日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

暑中お見舞い申し上げます。

2019年07月28日 | Weblog


  こんにちは。暑中お見舞い申し上げます。

 台風6号が関東に接近・・・というニュースが金曜日ごろから報道されていました。ところどころでは集中豪雨があることも伝えられいます。東海地方は台風が去ったときから「梅雨明け」が伝えられていました。関東地方はいまだにその宣言はないようです。

 通勤途中で見かけていたツバメの巣からはすでに姿が見えなくなっていました。毎朝、朝一番にみかけた飛んでいる姿はそれであったのでしょうか。代わってセミの鳴き声が聞くようになってきました。自然は、誰に何にもいわれなくと着実に進んでいるようなっています。

 さて、今週に参議院選挙の結果が出ました。あい変らず投票率の低さが目立っていたようです。さらに18歳から19歳の若者投票率が低かったことが話題になっていました。どうししてこうなってしまうのかは学校教育の影響でしょうか。高校生や大学生などの投票率が低いということは、この国の将来にかかわることでもあり重要なことなのではと思います。主権者教育ということがまだまだなのでしょうか。学校の教員に政治的中立という立場で主権者教育ということをするということに難しさがあるのことも事実であるようです。まして、「道徳教育」というのが足かせになっているようにもみえますが。

 

 

  はやいもので、今月も終わりです。梅雨であるために青空がなつかしく感じた月でした。片手に傘をもう一方の手に本をという毎日でした。両手がふさがってしまうこの時期の「通勤読書」はなんとも「億劫」なきさえした毎日でした。それでも、通勤電車のなかで読む本はゆっくりゆられていい感じで読めるのが好きな理由になっているようです。いつかは、帰りの電車で、乗り換えるべきところが夢中で読んでいたのでしょうか気がつけば次の駅まで行っていたこともありました。

 さて、今月の本は読んでいて、フムフム・・・とたくさんうなずけるものでした。元来、単純な性格である者ですから「本当か」と思うより「なるほど」と言う方が多いようです。「信じやすくあきやすい」という性格でもあるからでしょうか。『呪いの言葉の解き方』という本は「納得」とも思えるほどでした。著者の上西充子さんは、「働き方改革」国会ではよく目にした名前でもあり、月刊誌の仕事でも聞いた名前でもありました。一度もその姿は見たこともありませんでしたが、原稿用紙では知っていたので興味もありました。

 『「寅さん」こと渥美清の死生観』は、大好きな映画『男はつらいよ』のおなじみの俳優・渥美清さんのことが書かれていたので、読んでいて新しい渥美清という俳優の人間像が浮かび上がってきて楽しいものでした。芸能記者として、渥美清さんが亡くなるまで付き合いを通してますます人間像がでてくる内容はとてもいい本棚とも思えました。今年、年末『男はつらいよ』50作目が封切りなるそうです。渥美清さんなきあと、どんな映画になっているのか楽しみに待っているところです。

p33-34 「文句を言うと、職場の雰囲気を壊す」と思ってしまうと、我慢するか辞めるかしか選択肢がないように見えてしまう。けれdも「使用者が現場に強いていることこそが問題がある」ととらえるようことができるようになると、同じ状況が違って見えてくる。「文句を言うと、職場の雰囲気を壊す」のではなく、すでに職場は壊れているのだ。壊れているのに、無理やり、個々人の努力でカバーするように強いられているのだ。一人ひとりの我慢と無理によってなんとか現場がまわすのではなく、お客さんに適応に対応できるだけの人員体制の整備を求めること、それは「文句」ではなく、正当な要求だ。(「労働をめぐる呪の言葉」)

 p35 とはいえ、問題解決に動くのは、緊張するし労力もかかる。自分に不利益がかかるリスクもある。誰かが状況を改善してくれるならともかく、自分が状況の改善に動くことは、コストに見合わないように見える。だから、何も言わずに辞めることを自分なら選ぶ、という感想が学生から寄せられる。(「労働をめぐる呪の言葉」)

 p36 ・・・就職したあとも、結婚したあとも、子育てにおいても、何かしら問題にぶつかって、自分で解決することが必要な局面は、きっと出てくる。(「労働をめぐる呪の言葉」)

 p37 そして、「変えることができてきてよかった」「おかしなことは指摘していける職場こそがよい職場だと思う」といった、彼らの声を紹介する。それが、ほかの学生たちの「発声練習」につながることを願って。(「労働をめぐる呪の言葉」)

 p70 使用者を登場させず、大事な論点を隠す。政権の意向に沿った印象操作をニュースでおこなう。公共放送としてのNHKの役割が強く疑われるが、そのような印象操作が、その後も「働き方改革」をめぐっては、繰り返されていくことになった。(「労働をめぐる呪の言葉」)

 p111 「ケアレスマン」・・・「十分にありうること」と想定して、それを許容でき、対応できる職場であるのか。それとも、そういう事態に陥った者を排除し、困難のなかに孤立させる職場であるのか。いまの日本の職場は、まだまだ後者であるように見える。労働者は生活者であるということに目を向けず、「働く以上は」と、仕事への献身を求め続けているように思える。(「ジェンダーをめぐる呪の言葉」)

 p115 湯浅は貧困状態に至る背景には「五重の排除」があると語る。

第一に、教育課程からの排除。この背後にはすでに親世代の貧困がある。

第二に、企業福祉からの排除。雇用機会が得られないこと、あるいは雇用されていても食べていけない状態に陥っていること。低賃金、不安定雇用、雇用保険・社会保険からの排除、福利厚生からの排除、労働組合からの排除など。

