日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

緊急事態宣言、さらなる延長のなか

2021年05月30日 | Weblog
 こんにちは。
 とうとう5月も終わりです。「緊急事態宣言」も再延長になっていました。ダラダラとつづく宣言です。少しも感染が減少しない状況では仕方がないのでしょうか。なかなか収束しそうにもありません・・・これが現実なのでしょうか。
 季節は、梅雨にむかっているようです。街路地にはアジサイの花をみられる日になってきました。毎日、空を眺める日がやってきたようです。
 それにしてもなかなかコロナ感染者は減りませんね。こうなってくると、「明日はわが身」と、ふと考えてしまうのではないのでしょうか。見えない、匂わない、なんとも怖いものです。唯一、わかっていることは大勢の人の中にはできるだけ避けるということぐらいでしょうか。マスクはもちろんできるだけ清潔にすることぐらいしか身を守る手段がないというのは、さすがに頼りない日々でもあるのでしょうか。ワクチン接種といっても、はるか先にあるいは霧の中を歩いているような状況には変わりません。


 コロナ感染は猛威をふるっている。またしても政府によって「緊急事態宣言」が再延長された。これまでの感染よりより強力なウイルスがあるようだ。政府はワクチン接種の拡大をしようと奮闘しているがなかなかワクチン接種が進まない状況だからだろう。事実、日本のワクチン接種は、これまで報告によると最低な基準になっている。ウイルス感染にワクチンが追い付かない状況になっているのが現実なのだろう。

 当然、こんな状況では「東京五輪・パラリンピック」も中止と思いが出てくるのも当然だろう。事実、アンケートなどでも「中止・延期」の選択肢が「開催」を上回っている報道がめにつく。朝日新聞などは「中止」を言い始めていた。
 シンプルに考えて、人の移動によって飛沫をまきちらし、さらには目に見えないウイルスである。どこでどんな形で感染するか分からない。分かっているのは、人の移動によってウイルスが運ばれるということだ。ということは、たくさんの五輪などのイベントこそ「自粛」「不要不急」の部類にはいっていくのではないかと思える。
 
 昔、東京五輪が行われた1960年代。私は子どもだった。東京で五輪が騒がれていたのだろうか、田舎にいる私の気持ちはそれほど騒がしい気がしなかった。オリンピックはテレビで見るくらいであった。だから遠いところの存在であった。
 テレビでみているくらいでならウイルスは感染しないだろう。
 ほとんど感染するとしたら東京に住む人たちがほとんどだろうし、近郊のイベント会場も含め、会場に近辺なのだろう。
 今、東京に住むほとんどは、おそらく地方出身者。東京で知らないうちに感染し、自覚症状のない人が地方に帰るたびに、新しい感染者をつくる・・・、という現実が起きてくるのだろう。
 そう考えると、今回の東京五輪は開催中はいいが、終わってからがいちばん怖いのかもしれない。
 こんないたちごっこ状態になる、コロナ感染を考えれば、2~3週間の五輪によってさらなる感染拡大は起きると思えるのが当然。
 最近、多摩地域の市議会委議員の人たちによって「五輪中止」の要請書を首相と都知事に送ったいう。なんと返答が返ってくるのだろうか。
 開催を強行して、感染拡大が起きたら誰が責任をとってくれるのだろうか。ワクチン接種でこんな低いなかで本当にやる気がしれない。なんにつけ、責任をだれもとらない時代。いったい何のために政治家になったのだろうか、と思う。

▲陣馬高原下(午前8時)たくさんのマスク姿の人がいました。
▲この時期、緑が美しく感じられる季節。
▲陣馬高原頂上。頂上のお店の閉店していました。
▲陣馬高直下(午前10時すぎ)緑のまぶしい瞬間です!!。
▲陣馬高から景信へ(午前10時すぎ)天気も良好。
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 昨年から始まった新型コロナ感染によって、「今年も無理かなー」と思っていました。これから梅雨にはいりますます難しくなるといく機会もなくなっていくのでしょうと思っていました。今回はそんな「不安」もありましたが、そんなことをふっきっての久しぶりの山歩きでした。コースは毎度おなじみの陣馬高原から景信、さらには小仏に降りるコース。天気は快晴。結果的に天気もよくなり、よかったと思います。

 いちばん印象に残ったことは「コロナ禍」で「自粛」してあまり人がいないのかなと思っていたのですが、いつもと変わらないほどのにぎわいでした。ただ違うのは、それぞれマスクを着けてのいたことでした。
 そしていちばん怖かったのは、山の中ではなくバスの中? でした。それは、通常と同じような人がいるということはバスの中は満員状態になるはずです。中央線の通勤状態になるのか・・・と思いきや、臨時バスも出た結果、混雑は避けられました。

ところがです。
 これは乗客のみんさんも私と同じで久しぶりの山歩きなのでしょう。楽しくしたいのは当たり前です。バスの中は、会話あり、笑いあり・・・おしゃべりがたくさん聴こえてきました。一方で「感染は飛沫によって」と頭に浮かんだ瞬間からこれはまずい・・・と思いつつ「恐怖」も感じていました。
 今日の山歩きでいちばん恐怖を感じた時間でもありました。
 人が山に入ってしまえば、自然のなかでは豆粒のようの小ささなのですが、バスの中では「密状態」です。「大丈夫かなー、大丈夫かな!」と思いながら時間でした。

