こんにちは。
昨日から台風12号が迷走しているようすです。週末には関東地方に接近しては雨や風、たつ巻などを残して西へむかっていました。先週から西日本の豪雨災害があったばかりだったのに、またしても…と心配するところです。
日曜日には関西地方の被害状況が気になるところです。
さて今週は台風12号の進路を追ってニュースが流れていったように思います。恒例の隅田川の花火大会も29日(日曜日)に延期されました。連日の猛暑で「暑い」の言葉が少しのあいだ聞かれなくなった思いきや被害の大きさに沈黙するばかりの休日になってしまいそうです。
そして「政権のやりたい放題」の国会が閉幕しました。国会審議で期待した「働き方法案」もけっきょく残業代はずしの形で野党の猛反対のなか強行突破採決したのでした。さらに、西日本で集中豪雨のなか「赤坂自民亭」では与党議員が酒宴をしていました。野党議員が「博打法案(カジノ法案)の審議より、今は豪雨災害の対策が先でしょう」の意見の中でも強行採決が行われた国会でした。いったいこの国の政治哲学はどこへいってしまったのでしょうか。
「森友・加計問題」は置き去りにしての法案採決の日々が見せつけられた日々でもありました。
この間、与党国会議員関係者の収賄疑惑や差別発言がありました。それでも、すべて置き去りで自分たちの意見をなにが何でも通してしまう行く末は「ファシズム」へ向かっているのではと気をもむ日でもありました。
そんな中で沖縄県の翁長知事が「辺野古新基地」反対の行動で法廷闘争に頑張っていました。これはこれからの貴重な民主主義のありかたが問われると思います。そして、法律の本来あるべき「誰のための」がわかるような気がします。
はやいものです。7月も終わりです。
最近、近所の本屋さんに久しぶりに立ち寄ってみました。新刊書の前で高校生らしき二人が「夏休みに読む本を探しに…」という声が聞こえてきました。学生さんたちは夏休みになったことを忘れてしました。どうりで、朝の通勤時間の電車が思いのほかすいていることに気がつきました。
夏休み…。ぼくが最初に読んだ思い出にある本は『怪盗ルパン』という本でした。小学校4年生くらいだったでしょうか。内容は忘れました。でも「おもしろかった」という感動はありました。その感動を今もあじあうために読んでいるのかもしれません。いろいろな感動があっていいと思います。
※決壊する河川,崩壊する山々,危険をはらむ土砂ダム…….東日本大震災から半年後,紀伊半島を襲った台風は百名近くの犠牲者を生んだ.いったい何が起きたのか.どんな危険が身を襲ったのか.奈良県十津川村,和歌山県那智勝浦町の現場を,ノンフィクション作家が行く.豪雨のリスクに無縁な地は日本にはない.首都水没予測も含め,豪雨災害の実態を伝える迫真のドキュメント(岩波書店紹介より)
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■p35 私は台風二号で村が孤立する中で、そうしてこれまで営々とつながってきた十津川の文化、十津川人の魂を守らなければならないと強く感じました。山に入って木を切れば飯が食えた時代は終わり、山を捨ててネクタイを締めて会社に行く生活をする時代になったけれど、そのなかで失われた大切な何かが、この村の歴史の中にある。
■p124 そうした自分の気持ちに置き換えれば、災害で家族を亡くした悲しみというのは、時間は経つにつれて忘れるのではなく、むしろ甦ってくるものなんですよね。その気持ちを表に出してしまったら、僕の場合は前に進めなかったけれど、こうして一年が過ぎてみれば、遺族にとってこの災害はまだまだ終わっていないし、つらい日々が続いていることが分かるんです。
p142 災害は社会を反映する鏡。その地域や都市の開発の過程で、水田を宅地化していれば貯水池が減ってリスクが想定よりも上がるし、これまで人が住んでいなかった場所に工場ができれば、それだけで災害の様相も変化する。同じように生活のあり方が変化すれば、人々の避難行動も変化していくわけです。だからこそ、あらゆる都市づくりはその計画段階で水害がどのように起こるかを考慮し、対策を打っていかなければならないはずなのですが、ほとんどそれを考えてこなかったのが日本の都市の一つの現実だとお思います。
p143 災害というものは本来、被災した側から調べるもの。
