日々徒然に

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 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

5月連休まじか、ステイホームということ・・・

2020年04月26日 | Weblog
 
 こんにちは。
 4月ももう少しでおわりますね。いつまなら、5月連休がまじかというところでいろいろと楽しいプランが頭の中をよぎっているころだと思います。私的には、山歩きとかあるように思います。しかし、今年は新型コロナ禍でどこへ行くにも「ステイホーム」という言葉にあるように「不要不急」の外出をさける「自粛」ムードが濃い日々です。
 それでも空を見あげれば、ツバメが巣作り飛んでいたり、朝早くから、鶯の鳴き声が聞こえてきます。やっぱり春なんだーと思います。
 
 さて、今週は一日中「新型コロナ禍」のニュースや新聞報道の日々でした。それも、ますます蔓延することが報告されるたびに、「もし感染したら・・・」という気持ちはかたときも忘れることはない日々があります。とくに感染者を治療する医療関連者の感染によるニュースには不安が大きくなります。いま世界中を救えるのは、大きな軍事的な武器を持っていることではもなく、大金持ちでもなく、医療関係者たちであると思います。どんなにきびしくとも、医療従事者たちの日々の奮闘に敬意をもつくらいです。
 
 とくになによりも、日本の医療施設が減らされている日本にあっては大変な日々だと思います。国内で災害があるたびに、年々病院が減っていく状況でいいのだろうかと思います。今回の新型コロナ禍でも「医療崩壊」がいわれのにはこれまで政府がとってきた「地域医療構想」が原因になっているようにも思えます。市場原理導入で弱体化してきた、これまでの現状があるのではないのでしょうか・・・ね。それが今の状況をつくったのだということでしょう。「人生100歳時代」などの中には、災害や病気というリスクがあるということが元気な人たちの市場原理によって出来がった今の日本の現状である思います。「生きていればいろいろなことがある」というなかで、生きていることは元気なときだけではない、という現実が見えなくなった政治がこれまでつくってきた結果として「医療崩壊」もおきているのではないのでしょうか。まして、地震、豪雨など災害の多いの日本にあっては、人びとの元気で生き続けるためには、医療がとても大切なことだと思えた週でもありました。
 
 
 「テレワーク(自宅勤務)」が多くなってきました。
 朝、通勤していると「テレワークできる職種や大企業ならいいが」という思いは頭のすみにいつもある日々でした。私のところでいま出来ることは、ほそぼそと「自宅待機」ということです。「自宅待機」は業務命令なので「有給」です。しかし、その実態は、家でぼんやりしたり、テレビを見ていたりと業務はしていないのが現状です。「これでいいんだろうか」ということも思います。それでも、携帯に自分の担当する仕事についての問い合わせなどがきます。なんとも、矛盾した仕事です。
 
 それでもまだ「有給」であることにありがたさを思います。新聞報道などを読むと「非正規社員」や「アルバイト」の人たちは、「無給」状態になるといわれます。まさに生活ができなくなる状態がつくれらています。うらを返せば、企業のこれまでの怠慢が原因であるのに・・・。新型コロナ禍が引き金の一つになっていることもあるのですが、現実は「使い捨て」の状態が経営論理にあらからでしょう。
 政府は、新型コロナ禍などで休業をしてしまった人たちにも、休業手当、失業給付、傷病手当など制度をつくり対応するようになってきました。
 給付金をまもらう仕組みが簡単にして、働く人自身にわかりやすくできるような仕組みがほしい気がします。
 
 毎朝、休めない仕事をかかえて駅に向かとき、前を行く人の背をみながら「今日も一日感染しないこと」が仕事以上に大切な日々になってきたように思います。
 
 今月は、図書館が閉館中、さらによく立ち寄る本屋さんも休業中との看板を多く見た月でした。さらには「緊急事態宣言」が出てから3週間あまり、近所の文化施設の多くが閉館中でもあります。コンサートも講演もことごとく中止あるいは延期中という世の中になっています。ことごとく、自分が好きなものが扉を閉じている日々になっていました。ラグビーが好きになって、観戦したいと思いスポーツ番組専用の受信契約をしたのもつかのま、「中止」になり契約を解除した月でもありました。
 ことごとく、身の周りから好きなものが消えていく月でもありました。
 消えていくといえば、近所の本屋さんが閉店休業中。あっちもこっちもという状況が長いあいだ続いています。買うか買わないかは別としてちょいと立ち寄ってみたいと思っていても、今の段階では無理な毎日が続いているようです。今週から『子ども読書週間』だそうですが・・・こんな時だからこそと思っていても、図書館も本屋さんも閉鎖です。何かいい方法がないのでしょうかね。
 
 カミュの「ペスト」という題名の本は閉鎖中以前にを買っていました。今月初めごろ本屋さんにいったらたくさんあったので買っていたのでした。今なら、閉店中であるので無理でしょう。買っておいてよかった・・・と思いました。
 
この物語の内容は
 アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長編。(本紹介抜粋)
 の4月から翌年の2月ごろまでの物語です。
 
以下は、今の新型コロナ禍に酷似していると思える部分。
■P5 この記録の主題となす奇異な事件は、一九四*年。オランに起った。
 
■p53 世間はそいつに病名をつける勇気がなかったのさ、昨座にはね。世論というやつは、神聖なんだ――冷静を失うな、何よりも冷静を失うな。
 
■p76 「つまりわれわれは、この病があたかもペストであるかのごとくふるまうという責任を負わねばならぬわけです」
 
■p89 地震は起らず、翌日の一日はリウーにとって、市内の八方に車を飛ばして、患者の家族と話し合いをしたり、患者自身と言い争ったりするだけで過されてしまった。リウーが、自分の職業がこれほど重苦しく感じたことはなかった。これまで、患者は彼の仕事をしやすくしてくれ、彼に身をゆだねていた。今度初めて、医者としての彼は、患者たちが隠しだてをし、一種警戒するような驚きをももって、病気の奥深く身を避けているのを感じた。
 
■p91 しかしながら、その晩も、公式もの発表は相変わらず楽観的であった。翌日、報知通信社は、県知事の措置は平静に迎えられ、早くも三十名ばかりの患者が申告されたと報じた。
 
■p97 この病疫の無遠慮な侵入は、その最初の効果として、この町の市民にあたかも個人的な感情などもたぬ者のようにふるまうようなことを余儀なくさせた、といっていい。~「折れ合う」とか「特典」とか「例外」とかいう言葉はまったく意味がなくなっていることを納得するまでには、多くの日数を要したのである。
 
■p104 そうなったとき、彼らの勇気、意志、そして忍耐は実に急激で、もう永久にその穴底からはい上がれないだろうと感じられるほどであった。彼らは、したがっていて心を抑えて、自分たちの解放の期限を決して考えまいとし、未来の方へふり向くまいとし、そして常に、いわば目を伏せたままでいようとした。しかし、当然、この用心深さ、苦痛をごまかそうとし、戦闘を拒否するためにみずから警戒を解こうとするやり方は思わしい結果は得られなかった。~彼らは生きているというよろむしろ漂流しつつ、方向もない日々と、うることない思い出のままに、みずからの苦痛の大地に根をおろすことをうべなかった暁にのみ生気を生じるであろうところの、さまよえる亡霊となり果てていたのであった。
 
