日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

雨模様の間をついて動いていれば…

2018年05月27日 | Weblog

 こんにちは。
 そろそろ関東地方にも梅雨の季節がやってきそうです。およそ2ヵ月ばかり、日々空をと天気予報を気にしながらの毎日がやってきそうです。とくに休日ぐらいは晴れて、青い空を眺めて休みたいような気がします。
 とはいえ、農家にとっては雨は天からの恵み。雨も降らないと作物も育ちません。最近は、種から一切、太陽の光がなくてもそだつ野菜の開発がもてはやされています。さらには土も使わないバイオテクノリジー栽培…、なんとも化学は天候に左右されない作物が食卓を占領する時代もあるかもしれません。
 一方で、太陽のエネルギーは大いに使い、作物を育てている農家も圧倒的に多きことは否定できません。

 さて、今週はいいことが少なかった週でした。またしても「働き方改革」審議で強行採決が繰り返されています。安倍政権は「強行」が多い法案が多いことに気づかされます。それもそのはずで、審議すべく資料のでたらめぶりや実態からかけ離れた参考資料が多すぎます。
 「森本・加計問題」では、首相とその関係者が証言することと、実際の公文書とのかい離がめだっています。森友問題では、前財務相管理局長の公証記録が「残っていない」という国会での説明でした。ところが、後日、膨大な交渉記録が提出されました。加計問題では、獣医学部新設にあたて首相の関与がないと説明したが、それぞれの関係者はせでに会っていた…などこれまでの関係が明らかになってきました。いずれも、与党内では自浄作用がなくなっているように見えます。そんな中での「働き方改革」の審議もそこそこに「強行採決」がやられていました。

 そのなかで最近、アイヒマンというナチスの官僚の名前が新聞で目にはいりました。アイヒマンという人はユダヤ人を絶滅収容所に大量輸送する任に当たり、戦後は南米などに逃走していました。大量殺戮に大きな影響を持った人でした。捕えられ裁判によって死刑となりました。そのやりかたが前国税庁長官・財務省理財局長の佐川宣寿氏に似ているとの記事でした(19日・朝日/豊永郁子/政治季評)。国有地を売る方法を考え、破格の値段で森友学園に援助した人でもあります。その中で、今回の森友学園の本質はヒトラー政権に官僚として仕事をしたアイヒマン似ているのではないかということでした。アイヒマンがヒトラーに「忖度」という言葉をもって任務をしていたのではないかと述べていました。そして今のこの動きはある意味、ナチス時代をほうふつとさせる様子があることに気がつきます。

 さらには日大アメフット部の選手が関西学院の選手に反則をおかした問題。
 説明すべき監督、コーチのしどろもどろな説明。そして雲隠れ…。
 そして、反則をしてしまった選手の謝罪。そんななかでいちばんまともなのは反則をしてしまった人の弁明でした。日本の社会はいつからいちばん責任をとるべき人がこうも居直って最後までいるのようになってしまったのだろうかと思ったニュースでした。
 どれも、そのテーマの責任者がなかなかでてこなくてごちゃごちゃしていて、まとまりがなくて、うやむやで、曖昧なところが共通してしているところでしょうか。私たちが「わからずじまいで」いつか忘れ去ることを待っているようなところもあるように見えます。



 一つくらいはうれいしいニュースがあればと思っていたところ「第71回カンヌ国際映画祭」で是枝裕和監督の『万引き家族』にパルムドール賞が贈られました。なにか家族の形が面白そうな映画だといいます。是枝監督の作品は『そして父になる』という映画をみたことがありました。赤ちゃん取り間違えを描いたそれぞれの家族の話でした。そこで、「本当の家族っていったい形があるのだろうか」ということを考えさせられました。
 ぼくが考えるところだと、いま家族は危機的な状況だと思えます。それは、親が子を、子が親を殺す事件を多く耳にするに着けその思いは確かじゃないかなと思います。また、親の年金で生活する子どもの実態などもあります。いつになっても独立できない子どもの面倒をみる老人夫婦など、家族の形はその昔の家族がそれぞれの独立して生きているなかでの関係ではなくなった時代になっているのではにかと思えます。