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ぼくが、町の道も畑も田んぼも水で埋まってしまった景色を見たことが一度だけある。一面が大きな池のようになってしまっている景色である。四国に帰省した夏だった。台風によって住んでいるまわりがすべて埋まってしまった景色だった。それでも、水道や電気は停まらなかった。お盆の夏休みも終わり東京に帰れたのは一週間後だった。帰る前日気分が悪くなり病院にもいったので覚えている。水が引くまでどこへも出られなかったためのストレスだったの診断だった。水がありがたいものである反面これほど怖い存在だということを身をもって知った瞬間でもあったように思う。
『ドキュメント豪雨災害』(稲泉蓮著・岩波新書)という本は、2012年に紀伊半島を襲った台風での災害の模様を伝えた本である。2011年に東日本大震災の後に起きたことで地元の人以外は記憶にうすれてしまっているかもしれない。
まさに、この災害の模様は今月起きた西日本災害を映しだしているようにみえることが注目に値する。
なぜこうした災害が起きてしまうのか、そしてそこに住んでいる人々は対応していくのかということを説き明かすヒントになっていると思える。
それが日本の地域の特徴であるからということではなく、いつでもどこでも起こりうることだということがわかってくる。
たとえば本書でいう東京の「ゼロメートル地帯」では水害対策が喚起されなかればならないことを書いている。土地が狭いために、地上高く建設されるビル。そのビルを利用する人々が通う交通機関。都内は多くの地下鉄が走っている。水は上から下へ流れることから、荒川や多摩川が決壊すればただちにゼロメートル地帯に洪水が起き、さらに地下鉄へと流れていくということが懸念されている。
2020年の東京五輪もある中ますます大きなビルが建ち、そこに人を運ぶ交通網も整備される。しかし、人々の経済優先の建築が水害の問題を置き去りにしていけばさらに被害は甚大になっていく。それが「災害は社会を反映してる」ということでもあろうと思う。
水は生命とってとてもありがいたもの。しかし、その水を生活に生かしていくためには、水を凶器にしない工夫された対策がなによりも大事なことを訴えている。それは、災害あにあってしまった地域の人たちが中心になってその対策を提起していくことが大切だろう。
そして、その提起を受け入れる政治姿勢がだいだだろう。豪雨にしていまうのは人間の生活のメカニズムの結果であって、お天気のせいではないということを肝に銘じていかないといけない時期にきているのではないかと思う。
※最近、本屋さんにいっても立読みはするものの買わなくなってしまった。いちばんの理由に賃金がさがり、それに比例いして小遣いが下がったということだ。新刊書の紹介がを見るたびに「読んでみたい」と思うのだが高い本には手が届かないのが現状だ。半年もまてば図書館にあるのでそれを期待する日々である。半年もたつと「思ったより面白くない」という本も多くあるのも本当のところだ。そんなとき「どうして、この本を読みたかったのか」ということを思いだすこともある。忘れないようにメモしておきたいものである。
『ドキュメント豪雨災害』は、買っておいたから読めたものである。もしなかったら読まずに終わっているただろうと思う。そう思うと「本との出会い」は人と人のめぐり合いのようなもので、会えることことが偶然かと思う。
そんなことを大事に思いつつこれからも送っていきたいと思う。
※長崎に原爆が落とされた翌日、B29搭乗員だった米兵捕虜が斬首された。見習士官として上官の命令に従った青年佐田野は、戦後、絞首刑をおそれ逃亡をはかる。そして――。戦争の罪と罰を問う緊迫のノンフクション。第54回日本エッセイスト・クラブ賞受賞作(本紹介より)
■p82~83 中野学校の内容は、その特殊性から戦時中はもちろん、戦後になっても国民に明らかにされてこなかった。創立されたのは昭和十三年七月、廃校となったのは二十年八月である。この間七年、わずかな期間だが二千百三十一人の学生が卒業し、この中で戦死者は二百八十九人(『陸軍中野学校』)いる。
同校ができたのは昭和十三年は、言ほんの将来の転換期と言える年だった。前年七月にに、中国の盧溝橋で日中両軍が衝突して日中戦争がはじまり、十一月になると日独伊三国防共協定が締結され、国内では改正大本営令が公布されて軍事色は一段と濃くなった。近衛文麿内閣(第一次)は十三年、中国との和平工作を打ち破り、国家総動員法(生活関連だけでなく教育、言論まで政府が統制する法律)を四月に施行した。中国大陸の侵攻を強化して十がつまでに南京、広東、武漢を占領し、さらに十一月になると、東亜新秩序建設方針を声明した。中国以外の南アジア諸国にも「解放」政策を広げ、共栄圏確立を口実に軍隊を派遣する挙に出た。この方針は、大東亜戦争の導火線となり、やがて太平洋戦争へと戦禍はかくだいすることになる。