■p111 別離を恐怖とかいえような共通の感情はあったが、しかし人々はまた依然として個人的な関心事を第一列に置いていた。誰もが病疫を真実には認めていなかったのである。大部分の者は彼らの習慣を妨げたり、あるいは彼らの利益を冒すことがらに対して特に敏感だった。
 
■p113 わずかに必需品だけが、陸路と空路によってオランに届けられていた。そんな具合で、車の運行は次第に減少して、ついにほとんど皆無に近くなり、贅沢品の店は今日またショウ―ウインドウに断りの掲示を出し、一方その店頭には買手の行列が並んでいるいるという状態になった。
 
■p116 コタールは彼の住んでいる界隈の大きな食糧品屋がうんと高い値で売るつもりで食糧品をストックしていて、その男を病院に連れていくために・・・
 
■p133 町じゅうの者が街頭にあふれ出てひとつところを徘徊していたあの宵々の次で、この疲労困憊の幾週を過してしまうと、リウーは自分がもう同情の念をおさえようとする必要がなくなっていることを悟った。同情がむだである場合、人は同情にも疲れてしまうのである。
 
■p163 暑さと沈黙のなかで、しかも市民たちのおびえきった心にとっては、元来あらつるものが普通以上の重さをもつようになっていた。空の色や土の香など、季節の移り変りをなくしていたものが、初めてすべての人々が感じられるようになった。
 
■p173 「用紙の危機はますます激化し、ある種の定期刊行物などはページ数を減らすことを余儀なくされたにもかかわらず、《病気時報》という別の新聞が創刊され、その任牟と称するところは、《病疫の進行あるいは衰退について、厳密な客観性に留意しつつ、市民に報告し、病疫の今後に関して最も権威ある証言を提供し、有名無名を問わず、災禍と戦う意志あるすべての人々にその紙面で支持を伝え、一言にしていえば、われわれを襲った不幸に対して効果的に戦うため、あらゆる人々の善き意志結集すること》であった。実際は、この新聞はペストの予防に確実な効力あるさまざまの新製品の広告を掲載することに、きわめて急速に限定されしまった。
 
■p238 コタールは抗弁して、自分はペストを望んだわけではなく、ペストは来たのだから、おかげで今のところ自分の事件が具合よくなっているかといって、それはなにも自分の罪ではない、といった。
 
■p254 しかし、暗夜はあらゆる人々の胸のなかにあり、そして埋葬のことに関して伝えられる真相も伝説も、ともに心を安ずるていのものではなかった。
 
■p255 ~筆者はむしろ反対に生きている人々と一緒に過ごすこと、一例を示せば海水浴などのほうが好きなのである。しかし、結局、海水浴は禁止されてしまったし、そして生きている人々の一緒に過ごす社会は、死者たちの社会に席を譲らねばならなくなることを、来る日も来る日も絶えず恐れていた。
 
■p266 市民たちは、少なくともこの別離に最も苦しんでいる人々の状況に慣れてしまったのだろうか? それを肯定することは完全に正しいとはいえないであろう。彼らは精神的にも肉体的にも、肉のやせ細るのに苦しんでいったほうが、もっと正確だろう。ペストの初めのころは、彼らは自分の手もとから失われれた者のことをきめ細かく思い出して、なつかしかったものだった。しかし、愛するその顔やその笑い声や、今になってそれは幸福な日だったとわかった、ある日のことなどは、あざやかに思い出せたとしても、彼れらがそうして思い出しているその時刻にしかも、それ以来実に遠いところとなった場所で相手がそんあことをしているものか、それを想像することは困難であった。
 要するに、この時期においては、彼らには記憶はあったが、想像が不十分だったのである。
 
■p269 (8月)・・・記憶もなく、希望もなく、彼らはただ現在のなかに腰をすえていた。実際のところ、すべてが彼らにとって現在となっていたからである。これもいっておかねばならぬが、ペストはすべの者から。恋愛と、さらの友情の能力さえも奪ってしまった。なぜなら、愛は幾らかの未来を要求するものであり、しかもわれわれにとってはもはや刻々の瞬間しか存在しなかったのである。
 
■p281 彼ら彼らを、また人類を、彼らと一緒に死のなかの引きずり込みたかったであろう。まったく、それは確かに事実であった――人間は人間の仲間なしではいられないのであり、彼らと別れて出て来ると胸のうちに高まるに任せていた、あの同じ憐憫のおののきに値する人間であったのである。
 
■p318 すると、その死刑の処せられている少年と自分とが一つに溶けてしまい、まだ健全な自分のあらゆる力をもって少年をささえてやろうと試みるのであった。しかし、一瞬間一緒になったと思いうと、彼らの二つの心臓の鼓動は調子が合わなくなり、少年は彼の手から抜け出し、そして彼らの努力は空虚のなかへ沈んでいく。そこで、彼は細い手首を放し、自分の席にもどるのであった。
 
■p324 (リウー)「僕が憎んでいるのは死と不幸です。それはわかっていられるはずです。そうして、あなたが望まれようと望まれまいと、われわれは一緒になって、それを忍び、それと戦っているんです」
 
■p330 確かに善と悪というものがあり、また一般に、両者を区別するところのものは容易に説明される。しかし、悪なるものの内部の世界で、困難が始まるのである。たとえば、一見必要な悪と、一見無用な悪とがある。地獄におとされたドン・ジョアンと、子供の死がある。・・・子供の苦しみと、この苦しみにまつわるむごたらしさ、またこれに見出すべき理由というものほど、重要なものはないのである。
 
■p363 (タルー)「話しを簡単にするためにまずいっておくがね、僕はこの町の今度の疫病に出くわす前から、すでにペストんい苦しめられていたんだ。とうのは、まあ、つまり、僕も、世間みんあとおんなじようだということなんだがね。しかし世間には、そういうことを知らない連中もあれば、そういう状態のなかで心地よく感じている連中のあるし、そういうことを知って、できれば、それから抜け出したいと思っている者もある。僕は、いつも抜け出したいと思ったものだった。
 
■p380 (リウー)「しかし、とにかくね、僕は自分は敗北者のほうにずっと連帯感を感じるんだ、聖者なんていうものよりも。僕にはどうしてもヒロイズムや聖者の徳などというものを望む気持ちはないと思う。僕が心をひかれるのは人間であるということだ」
 
■p431 ・・・愛というものは決してそれ自らの表現を見出しうるほど力強いものではないこと、知っていた。その結果、母親と自分とはいつまでも沈黙のなかで愛し合って行くであろう。そして、今度は彼女が――あるいは自分が――死んでいくのだ・・・生涯、おの愛情の告白において互いのこれ以上に進みうることなく。・・・ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すこと、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日か思い出すことになるということである。ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできるたものは、それは知識と記憶であった。
 

 
 4月も終わろうとしている。
 春真っ最中。今年はとんでもないことを経験していた。生れてはじめての経験となるであろう「新型コロナウイルス感染」というものが世界中を恐怖に包んでしまっていたことには驚いた。
 はるか昔のあった伝染病の蔓延した時代は、めったに遭うこともないだろうと考えもしなかった。まさに、不意うちであった。それが、日ごとに感染者をつくり、最後には死者まででることに、恐ろしさを足もとにつきつけられた日々になっていた。日々を追うことにそのすさまじさは、経済を分断し、人と人を分断し、さらには国ごと分断してしまうほどの強大さがあることは、いまさらいうまでもなく人はそれぞれ経験している春になってしまった。
 