第三に、家族福祉からの排除。親や子どもに頼れないこと。

第四に、公的福祉からからの排除。生活保護行政が窓口で追い返す「水際作戦」を取っている現状が批判されている。

そして第五に、自分自身からの排除。第一から第四の排除を受け、しかも自己責任論によって「あなたのせい」と片付けられ、さらに自分自身がそれを内面化して「自分のせい」ととらえてしまう場合、人は自分の尊厳を守れずに、自分自身を大切に思えない状態に追い込まれると湯浅は語る。

 p117 「呪い」に縛られていると、自分でなんとかしなくてはいけないと思い込まされて、できない自分の姿は、見せてはいけないのだと思い込まされている。そうやって問題を閉じてしまう。そうではなく、問題を「開く」こと、ひとりではできないことは「できない」と言い、適切な助けを求めることこそが大切なのだ。自分の薄い“溜め”を補うためにはどうすればよいか、どこに助けを求めればよいか、というとらえかたが大切なのだ。(「ジェンダーをめぐる呪の言葉」)

p177 (メディアは国会を報じない)二〇一八年一月から働き方改革法案の国会審議に関わっていくなかで、私は、不都合な事実にまったく向き合わず、何も問題がないかのようによそおう安倍政権の姿勢かを、どうして世の中に知ってもらえるだろうかというも問題関心を強めていった。

 p256 (あとがき)私たちは、言葉を通じてものを考え、状況を認識し、自分の気持ちを把握する。言葉によって、私たちの思考は、行動は、縛られるもし、支えられもする。「呪いの言葉」は、いとも簡単に、私たちを縛ってしまう。その言葉の背後に、私たちは「世間の目」を感じて、あるいは、迎えたくない破局を想像して、怯えてしまう。そういう効果をねらって、力を持つ者は、言葉によって私たちを支配しようとする。ならば、そういう言葉を「呪いの言葉」と認識することが、まず第一歩だ。「あなたは私を縛ろうとしているのですね」と。・・・「そんな言葉であなたに縛られなければならない謂れはない」と思うことができれば、その「呪いの言葉」に対抗する手立てを考えることができる。

 ●上西充子  (ウエニシミツコ)  紹介/1965年奈良県生まれ。東京大学大学院経済学研究科第二種博士課程単位取得中退。日本労働研究機構(現在の労働政策研究・研修機構)研究員を経て、2003年に転職。現在、法政大学キャリアデザイン学部教授、同大学院キャリアデザイン学研究科教授。2017年3月に衆議院厚生労働委員会にて、2018年2月と2019年2月に衆議院予算委員会にて、意見陳述(順に、求人トラブル問題、裁量労働瀬データ問題、統計不正問題)。2018年6月より、国会パブリックビューイング(@kokkaiPV)代表。著書に、『大学生のためのアルバイト・就活トラブルQ&A』(石田眞・浅倉むつ子との共著、2017年、旬報社)、監修に『10代からのワークルール』(2019年、旬報社)など。『Yahoo! ニュース 個人』や『ハーバー・ビジネス・オンライン』に「働き方改革」など時事問題を寄稿。

  以前に、とても口の悪い上司がいたことを思い出しました。いわゆる「毒舌」ということ人でした。それが始末に悪いのは、何かあるごとにまず第一に考えることは「保身」ということでした。相手に責任をあることを自覚させることからはし始めるということが多くありました。「私がいうことが絶対」とでもいうように人に対しての言葉を投げかける日々でもありました。ですから、その上司に何か言われると、二の足あを踏む人が多かったようです。結局、その上司が辞めるときは、誰も送別会をするわけでもなく消えるように去っていきました。けっこう、自分のことをよく知っていたのではないのでしょうか。最近では、上司だけではなく、政治の世界でも多くの恫喝とも思える暴言や相手の思いを考えない政治家の発言が多い状況がつくられています。

 『呪いの言葉の解き方』は友だち同士の会話の中でのことというより、仕事先での上司や政治家の言葉から人が間違った理解をしてきたかを述べています。結果、本来あるべき姿が消え、やる気をなくし、あげくの果てにはその言葉によって人生を投げ出してしまう。

 では、どうししたらよいのか・・・という問いに、多くの事例をあげてそ対処法を紹介しています。これまで何気なくつかってきた言葉を考えるときっと思い当たることがあるようにも見えます。そして、その言葉が常識になってしまっていること。大事なのはそのことを反省して考えていく姿勢が大切なことだというです。その言葉の背後には自分でも考えが及びもしない背景があるということです。それがこの本がいちばん言いたかったように思えます。いまの日本は、ますますこのことが問われる日々になっていることも事実です。まじなことをいっても、政治家同様となりの人も当たり前のように無視されることが多くなっている現実が多々気づかされます。それが、大合唱になってきこえてきたとき耳を押さえて「聞きたくない」といなってしまうことがいちばん危険なときだからということを改めて考えさせられた一冊となりました。

 

 p192 「芸能界ってそういうところよ。伸びてくる者の芽は摘む。人気が出てくりゃ、やっかむ。失敗すれば喜ぶ。心底腹を割って話せる人間なんかいやしない。いや、少ない。外面は和気あいあい、仲良く見せることもあるが、皆、戦々恐々といて生きているんだよ。少しぐらい厳しいことを言われても、恨んだり妬んだりしていては置いてきぼりを食ってしまう。全部自分のために言ってくれると思わなくちゃ・・・。吉川英治じゃないが、”我以外皆我師”これがいいんじゃないか・・・この言葉からすれば君も立派な僕の師匠だ」

p195 「・・・今の気持ちだ。それでだ、ようするに人生は山あり谷ありだ。楽しいこともあれば悲しいこともある。それが一喜一憂していたのでは人生の本当の意味はわからない。楽しいことは楽しいこととして、苦しいことは苦しいこととして、その一つを見つめ、素直に受け止め、じっと噛みしめる。そのすべてが自分の成長のためであり、人生を豊かにしてくれる。それは人生の節となる。乗り超えた時は大きな喜びとなり、自信となり、楽しい思い出となていくもの・・・」

p198 もし、過去の栄光・名誉と平凡な人生を選べと言われたら・・・交換できるとしたら、俺は喜んで栄光を棄てるね。浅草で遊んでいた無名の大根役者で結構、静かに・・・静かに、この世とおさらばできるなら、どれほどそっちの方が楽か」

 

  『男はつらいよ』第50作目が今年年末封切られるようです。寅んがいなくなった『男はつらいよ』はいったいどんな映画になっているのかが楽しみとなっています。聞くところによるとこれまでの映画を部分的に使い50作目をつくるということが言われています。さて、どんな映画になっていりのでしょうか。

 渥美清さんは1996年8月4日(享年68歳)、肺がんのため亡くなりました。『「寅さん」こと渥美清の死生観』には亡くなるまで、芸能記者として渥美清さんを取材した記録です。そこには、映画から離れた暮らしのなかの渥美清が語られていました。映画の中で不器用でバカ正直な寅さんは日々の生活のなかでは繊細で「芸」をきわめるために多くのことを記者の語っていました。