 この映画もその時代の鏡なのでしょう。社会のなかで成長していく家族もあるし、社会のおしつけによって批判されて家族が壊されていくこともあるだろうし、そのいうことを考えれば『万引き家族』はまた一つの家族の形を見せてくれるのではないかと思えます。楽しみにしています。
 山田洋次監督の『家族はつらいよ』も好きですよ。


 今週は「今月の本棚」の月末になってしまいました。先月はお休みをして「今月こそ」はと力を入れてみたかったのですが、結果は2冊程度になってしまいました。途中で、長編の北杜夫の「輝ける碧き空の下で」という小説を読み始めてしまったので他は読めませんした。本屋さんや図書館に行くと読みたい本はいっぱいあるのですが、現実読める時間も範囲もでも限界があることにつくずく感じるこのごろです。

 さて今月は、ぼくにとって読書の原点というもいうべき本を読んでみました。この『二十歳の原点』はこれまで何度か再読をしている本です。この一冊を読むと、他に『青春の墓標』奥浩平著、『人知れず微笑まん』樺美智子とう人を思い浮かべます青春時代を真摯にひたむきに生きた若者の本だと思います。
 もうすでに青春時代ははるかかなたになってしまいましたが、今を考ええるうえで大切な人たちだと思っています。

 もう一冊は『高尾』命の山・酒井喜久子著です。よく山歩きにいく山の30年ばかり以前の歴史を読むことができます。
 こんな身近に自然の宝庫があることはうらやましいことです。それは、観光客がいっぱい、いるかでもなくたくさんの自動車が行くからでもなく、そこに住む人たちの思いがつくった山でもあることを読むことができます。



 政治が悪くなるとそれと比例して集会や講演会が多くなっていく。若い頃よりは行かなくなってしまったが時々でかけることがある。周りを見渡せば、なんと定年した人たちばかり目立つこのごろである。「いったい若者はどこへ行った…」とひとり言をいいたいところに「お願いがあります。ここにきている若いひとへ、もっと多くの人をさそってくれませんか」という発言も出てきていた。同感…。そんな集会をけっこうみかけることが多くなったと思うのも最近多い。
◇     ◇
 人には一生手元において置き、ときどき読んでみたいと思う一冊がある。それらをいまさら探すのは大変な作業になってしまう。これからは、本を探すのであれば再読を可能にできる範囲で無理をしないようにしている。そんな思いを持ちながら書店をうろつく日々でもある。ならば、これまでどこかで読んだ本を思い出したくなるような本。若いころ、この一冊と共に行動し考え生きていたような本を求める傾向が多くなった。読めばきっと、そこから反省が生まれる、生きていく方向になったような本があるのだろう。自分にとっては、大げさすぎて他人からは笑われても仕方がないような本もなかにはある。人には紹介できなくとも、恥ずかしくなるような本もあっていい。それが『二十歳の原点』という本なのかもしれない。一人の多感な二十歳の学生が学生運動の中で、自分に正直に心の動きをつづった本である。日記文学といえばその分類になってしまうかもしれないが、この本は「生きる」ということはどういうことか…、ということをいつも問いかけてくる。
 そして自殺。なんとも頼りにならない最期になっているが、それでも生きていることへの必死さは、生きとし生きるものへのメッセージをいくつも語っているように思う。

■このノートは私であるということは一面真実である。このノートがもつ真実は、真白な横線の上に私のなげかけた言葉が集約的に語っているからである。それは真の自己に近いものとなっているにちがいない。言葉は書いた瞬間に過去のものとなっている。それがそれとして意味をもつのは、現在に連なっているからであるが、「現在の私」は絶えず変化しつつ現在の中、未来の中にあるのだ。(p214