 そんな体験を語った小説にカミュの『ぺスト』という小説がある。
 ペストいう感染症が町じゅう(人口20万人)ひろがっていくなかで、そのなかで登場する人々の思いも同じだと思えた。伝染病が人間をいかに死のおいやっていくのか・・・、人間はいかに対応していくのか。読み続けていく中で、まさにいまの「新型コロナウイルス禍」とい同じような場面にたくさん出くわすことだろうと思う。
 人類はこんな経験もしなくてはいけないのか・・・ということを感じていることだろう。いっぽう、人類はそんな中でも生きることに工夫を凝らし、新しい知識と記憶を歴史を後世につたえていったことをつくづく思える小説だと思う。
 今は新型コロナウイルス禍を通して、『ペスト』のなかに書かれた人たちと同じような経験をしていることを、ふと思うだろう。感染症を防止するために、移動は制限され、人と人の語らいのし楽しんでいるはずが拒否されている。人間の楽しみを引き裂くウイルスが移動していく。いつか、そのウイルスから解放されたとき、人は何を得るのだろうか、そして何を思うのだろうか。
 
 カミュは『ペスト』という小説を題材にして、人間の不条理えがいているという。ペストによって隔離され、日々死がつつむ日常でなかで人間の本当の姿を求めているものだと思う。それは、カミュという小説家がレジスタンスなどに参加したりして日々、死んでいった仲間に対して思うことなのだろう思う。
 
※引用が部分がとてもいっぱいになってしまいました。
 それは、その部分が今と同じ状況を訴えているように思ったものです。とくに、よかったのはコタール。犯罪者でペストを天からふってわいた季節と、金儲けに紛争します。まさに、今の便乗値上げをする人たちそのものを語っています。タルー、ランベールも物語の中心をなしています。フランスに残した恋人の会いにいきたいがために封鎖された町から逃げ出すことを画策するランベール。死を身近にみてきたタルー。それぞれの思いがペストを前にして語られいきます。その友達となっていく医師のリウー。いつしかこの3人がペストと戦っていくなかで自分の思いを語っていくいいです。
 犯罪者のコタールやタルー、ランベール、リウー。誰もがそれぞれの過去を引きずっていながらも決して批判してはいません。それぞれの生きかたがあり自分がある。そのなかでペストによって一つの方向に向かわせたことによって共有していくものを得ていくことがとてもよかったと思います。 (日本語訳の宮崎嶺雄さんがとてもよかったのでしょう)。
 
 
日々、新型コロナウイルス禍で過ごすことが多くなってきました。
 この週は再放送のラジオ、テレビ番組が週でもありました。それもそのはずで、ドラマもつくれないでしょう。人と人との接触を避けることが感染への唯一の方法であれば、出来るだけ人との関係は遠くに置きたい時期なっているのでしょう。
 「social distancing」 (ソーシャルディスタンス)という言葉も現れ、人と近づきすぎないとなってしまえば、ドラマも演劇も人と人の関係が出来なくなって成立しなくなってしまうのでしょう。ドラマは人と人の駆け引きが面白いものです。だから、それがなければドラマじゃなくなってしまうようにも思えます。俳優さんも歌手も今は真冬の時代です。
 
 会社でもテレワークのお客さんを相手にすることが多くなってきました。電話で話をしていると、電話口から子どもの声が聞こえたりもします。子どもも休校や保育編も休業であるために一緒にいることがあるのでしょう。笑っていたり、大声で何かいっているのが聞こえてくるときもあります。こうなると「集中」して仕事をやるのも大変なこともあるのでしょう。そして、メリハリもなくなってもきているのでしょうか。
 最近読んだ新聞記者のテレワークの様子が紹介されていました。家族が一日中顔をゆき合わせてると集中できずのいるそうです。そんな中で、考え出したのが時間を決めて家族でラジオ体操などをやるそうです。休みもあったりと、お互いが助け合って生きている、ということを気付かせる時間が必要なのでしょうか。そして、家族でいることがめったにないことに感謝・・・と考えるそうです。なるほど・・・。
 
 
 お元気ですか。
 日々、新型コロナ禍によって、感染者やそれによって亡くなられた人を気にしながら送るようになりました。そして、その統計が報告されるたびの自分の住んでいる町の身近な数字をきにするようになりました。遠い故郷の田舎では都会ほど敏感にはなっていなくてもやはり気になることでしょうか。
 とはいえ、都会に住む当事者にとってはとても気になる日々が過ぎ去るにつれて大きくなってなっていくように思えます。感染を防ぐ方法が、人と人との接触をできるだけ避けることということに至ってはあまりにも原始的な方法に人類とウイルスとの関係も、あまり変わっていないなーと思えてもしまいます。
 
 こうやって、人類はウイルスに勝ち目がなければ逃げるしかないことに悲しくもなってしまいます。いったこれまでの経済成長はいったい何だっただろうと思います。あれほど、毎日満員電車の肩をぶつけあいながら働いてきたのに、世の中少しも進歩していなかったではないことに気づかされることもあります。経済、経済と叫ばれるうちに、それがすべてに通じてしまったかのような錯覚に陥ってしまった人類への新型コロナウイルス感染というふいうちは何らかの警告をつねに発している毎日であるのだとも思います。
 
 5月を迎えようとしているゴールデンウイークでいえば「不要不急」の外出への自粛が連呼されるなか「沖縄」への観光旅行を大勢の人たちが計画中とかという記事を読むと「いったいこれはどういうことなんだ?」と思えてしまいます。
 「行く」「行かない」は強制はできないことです。
 今こんなときでも、医療従事者、食物生産者、あるいは公共交通関係者は、ウイルス感染にこわがりながらもくいとめようとしていることを思うと、いま出来ることをやっておくことが、彼らに対する態度なのだと思います。も社会というものは共生するために、相手のことを考えそのことを思い行動することだなと思います。
 そんな気がします。少なくとも自分の親しい人のためにできることがいまいちばん大事なときなのかもしれません。
                               4.25 早々
 
 
 休日「不要不急」の外出「自粛」というのが連日、どこかでアナウンスしている声が頭の上を通過していきます。いったいどこまでが「自粛」なのか? ということが常に考えるます。こんなときでも家族連れで公園にはけっこう多い休日です。いままでずっと家にいた子どもたちにとては外で安心して遊べる時間のなのでしょう。
 
 朝、新聞のコラムを読んでいたら、大阪でパチンコ屋さんに人が多く集まることで「自粛」の呼びかけに閉店したところ、店名が出ても開店しているところが話題になっている、という記事がありました。開店してもウイルスには十分気をつけているようです。「自粛」はあくまでも、当人がきめるものです。強制力はないそうです。「だからといってこの時期の開店は困る」と不満を言う人もいるそうです。
 それが、いいか悪いかは誰も決めることができません。開店か閉店を決めるのは「感染を食止めるためには必要な最低条件が、なるべく人との距離を置く」という現実です。そんなことを思うと、今できることを考える時期なのではないかと思います。
 
