということである。そんなことを思いながら週一度の出向は続いている。
仕事は生活を支えるために必要なことだろう。それが、会社の利益を得るお客であれば契約社員が出て行って仕事をしていていいのだろうかと思う。なぜなら、賃金も安くなり、ボーナスもなくなった社員に「同じように仕事を…」はむなしく聞こえるばかりではないか。賃金が安くなろうと税金は、しっかりと取られていく現実の中で、会社のいうことはなんとも「ウソ」のように聞こえてしまうのだった。「ウソ」も思いこめば「本当のように」というのが人間の心理のなかにあるというが、やっぱりウソっぽいと思う年である。
そんなことを、思いながら週に一度降りる駅である。週に一度の出向日だけバスの時間、電車の時間を思い出す駅でもある。
毎日雨空ばかりみていると時々、青い空が恋しくなってくる。なんとも身勝手な気がするがそれが人情だろう。ときに人間はわがまま動物だ。
「今月の本棚」という週なのでついでに気になる記事が新聞で紹介しておきたい。
「止まらない書店数の減少」(毎日24日付「社説」)である。
「町中の書店が消えていく」といく記事であった。「…1996年をピークに長く続く出版不況のなか、書店を取り巻く環境は厳しくなっている。書店調査会社アルネディによると、今年5月1日現在の全国の書店数は1万2026店。10年前に比べ3割近い減少だ。一方伸長しているのが、電子出版市場だ。昨年は電子コミックの販売額が初めて紙を逆転した」。
便利さはわかるがそれでも書店数は減るのは悲しい話。情報を得るとき、パソコンやスマホで済ましているだけではことの本質は見えないというのがぼくの持論である。最後はやっぱり、ちゃんと自分の手元のものがいちばん信用できるのではないかと思う。
とはいえ、年々賃金も下がれば小遣いも減るのは世の中の常識だろう。そうなれば、本を買うお金などないのが現実になってきている。せめて新聞だけはと買って読もうと思う。その代わり図書館に行っては面白そうな本を探して借りてくる日々である。しかし、生来の怠け者で本を借りてきてもおよそ3分の1くらいしか読まないことが多い。それでも、面白くてしようがないのは「延長」して読むようにしている。世の中知らないことばかりだから面白いのだろうと思う。
さて、今週はお天気が続きますようにと願う日々である。
これまでの史上最低の契約を身をもって(賃金)感じ取る週になるだろうか。やってられるかなー、という元気も年々失せてくる。株主総会もあるそうだが、これは全然かやの外なので、どうでもいいと思っている。最近、役員の声も聞かなくなったなあー。
6月も今週で終わりです。
梅雨がはじまり、大阪北部地震があり、国会が延長されました。山歩きに行こうと計画しても、当日雨が降っていることが多いので延期にするほかありません。仕方がないでしょう。雨の日は天気の日よりリスクは高くなります。静かでいいのは若いうちです。無理がきかないことは自分がいちばん知っているつもりです。来月の連休のころにまた計画していこうかと思います。
そしてもうひとつ、住宅ローンのことも考えなくては…と思いつつ日々が過ぎていきます。これからのことを少しずつ勉強していかいなといけなのでしょう。誰もやってはくれませんからねー。
来週木曜日にはサッカーワールドカップ決勝トーナメントをかけたポーランド戦があるようです。すでに、ポーランドは予選敗退となってしまいましたが、予選最終戦「意地」の1戦になるかもしれません。
読んでくれた人、ありがとうございました。