 

  これまで多くの事件をあつかってきた松本清張の作品の語っている。とりわけ、社会的弱者からの視点が注目すべきところだという。弱者か強者にたいするしたたかな反発・・・。

  月末にはかならず有給休暇を取得するようになった。再雇用となりもっと休もうと思っているのだがお客との関係もあるのでなかなか休めない。とくに、雑誌の締め切りには間に合わせないといけないという気もある。だから、月末になってしまう・・・。

 とはいえ、いつまでもできるわかではあるまい。いつかは「引退」しなければ誰も引き継ぎこともできまい。これまで毎年、契約更新の時に「引き継ぐものを選んでおいてほしい」と要望している。だれがなってもかまわないのであるが、いずれ誰かがやらないといけない仕事なのである。病気などでできなくなったときどうすrのだろうか・・・と考える時がある。しかし、それは私の責任ではあるまい、とも思う。できるなら、自分が元気な時に余裕をもっているときに引き継ぐことができればとも思う。どれだけ考えているのかはわからない。

 「働き方改革」で有給休暇をある意味、強制的にとるようになったことが言われた。そんな休みかたはろくなものではあるまい。唯一これがわが会社の「働き方改革」なのだろうか。さみしい限りである。そいうえば、今週、本業と副業の兼業を推進することが厚労省で推進されていることを聞いた。ひらたく言えば、正社員として働いて他の会社にもアルバイトして働くことを推進しているという。しかし、労働基準法では「複数職場の労働時間は通算する」との規定がある。それが、いったいどうなるかというのが問題になっていた。本業と副業の労働時間を合算すれば過労死ラインを超えて労働するようになる。つまり現行の労働基準法では長時間労働は違法になるということになる。いったいどれだけ働けせればいいのか・・・。これではますます過労死が増えるのではないのだろうか。

 今週、参議院議員選挙が終わった。結果は、ぼくの応援する社民党はあい変らずの1議席確保で終わった。「もう1議席」くらいはなかなか甘くないようだ。それでも、政党として今後も活動できる投票数が確保できたことでこれまで通りできるとのことだった。今回とくに目立ったことは、野党共闘はいっていの成果はだしたものの、新しい波みたいに「れいわ新選組」「N国党=NHKから国民を守る党」というのががんばったようだ。これから国会も、弱者の声として「れいわ新選組」の声を聞かないわけにはいかなくなったと思う。それでも、健常者でさえものすごく体力を必要な国会議員活動なのに、「れいわ新選組」の二人はどうやって議員活動するのだろうか。まさに「命がけ」には強力なサポート体制が必要になってくるのだろうかなあ。「N国党」も政党要件をみたしどんな活躍があるのだろうかと思う。そもそも、NHKでの政権放送では、NHKのことを批判していたのには驚いた。最近のNHKの在りかたも疑問視されたきた中にあってタイムリーなこともあったように思う。だいたいワンセグ機能の携帯を持っているだけで受信料を払う義務があるかないかで、最高裁は「払う義務がる」との判断をだした。これは考えようによってはすべての携帯電話は払うようになるということだろうか。それなら、もっと報道の中立化を思えば、政権寄りの放送が目立つ昨今である。そんなこんなで投票した人もいると思う。今後の放送にどんなことが起きてくるのか、活躍も期待したい。

 でも、これらの声を救い上げれなかったこれまでの政党はいったい何をしてきたのだろう・・・とも思う。

 関東地方も梅雨があけたようです。全国的に猛烈な夏の暑さがやってくるのでしょうか。またしても、熊谷m多治見、館林なる地名が登場する季節になってきたようです。そして、今年も「熱中症」での災害がまたたくさん出そう。それにしても、この暑さ「異常」にも思えてしまう。それも年々暑くなっているような気さえする。これからは電気代もばかにならない季節になってくる。

 暑さのためか、今回はなかなかまとまりませんでした。(反省)

 暑中お見舞いを数すくない知人にだす時期になった。みんさん元気であろうか。

 8月になります。さて、どんな月にしたいのでしょうか。

 今週このへんで失礼します。読んでくれた人、ありがとうございました。


選挙がすんで、日が暮れて・・・

2019年07月21日 | Weblog

 

 こんにちは。

 まだまだ毎日雨空がつづいています。「20日間日照時間」がないというニュースもありました。仕事で出向先の海沿いのビルでは、雲間からのぞく青い空がなんともなつかしく思えた1週間でした。日々の通勤路の軒先に今年二代目のツバメの巣から、「いまか、いまか」と飛び出しそうな風景もありました。もう少しで梅雨もおわりのでしょうか・・・。まっさおな空が恋しいこの時期です。

 さて今週、京都でアニメーション会社の放火事件が大きく報道されていました。これまで判明している死者34人といわれています。ビル火災の怖さをものがたっていました。世界のほこる日本のアニメをつくるまでの会社の放火事件です。日本にとっても大きな損失にはちがいありません。これまでのデータや技術が一瞬にして消えてしまうこの事件の背景はいったいなんだろうと思います。人間のなせる非情さとはいえ、なんともやりきれないニュースでした。どうしてこんなことになってしまうのか掘り下げてみれば今の社会か鏡に映るように見えるでしょうか。

 

 今週末、仕事が終わって帰り出向先から本社にかえり「送別会」に出席してきました。60歳で定年、さらに65歳まで再雇用、そして2年間の67歳までアルバイト・・・という人でした。いまは年金生活で送っています。「今年の契約はしない」と言われたそうです。本人はもう少し働きたいということであったようですが、会社の都合で契約はしなかったようです。同じ職場の人もきていたので、その後の状況はどうですかと聞くと「人員不足」ということを言っていました。そしてその不足は誰が補充するのかということも明らかになっていないようです。

 実際のところ、「働き方改革」やら「65定年制」などといわれていますが、町の中小企業では経営者たちに「働きたい」といっても、会社の都合でアルバイトや契約社員はいとも簡単に契約が延長されているわけではないのです。まして、労働組合さえも「働き方改革」といってもなんのプランもみたことがないほどです。やっていたとしても、私たち下々の者にはどうあてはめて、説得して理解させていくか耳にしません。いつも現実に追い込まれているように見えます。