 「不要不急」が叫ばれる世の中になっています。
 とはいえ、こんな毎日では息苦しい日々になってしまうのでしょう。時には、混雑をさけながら、自然のなかの空気を吸う時間が必要だと思います。汗もかきながら体を動かすことが大事だと思いました。
 今回はブランクもあったせいか、年をとったせいか大変疲れた山歩きになりました。次回はいつになるのか・・・わからない。
【追記】
 久しぶりの山歩き。梅雨空を気にしながらでした。登山口に着くころは天気がよくなり、暑さはこれまでになかった暑さので体中に汗まみれの状態での山歩きでした。
 それでも頂上に着くと、風がここちよく、これまでの苦労が吹き飛んでいきます。
 さて、休憩のあいだの軽食をと思いパンに手にやった瞬間「大丈夫かな?」という不安がよみがえりました。携帯消毒スプレーを手にかけて食べたわけですがあまりうまく感じることができなかったと思います。
 昼食のときもその気持ちは消えませんでした。コロナ禍のなかの山歩きのリスクということになるのでしょうか。
 ちょうど今夏の五輪代表選手もそんな気持ちなのでしょうか。コロナウイルス感染対策は完璧と言われていても疑心暗鬼のなかのスポーツとなっているのでしょうか。
 勝負に勝ってコロナに負けては命とりでしょう。本来は、スポーツは楽しいはずなのです。もちろん山歩きも楽しいはずなのです。その楽しさを根底で不安にしているのは何なのでしょうか。コロナでしょうか。
 私は、コロナウイルスよりもその対応があまりにも不安定であることが一番だと思えました。山歩きの中、楽しくなるはずのものが、それをつくる態勢がまりにも不安定の中でいきていることが一番の原因なのだと思えました。


 「不要不急」っていうのは、誰にとってということをいつも考える必要があるのでしょう。政治では今夏の東京五輪と国民の生命をバーターにしているようなところが見えます。なにか「国策」としての五輪にも思えてしまいます。「復興の証としての五輪」とか「絆を取り戻す」という抽象的な言葉に惑わされず今後を見極めていかなければならないでしょうか。

 久しぶりの山歩きを実行して思うのは、本当に楽しく歩ける日が来ればいいと思います。現段階では、誰も誘ってところで気持ちよく返事が返ってくる時期ではないようです。ただでさえ、飲食店の休業は続き、安心して飲める時間もないのです。政治は「緊急事態宣言」を連発するするうちに、人はいやけを出してあきらめムードになってくるのを期待しているのでしょうか。

 そして来月からはアルバイトの身分で働きはじめます。アルバイトですから「責任」は問われません。ただ、自分の仕事だけはちゃんとやらないと、と思います。お客も再雇用で、それを仕事にしているところもアルバイト・・・。なんか世の中正社員という身分は何をしているのでかな、とも思います。おそらく、安全弁としての人として考えているのではないのでしょうかね。
 それでは今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

アルバイト雇用契約をしました。

2021年05月23日 | Weblog
 こんにちは。
 いよいよ関東地方にも梅雨がやってきている毎日でした。
 すでに、九州や近畿、四国地方はこれなでのなかで最も早い梅雨入りという報道されていました。関東、東北地方も発表はされていませんが、実質的な梅雨入りなのでしょうか。毎日、すっきりした天気がやってきません。
 さらには、いまごろだとたくさんのツバメの巣作りを散歩道でみかけるのですが、今年はあまりみかけません。毎年巣作りをみている商店の軒先のには巣はつくったものの、ツバメの姿がみえなくなりました。どこへ行ったのでしょうか・・・。

 さて今週は、変わらずのコロナ感染のニュースが多いようです。とくに、ワクチン接種に関するニュースを多く聞きました。
 その中で、東京五輪までカウントダウンが聞えますが、「開催中止・延期」の人たちが増えてきました。そして、一方で五輪の準備をすすめて開催しようとするミュースも多く聞こえてきました。「五輪を成功させよう」はスローガンとして聞こえてくるのですが、コロナの変異株が猛威をふるっている中では、「成功」とはならないのではないのでしょうか。本当に実施するには「強行」するようになっていくのではないのでしょうか。五輪を実施するためのワクチン接種もうまくいっていない状況です。とうとう、政府をあげて大規模接種会場を設置し、自衛隊の医療関係者で運営する事態にもなっていました。

 ワクチン接種はまったくうまくいっていない状況です。これまでもニュースになっているように「電話がつながらない」「予約が終わっている」ウエッブ上で予約ができないなどの混乱が多く起きている状況です。わたしも市も例にもれず、電話もつながらず、つながったと思ったら「予約は終わりました」との返答でした。これではいつ接種できることやら、不安な日々がつづきそうです。

 そんな中、政府は21日、2回目となる準備状況について自治体調査の結果を発表しました。「7月まで接種完了できる」を発表、と報道されていました。この記事を読んで、いまだに1回目の予約さえできていないのにこれはないでしょうと思いました。これでは、希望者もれなく接種できるのはいつのことかと思います。

 そんな状況なかで、予約、接種を上手にやっている市が新聞に紹介されていました。考えてみれば、各個人に接種の予約通知を郵便で配るのであれば、一人ひとりに接種会場と時間を告知しておくことであわてなることもなくなる方法です。これは、市側は事前に医療機関に予約時間などを告知して連絡して接種者の受け入れ態勢を了解する必要があったりして、少し遅れてるでしょうが確実です。せっかく郵送するですから接種者への負担軽減もできるし、「受けられる」という安心感ができます。それだけでも混乱はさけられるでしょう(紹介されていたのは宮城県登米市の集団ワクチン接種)。市民本位の形だと思いますが・・・。
 とはいえ、国の行政改革により職員が減らされ、公立病院も減らされ行く昨今、大変な業務になるのであよう。それでも、できることはあますことなく市民のこと考えれば確実な方法を実行することが大切なことなのでしょう。それでも、われ先にということを不得意としている老人のことを考えれば、便利なデジタルよりアナログの方法も考えるべきでしょう。