■p91 新聞は特攻隊の華々しい戦果を連日報道しているが、戦局は日を追って悪化していた。いくらカラ元気を出しても、勝つ――とは、ほとんど国民は思っていなかった。ひたすら敵に後ろをみせたくない、卑怯者、非国民になりたくない、その一心で一日を生きることに慈しみを強くした。
■p211 原告アメリカ合衆国ハ米国第八軍司令官ノ召集シタル軍法委員会ニ被告人サタノオサム(SATANO・OSAMU)ヲ左ノ理由ニ因リ起訴ス
元日本帝国軍人ニシテ当時ノ知レタル称呼陸軍見習士官被告人サタノ・オサムハ、米国並ニ其連合諸国及諸属領日本国ト交戦期間中、本起訴理由書ニ付属スル罪状項目中ニ掲ゲタル時及場所ニ於テ、戦争法規並ニ戦争慣習ニ違反セリ
罪状項目 被告人サタノ・オサムハ、1945年8月10日或イハソノ頃、当時日本帝国陸軍西部軍司令部付一見習士官トシテ勤務中、日本国九州福岡市近郊所在油山又ハソノ付近ニ於テ、故意且不法ニモ西部軍司令部ニ監禁サレタル米軍俘虜八名中ノ姓名不明ノ俘虜一名ヲ刀ニテ斬首殺害セリ。連合国最高司令部・法務部長・アルヴィ・シー・カーペンター
■p224 「判決、被告人を重労働五年に処す」――トンプソンの声が法廷に響いたとき、その喜びはどんなに大きかったかは、想像に余りある。ちぎれるほどハンカチを握っていた手が緩んだのではなかったか。
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いま政治はどこを向いているか? という質問がときどき言われているように思う。特に安倍政権になってから「森友学園」問題で一部映像に「教育勅語」が暗唱する園児が映し出されたとき、その流れは一政治家だけの責任になるこよよりも根は深い気がした。そして、あのような光景のなか戦争は足元をがんじがらめにして「命令」に身動きできなくなっていったのではないかということが考えられる。それがある意味茶番に見えるかもしれないが、多くの人がその方向になったら茶番どころか現実になってしまうのではないかと思う。
「戦争」という言葉から思い出すのは父の脇腹を貫通したあとの傷跡だ。
いまは亡き父親が一度だけ、その傷の理由を言ったことが思い出される。戦争とは、殺し合いなのだということがリアルに語っていたように思う。
『逃亡(油山事件)戦犯告白録』(小林弘忠・中公文庫)は、戦争の傷跡を引きずった人の話である。その人は戦犯として、裁判にかけられ判決を受けるまでいかに逃げ、逮捕され、裁判に向き合っていったのかを書いたノンフィクション。
逃亡生活3年を経て、逮捕され巣鴨拘置所での生活。裁判では5年の判決が出される。
戦争経験者が年々亡くなっていくなか、この本の訴えはすべての人が犠牲になることの悲劇をも訴えていることだろう。命令のよって人の命が左右される悲劇が読みとれる。
戦後、戦後というまえにこういった本を読んでみるのもいいと思う。いまでは、実体験者の人が身じかにいることが少ない。戦争によって、破壊されるのは物だけではなく人の大切なこころまでも失っていくことが怖い。
※PS:『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤洋子著(新潮文庫)も合わせて読むといいと思います。日本が戦争へと突き進んで行ってしまった様子を分かりやすく書いています。興味のある方はこちらもおすすめです。
【大塚駅】
久しぶりに大塚駅に降りた。40年ほど前は、駅も地面にあったと思う。いつの間にか地上に上がっていた。これも、都市という地形のせいだろうか、それとも駅そのものが利益をあげる建造物になる必要があったからだろうか。都内の駅は地下にもぐったり、駅が生き残っていく場所も年々変わっていくようだ。
20歳台のころ、会社の仕事を覚えるために来たことがある。入社して2年目くらいできたのだろう。印刷業界は『メディアの興亡』という小説があるが、まさにその時代と同じように、印刷業界の分岐点だった時代でもあったのだろう。鉛からからフィルムへと新しい技術も覚えなくては会社も時代の流れに乗り遅れてしまう…ということだったかもしれない。