 そんなことを思いつつ、私も2カ月に一度の散髪屋さん行くか、行くまいかと悩んでいました。いつもの散髪屋さんは電車を乗り換えて30分ほどかかるところでした。そこまで行くまできっと多くの人と接触すりことを考えれば1カ月先にのばしてはと考えましたが・・・。なんともバサバサ頭が気になっていましたので、近所の散髪屋(歩いて5分ほど)に行って来ました。散髪が終わってこんなときでも開店していた床屋さんの努力に感謝してしまいました。それでも、お客さんはずっと減ったそうです。
 こんな思いが日々よぎります。パチンコ屋さんにしても私の散髪屋さんにしても、世間が極端に「悪」か「正義」かという発想をすようになることの方が怖いように思えます。そこに政治が強制的に介入すればこれは危険です。世論あげての悪者を決めつけていく風潮がますます広まっていくことの方がよっぽど怖いのでは思います。
 まさに「関東大震災の大虐殺」のパニック状態になることを考えてしまいます。
 
 今年は、毎日が気の重いことです。5月もまだ続いているのでしょうか。
 「新型コロナウイルス禍」によって、世界中が人との関係に距離をつくっての生活が続いています。いつまで続くのでしょうか。それでも、明るいニュースを探して読んでみようと思っています。ヨーロッパでは、少しずつ注意深くですが人と人の距離が近づきつつあるニュースもあります。公園を解放したり一部もあるようです。
 日本も少しずつ、よくなるといいものです。
 カミュの『ペスト』ではおよそペスト終息に10カ月間かかっていました。それも、設備も医療も不十分な時代です。いまとはちがうのですが・・・。
 
4月はお疲れまでした。
読んでくれた人、ありがとうございました。

私のテレワーク(自宅待機)が増えました。

2020年04月19日 | Weblog

 こんにちは。
 少しずつ緑が目に映える季節になってきました。空ではツバメが大きな輪をかいて飛んでいました。身じかにまだこんな景色もある日常に感謝です。お店の軒下ではツバメの巣が少しずつ大きくなっていく様子が見えます。足元では小さな花もところせましと咲き始めてきました。

 さて、新型コロナ感染者が日々減る方向にはなかなかなりません。とくに大きな都市などは日々増えていく状況になっています。世界的な感染者の状況をみるともっと大きな数字になっていくのかもしれません。まさに、「世界的危機」といってもいいくらいな状況になっています。
 本当は、町全体を隔離・閉鎖してしまえばいいのでしょうか、現実的にこれほど発達してしまった状態では無理なことでしょう。中国の武漢のように閉鎖するほど強制的にできる政治でもありません。やっぱり、感染しないように人の多いところに動かないのがいちばんいいのかもしれません。これほど、繁栄した世界でもやることはあまりにも原始的なことしかできない現実に、人類は少しも発展していないんだなー、ということも考えてしまいます。いったい、私たちはなにが豊かになったのだろうと自問する日々が多いようです。



 「不要不急の外出の自粛」で休日でもあまり外へ行かなくなった。雨となれば、外出はしないことも多い。ときどき、どれだけ人が歩いているのだろうかと外に目やると新緑の木々が見えた。まだまだ若葉なのだろう。うすい緑色は目にやさしく春をつげているように見える。いつもは建物の影になっていた木があると「こんなところに木がった」と気づかされます。黒い影の中にうっすら木々がとても美しく見えます。
 いま世の中、春の訪れを感じることもなく、忙しく日々を送っているのだろう。それも「見えないものに恐れている」状況では、薄くても緑色の木々は美しく感じる日々である。それも、人に寄り添っていきてきた人間にとってはこれほど怖い日々のなかでは大事な色ではないのだろうと思う。

 ところで木々は見上げるものだと思っていたが、こんなこともあって窓から見ることもある。いつから、こんなところに木があったのだろうと不思議に思うこともある。それにこんな美しい若葉を見せてくれる木だ。梅の木もあった。いちはやく梅の白い花も見せていたようだ・・・と思い出させてくれる。
 いまいちばん人の目にうつるものでいちばんいい季節になったように思うえる。人気のいない散歩道を見つけは歩く休日の一日である。誰も知らずにひっそりと咲いている美しい植物を静かにみては楽しむくらいが最近の状況になっている。本当は、そこにもっと楽しさを添えるはずの知人や友人との会話があるはずなのに、最近は聞かない日々が多くなっている日々でもある。

 近所の公園で最低人数で(家族でしょう)キャッチボールをしていました。今はこんなことくらいしかできないのでしょう。それでも運動不足や体に太陽の光をあてることが大事な時間なのでしょう。
 はやく終息してくれるといい。


 今週、全国に「緊急事態宣言」が出されました。人の接触を7~8割減らすということもその中にはいっています。ということは、例えば、職場では10人いたら2人が現場で後の8人は在宅勤務あるいは、違う場所で仕事をやるということでしょう。それは現実的には無理なことで、製造現場では、二人作業などしたらケガをするリスクが高くなったりするのではと思います。500キロある新聞印刷用ロールペーパーなどを使う職場では、もし下敷きにでもなったら助けられる命も無理なのです。それが起きないようにするためには、よほどいい機能のものがないとできないとなってきます。中小企業では予算にゆとりがなく無理なことです。

 とはいえ、それに(7、8割在宅)をやれる職場も限られてきます。そんなこんなで私の職場でも常時3~4人が自宅待機という名目でできる仕事をやっているような状況です。今月、公休日以外5日が予定としてあるようになりました。それでも、自分が担当する仕事があると4回になったり、3回半となったりもするのが現実のようです。そして、その実態は、在宅勤務となっていても現実は自宅待機状態となっているようです。本来、在宅勤務をやるとなれば、企業の責任で自宅で仕事の出来る環境整備が必要になってくるのでしょう。ここでもお金がからむのです。
 そんことを考えれば自宅待機という休業しているほうになっているのが現実になっています。ときどき担当の連絡あって対応するだけで終わっています。
 政府は、中小企業がコロナ対策でテレワークを導入するための費用助成制度を設けたそうだ。そんなことが最近わかったところである。内容は調べてみる必要があるようだ。

 今後どうなっていくのでしょうか。それでも、会社が賃金を補償しているのはまだいい方なのでは思います。「仕事がないのだから無賃金」という論理がまかりとおる非正規社員なども多くいるということも聞きます。最悪なのは「解雇」されてしまう実態の企業もあります。あまり表にはでていないのでしょうが、派遣・契約の多い最近の企業事情では増えてくるのでは危惧するところです。医療崩壊もありますが職場崩壊も同じではないかと思います。

 みなさんの職場ではいかがですか。


 お元気ですか。
 日々、通勤電車にいる人が少なくなっていくようにも見えます。座席には間隔をおいて座っているようです。いつも思うのですが、一番感染拡大が強いところは電車なのだろうと思います。ニュースではそれを報道していませんが、今いちばん危ないところは・・・は誰もが「暗黙の了解」のなかにいる状態のようです。誰もが危険なことはわかっているのだと思います。それでも、勤め先では在宅勤務ができるほどの人も機器の準備がないのが現実です。それも、中小・零細になればなるほど困難な状況なのだと思います。それだけ格差が広がってしまった経済の状況のようです。これが現実ですか。
 