 政府は少子高齢化のために労働力がなくなるため、高齢者にも働いてもらおうと「生涯現役」を推進させるようです。しかし、60歳を過ぎた人に関しての受け皿の各企業の取り組みはぜんぜん進んいでいない状況です。ひとつには「賃金の問題」。「同一労働・同一賃金」とはいっても高齢者の賃金は3~5割程度にダウンして、さらには一時金もなくなる。同企業内でも配置転換によって「畑違い」のしごとになったりしています。他の企業に再就職するにしても労働条件などや賃金も大幅なダウン。仕事の中身もさることながら人間関係も大変のなってきます。そうなるとモチベーションなどもなくなります。(ぼくもそんなところで悩みが多い)。

 まさに政治のつけがこれからますます、弱者によって解除されそうようとしているようにも思えます。それが、「65歳定年制」や「生涯現役」という言葉でくくらられていっているようです。企業は営利集団ですから、何であれ利益があがらなければようしゃなく切り捨てる法則は変わりはありません。事実、最近のニュースで希望退職や早期退職など事実上の「定年前の解雇」が多く報道されています。公務員でないかぎり、営利企業にとってはなさけ容赦なく解雇はあるのです。今の政治にはそうならない計画はないのです。できることは、そうならないための労働条件を日々つくる労働組合の役目は大きいと思います。(労働組合もない会社はもっと厳しいのです)。そんな日がこないためにも政治の役目は大きいなあーとつくずく思った送別会にも思えました。

 帰り際、どうして同職場の現役の人たちの参加がなかったのだろうと・・・。これが今のの本中の実態なのではないかと思えた帰り道でした。(ちなみにぼくは、きょうの退職者とはちがう職場で働いています。ひととき、一緒に働いた人でした。それでも、いろいろお世話になって、ときどき会社であっては話をしていました)。

 

 これまで何度投票したことだろうか。20歳で選挙権を得てからこれまでどんな政党に投票したのだろうかということを考えていた。20歳のころは、まだ学生だった。政治のことは右も左もわからない時代だった。この世代は「保守」と「革新」が分かりやすくかった。都知事選でも国会議員選挙でも、「保革一騎打ち」という言葉もあった。保守の自民か、変革の野党(共産党・社会党くらい)、あとは中道(公明党・民主党)だった。だから、いつも緊張感もあって野党議員がよく勉強していたように思う。よく予算国会では政府自民党の大臣をやりこめて、国会審議を停止させていたように思う。あのころの自民党の議員も野党の意見に対して、真摯に聞く耳をもっていた。今と決定的に違うのは与党も野党議員もどちらも戦中派世代だったということだ。それぞれの出身地域では現実の戦争を知っていた。だから、憲法に関しては変えるより守ることに必死に議論していた。故・田中角栄首相は頑として憲法を重視していたことは以外だが本当の話である。だから、国会議員は国民のために政治をやっていた(とはいえ、私腹をこやす悪代官のような議員もいたし、女性問題でやめた首相もいた)。それでも、国会は国民をうらぎらないように見えた。

 20代のころ、今の公選法ができるまえ知人の応援で茨城県の市議選の手伝いにいったことがあった。休日の一日をつぶして、朝から政策チラシを1500枚ほど持って各家々のポストに投函する作業だった。朝から夕方までその選挙区の地図を眺めながらチラシを投函していた。そうしているとそれぞれの家の休日の過ごし方が様々なのには驚かせたものだった。一家そろって庭で昼飯を食べているもの、草とりをしている家など顔を合わせると小さくえしゃくなどしていた。夕暮れになると、電気がつき明日からの仕事への準備がはじまっていたのだろう。日々の暮らしに選挙などということは、一つのお祭りのようであった。それでものんびりしていた。他の候補の選挙運動をしている運動員とも顔を合わせることもあった。じつにのんびりと一日が過ぎていく、牧歌的な選挙運動を思い出す。帰ってからは、知人の紹介する電話番号名簿に電話していた。「〇〇をお願いします」と言っていた。ちなみに、応援していた人はもう一歩で落選してしまった。それでも次点だった。

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 民主党が政権をとった時代があった。米国の二大政党制を模倣したような政治勢力づくりだったのだろう。下野の逃れた自民党はここできっと勉強して政権に返り咲きをねらっていた時期だった。これは、一部いい政策もあった。教育無償化は、この時代に出てきた政治である。

 今のぼくの目からは。よくない政治の形をつくったのは思えるのは小泉政権時代だろう。「規制緩和」という言葉がすべてに反映された時代だった。とくに民営化がすべての労働現場に「規制緩和」が吹きこまれたように思う。この時代にできた「派遣会社」は最悪である。それが今の労働者のほとんどにいきわたり、低賃金、過労死も多くつくってきた第一の原因だとぼくは考えるようになった。現在の労働者の形をつくったといえる時代だったと思う。この最悪の派遣全盛時代をつくった人でもある竹中平蔵という学者はこれでいまも利をえている一人でもある。

 では今はどうか。国会は与党が権力にあぐらをかいたようになったように見える。野党の質問にはまともに答えず(答えられないのか)はぐらかしていく。揚句のたてに多数決では強引に「賛成多数」を連発してきてしまっているようだ。これまでの重要法案の可決を見るたびに、議長のまわりでは暴力的なシーンを多くみることが多かった。国会答弁では首相が野党の質問にたいして、まったく関係ないことにもっていく答弁をはぐらかし「ごはん論法」という言葉さえできた。

 いったこんな国会はどうしたら直るのだろうといつも思っていた。そして、暴言の数々。不勉強な議員のまとはずれか恫喝のような答弁もあった。こんな国会の在りかたはいずれ、どこかに圧力が加えられ「無力だ」とののしられ、さらには戦前のように軍部が権力をにぎった時代のようになっていくかのようになってしまうのが心配するところである。

 そんなことを思った一日であった。自分の一票投票が歴史の中にあるなんて、こんな日ぐらいしか思わないだろうなー。もっとも怖いのは、理不尽なことが当たりまえに聞こえてくるようになった時だろうかなー。例えば、戦中なんにつけ国に非協力のひとを「非国民」という言葉が片づけて、その言葉によって暴力が正当化されていく・・・みたいな時代にならないとは、今の政治のやり方からいくと、その危険性はないとはいえないと思えるから心配だなー。