 ワクチン選手の混乱つづきのなか、いま大事なことは、国民それぞれの「安心」の確保です。オリンピックの「お・も・て・な・し」は国民の安心・安全のなかで成立していることなだと思います。くれぐれも、国家・政府の安心ではないのです。ここはいちばん大事なところだということを胆に銘じて欲しいところです・・・と思いませんか。


 最近は、寒さからは解放されたような季節になってきました。梅雨も近くなり雨はありますがそれでも、コロナ禍でも行動範囲が広がってきたようです。散歩の途中でみかけるスポーツ少年はあいかわらずですが、高齢者の人たちも自分の趣味なのでしょう、それぞれ生活を楽しむ工夫をしているように思えます。
 そんなことを考えながら歩いていたら「私はいったい何をして生活を楽しんできたのだろう」と思った。

 そんなことを考えていたら、これまで私より先に鬼籍に入っていった友達、知人が顔が浮かぶ。ある友人は本をたくさん読んで出身地の福島での原発事故以来、さらに原発反対をいつも語っていた。そして、ある知人は、仕事でも日本の政治について不満ばかりではなく、自らも政治を語って行動していた・・・と。ときどきカラオケが大好きだった等など。散歩をしていると、遠くに見える誰かの背中をみながら思い出す。

 コロナ禍でも楽しめること。これから自分を励ます趣味が大事になってくるように思える。私には、読書や政治より野山を歩いているほうが趣味になっているのだろう。その行動の中に生活があり、仕事があるように思える。足元をみつけることも大事だが、逝ってしまった遠くにいる知人・友人などを思うと、私のこれからももっと大事に行動して楽しまないとなんにつけつまらなくってしまうのだろうなー。

頑是ない心(中原中也)
思えば遠く来たもんだ 
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた 
汽笛(きてき)の湯気(ゆげ)は今いずこ
雲の間に月はいて 
それな汽笛を耳にすると
竦然(しょうぜん)として身をすくめ 
月はその時(とき)空にいた
それから何年経ったことか 
汽笛の湯気を茫然(ぼうぜん)と
眼で追いかなしくなっていた 

あの頃の俺はいまいずこ
今では女房(にょうぼう)子供持ち 
思えば遠く来たもんだ
此(こ)の先まだまだ何時(いつ)までか 
生きてゆくのであろうけど
生きてゆくのであろうけど 
遠く経(へ)て来た日や夜(よる)の
あんまりこんなにこいしゅては 
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り 
結局我(が)ン張(ば)る僕の性質(さが)
と思えばなんだか我(われ)ながら 
いたわしいよなものですよ
考えてみればそれはまあ 
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして 
どうにかやってはゆくのでしょう

考えてみれば簡単だ 
畢竟意志(ひっきょういし)の問題だ
なんとかやるより仕方もない 
やりさえすればよいのだと
思うけれどもそれもそれ 
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた 
汽笛の湯気は今いずこ

 今月「高齢者再雇用」も65歳になって終わり、さあーどうするかなーと考えていた。ここでリタイヤしてもいいかなーと思っていた。とはいえ、ローンはあるしなどと考えていた。一度このことについて深刻に考えた時期もあった。そして年金事務所へも行った。自分の年金額とどうなっていくのか、無理はないか・・・。

 そんなあるとき、会社より「もう少し働いてもらえないか」という相談を受けた。少し考えた。ここで退職して「離職証明」をしてもらって、ハローワークにいってしばらく失業保険を請けてみようかとも考えた。事実、そのことを事務処理を知り退職していった知人もいた。そうこうしているうち、決断をしたのが「アルバイト雇用」ということだった。私は「仕事が好き」ということではない(そんなウソぶいている人もいるが)。はっきりいってまだ自分の老後をうまく考えられないのだろう思う。ただ、体は現実的で無理なできないことを告知しているように、あちこちガタがきている。それなら、私まりの仕事のペースで仕事を続けて考えながらやってみようと契約に至ったのだと思う。ここは「無理ならやめてもいいということ」はいつも考えながらやっていこうと。会社にとっては申し訳ないがこれが、高齢者の現実なのだろう。当面3カ月、頑張ってみようと思う。もちろん有給休暇(20日)はうまく使いながらでいこうと。

 ところでいくつま働くのだろうか?
 知人がこれからは「死ぬまで働くような政治になっているなー」と。
 政府が「人生100年時代」とよくいっているが、これは働くことできる100年ではあるまい。そんな高齢までどうしても働けないだろうし、魔法使いじゃあるまし無理だろう。大事なことは、100歳までも元気で生活できる健康体とそれをささえる社会の形だろう。それをぬきにして100歳とは「机上の空論」ではないか。
 10歳までできるのは、日本の産業の中では身近のは農業くらいだろう。そんな土地さえも、大企業が持っているだけで私たちにはなんの恩恵もないわけだろう。



 早いものだなー。5月の連休が始まったと思いきや、もう月末が近づいている。朝から晩まで「新型コロナウイルス感染」の話題は続いている。季節感をコロナで忘れてしまいそうな日々だな、と思う。それでも、季節を感じたくて、できるだけ休日には散歩に出るようにしている。天気がいいと気持ちのいい風をうけての多摩川散歩である。
 ここでも、多くの人はマスクを着けて歩いている。マスクをしていないのは、野球の練習に汗をかいている少年たちだ。その光景をみていると、つくづく「若さはいいものだ」と思う。私もかつては、あんなふうに野球を楽しむ青年だったのに・・・。いまでは、ボールを投げる形さえ、体が忘れてしまっているようで、小石を拾って川に投げ込んだもののコントロールも悪く、遠くに投げることもできない。なんとも、情けなくなってしまう。
 それでも何度か投げるうちに、体がかつての形をよみがえらせて投げられるようになった。