 カミュの『ペスト』(再読)という小説の一説を思い出しました。
《この病疫の無遠慮な侵入は、その最初の効果として、この町の市民に、あたかも個人感情などもたぬ者のようにふるまうことを余儀なくさせた、といっていい。布告の実施された日の最初の数時間というもの、県庁は陳情者の群衆に攻めたてられ、彼らは電話口あるいは係員の前で、どれよりも切実だ》
《~彼らは生きているというよりむしろ漂流しつつ、方向もない日々と、うるところのない思いでのままに、みずから苦痛の大地に根をおろすことをうべなった暁にのみ生気を生じるであろうところの、さまよえる亡霊となり果てていたのであった》

 私の働く会社でも、在宅勤務とは言葉だけで現実は「自宅待機」(避難)の状況なのです。感染症はできるだけ人と人の接触を少なくするのがいい・・・、というのは誰も知っている事実なのです。問題はそれでも、不要不急の外出ではありませんが人の多いところに出ていかざるを得ないのです。これが今の日本の大部分の経済状況なのではないのでしょうか。

 今週「Uチューブ」である歌手の歌に合わせて首相が外出自粛を訴える意味で、「自宅でいよう」という映像をアップしていました。正直、「こんなに余裕のある人、今日本にいるの」と思ってしまいました。毎日、新型コロナで、対策を考えて討論してさらに具体的にしなければならない忙しい立場であることはわかるのですが、この映像を見たとき政治家の本質が垣間見えたようの気になったのは私だけでしょうか・・・。

 思えば2011年に東日本大震災の時のことを思い出してしまいました。
 午後3時46分大きなゆれとともに職場から全員が館外にでていきました。夕方になって都内の電車が「運転見合わせ」を知らせてきました。その時間にもまだお客さんもいて、仕事も少しずつやっていました。夜、電車が「運転見合わせ」が決定的になったとき、帰ることもできなく職場に残る腹がきまったころでした。みわたせば上司の姿もなく、ましては社長などもいませんでした。個人的にはこんなときだからこそ、行動をともにしてほしいのに・・・。それは甘かったようです。それ以来「こんなものか」と考えるようになりました。ふと、その記憶がかぶって思い出されるユーチューブの映像でした。

 いずれにせよ、「不要不急の外出はしない」はだれでもできるようなことです。いっぽうでは「誰もが」できない状況もあります。それは、会社に行かないと賃金が補償されていない非正規労働者やフリーランスが増えているにもかかわらず、無収入になってしまうのが今の政治がつくった経済の形なのだと思いました。アメリカの新型コロナ禍が一気に増えたのは、アメリカ経済を下支えしたきた移民の人たちの状況がそれだと思います。働かなければ、強制的に移管されてしまう状況であれば働きにいく以外ないからです。
 少なくなった通勤電車の乗るたびにそのことを考える日々になっています。わたしたちも、同じだなと思えます。

 過日、ひさし振りに四国の親戚から電話がありました。「東京は大変だのー」との会話に、一瞬、新型コロナのことは忘れてなつかしい、眉山の山や広い吉野川が浮かびました。電話の相手も傘寿の人です。こちらのことより自分のことを心配すればいいもの・・・。忘れていたような「お互いさま」だなー、ということ。もう15年ほど帰省もしていません。みんな元気かなー。四国遍路がしたいですね・・・。それも思い出しました。みんさん元気な様子です。手作りのマスクもつくり始めたとのこと。
早 々・・・・・・・2020.4.18   


 春の風が気持ちのいい季節です・・・新型コロナがなければです。
 とりあえず「緊急事態宣言」が5月6日まで出ています。ちょうど連休あけまでです。そこまでに感染が減ることが目標になっているようです。
 いちばんの問題は、感染者への医療をおくなう現場が満杯状態で、診療も医療処置も無理になっていっていると聞きます。これが「医療崩壊」という言葉になって聞こえてくるのでしょう。実際、こうなってしまえば、治るところが感染者がふえるいっぽうになっていくだけになってしまいます。
 そして、日本国という国でさえも終わり・・・。となってしまうのではないかと思います。今、世界中で命をかけて頑張っている人たちは、医療関係者だといいます。私たちの仕事よりはるかに生命にかかわる現場で働いていることは、承知の事実です。少しでも負担が少なくなり、一人でも感染者を救えるような職場つくりが大事だと思わえます。

 それにしても日本の政治はいったいどれほどの医療関係の予算を削って来たのでしょうか。経済優先で、採算のあわない医療を削ってきた結果が今回の状態だと思います。それが今の政権に大きなツケを払わせているようにも見えます。そしてそのツケの重荷を現場の医療関係者が負担を担っている状況のように見えます。保健所にしろ、市民病院にしろ実際に統廃合によって消えていくことが後悔されます。そんなことを思います。


 今週はこの辺で失礼します。
 来週は1日自宅待機があります。今はできるだけ人との接触を減らすことなのでしょう。
 ★いままで楽しみにしていたNHKBSの火野正平さんの『こころ旅』の撮影が延期になりました。その結果、放送も延期に。静岡編も楽しかったのに・・・残念です。この番組は唯一、家族で楽しみにしている番組でした。新型コロナウイルスがそれだけ強烈さをもってきたということでしょう。正平さんも高齢だし、やはりそうなったかという感じもしましたが・・・。またしても、楽しみが犠牲になっていきました。どれほどの楽しみを奪っていうのでしょうか。そして、どれだけ人間に自然の驚異をみせつけるのでしょうか。いま人類はほとんどキリキリマイ状態です。

 まだまだ、新型コロナとはうまく共存できない時期なのでしょう。早くワクチンなどができればいいですね。
 では、読者のみなさまも気をつけて。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

『緊急事態宣言』がでてから・・・職場・生活は日々災禍をうけている

2020年04月12日 | Weblog
 こんにちは。
 少しずつ温かくなってきました。毎日通る店の軒先、上を見上げてみたらツバメの巣が出来上がっていました。今年も同じところで子育ての準備がはじまっているようです。それでも、まだ少ないようです。温かくなってくればもっとたくさんの巣作りの様子がみえるのでしょうか。
 桜も今週で終わりそうです。こんどは、ハナミズキが咲き始めています。青い空にまっすぐにのびる木々は若葉も美しくなっています。自然は、今の騒ぎなどもろともせず、自然のなかで成長しているようです。



 とはいえ、新型コロナはますます拡大していますね。世界中でその拡大は大きな問題になっています。こんなときはどうしても、ネガティブになって生活が進んでいっていくようです。現実、ウイルスという存在がいつ、どこで降りかかるものか心配な日々が多い毎日です。政府は『緊急事態宣言』を出しました。その内容が、あまり具体的になってないようです。内容をみれば希望的なことのような宣言に思えてしまいます。「不要不急外出自粛」といわれても生活に必要なことには出かける必要もあるのでしょうし、マスクを探してみることで出かけることもあるでしょう。