 

  くもり空の下、散歩をしていたら道路が整理されていた。いつの間にか自動車がいなくなり辞自転車の団体がやってきては通り過ぎて行った。道路整備をしていたボランティアのおばさんに何事かときいた。「来年の東京五輪のロードレースの会場なので、今日はそのシュミレーションで外国の選手もして走ってもらっている」とのこと。パトカーはくるは。救急車はくるは実におおげさになっていた。こんな光景は前にもあった記憶があった。競馬の天皇賞がわが町であって、突然道路から自家用車が消えてかと思いきや白バイとパトカーに先導されながら天皇が乗った車が通り過ぎて行った。どちらとも警戒が厳重すぎてのんびり見ているよりも、一瞬の緊張が走ったという記憶がよみがえってきたのだった。

 警察ではどちらも事故などあってはたいへんなこととなるからだろう。裏を返せば権力者の威厳をもって事なきを終える・・・というのが至上命令のようなできごと。楽しいというより「やめてくれ」という感想も残ったロードレースのシュミレーションだった。子どもの頃はテレビだけの世界だったオリンピックが都内に住んでいるだけで生の緊張感があるのだろう。何もないときなら我慢もしかたがないが、来年の7月からいったいどれだけの人がきているのだろうか。きっと、通勤時間ももみくちゃで期間中は「遅刻も可」ということも許可できなまいかと思うことさえある。試験的にテレワークなどを実施している大手企業はあるが、現場に行かなければことが進まない職場どうするのだろうか。小池都知事も「交通緩和」とはいているが、都内の全部を保障する気はないだろう。

 ちなみに。来年の東京五輪・パラリンピック期間中の混雑緩和に向けた取り組みとして、東京都庁に勤務する職員の3分の1に減らすなどを行なうそうだ。約1万人の職員が朝の通勤時間帯に電車やバスを利用しない「オフピーク通勤」をやるそうだ。その結果を検証することになっている。だが、現場では無理な態勢だと不安もあがっている、という。さて、どうなることか・・・。

 当事者はうれしさ半分、不安半分の東京五輪。暑さもあるし、どうなることだろうか。

  散歩の途中にトンボの姿もみるようになった。ちょっとは涼しいということなのだろうか。草むらでは虫の鳴き声も聞こえる。来週あたりには梅雨も明けるのではないのだろうか。短い夏がはじまるのはうれしいことだ。少しずつ、夏が近づいている。子どもたちは夏休みに入ったそうだ。電車もちょっとすくしうれしい限りである。

 さて、今夜半には参議院選挙のおおよその形がきまることだろう。ぼくの応援する「社民党」はどうなっているのだろうか・・・ね。期日前投票も前回いいと聞く。うまく議席がとれるといいが。できるなら1議席でものばして、政党として残れる票数もとれるといいものだ。さらには、野党の議席数も与党よりものばせればいうことはないのだが、ね。そんなに甘くないだろうと思います。今夜もNHKの「出口調査」がどや顔で当選者を発表るのだろう。イヤミに聞こえてきたこれまです。

 今週はこの辺で失礼します。今週末には有給休暇でもとろうと思案中。

 読者のみなさん暑さにはご自愛ください。読んでくれた人、ありがとうございました。


雨降る。3連休は梅雨籠ですか。

2019年07月14日 | Weblog

 こんにちは。 

 連日の雨で梅雨らしい日々が続いています。せっかくの3連休もいつも雨の中にいるようです。せっかくの休日ですから晴れてほしいものです。日本の雨季にあたるこの時期にはだれにあたっても仕方がないようです。こんなときは「梅雨籠」状態の日々には体も心もしめっぽくなってしまっているようです。短い時間でもよいですから何らかの用事についでに路地に足を自然の姿をみるのもいいかもしれません。

 さて今週は、参院選告示から中盤戦というところでしょうか。ぼくの住むところには街宣車もこないほど静かです。駅前の候補者のボードを見るくらいでしょうかね。ハンセン病の判決もありました。裁判所前で支援者が「勝利」との垂れ幕を見せているいる写真が印象的でした。どれも、政治的なしわざではじまり、ひとつの結論が出たようなものではないのでしょうか。日常、ハンセン病といわれてもピンときませんが、こうして頑張って患者たちの訴えがいることは大事なことだと思います。

 

元ハンセン病患者の家族への賠償を国に命じた熊本地裁判決が確定した。政府が家族への差別を「厳然たる事実」と認め、「心からお詫び申し上げる」と謝罪する首相談話と、判決を強く批判する政府声明を同時に発表。保障の制度づくりや差別解消への取り組みなど、残された課題はなお多い。(朝日13日)。

 今回の判決は、患者の家族に対しても保障をしていくと判決だった。これまで、ハンセン病の家族であることから差別や偏見をうけてきたことに対する判決である。家族であるために結婚できないこともあったりもしたという。

 保障も大事なこれからの課題であるが、それと今後このようなことが起こらないような政府の方針が具体的にしていくことだろうと思う。教科書にのせたりして後世に残すために形にすることが大事なのことだろう。どうしてこいうことになってしまったのかということを多くの人の記憶に残る形をしていくことが何よりも大切なことだと思う。

 これまで、ハンセン病に関してたくさんの悲劇を告発したものがあった。松本清張の『砂の器』という小説はハンセン病がうつる病気だという風潮がつくった悲劇だった。映画にもなっていた。監督・河瀬直美、主演・樹木希林の『あん』という映画もあった。小説では『いのち初夜』北條民雄という作品もあった。いずれもハンセン病が関係している物語だろうと思う。時代の要請に政治によってつくられた迫害んお歴史をしることから始めることも大事なことだろう。ナチスのやった「反ユダヤ」の優性思想も同じだろうか・・・。

 国家はいつも何であれ、都合の悪いことは隠そうとしている。これまでのことを明らかにするのは相当な時間と人手がかかるだろう。まずは、被害者家族とに会って謝罪をあらてめて行うことだろうか。

 ハンセン病にかぎらず、これまでも差別・偏見はあらゆる場面で起きている。最近のいちばん身近なのは、ヘイトスピーチやパワハラ発言などがよくきく差別である。表にはでてこないが、いまだに差別は根強い差別だろう(狭山裁判などはいまだに解決していない)。