 日々コロナウイルス感染で不安な日々ばかり気にしていると、楽しむことさえ忘れていまいそうだ。自分の好きなことはもとより、人と話すこともめんどうになってしまう気さえする。
 ワクチン接種も遅々として進まない状況もあるのだろう。どうして、こんなにも進まないのだろうかね。だいたい、高齢者にパソコンから予約をと言われても、すぐには無理だろう。パソコンがなくても生活に支障なく遅れている。わざわざパソコンから入力しなくてもできる方法はあるのだろう。たとえば、はがきで通知して、ワクチン接種を日付や場所を告知してきてもらえばそれで済む話ではないか。
 何が目的なのか。「デジタル庁」ということで、ここにきて一挙にデジタル化してしまおうということが垣間見える。人の不幸、考えもしなくて自分たちの思うようにやろうとしているような気もうする。
 
 そんな中、東京五輪・パラリンピックがいよいよ迫っている。こんなワクチン接種状況では無理な話ではないのだろうか。最近、政府が「大規模接種会場」を東京都と大阪につくったようだ。なにか、これも責めを拡散したいがためにつくったようにも思えてしまう。そこでも予約にミスがみつかり混乱している。
 本当にこれで大丈夫なのか? と疑問ばかり残る毎日でもある。自分の住むところでできないことをあからさまに証明しているようだ。
 そんななかで、コロナの病床を民間病院にも協力してもらおうと政府が要請したようだが、あまりうまくいっていない。思い起こせば、これまで改革の名で公立病院の統廃合や廃止をしてきた政治につけが、いまここにきて国民がしりぬぐいをしているようにも見える。

 その反省もなく進めてきた結果、今回のワクチン接種状況なのだろう。
 これからどうなっていくのか。
 外国の状況は日本よりはきっとましなのだろうなー。
 では今週この辺で。読んでくれた方ありがとうございました。

年金事務所に行ってきました。

2021年05月16日 | Weblog
 こんにちは。
 毎日が暑くなってきました。今週は天気もよくて気持ちいい毎日でもありました。いまごろが、暑くもなく寒くもなくいちばんいい季節なのでしょうか。休日の朝早く起きたくなるのもわかるような気がします。ツバメも空高く飛んでは巣作りに励んでいる景色を目にするこのごろです。

 さて今週は・・・。
 あい変らずのコロナ禍の生活です。そこに来て、たのみワクチン接種がうまくいっていないようです。受けるべき年齢でもない首長や職員や民間人がルール無視の接種が横行したことがニュースになっていました。最も苦情が多い電話がつながらないいう中にあって、できないなかでことでことです。そんな中で、人の目を盗んで接種した人たちの理由が、「キャンセルがあったので接種を受けた。私は町営の診療所の開設者で、医療従事者に準ずる立場で」(茨城県城里町の上遠野修町長)や「医療従事者向けワクチンのキャンセルが出たため、有効活用した」(東京・新島村長の青沼邦和村長)開き直りのようで、もっともな理由があげていました。あきれてしまいます。大人の社会がこうも歪んでいっていることを見るにつけ、「政治家は信用できない」状況をつくっているのでは思います。要は、ワクチン接種のルール化が混乱している状況なのでしょう。

 そんな状況のなかで、「東京五輪」に関係した発言も多くありました。
 「死者を出してまで行われることではない」(テニス錦織選手)。「(コロナ禍での五輪開催について)意義や価値を証明していない」(JOC理事・山口香さん)。
 海外の有力紙などでも「五輪中止」の評論が載るようになってきました。
 いつのまにか五輪が商業主義になってしまい、「中止」するリスクを考えると人命優先より利益優先の状況が根っこにあるように思えます。さらには、五輪開催に反対する署名もでてきていました。
 ・・・そんな状況でした。

 最近、日々コロナ感染もますます多くなってきたようになってきたように見えます。そんな中で、政治が市民に生命の安心を保障するべき政治を本当にしようとしているのか? ということがより具体的になってきているように思えます。
 ルール無視のワクチン接種を受けてしまう首長の行動にいまの政治の本質がみえたように思えます。さらに「東京五輪」などの国家行事もあり、どれだけ市民の納得のいく説明をしていくのかということもこれからの課題になっているように思えます。市民生活そっちのけの国家行事の進行となれば、少しも楽しく思えるスポーツイベントにならないでしょう。そうなれば、国家だけが責任を果たしたいいわけでつくってしまって、市民の生活が置き去りにされてしまった権威主義体制をほうふつとさせる世の中が誕生するような時代が到来するようで怖ささえ感じます。




 今週の平日。有給休暇をとって「年金事務所」に出かけてきた。事務所には、同じような人たちが多くきていた。65歳になってとうとう年金生活者になってしまったという現実に、時代のながれを感じていた。世の中は、いまだ「サンデー毎日」なんていう感覚を年金生活者に持たせてくれないのだなー、と思った。ほんとうに生きていくって大変なことだ・・・。その中の一人として私もいるんだということをつくずく感じた一日だった。