 最悪だと思うのは「在宅勤務」といわれても、それに必要な機器の保障もないし、さらには具体的な指示もない状態が現実ですね。「夜間の外出自粛」も残業になってしまえば夜間に動いています。さらには、飲食店などはお客さんあっての商売にかかわらず、外出がなければいない状態です。まるで、日々真綿で首を絞められるようになっているのだと思います。お店への補償も必要になってくるのでしょう。それがますます、日々変わっていくように見えます。
 「全国民のマスク2枚配る」とかコロナでの「休業要請」で利益がなくなったところへ「30万円給付」とかいわれていますが、どこをどうやったらそなるのか、役所仕事だから、めんどうな手続きを何回もして・・・と勘ぐって「出したくないのでは」と思うこともあります。(黒澤明『生きる』という映画のなかに役所の仕事の実態が描かれていました。今も同じではと思います)。


 新型コロナウイルス感染がいっこうに減らない状況になった。日々、朝から晩まで感染者数とその対応についてのニュースを聞かない日はないくらいである(実際、新型コロナに対する状況は数字にしかわからないのが現実です)
 とうとう私のところも、毎週一日の出向先では「自宅勤務」という緊急行動にうつっていました。職種の中で新聞をつくるということは、印刷以外は、けっこうハードルは低いようです。だから、強行してみたようです。

 内容はといえば、各自が自分の持っている危機を最大限に工夫をして対応しているようです。実際には大きな危機がなくてもそれに代わるものさえ工夫すればできるものです。A3のプリントできなくても、A4で送って会社でA3に拡大してまらえばいいとか、画像は無料のソフトで大容量のものをダウンロードさせて送るとかしていました。圧巻だったのは、自分の作った用紙に書いたレイアウトをスマホで画像にして送ってきたものを、拡大してプリントしてやったことでした。けっこう、身の周りの機器を利用すればできることが多いようです。最近は、パソコン中心の新聞つくりになっていますから、それに関わる安い危機を使えれば、印刷以外はできてしまうことがわかりました。(さすがに印刷では数万枚といことでできませんが・・・)。

 それでもどうにか出来上がって翌日の刷り上がったものをみたときは「感激!」してしまいました。まさに「瓢箪からでたコマ」てきな在宅勤務強行突破のできごとでした。
 でもね・・・。それを最終的にまとめあげるところが、2カ所。(最終判断するデスクに一人、判断されるまで在宅から送ってきたそれぞれの材料をまとめる人が会社にいなければならないというわけです。出向がなくなった分、今度は会社でその仕事をするようになりました。それでも移動が軽減され、できるだけ多くの人との接触は避けられたということができたわけですからいいのでしょうか。
 大企業では、在宅勤務ができる機器一切を貸し出して設置してくれるそうです。個人情報漏えいの問題などもあり、そうやっているのでしょう。でも、私の従事する職場ではそれは出来ない、やらないようです。それも予算の関係もあるのでしょう。ひらたく言えば、それほど重要な情報を発信していないのかもしれません。それでも、読者の知らない情報を待っていると思えば、大切な仕事など思います。

 そんな経験を思いながら、いまいちばん大変なところは医療従事者でしょう。「医療崩壊」と聞くたびに「そうなるわなー」と思う日々です。これまでの政治がとってきた政策が「病院統廃合」などとことで、赤字といわれた病院がなくなってきたことが思い出されます。病院で働いている人にはいっさい関係ない所で病院が減らされてきたことを思います。なんでも経済効果をつくろうとした政治の結果でしょう。だから、命を守るべき拠点がなくなることで「医療崩壊」が出てくるのもわかるような気がします。これが安倍政権だったことを反省すべきじきなのだと思えます。
 そんななかでも最前線でこの災禍にたずさわっている人がいて新型コロナの終息もないことだと思います。1機何百億円とする戦闘機よりもはるかに人の役にたつことを思えば、これからは予算の在りかたを考え直すときでしょう。そんななかで、医療従事者の感染のニュースを聞くたびに、市民の感染がもっと増える予想がついてしまうことも現実なように思えます。

 それぞれの場所で、すくしでも社会をよくしようとして動いている人たちの工夫が大事なときなのだと思います。今年、新規採用になった人たちは、こんな時期に入ってしまったことは不幸です。それだからこそ、その人たちと一緒に働くことを続けることがいま大事なひと工夫でしょう。
 なんにつけ、政治の判断が現実的にならない今だからこそ大事だと思います。


 今年「東京五輪」は楽しみしていた。ところが「新型コロナウイルス感染」で日本どころか世界中が騒然とした年となってしまった。なかなか「新型コロナ」に対応が遅れたことが、日々の感染者数の増え方をみればわかるだろう。それというのも「東京五輪」があったからだろう思う。できれば、開催してほしいと思うが、今年は「命が第一」と考えればいち早く対応が必要だと思う。これも「経済優先」の結果なのだろうか。

 命がなければ経済もないだろうし、スポーツもない・・・ということがわからなかったことではあるまい。裏を返せば、いかに命が軽く扱われてきたことなのだろうと思う。そろそろ、経済はこれまでの稼ぎを新型コロナウイルス感染対策に吐き出す時なのかもしれない。とくに大企業は、もっと働きやすく残業の少なくすることや子育てが出来る労働環境を本気でつくる時代がやってきたのではにかと思う。これまで、政治が残業規制やパワハラ対策を出してきたが、現場では「過労死」や「自殺」などが報道される。その度に、政治がいくら法律をつくってところで「絵に描いたもち」である。

 やればできたのに「在宅勤務」も新型コロナが出てきてからやっと実施するような現実をみれば、現場では政治のなかみを実施してこなかったことがうかがえることだと思う。
 なんであれ、「垂れ幕ばかり立派」でもそれを実施できるのは現場の人たちだ。「緊急事態宣言」でこれまで以上の人や企業の「自粛」が声高に叫ばれている。要は人と人の接触をできるだけ避けるということなのだろう。
 とはいえ、そうはいっても災禍のときでも必要不可欠な人たちもいる。いまは、そういう人たちをいかに守るかがそれ以外を人々を守る指針にでもなるだろうから、実践していくときかも知れない。そらに言えばいま必要な「お上からの大型プロジェクト」ではなく「自分が暮らしを続けられる小さなプロジェクト」ではないのだろうか。その後に「東京五輪」の素晴らしさもあるのだろう。
 そんなことを覚えた「自宅待機」の一日。


 「日々を不安がかけめぐる」・・・日々です。確か詩人、吉野弘さんの詩の言葉では『日々が慰安をかけめぐる』であったような気がする。
 知人のこと、家族のこと、仕事のこと・・・、コロナに感染したらどうしようと。それでも、できることはマスクをしたり、これまで以上に手洗い・うがいなどをやっている。そして、今年は、私なりつくった「今日を忘れて眠る」日々となっている。クヨウヨせず朝陽があがればいいと思っている。さらに、眠っているうちに心臓がとまったらそれまで・・・だと。

 カミュの『ペスト』という本を読んでいる。感染症がつくる社会が描かれている。人々はウイルスによって多くの感染死に追い立てられていく。それでも生きていくという中で人々は代償として何をえるのだろうか・・・ということを考えさせられる。この機会を金儲けだとして、避難する人々にさらに災難をつくる(例えばマスクを買い占める人みたいに)人がいたり、それでも医療従事者のように生を最大限につくろうとする人びと。災禍のなかを生きていく人たち。「最善を尽くす」ということはいったいどういうことなのか、ということも考えさせられる。(まだ途中)