 今回のハンセン病判決を機会に「差別」がいかに偏見によってできているかわかったように思う。差別によって誰がどんな人生になってしまうのか・・・。

※裁判の歴史をしるいい本があります『開かれた扉』ハンセン病意見国賠訴訟弁護団(講談社)をどうそ。

 

 かんぽ生命保険の植平光彦社長と、かんぽ生命が保険商品の販売を委託する日本郵便の横山邦男社長は十日、東京都内で記者会見し、顧客の不利益になるような不正な販売があったことを認めて謝罪した。対策本部を設置して不正の件数や内容を調査(東京11日)。

 これはもう企業ぐるみの犯罪かもしれない。それを見て見ぬふりした労働組合には疑問は残る。こうやって企業の存続をするということのがもうどこかで、コンプライアンス(法順守)という言葉も無意味に近い。普通なら、幹部は辞職するしかないように思う。それができなければもっとおかしくなると思う。民営化になったと思ったらこういうことをやるためになったわけではないのだろう。

 はがき、切手の値上げは白紙にもどしてほしいところである。

企業に義務付ける高齢者雇用の年齢上限は六十五歳まででいい―。政府が七十歳まで就業機会を確保を掲げる中、働く三十~五十代の41.1%は現行制度を変える必要なないと考えていることが八日、民間調査で分かった。57.0%が六十五歳から公的年金を受給したいと回答。年金をもらいながら無理のない働き方を望む人が多いようだ(9日東京)。

 65歳年金満額支給年齢を変えいようとしているのが今の政府の方針のようだ。できれば70歳まで働いてくれということなのだろうか。これは一つに年金支給への不安定さからあるのだろう。それにしても、政治の失敗のつけは弱者にかかってくるのはいつの時代にも常套手段のようである。ぼくは「年金100年安心」といった政府が「2000万円不足」という現実を見てからのあわてぶりには「信用ならない」という気持ちはぬぐいきれないと思う。「100歳安心」はいいが、100歳で何が安心なのだろうか。そして何ができるのだろうか。これは、安倍政権への安心を誇張したいいかたかもしれない。

 それにしてもこの国はいくつになったら本当に安心できることやら。最近おもうことは「騙され続けた人がバカをみる」社会のような気がしてならない。いざとなったら、年金の穴埋めには、戦闘機を買わないことも方法だろう。老人には戦闘機など無用なものに思える。その覚悟と決断をしてほしい。

 いま、65歳まで働こうとしているぼくがそう思うだから、65歳以上の人はもっときついと思う。ぼく自身、60歳定年後「再雇用」になって65歳まで働く予定でいる。それでも、賃金は4割ほど減らされ、相談窓口もない状態だ。労働環境も、正規社員と同じように働き、残業もあればやるしかない状態だ。正直、残業をやると翌日は体力もなくなったせいだろうか「きつい」。そして何よりも、ボーナスはない、それに代わる手当もない状態である。

 それでも、ぼくはこれまでの仕事をいかせる職場だからいい。まったく畑ちがいの職場に行く人もいる。事務職から力仕事の現場にいく人もいる。こんなデタラメな労働環境はいいわけはない。派遣労働者みたいな身分のなっていく高齢者労働のありかたになっていくように思います。結局、労働力不足の穴埋めです。むかし「一生働け!」なんて冗談でしたが、これが現実になってきているってことに恐ろしさも感じます。

 

 毎朝、通勤途中の家々の軒先にツバメの子育てを見る機会が多くなりました。鳥であれ人間であれ、自分たちの子孫を残したいという本能は一緒なのでしょうか。親は産んだからには、小さい生命を一生懸命育て生きていくことにその証があるようなことなのだろうと思います。 

 とうはいえ、人間が育つということは何ときびしい世の中になっていることか・・・と思えます。明治時代日本を訪ねた外国人が「日本の子育ては世界一だろう」といった言葉は遠い記憶となってしまったようになっている「今」があるようです。

 世の中、口をそろえて「少子高齢化」というわりには、現実には子どもが育つ環境がこれほど悪い時代はあったのだろうかと思うほど虐待があったり、育児放棄があったりと毎日の広げる新聞にこの記事が多いですね。

 人間であれツバメであれ、子育てをする環境をうまく利用して子育てをする工夫がある。とくに人間は知恵をしぼってこれまで生きてきたのだろうから、昨日よりはよくなっていてもいいはずが、どうしてこうも悪くなってしまうのかと胸が痛むこと多い。

 いまの現実「限界」を超えているようなところが見えてくる。働く職場では派遣社員が多くなり、低賃金にしては責任だけ重く、老いては年金が足りない・・・。さらにはイジメ、セクハラ、パワハラと人間同士が育つどころか憎み合っているところも見える。それがあまりにも身近になってきていることにも不安定さがを増長しているようにも思える。子育ての景色をみるたびに、政治家がだれのための政治をしているのかということをつくづく考える日々となっているようです。

 最近「子ども食堂」をつくり知恵をしぼって生きて行こうとしています。「子どもは社会の宝」ということはよく聞く。それは誰もが子どもだった時代がなければ大人になれないことということ。その子どもが育てにくいということは、同時にいまの時代生きている足元をよくしていくということだろう。

 毎日みるツバメはいずれは巣立っていくのだろう。この辺は都心でもないのでちょっと不便である。それがツバメにとってはいい環境ということなのだろう。きっとツバメは自分の子育てをする場所としての基準があってくるのだろう。人間も子育てということが基準にあって政治もやればこんな時代はなくなっていくはずだろうと思う。要は政府が憲法がいかして、労働法があたりまえになって、働くことが大変だが楽しくなることだろうか。

 3連休。連日の雨で出かけることも気が重い連休です。近所ではないけれど散歩のついでに参院選選挙「期日前投票」に行って来ました。

 ぼくの今回の投票の基準は「年金」と「消費税」でしょうか。選挙告示前に「2000万円年金問題」が大きく報道されました。実際、お金はあったほうがいいに決まっています。まして、どっちへ転ぶかもわからない政治です。とくにこれまで、安倍与党政権がやってきた国会運営をみていたらなおさらです。よく、「野党がだらしない」ということを聞きます。これはだらしがないのではなく、野党の国会議員が圧倒的に少ないからです。なぜなら、自公政権だって国会政策の中身は国民の希望することではなくても、数の力で強引に採決してきました。まず、同じテーブルで話ができる野党が必要です。民主主義というまえに、野党の国会議員を増やしておなじ土俵に立たせることがいま、いちばん求められていることではないかと考えます。