 そんなことを思いながら帰りに事務所の公園で一服していたら、緑やピンク、赤の帽子をつけたたくさんの幼時たちが保育士さんの先導のもとで歩いていた。小さい子に「こんにちは」とあいさつされ小さく「こんにちは」と返した。なんともかわいい子どもの表情が印象的だった。
 今週、出産・育児休暇で休みをとった人のことを思い出した。「二人目なのでもうそれほど不安を感じていません」といいながら、帰っていた。別れ際に、「私がアルバイトの身になって今年も更新がなかったら、もうこれが最後でしょうね」と言い、。さらに「たいへんお世話になりました」あいさつしたのだった。
 とはいえ、もうこの人たちと一緒に仕事をしたことも忘れられていくのだろうなーと思った。昔、仕事を教えたり、職場の仲間と山登りに、花見にとよくいったものだった。一緒にいった人たちは今ではそろぞれ、職場の中心になって頑張っている。これからは彼らの時代になったことをつくず思う。

 縁もゆかりもない人たちと、偶然に仕事をするようになり楽しい仕事生活だったと思うことができたのだろうかと考える。きっと私にとっては、楽しかったが彼らにとってはどうだったのだろかと思う。
 コロナ禍のなか、あまりにも窮屈な生活がつづく。そして、女性にとっては新型コロナ感染禍では思いもよらない状況になっている。最近「女性の貧困」という報道をとく目にすることが多いことに気づかされる。子どもを産んで育て、さらには正規社員でいることの息苦しさが多いということが、女性たちの気持ちを非正規社員へとすすめねtしまっているという。さらには賃金などの格差が拍車をかけている。そして、パワハラ、セクハラ、夫の暴力・・・。コロナ禍での女性の働く環境はますます厳しさをますばかりだという報道を目にする。

 これからの感染対策が五輪よりも優先されるようになってほしいところだ。一つの命がまた誕生することが、老いていく人への希望になっていく世の中になっているのだろうか。いずれにせよ、まだ同じ時代にいることで問いつづけることはたくさんある。そして高齢者である私。
 最近、「介護保険料」がまた上がるとの記事を読んだ。つくずく世の中は、弱者へ負担を強いることになっている。一方で、政治は儲けるための経済優先の政治を着々とすすめているのか「デジタル庁」と進んでいる。
 そんなとき私の指針は「誰が得をするのか」という基準原則が問い続けることになるのだろうと思う。それぞれ、なんにつけ不備はある。それを話し合いバランスのよいところに落ち付くなければなならいとは大事なことだろう。それさえもなくなれば、一方的な押しつけに変わってしまうでしょう。

 今月から、身分が「再雇用者」から「アルバイト」という形になるようです。(いまだに契約書がきていませんが・・・まったく仕事が役所のようですが)。
 私のほかに、アルバイトは何人かいます。同じフロアーにもう一人。
 最近、仕事をいていて「一日いて電話一本、受けるのも仕事。一日中、職場を動きまわって仕事をしている人もいるし、夕方に電話一本で仕事が完結してしまう仕事もあるということに文句もいわずいること」と思うようになりました。けっこう、他人の目からみれば「何とも暇」だとか「仕事をしていない」とか見られています。他人のいうことをまともに考えていると疲れることがあります。

 というのも、最近自分の賃金と仕事ということを考えるようになりました。仕事が集中してくるときもあるし、一日中、原稿をまっていることもあります。これも仕事なのだなーと思います。それでも他人の目には「仕事はしていない」ように見えるようです。なんともやりきれない小言なのですが現実ですから、私の方も対応に苦慮する日々もありました。そんなことばかり考えて悩んでいても誰も手伝う気もないのであれば、私なりの仕事が求められます。最悪なのは、同じアルバイト同士で文句ばかり言っている人のこと(実際によくききます)。
 大事なことはちゃんと結果としてのものを残せばいいのだろうと思うのすが、そればかりではない持論の人もいます。それで、その人を見れば・・・同じなのですから。

 仕事をしていていちばん大事なのは、納得のいく商品をつくることと、そのスキルを後継者に伝えることなのでしょうか。人格までも伝える必要はないのです。いやなことは伝えないようにすることでしょうし、受ける側はそれを自分のものにする必要もないのでは、と思います。


 5月も半ばになってしまいました。
 今月は、私の人生の形もいろいろ形がめぐってきたような月でもありました。その中での一つに「年金受給手続き」でした。なんとも、高齢者になったものだな、と思う瞬間でもありました。せめてコロナ禍ではないければいいと思うのですが、これも人生でしょうか。
 それでもいいこともありました。
 月刊誌の編集長がかわり、これまでよりもスムーズに入稿があれこれと考えなくて仕事が進むようになりました。そう思うと、この編集長の努力もあるのでしょうか。これまで以上にいいものをつくっていこうと思うことがあります。

 最後に、やっぱり減りそうもないコロナ感染、そしてワクチン接種もままならない状況が続いている。これで本当にオリンピックなどやる気なのだろうか。なにか、選挙、オリンピックいうことを考えているのではないのだろうか。人の不幸を利用しているような政治に見えるような気もするが・・・。

 さて今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

緊急事態宣言、さらなる延長の下で・・・

2021年05月09日 | Weblog

 こんにちは。
 新緑のいい季節になってきました。吹き風もここちよい気がします。散歩道では草花がいっせいに色とりどりの姿をみせてくれる季節になってきました。
 この時期を「薄暑」ともいうそうです。まさに夏に向かって、日々少しずつ薄着になっていくようすは薄暑そのものです。いまがいちばん過ごす安い季節になのでしょうか。