 人の頼りなさ、なさけなさ、醜さ、欲深さのなかに人間のもろさが見え隠れにするさまが何にも変えられない生きざまがいいと思っている。
 歌舞伎で「どうする! どうする!」という人間の切羽詰まったときのかわいらしさが読めるように思えるのだ。
 とはいえ、生きることを欲していることへはメッセージ性が強いところもある。
 読み終えると「脱力感」が残ってしまうような本でもある。でも、誰でも心の奥には誰にも語られない言葉がいっぱいあるはずだろう。そのひとつひとつ読み返すような言葉の群生するなか、どれだけ共感を持っていけるか、それとも反感を持ってしまうのか、ぜひ一度読んでもらいたい一冊でもある。リスペクトできる一冊としていまもある。


 これまで高尾山にはどれくらい行っているのだろうか。すでに東京に住み始めて働きながら出かけてきた山だ。かれこれ40年近く通っている。40年前は、いまより静かで、冬などは日なたで止まって休んでいたい気がした。今は、静かに止まっていられるところを探しているような気がする。いまのように観光スポットになったのは10年なかりの間である。有名になるやいなや、温泉はできるし、人も多くくるし高尾山の頂上は座る場所さえ探すのも大変な時代になってしまった。それでも。自分にあったコースを探しながらの山歩きができる山でもあるから今でも行くことができるだろうと思う。



 その高尾山の本をである。
 ほとんど山歩きの楽しみより、これまでの歴史。それも「高尾圏央道トンネル反対」のことが書かれている。
 ここは私たちがときどき訪れるところというより、地元住民の生活空間だることがわかる。東西44キロ。裏高尾の住民にとっては生活の場だということをつくずく考えさせられる場所だということを再認識させれた本だ。
 現在はトンネルの下で遊べる、集まる集会所などができている(写真)。これだけで終わるのだろうかいう気もある。ここで遊んでいた子どもたちは次の世代にどんな高尾山の様子を作るのだろうか…。自然はそこに住む住民とのつながりの中で形を変えて…いくものだということを考えさせられる。
 では、次世代はどんな山の形式をつくるのだろうか。




【分倍河原駅】
 5年ほど前から、耳の調子が悪くなった。耳のなかで「セミの声」がするようになった。セミの種類でいえば、季節のなかでいちばん最初に鳴きはじめるミーミーセミの音だろうかと思う。ジー、ジーと一本調子の鳴き声は途切れることなく泣いているのである。鳴き続けているときも、やんでいることもある。

 そもそも、なぜこのような状態になってしまったのだろうか。いちばん初めにこの「耳鳴り」を聞いたのはいつ頃なのだろうか。
 思い起こせば以前の「一人職場」でのこと。
 雑誌の作成はあるや新聞の作成や校正もあるやら忙しい時があった。気がつけば夕方になっていた。静かになった部屋でいたら耳奥で「ジー」という音が鳴り出した。耳の奥が何かで詰まっていてすきまから風が抜けていくようだった。ちょっとたてば治るだろうと思っていたが一週間しても、一か月を過ぎても音は消えなかった。めまいはないが気になって耳鼻科に行くことになった。

 以前、花粉症で通った武蔵野市の耳鼻科にいってみようと調べたが、世代が変わったのだろうか今は、「内科」になっていた。できれば評判のいい耳鼻科を…と思い近所の人の話を聞いて、分倍河原の耳鼻科を探しあてた。
それが、はじめての「分倍河原」というところだった。
耳鼻科では、ヘッドホンをつけ聴力検査や耳の奥をみたり、さらにはネブライザーという器具で治療をした記憶がある。医者からは「難聴です。年齢を重ねると出てきます。あまり気にしないようにしてください。眠れなうようであれば薬を出しますから服用してください」とのこと。2回ほど通った。依然として耳鳴りはあった。ぼくなりに考えてもう「慣れる」しかないようだ、とあきらめた次第だった。そして、医者が言うように「気にしない」くらいがちょうどいいとわかってきたように思えた。