 これでまた、与党が勝ったなら・・・。少し不安です。選挙前ですから、「消費税を保育費の無償化につかう」とか言っていますが、わかりません。では、これまでいったい何をしてきたのでしょうか?ということです。「わからない」となってしまうのは、これまでやってきた国会運営(強行採決)をみればわかります。

 帰り際、出口でNHKの人が「出口調査」をやっていました。最近は、筆記式ではなく、タッチ式になって簡単なようです。選挙で候補者を選んだ投票者の意見より、数字がわかればいい・・ような出口調査でした。要は意見より「数」ということなのでしょうか。

 ということでぼくは、これまでの「安倍政権」には投票しないことにしました。そして投票理由はという問いには「年金・消費税」にしました。そして比例政党は・・・。今世紀最大の弱小政党とののしられている『社民党』にしました。この政党はがこれまでやってきたこと(旧社会党時代から)は日本のこれからには大事だからです。今回は、これからもがんばってほしい政党です。まさに正念場・・ってところです。国会で政党として認知されるか否かの瀬戸際の老舗の政党ということもありますから・・・。

!!・・・ただいま大苦戦中・・・!!

  3連休の中日。日曜日だというのに雨で家で新聞を読んだりしているとけっこうおもしろい「投稿」もあったりします。ひとつに「電化製品の短命化」について。パソコンの部品が壊れて、製作会社に電話したものの返ってきた「もう部品は製造されていないので修理はできません」とのこと。売る時はずーっと使えるようなことをいっていたのに、製造がなくなったらいとも簡単に「買い換えろ」とでもいっているようでした。使っていると便利なものでもとんでもない落とし穴(リスク)があるようです。ぼくもパソコンの便利なことで生活の一部になっています。とはいえ、頼りすぎないことも大事なことなのでしょうか。

 さて3連休も終わります。どんな3連休だったでしょうか。連日の雨で行動範囲がにぶってしまいがちです。来週は、選挙も最終戦です。どこの政党も最後のお願いがコールが始まるのでしょうか。近所では、盆祭りでしょうか、小雨の中、盆踊りが開催されていました。子どもたちにとってはとても楽しい時間であるのでしょう。会場にきている笑顔の子どもたちをみていると、こちらも元気になってきます。子どものまつ力はすごいです・・・。そんな子そもが楽しく暮らせる社会をつくるのは大人の責任だと思います。これまでの多くの子どもの虐待事件は、うらを返せば大人の社会が病んでいるころだと思えます。きっと、ぼくもの周りでも少しずつ変わっていっているような気がします。夏季一時金(ボーナス)が出たわりには、そんなに喜ばない人々・・・(再雇用にはないのですが)。オーイ、大丈夫か??。最近職場も会話のない状態が多いようです。これって、どこか病んでいるのではいるのでは、と。そんなことを思いつつ今週はこの辺で失礼します。

 仕事では毎度おなじみの月刊誌の最終の週でもあります。無事終わりたいですが・・・。

 読んでくれた人、ありがとうございました。

 


7月がはじまりました

2019年07月07日 | Weblog

 

  こんにちは。

 毎日雨が降り続いてします。雨のなか行動している日々が多い毎日です。傘は必需品のようになっています。梅雨ということで多少あきらめがありますが、でも毎年のこととはいえ愚痴をいいたくなるほど雨の日がいやになってしまいます。雨を楽しみ工夫みたいなものがあるのでしょう。ぼくにとっては雨は静かな時間をつくってくれるものだと思っています。この時期、休日にはよほどの用事がないかぎり家でくつろいでいるのでしょうか。公園では人もすくなくなり静かなものです。ただただ広い公園が近所にありますが、昼でも木々で夕暮れのような明るさです。この時期好きな山歩きでもと思いますが、山は見えてもいくにまだ時間がかかるようです。くもり空を眺めては青空を恋しがる日々です。

 さて今週は参院選告示がありました。各党の政治家たちがいちばん忙しい日々を送る時期です。これまでの政治のありようが問われる政治でもありますかね。政治にはまったく関係ないと思っている人でも今回ばかりは(特に高齢者)考える選挙となるのでしょうか。まさに、ぼくも当事者なわけで、今回ばかりは与党政治にはほとほとあきれています。米国でも上院議会は共和党で下院議会は民主党がそれぞれ国会があるように、日本でも衆議院、参議院があります。これで国会が政治のチェック機能ができているようです。両議院も同じ与党が国会を運営するよりは意見の違いを討論するところが国会ですから「ねじれ」とよく嫌われていますが大切なことだと思います。「ねじれ国会」は悪いことではないのです。ただ、時間がかかりすぎて報道や与党には嫌われがちです。それでも、国民の税金を国民のためにつかうことを考えれば大事なことだと思いますが・・・。

「いっしょけんめい」について

 誰かのいっしょけんめいを知っていますか

どこかでのいっしょけんめい、を

人知れずいっしょけんめいに笑われても

忘れていたものを思い出すようにいっしょけんめいいに

悲喜こもごもが目の前に置いていく

ときどき立ち止まる

一つの行動を 一つの言葉で

誰かのいっしょけんめいを壊したり

 私が私であるために・・・なんてうそぶいて

まずは隣の人のいっしょけんめいを聞いてみませんか

声を出して、耳を立てて聞いてみませんか

そのうちにぼくにも一つくらいは

いっしょけんめいがあるのだろうと思えるかもしれない

 

 いよいよ夏の甲子園にむけた地方大会が始まりました。雨ばかり毎日では「延期」の看板も見るこがあります。それでも、もくもくと試合当日にむけて頑張っている姿は「ガンバレ」というエールを送りたくなります。そして、梅雨があける頃は甲子園に出場する学校が決まっていることでしょうか。