 過ごしやすさはもどって来たのですが、あいかわらずのコロナ禍の中の生活は続いています。感染状況は減る傾向になく、とうとうこれまで4県(東京、大阪、京都、兵庫)「緊急事態宣言」から、愛知、福岡の2県が追加されて、月末まで延長されるようになりました。この状況をみれば、やはりコロナウイルスはとてもやっかいな状況は今年一年もつづきそうな感じもぬぐえません。
 町ゆく人はほとんどがマスクを着け過ごしている状況はこれまで以上に多くなってくるのでしょうか。まだ、身近な人が感染したとうこところにまではなっていませんが、本当に感染したら困惑してしまいます。いったい安心できる材料はどこにあるのか不安になります。変異株のコロナも少しずつ増えている状況です。

 「緊急事態宣言」を出してどうなっているのかは、今のところよくわからないのが私の感想です。ただ、宣言を出すことで、病院の負担がこれまで以上に増えるということくらいは分かります。「緊急事態宣言」だ出す第一の理由が感染者の受け入れができなくなっている病院のひっ迫状況がおもな理由なのでしょう。やることが、全部あと追い状況で、きっちりとしたコロナ感染へ対応策には思えません。だから、日々の生活の中では、なかなか自分のことのようには思えないのではないのでしょうか。

 そんな中で「東京五輪・パラピンピック」の中止、延期の意見がでてきたのも今週の目だった対応策のようにも思えます。新聞にも病院では、「医療は限界、東京五輪はやめて」というコロナ対応に悲痛な叫びのような看板も報道されていました。
 本当に、コロナ対応をいちばんに考えれば「東京五輪」よりは国民の生命を守るのが、国のやるべきことなのだと思います。そのことが明らかになれば、国民もその大変さを自覚して、感染対応にむかうのではないかと思うのですが・・・。
 やるべきことが、何か中途半端なような対応ばかりになっているころが、感染者を増やしているようにも思えます。


 大型連休が終わったようです。職場に行き、少しずつ仕事も始まりました。
 いつものなら(コロナ禍ではないとき)、いまごろの職場は、地方のおいしい、お土産をいただいていたように思う。連休中に、自分の生まれ故郷に帰った人たちが、お土産自慢の一品を買ってきているような気がします。ちなみに、わたしの名物逸品は徳島の「鳴門きんとき」でしょうか。
 それも昨年からそれも消えていったように見えます。この状況はいつまで続くのか先が見えないということも現実です。なんせ、国の対応もいまだのコロナ感染への覚悟もみえず、ダラダラとした対応策がつづいているようにも見えます。
 
 今年、国会で首相が「夏の東京オリンピック・パラリンピックは、人類が新型コロナウィルスに打ち勝った証として、また、東日本大震災からの復興を世界に発信する機会としたい」という答弁をしたいたことは思い出しました。そのことから、何が何でも東京五輪をやるために頑張っている姿を思いうかべてしまいます。
 一方で、その前にこれまでのコロナ対応をきちんとやってほしいという気がします。私はコロナ感染が少なくなって、通常の生活にもどっていくのなら東京五輪が中止になってもいいと思います。だから「国民をコロナ感染から命を守る証として、東京五輪は中止(延期)にします」といった方がよっぽどいいのではないかと思うことがあります。わたしは、命をかけて東京五輪を見ようとは思いません。

 このままだと、日本の季節の風景や行事も忘れられていくのではないのでしょうか。そのことが、日本の文化(大げさか?)も消えいくようにも思えます。そのことが、日本の生活様式も変わっていってしうまような気がします。庶民の唯一の楽しみが年々忘れられて消えていくような気がします。これが、「新しい生活様式」というのであれば、それを守ろうとする政治のあり方も変えなくてはならないのではないのではないかと思えます。ほんとうに守るべきは、東京五輪でもなく富裕層の株価でもなく、庶民の楽しさをつくる、これまでの日常を追求し、取り戻すことが大切なことなのだなーと思います。


 今週、市役所から「介護編被保険者証」が届きました。まるで、小学校に入学する一年生の「入学通知」のようでした。日本の社会保障はちゃんと機能しているんだとつくずく思えました。要は弱者に対する市の制度のようです。第1号被保険者になると介護や支援が必要になってくる身体になったいうことを自覚した通知でもありました。「介護保険料」をとられいるのであたりまえといえば当たりまえですが、これまで他人のこととしか思えていなかったことが、より身近に思えることは大事なことだと思います。

 とはいえ、できれば使いたくない制度であることは確かです。それには日々の健康状態が大事な毎日を自覚させる通知のようにも思えます。それでもどうしても使う必要が出てくる状況もあるのでしょう。憲法でいう25条が国民に「最低生活を保障する権利」を国に義務付けている条項だと理解しています。国(政府)は、日本国に住み人々に税金をつかって生活を保障する義務を負う・・・ということなのでしょう。
 65歳以上になっても働ければ働く場を保障し、さらにはけがや病気などで介護が必要な場合は、国民を保障しなかればならないといことだと思います。
 実際はどうあれ、これは大事なことだと思います。一機何百億円もする戦闘機を買う前にこのとを第一に考えてほしい気がします。

 今週「高齢者医療制度2割負担」という法律が衆院厚労委で可決したようです。これも、「介護保障」との関連もあるようです。
 これまで75歳以上の高齢者約1815万人。その9割は窓口負担が1割で、3割払う現役世代よりも低く抑えられてきました。改正法案では、1割負担の対象者のうち年金を含む年収単身で200万円、夫婦で320万円以上を満たす場合、2022年度後半から負担割合を2割に引き上げる。約370万人が負担増なる予定・・・となっている(朝日5月8日付)。2割負担によって、現役世代1人の負担額は年間で300円となる見込みとなっています。