駅を降りて15分くらい歩いた「写研」という会社の学校に通った記憶がよみがえる駅である。一週間くらい朝から午後5時まで研修を受けていた。いま思うと勉強していたパソコンでもなかった。一部手動で動かし級数を調整してシャッターをきる電算写植機というしろものだったと思う。「男はつらいよ」という映画で、タコ社長の会社にあった写植機と同じだった思う。自分の打つべき文字を「文字盤」というガラスの板から文字を探した。探し当てた文字を写真機のようにシャッターをきってその文字だけのフィルムに写す機械であったように思う。最初は何がなんだかわかあなかったが、通ううちに全体の流れの仕組みがわかってくて楽しかったように思う。さらに、他の会社から研修生もきていて、話し合って覚えていくことがよかった。
職場に帰ってきてからは、応用編という形で少しずつ、自分が働いていることへの自覚ができていくのが楽しかった。先輩の助言もよかった。
2度目の学校に通ったときは、今度は今のパソコンのようなものでもない。(今のパソコンのソフトより、大変優秀なソフトだった思う)。
仕事の勉強もよかったが、職場の雰囲気がよかった。従業員それぞれが自分の趣味をちゃんと話せる職場だった。もちろん仕事の話もしたものだった。
人間のつながりの中に仕事があり技術の習得があったように思う。
最近は、新規採用をしないところで、人材派遣会社から派遣社員を依頼して仕事をするようになった。だから、「即戦力」という言葉もはばをきかせるようになった。しかし、派遣社員さんは仕事はするが、人間関係が希薄であり、労働というなかで人の人との関係が仕事を育てつくりあげるということはできなくなったように思える。職場でも新規採用をして、その人の技術を覚えさせ、さらには人として育てる…ということができなくなってきたようにも見える。(これが、会社の生き残りの経営だと、誰が言い始めたのだろうか)
だから人が仕事を教えて、そのための工夫しながら、その仕事の面白さは伝わらないまま終わっていくのだろうと思える。さらに、派遣会社に頼りすぎてしまったせいか、今の若い人たちが後継者を育てるという大事な仕事が抜け落ちているようにも見える。その結果、職場が仕事さえ終わらせれば終了という形になっているようにも見える。
時代の流れの中にさからえず会社はいつのまにか、人を育てることが仕事でもあることを忘れたようだ。まして、企業が次世代に受け継がれていくことをかんがえれば、人材会社から派遣社員ではないのだろう。本当に育てる気があれば、正規社員から育てることが大事なのではなのだろうか。
今の会社は、今の駅のように爪先立ちで不安定なところがあるように思えてしょうがない。事実、他人にばかりたよって自らの人を育てることを忘れかけている会社は、先もみえてくるだろうか…ね。そんなことを考えさせる「大塚駅」でした。
台風12号が夕方になってからおそまってきたようだ。
今月は「命を守るために…」というアナウンスを聞く日々が多かった。
例えば「命を守るために、ためらわずエアコンのスイッチを…」だとか「水分を十分に摂って…」などいう声が耳に残った7月である。
確かにこの猛暑なかで、一日中いたら「熱中症」にかかって命も危うくなるのもわかる。事実、7月になって「熱中症」によって亡くなった人も多く報道されていた。
とはいえ、「勝手なことをいうな」という気持ちもある。言われなくても暑くなれば涼しいところに移動する。しかし、移動がかなわないことが多すぎるから「熱中症」になるのだろう。つまり無理をして生きていることが多すぎるのが今の日本の働き方ではないかと思う。60歳すぎて安心して生きていける社会とか安心して子どもが産める社会とか…。産めなくてもお互いが尊重できる社会をつくることが大事なではないか。
そんなことは当たり前…などと思えなくなってきたからなおさらそう思えてしまう7月だった。なにか、他人事のような言い方が多くなって聞けた月でもあった。悲しいかな…。
夕方の多摩川を散歩すると、トンボがいっぱい飛んでいました。
暑い、暑いといっているうちに着実に空気は秋にむかっているように思います。
とはいえ、まだまだ暑い日が続きますかね。読者の皆様も無理をしないことを心がけて日々を送ってください。有給休暇のある人はちゃんととって、休んでください。ゆっくり休むことが大事です。
最近、定年退職した人から電話がありました。田舎に帰り、今は「サンデー毎日」を送っているそうです。でも、あまりにも暇なので悩むこともあるそうです(何とも贅沢なことか?)。帰る田舎が健在なだけいいなあーと思います。ぼくなどはもうどこへもいけなくなりました。ここが田舎みたいなものです。今週は8月にはいります。そしてお盆です。墓参りは一人で静かにいっててこようと思います。そして、やっと年金が振り込まれる月でもあります。少ないと思います。少ないでしょう。これからのことも、年金が振り込まれて考えなくてはね…。
読んでくれた人、ありがとうございました。