 ひととき毎年、会社に近い東東京大会の決勝戦だけ神宮球場に見に行っていた時期があった。決勝戦の日だけ、午後から休日をとり電車を乗り換え「神宮外苑」まで急いだときがあった。いつも、途中からの試合観戦だった。決勝戦ともなると予選を勝ち抜いただけあって打球の残像がきれいに描いてヒットになる白球が美しく見えた。選手の動きも的確で無駄がない。これが甲子園にいくチームの形なのだろうかと思うことが多かった。思い出に残る試合は、帝京対岩倉(だったと思う)はよかった。試合は打撃戦。交替ピッチャーが試合のゆくえをにぎっていた。それでも強引に前田監督だったか続投さえていた。試合は帝京が勝ち、このチームが甲子園でも優勝した年だった。

 ぼくの出身地の千葉県は銚子商がよく出場していた時があった。斉藤監督だったかなあー、ピッチャー土屋(?)。これも好きだった。さらに記憶に残っているのは、習志野高校の石井投手。甲子園では力投をみせ広陵高校に勝ち千葉県に優勝をもたらした。その後監督をしていると聞くが・・・。子どもの頃はぼくも野球少年だった。一人で壁をあいてに野球をしていた。みんな地元の子が頑張っている姿に感動していた時代だった。きっといまでも同じだろうと思いたい。

 夏の暑さと甲子園の熱気がはやくやってきてほしいと思う。

 休み明けの午後。朝いたはずのS君の姿がいない?。だれに聞くともなくその日が終わった。翌日S君に「昨日はどうしたの」と聞いてみたら「突然腹痛で持病がでたかなと思い病院にいってました。結果は異常なしで腹痛もなくなりました」とのこと。そのとき「異常なのは、君じゃなくて職場かなー」という思いでした。他人のプライバシーには立ち入らない・・・というのが最近の状況のようです。それは、個人情報だとかパワハラとかセクハラの材料になってしまうとかいうことなのでしょう。

 とはいえ、そんな屁理屈はどうあれ同じ職場で働く人が具合が悪いとかなれば心配するのが当たり前でしょう。こんなことが最近からか、いつからだろうかなくなった(再雇用者へ言わないのか)とつくずく感じることが多くなった。こんなあんばいだと職場は労働は今後どうなっていくのだろうか。職場の人との関係は仕事だけになってしまうのだろうか。それとも、話すこともないほど疲れているだろおうか・・・と。

 世の中「100歳時代」とか「働きか改革」とかいうわりにはなんにも聞こえてきない。最近「有給休暇の取り方」とか「残業を少なく」とかいわれるようになったがそれよりもっと大事な「働きやすい職場」が求められることなのではなんだろうか。一日のほとんどを過ごすところである。自分たちで仕事や環境をよくするのは当たり前だろう。それが何からはじめればよいのかもうちょっと行動することを考えていくことが大切でしょうか。

  とうとう今夏のメインでもあるだろう参議院選挙が今週からはじまったようだ。うんざりするほど美辞麗句のなかから自分との距離がいちばん近い政策を聞き入る月でもある。告示がでるまでは衆議院も解散するのかということも騒がれていた。けっきょく与党の判断次第であるので何ともいえなかった。けきょく安倍首相は「解散はなし」の判断になった。その思惑はなんだったのか・・・、今後の状況がかわれば表にでてくることだろう。

 それにしても、政治は遠い存在だった。与党の自公政権はこれまでなんにつけ「議論は尽くした」といっては強行採決の国会運営が目立った。つまりは、弱者切り捨てをやってきたように見えていた。なんであれ、国会は国民の代表者の場であったはずだ。それが、経済優先で大企業優先の国会になってきたのではなかったのか。自分が都合が悪い問題には「見て見ぬ振り」をしてきたようだ。

 さらに最悪だと思ったのは先月24日の参院本会議でのできごと。野党が安倍首相への問責決議案の審議で三原じゅん子参院議員の「安倍首相に感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど愚か者の所業」発言。これは、まさに自分らの国会を自画自賛している。どうしてこんなことが言えるのかあきれることばかりだった。猛省あっての審議が必要な与党であるはずがこんな発言には国会の危険さを感じたのはぼくだけではないでしょう。自民党独裁も夢ではありません・・・という暴言。

 

 毎日雨ばかり。とはいっても日々が始まり終わっていく。

 いまいちばん忙しい人たちは、参院議員の候補者たちであろうなあ。落選と当選では天と地のさほどある。自分のいいたいことにどれだけの人が共感し託してくれるのか・・・そんな日々であろうと思う。昔は選挙活動によく参加したものだったが最近は皆無である。公職選挙法もパソコンの普及でさま変わりしていったことが大きいのだろう。選挙がおわるまで新聞やテレビのニュースを注意してみていこうかと思う。今回はどんなことが目玉になっているのかということも、ぼくなりに理解していけたらいいのだろう。

 去年散歩道でみかけたアサガオの花の種をもらったものを撒いておいた。若菜がでて、最近は茎ものびてきて大きくなってきた。これはどんな色の花だったかと思いながら楽しみにしている。花が咲いてみないとわからない。本当は昼顔のように小さなアサガオがいっぱい咲いてくれるといいなーと思いながら楽しみにしている日々である。

 来週は月刊誌の入稿が始まりそうだ。とくに選挙とはいってもあまり関係ない・・・というのが現実なのかもしれない。政党の政策などといわれてもおめにかかることも少ないし。ただ、再雇用であることから「年金」や「消費税」には興味がある。下がるより上がる方がいいし、税はかかるよりかからないほうがいいに決まっている。消費税があがるのはある意味政治の失策のしりぬぐいだろう。それが、いかにも必要なようにいっていくのも政治家の政治家たるゆえんでもあるけれど・・・ね。

 さて、今月はどんな1ヵ月があるのでしょうか。始まったばかりでなんですが、あまり変わらないでしょうかね。季節は少しずつ夏にむかっていきます。正規社員の方たちはボーナスもあるようですがばくには全く蚊帳の外状態のことです。それで、同じ仕事をしろとはあまりにも虫のいい話です。モチベーションはあがらず・・・が正直なところです。これで今月はいきたいものです。

 では、今週はこの辺で失礼します。雨が降り続いています。九州や中国地方は豪雨によって多くの避難者をだしています。そいうことも念頭にこれからの政治の季節を追いかけてみてもいいかもしれません。今日は七夕ですね。どんな願いをしたのでしょうか。ぼくは、再雇用にもボーナスを・・・ですかね。「同一労働同一賃金」というのであればそうあってほしいものです。

 読んでくれた人、ありがとうございました。