 でも、大事なことは病院にいく高齢者をつくらないということでしょう。それには、高齢者の住みやすい社会をつくることが政治の目標であるのですが、うまくいっていないことを認めたようなものでしょう。要は、国は膨大な軍事予算は使うが、国民一人ひとりは自助努力をということなのでしょう。きっと、これは、2割負担を払うことが常態化すれば、もっと年金低所得者にも反映させることがあるのでは思います。
 「アメリカは健康保険に加入していない人が国民の9%ほどに達している。医療費が非常に高いだけに、治療をうけることができない、健康格差の激しい国として有名である。元大統領のオバマはそれを避けるべく、民間医療保険制度でありながら国民皆保険の国になろうとしたが(オバマケアと称された)、トランプ政権ではそれをほぼ破棄してしまった」・・・日本では「なお、失業した人への保険制度である雇用保険制度は、労働時間の短い非正規労働者排除されているので、失業保険制度は皆保険ではない・・・」(『日本の構造』橘木俊詔著・講談社新書)に書かれている
 少子高齢化でも、もっと安心してうめる企業のありかたを規制したりすることを忘れて、当事者負担を強いることは政治の怠慢でもあるのではと思います。


 コロナ禍のなかに変異株などの登場なので、ますます緊張感がます毎日です。一人ひとりにとっては何をするすべもなく、マスクに手洗い、密集を避けるということくらいでしょう。それでも、通勤電車は密林のように人々のマスクのなかに漂っている日々です。あとは、ワクチン頼みということなのでしょうか。ここにきて、本当に身近にコロナ感染者はいないのでしょうか。感染者であっても無自覚の人もいるときいています。もし、一人でもいたらまわりの人にPCR検査をするのでしょう。それで、職場はどうなっていくのでしょうか。
 ちょっといやでしょうが、コロナ感染者がでたらどんなリスクを背負い、集団生活はなかでどんなことをするのか各企業は擬似体験をすることも大事なことなのだとも思えます。

 さて、これからどうなることか。毎日通勤しながら考えることは「感染品用にと」と祈るような日々である。まさに、安心すべき時間でない。65歳で定年し、田舎でのんびり過ごしていられる身分ではないことに不安も増す。これが、私の人生なのだろうかというあきらめもある。
 明日からゴーレデンウイークも終わり、どっと通勤者が多くなっているのだろう。
 ますます感染へのリスクは高い、と思いつつ無事帰れることが奇跡と思わせる社会って、いいとは思わない。だから東京五輪どころではないと思う理由になっているのだろう。
 今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。


今年のコロナ禍の連休ですが・・・

2021年05月02日 | Weblog

 こんにちは。
 今日は連休のまっさいちゅうです。新緑が気持ちのいい季節になってきました。 天気がよいことはいのですが、緊急事態宣言下であることが気がかりなところです。さらには、コロナ感染が減る傾向にないとうこともあります。市内のお祭りも昨年同様に中止が告げられていました。ことごとく身近な楽しみも消えていく連休中のできごとです。そんな中で「神頼み」になるのも不思議なことではないのかもしれません。近所の神社にはけっこうな人がいました。最近では、こころ落ち着ける場所を探しているような連休の半ばでもあうるようにも思えます。
 さて、どんな連休を送っているのでしょうか。




 私も高齢になりました。
 4月も終わりごろ、市から接種予約の通知がきていました。日本のワクチン接種の順番は医療関係者から高齢者への順番で接種するそうです。東京五輪も100日を切っている状況の中で、少しはあわてる必要があるのでしょうか。
 ところが、現段階では、ワクチンの数も接種する場所も少ないようです。
 さっそく、平日に電話をしてみたところ9時過ぎでもなかなかつながらない状況でした。30分間、家族にも手伝ってもらって固定電話と携帯からもかけてみたのですが「混雑している」状況でつながりませんでした。
 あきらめて、散歩から帰ってきて午後またかけてみたところ、つながりはしたのですが「今日の受け付けは終了」とのことでした。これでは、本当にワクチンが接種できるのはいつになることやら・・・と思いが残りました。

 そんなこんなで「いったい世の中の接種状況」を新聞などで読んでみたら同じよう状況のようです。新聞の投稿にも「回線が混雑しておりますのでしばらくお待ちください」のコールが多かったようです。ちなみに、都内の65歳以上の人口は311万人。そして、ワクチンが全員に届くのは6月末頃だともいわれている。

 とはいえ、コロナウイルスもワクチンよりもはるかに早く、変異していっています。新しいウイルスが人々の体に侵入し、あたらしい形に変わって生きる場所をつくっていくようです。環境に合わせてかわっていく変異ウイルスもまた、生き物だということを思います。ワクチンが先かウイルスが先か・・・。時間との関係もあるのだと思います。こんな状況なのだから、東京五輪開催に医療関係者を派遣するのも大変な状況なのだと思います。だから、いっそ中止にして、コロナに対応することに専念してほしと思います。
 これで本当に、ワクチンが接種できるか・・・と思うのが正直なところです。こんな思いがあるのは、一年経ても、コロナ対策と東京五輪もうまくいっていない状況は少しもかわっていないようです。