 「不安」であれ「慰安」であれ、私たちの生活の一部。いつ、どこで、何のために・・・と。背中合わせのことば。どちらもいつも一緒にいることには間違いない。



 今週は中央線も人が少ないようだった。電車が時間通り、遅れることもなく走っていた。本当はこんなことが当たりまえだったのだろう。ずーっと満員で5~10分も遅れていたのが当たり前だったころとは違っていた。だからストレスもたまらず乗れる日々が続いたのかもしれない。体がぶつかりあう電車はいったいなんだったと思う。
 来週は少しずつ、在宅勤務の人にも合わせることになれるだろう。

 「新型コロナウイルス感染」はまだまだ続きそうだ。通勤7割削減という目標が出たが、職場で7割いなくなったら給料がでなくなる。都市全体で7割としても、私の会社はきっと入れない。接触感染がいちばんこわいのはわかるが、削減されたら中小企業は大企業からの負荷がかかるから救われないかもしれない。だいたい、零細・中小企業はテレワークをする機材保障もないばかりか人員がたりない。これが、経済優先の政治がつくりあげた結果なのだろうと思う。できるのは、1割にも満たない人への自宅待機で、仕事のことを時々電話するくらいだろう。
 春がやってきたと喜びたい。花も虫も、そして人たちも明るい・・・とうのがいつもの光景なのだろう。今年は、いつもの春とちょっと違っていた。散歩をしていると、どこから「こちらは・・・新型コロナウイルス感染で・・・」という大音量の声がスピーカーから聞こえてきた。こんな春は、2011年の東日本大震災の時、計画停電のことをスピーカーから聞けえたきた。あれ以来の声が聞こえてきた。一気に散歩が緊張したように思う。

   たいへんな毎日になってしまいました。新型コロナウイルスは世界中に蔓延しているようです。今週では、米国がいちばん感染者数になっていました。日本ではこれからが感染者が増大していく状況のようです。だから、いまが「正念場」とでもラジオなどから聞かれるのでしょうか。それにしても「新型コロナウイルス」とは怖いものです。最近、後輩に「新型がるのだから旧型もあるんじゃない。旧型ってどんなもの?」と聞いたら「旧型はこれまでの感染症でワクチンなども開発されているもので、新型はワクチンもないものだよ」と言われました。「なるほど・・・だから怖いのか」と思いました。目にも見えず、においもしない。このウイルスに対応するにはどうしたらいいのかな・・・と日々思いました。

 では「ウイルス」とはいったいなんでしょうか。
 ちょっと長くなりますが3月29日(日)東京新聞「日曜版」に載っていた記事を引用してみました。そこでは・・・

 人は生活圏の外といえる環境に開発やレジャーで侵入し、そこで生きる動物たちと触れ、それらを食する機会も増えています。動物の多くは相性のよい、人間とは無縁のウイルスと共生していますが、普通、動物には病気は起こしません。ウイルスは地球の歴史の中で環境に応じて進化し、それぞれの生活圏で動物と共に生きています。

 そこに部外者である人間が入りこむと、人はこれまで遭遇することのなかった未知のウイルスに曝されることになります。その結果、たまたまそのウイルスに感染すれば、人間にとって新たな感染症となり、免疫がないため、時には大流行し大勢の命を奪うことになります。これはウイルスが人間という侵入者に感染症として応酬し、地球の進化の過程で定められた生活圏を守るようにと警告を発しているのかもしれません。

 しかし、今後も人間は飽くなき欲望のため未知の生活圏に入りことをやめず、新たな感染症の発生が繰り返されることでしょう。さらに科学技術の進歩で人口的にウイルスの性質を変えることが可能です。このように改造されたウイルスが生物兵器や研究室の事故などにより人間世界に入りこむ可能性もゼロではありません。

 しかも、現代では空路の著しい発達により、ウイルスを保有した人が1日あれば、世界中どこへでも運ばれます。空路は基本的に都市圏と都市圏を結ぶため、さらに感染が広がりやすい状況を作り出します。社会、経済のグローバル化は感染症もグローバル化しました。さらにグローバル化は経済援助も可能にする一方で、経済は格差も生みだしました。経済の弱い地域ほど医療現場が乏しいことが多く、このような地域に新興感染症が持ち込まれると一気に流行することになります。

 ただ、新たなウイルス感染症が勃発しても、たちどころにその原因ウイルスが突きとめられ、人間の細胞への侵入経路や増殖のメカニズムも解明され、ワクチンが作られてきました。
 感染経路を断つためにはマスクなどの防護具や手の消毒を行い、人の出入りや人が集まることを制御して感染の拡大防止に努めていく必要があります。
(慶應大学感染症学教室教授・長谷川直樹)

 だそうです。長くなりましたが、結局、ウイルスも人間の行動が何らかの作用で起きているように思えます。うらを返せば、人間の身勝手さからもウイルスが登場し、人間に警告をしてるようにも思えるのです。
 だからではないですが、今回の新型コロナもなにか私たちに問いかけているようにも思えることがあります。人類が地球に誕生していらい、ウイルスとの長き付き合いのなかでいくつかの感染症によって乗り越えてきたのだと思います。私が生れて初めての経験は、何百年かまえにも経験してきたことなのでしょう。それでも、まったく経験しないままの人もいたでしょう。
 それでも2000年になって「サース(SARS)」や「新型インフルエンザ」、「マース(MERS)」などがここ20年の間に多く出てきていることは何らかの環境変化があるのでしょうか。

 静まるまできっと時間がかかるでしょう。どんな環境になってしまうのか心配でもあります。誰でも感染する可能性もゼロではないでしょうか。しかし、こんな地球にしてしまってから、ウイルスに言わせれば「何をいまさら身勝手な・・・」など言ってのが聞こえてきそうです。どんな時でも、こんなとき、いちばん被害に遭うのが先述してもいたのですが体の弱い人、疾病を抱えている人、格差で貧しさに押し込まれてきた人たちだと思います。そしてできることは、よく食べて、よく眠ることなどしか浮かびません。働きすぎもあるんだろうなあー。その結果としての自宅待機やテレワークが生れてきたのではないのでしょうか。
 では今週はこの辺で・・・。くれぐれも、出来る範囲で感染防止に頑張りましょうや・・・。そしてご自愛ください。
早々

 さて、いつまで続くのやら。

 読者の会社ではいかがですか。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

すっかり温かくなりました・・・季節は春ですがマスクは手離せません。

2020年04月05日 | Weblog
 こんにちは。
 温かくなってきました。桜も来週いっぱいで散ってしまうのでしょうか。少しずつ春本番です。空を見上げていたらツバメが大きな輪をかいて飛んでいました。新型コロナに世界中が騒然としていても、自分の生きることへいっしょう懸命さに感動している時間でもあります。それでも、この新型コロナの出口がみえない限り落ち着かないといったところが正直なところでしょうか。
 そして日々増える感染者。「いつかは自分のところ」に、と思う日々でもある。
 そしてもうひとつ。これだけ感染者が増えてれば働くこともままならない状態になっていることも現実になってきたように思う。小さな会社では、働く人も体のことを考えれば、在宅勤務も必要になってくる。しかし、製造業業ではまず無理だろうから「自宅待機」状態になってしまう。そして、商品ができなくなってしまうから利益がなくなってしまう・・・。結果として「会社倒産」がたくさん発生している。本当はこんなときのために「政治」があるはずだったのに、あまりにも機能していない。まさに、「新型コロナの犠牲者」になっている。医療関係者も大変だが、日々働くことで生活をしている人は医者へもかかれなくなってしまう。ほんとうに、政治はこういう人たちのことを救っていくのだろうか。
 日々新聞の読む欄に、感染者数とその人の働く職場の状態を考えると気持ちが落ち込んでしまう日々である。