 月日は流れて・・・。今月とうとう「65歳再雇用」が終了しました。普通であれば、これで年金生活になるのですが、私、貧しくさらに編集の引き継ぎ者がいまだに決まっておらず、「3ヵ月間期間契約者」になりました。そして、私のやるこ仕事はこれまでの仕事と引き継ぎ者(誰?)に仕事を覚えていただくことになりました。
 とはいえ、「3ヵ月間」とは口頭で話し合ってのことですが、その契約書がいまだ見ておりません。ただ、定期券の購入金は振り込まれていました。
 おそらく、連休明けに契約書を見ることになるのでしょうが、なんともアバウトな仕事をしているとも思います。それでも、仕事がこれまで通りできることはありがたいことだと思います。職場を見わたせばいつのまにか、みんな若者ばかりでした。機械も新しくなったものもあり、これまで通りのものもありました。私は新しいものには関係なく働くことになるのでしょうか。
 まあ、遊んでいるよりはいいか・・・くらいの気持ちですが。少しずつ働けなくなる体もある中で、どうにかできたらと思います。



 今年の連休も「不要不急」「自粛」の連休が昨年同様に続いていますね。
 どこいくにもマスクをして・・・手洗い、消毒などが生活の習慣になってきました。そんなことを考えていると、ますます人間の体だ弱体化しているように思えます。あまりにも体をきれいすぎて、逆にウイルスに対応することに弱くなっていくような気がします。「インドでは一日感染者が30万人を超える」というニュースには驚いてしまいます。30万人といえば、一つの市全部が感染状況というところです。日本でもインドほどではないにしても、減らない状況は同じだなと思います。

 そんなかで、慣れもあるでしょうか。人の流れは少なくなっていないということもわかるような気がします。横浜港から出港した「飛鳥Ⅱ」というクルーズ船から感染者が一人出たそうで、即刻、運行は中止になったそうである。渋谷の人の混雑も、クルーズ船も同じようなものでしょうか。「緊急事態宣言」の出ている中でも、こんな状況には驚きでもあります。いったい何が足りなのでしょうか?。

 なにか、なんでも「しりつぼみ」状態になっている。時代的には「時代閉塞」ともいえるのではないのでしょうか。都知事が首相が新型コロナ対策にいろいろと苦労していることはわかっているのですが、それなら、本腰をいれて「東京五輪」を云々している時ではないということをもっと深刻に受け止めて欲しい気がしますが・・・。



 またしても、宮城沖で震度5の地震があり、静岡では竜巻があり・・・被害のニュースがありました。自然の猛威は止められない。
 人間社会ではコロナ感染。日々、コロナ変異が世界中に感染を広げていく。人類は年々のしかかってくる、まさに地球は病気で瀕死の状態のようにも見える。

 そんななか、2年目のコロナ禍の連休である。今年は、昨年より元気がない。慣れるより、疲れた高齢者というところだろうか。もう、跳ね返す気力などなくなっているようになっている。昨年は、毎日、近所の都霊園を散策していたように思う。
 少しずつ、遠出もできない感情(自粛・不要不急)が現実味を帯びてくるようななったのは事実だろう。この更新も、ちょっと元気がなくなってきたようにも思う。
 それでも、家族がいてどうにか、何かを見つけ、考え、一歩でも歩くことや行動することが大切なのでしょうか。
 
 今年は憲法施行74周年だそうだ。コロナ禍のなか、憲法はいったいどんな力を発揮しているのだろうか。いま一度、国の屋台骨でもある憲法というものを読んでみることが大事な時期になっているようにも思えます。こと、日本では憲法や労働法は深く教えてくれる教育方針ではないのが現実です。自力で勉強して社会と向き合わない限り、生かせないのが現実です。「平和」といえでも、ただあるわけではなく、それを守ろうとする人がいるからどうにかこうにか守られているのだと思います。そんな広告が3日付の各新聞の意見広告が訴えているように思えます。

 年々、季節を感じさせる祭りや行事が消えていくことに寂しさを覚える連休です。それでも新緑の季節になっています。人に希望をあたえるものが減っていくなかにあるようです。それでも、一ずつ探していくことが大切な時期なのでしょうか。これまでは、周りの励ましてくれていたような景色が記憶に残しつつ行くしかないようにも思えます。

 連休中は、近所の公園や(写真上)や多摩川散歩で終わりそうです。それもこれも、コロナ禍によってでしょうか。そんなこともあるよと思いながら、また始まるのでしょうか。やれることといったらこんなことくらいです。それでも、感染するときは感染するのでしょうね。それが、いつ、どこでかはわかりません。ただ、言えるのは出来るだけ感染しないような対応をしておくことでしょう。
 連休明けにワクチン接種の予約をする電話を始めようと思います。

【おまけ】
 連休が始まったと思いきや、とうとう最終日になりました。今日は「子どもの日」になりました。子どもの日に思いだすことは、子どものころ利根川と江戸川の合流するところまで自転車でいく途中で、土手で大凧上げの祭りをしていました。
 調べてみると、埼玉県春日部市西宝珠花の「大凧揚げ祭り」(江戸川河川敷)というようです。今年はどうだったのでしょうか。なつかしいです。
 高尾山いも行きたかったのですが、やはりコロナでじっとがまんしています。
 また、時間をかけてゆっくり歩ける日がくるといいのですが。ニュースなどをみると、高尾山は混んでいたようです。みなさん、それぞれコロナ感染に注意しているようです。それでも、やはり不安でしょう。山を満喫するのはむずかしいところでしょう。
 はやく、コロナを気にせず歩けるようになるといいですね。

 さーてまたボヤキの日々です。ワクチンもあるだろうし、アルバイト更新もあるだろうし・・・。老体にはちょっときついですわ。

 では今週はこの辺で失礼します。連休はいかがでしたか。
 通常なら、私の年齢なら、「毎日がサンデー」なのですがね・・・。
 読んでくれた人、ありがとうございました。