日々のわすれ方・・・2
今週はことばにふるえる日々だった
1 オーバーシュート
2 クラスター
3 ロックアウト
どれもが初めてきく響きである

為政者はその意味を語らず
一束にまとめたがっていくその言葉には
きっと私もはいっているのだろうか

朝日の空気のなかに
昼のにおいのなかに
夜の温もりのなかに
入りこんんできては震える日がつくられる
いのちを話すべき言葉はいまはまだ遠い
こんどはどんな言葉がでてくるのだろう
いま「羅針盤」となることばはどこにあるのだろうか
…………………………………………………………………………………………
 いつになったら「オーバーシュート」でどこが「クラスター」で権力はいつ「ロックアウト」するのだろうかという日々である。いずれも、危険な状態を示された結果としてのものだろう。それでも、もっと身近な「マスク」や「医療」に対する情報が欲しいと思っている。こうなってしまって、これまでの政治の在りかたが問われていることだろう。各地方の医療機関を財政的に減らしてきた結果に、新型コロナである。病院は少なくなってしまっているのだから「疲弊」してしまう。事実、医療機関は大変というニュースは日々、伝えられている。機械や情報がいくら進歩しても、最終的に手をくだすのはその道の人間ななんだとつくずく思う。それをつくってきたのも人間である。うらを返せば、いちばん大事な「命」を守ることがいかに大事なのか考えさせてられる日々だと思う。

 2月終わりごろマスクが店頭からきえて長い・・・。いまだに店頭でその姿はないようだ。職場で「マスクがなくて困ったね・・・」などと話をしていたらちょっと多めにストックして人から「これを使ってください」と貰ったこともある。思えば、私も都心からマスクが消え始めた頃、都下のお店はまだあったので買って持っていったことを思い出した。

 それにしても花粉症のために買っておいたマスクがこんなことで使われようとは思ってもみなかった。あまり歓迎したくない使い方になってしまった。通勤電車でも見わたせば9割の人がマスクをしている。それでも、品切れで買えなかったのだろうか着けていない人もいる。手作りの人もいる。
 今、いちばん必要としてる人は医療従事者だという。それはわかる一番新型コロナと最前線で戦っている人である。十分な道具が必要になっていることだろう。
 とはいえ、正直「自分の身は自分で守る」というマインドコントロールされて久しい。これだけの感染病はいまや個人でどうのこうの、という時ではなかろう。なんのために政治家に税金を費やしているのだ、とも思う。

 世の中、本当はまわりまわって他人によって自分にかえってくることが多い。裏を返せば、自分によって他人に迷惑をかけたり、ありがられたりしている。そんなことを思うと、医療関係者であれ、町の工場で働く人であれ、本来あるべき生活をちゃんとやるように政治家に声を大にしていってもいいと思う。事実、新型コロナで演劇・音楽会などが中止に追い込まれて「失業状態」が続く。さらには観光業界、自粛で人の動きもない。利益がなければ人件費を払えない。そうなると、資本主義では働く人を解雇したり無給状態にしたりする。雇用もできなくなる。(ちなみに総務省が先月31日に発表した失業率は2月の失業率は前月と同じで、完全失業率は前年度比は3万人増えて159万人と増え続けている)

 新型コロナで「働き方が変わった?」。
 3月に就業時短があったが現在はなくなった。本来はこれからやるべきことなのだろう。いったいどうなっているのだろうか・・・。
 最近、出向先では新型コロナ対策の「危機管理」としての提案があった。私は部外者であるのできいたいたのだが「参加してください」ということもあって出席してきた。それによると、現在の職場体制を二交代制(本社・自宅勤務)にするものだった。そのことによってどうやったら負担がすくなくスムーズにいくかということで意見をいったほしいと。これはできる職場とできない職場あるのが、編集・校正などは自宅でもできることはけっこうある。ただ、まとめ役は本社で進捗状況などを指示・連絡をしないといけないということになったのだった。そんなことを話して、来週一週間実施するというもことのなった。さて、どうなることか・・・。

 すでに大企業では、自宅勤務に必要なものは全部会社が用意して設定しているという。うらやましいなあーと思った。
 でも自宅勤務というのは便利なように思えるかもしれないが、こんな時だからやるのもいいと思う。これは「危機」に対してのこと。これが続けばやっぱり「不安」も増大するのではないかと思うかもしれない。会社の様子もわからない。自宅勤務時間は最低でも、仕事の道具の前には常にいることになるのでけっこう拘束されるだろう。まして、自宅が会社の一部としていつのまにか利用されるようになっているのである。

 そんなことを思うと「今だけ」にしてほしいと思う。


 今年は新型コロナで振り回されるのだろうなーと思っている。少しもいいことがない日々が続きそうだ。スポーツもなく、外出自粛で遠出もできないだろう。温かくなってきたので山歩きを・・・と思うが敬遠しがちになる。いったい出口は見えてくるのだろうか。

 最近、会社の帰りに新規採用になった若者(20歳代)の人と一緒になることが多くなった。ほんの20分ほどの時間だがけっこう楽しい時間になった。それにしても、最近の若者(どうもこうなってしまう老人の枕ことばでお許しを)は、自分のことを語りたくないようだ。どうしてかと思うと、自分のことを語るということは、自分の「弱み」を言っているように思えてしまうのだろうか。
 あまり語らないのは「弱み」をイジメられる一つの手段になってなってしまっているからだろうか。まさにブラックに近い会社はそう考えるかもしれないなーと思う。事実、前いた会社では残業代さえでないこともあったということをよく耳にしたこともある。「残業代は出してください」と言える人格ができればいい。そういうことは学校教育でやらないだろう。素直なのはいいが、自分の主張を曲げることが素直じゃあるまい・・・。

 とはいえ、わずかな時間だがけっこう楽しい。自分がいかに若者に励まされているかわかる。ただ、その若者をいじけさせるのも老人なのかもしれない。そんなことを思いながら今週は一緒に帰った日々だった。
 決定的なことはこれかは若者が時代をつくっていくということだ。だから、若者が元気に働ける、楽しめる社会があるということは老人も元気だということだろう。


 4月は出会いと別れの季節ともいいます。
 今年は、これもなかなか真正面から出会える時期にはなっていないようです。自宅待機あり、自宅勤務あり、時間差通勤あり・・・とそれぞれゆっくり話す時間がもてそうな時期になっていません。
 今週、30年以上一緒に働いてきた人が辞めていきました。詳細はきけなかったことは残念に思います。余裕がないようです。辞めてからどんなことをしようとしているのか・・・など、自分のいつかは辞めるのでしょうから参考にしたいと思っていました。語ることもなく辞めていきました。ちょっと寂しい週でもありました。
 一生のうち出会いと別れがつねについてくるものです。
 どんな別れがあったのでしょうか。そしてどんな出会いがあったのでしょうか。ひとつひとつ大切にしていきたいものです。
読んでくれた人、ありがとうございました。