 最近では「慣れる」という言葉を思い出しつつ生活するようになった思う日々だ。
 とはいえ、自分が降りた駅でもいいことばかりではない。とくに病院にいくときに降りた駅は悲しいくらいいやな思いでの駅となっている。東京に住みだして、かれこれ40年余りになる。今回の駅は少しもいい思い出がない。
 ちなみに、分倍河原は駅前にドーンと東芝のビルが建っている。何よりも、企業の町というところなのだろう。来年はラグビーワールドカップだとか。ラグビーの強い東芝という。そんな中で今年はどんなイメージセールスをするのだろうか。来年は、地元の味の素スタジアムでワールドカップのイングランド対アルゼンチンの試合が行われるようである。チケットの予約はしたもののとれるだろうかね。
 サントリーもありました。近所には、練習場もありました…。



 週末、高尾の山歩きに行って来ました。天気にもめぐまれて風も涼しく感じた一日でした。いまごろは、人も山の生き物も活動期なのでしょうか、鳥の声が姿は見えない中聞こえてきました。川ではカジカカエルの美しい音が聞こえてきました。それというのも、人があまり行かない場所に限ってよく聞くことができます。高尾で言えば、裏高尾などはまだ静かで、人より動物の音が多くあります。
 ひと月に一度くらいは、コースを変えながら行きたいものです。いまのところ、これはぼくの健康のバラメータの役割をしてるように思えます。
 花もたくさん咲いてしました。時間をつくって四季折々を伝えていければいいですね。

 今週はこの辺で失礼します。そろそろ梅雨が近づいています。
 今月大規模修繕もおわります。1月から、長いなあーと思ったのに、過ぎてしまえば早いものです。これで、また15年後には第2回大規模修繕計画があるのでしょうかね。生きているか死んでいるかわかりませんが。予定だけはあるようです。そんなこより、自分の計画です。さて、来月は何をしようかと思案中でです。年金一部受給も始まります。安ーい年金です。一生受給できるとは言っても寿命がありますよね。
 この国はいったいどこへ向かっているのか…なんて加古隆の曲を聴いていると考えます。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

再雇用契約を終えて…何をする?

2018年05月20日 | Weblog

 こんにちは。
 雨が降りそうな雲り空から少しずつ晴れて、暑くなっていくのが最近の気候のようです。折り畳み傘をカバンにしのばせてむるものの、会社の帰りには傘も無駄になったいるかのように思える日々です。それでも、最近は降り出すと烈しい雨に変わってしうまうとことも多いようです。まれで、台風のような降りかたも経験するこのごろです。いったい気候はどうなってしまっているのでしょうかね。
 散歩の途中でアジサイの花が咲いていました。冬の間は枯れていたのに、春になると息をふき返す素晴らしさを感じさせてくれる花でもありますね。

 さて今週、来年の「元号」がニュースになっていました。もう、日本も世界のサタンダードにしては…と思いました。なんにつけ、提出する書類がめんどうだ。パソコンの表記も大変なようだし、この際「西暦」に統一してもいのではないかとつくづく思えてしまう。

 「アメフットの悪質反則」についても話題になっていました。
 日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボールの定期戦で、日大の選手が関西学院のプレーが終わった選手の背後から猛タックルしてけがをさせたという反則について「悪質」ではないかといことが言われた週でもありました。

 問題となったラフプレーは、2018年5月6日に、日大と関西学院大とのアメリカンフットボールの試合が行なわれた際、日大の選手がプレーが終わった関大選手にうしろから猛タックルをした。その場に倒れた関大の選手はまもなくプレーができなくなり退場した。審判は、タックルをした選手に「悪質な反則」とした。
 日大の監督の責任説明を待っていた関西学院は、なかなか出てこないことに誠意がないこともこ「反則」に溝をふかめた。

 スポーツ選手の反則プレーはときどき試合観戦などをしていると見けることがある。試合の勝敗にかかわるとなれば、プレーを止めるためにも必要なこともあろうかと思う。いっときプレーを止めて、流れを変えようとするときや、時間かせぎなどイエローカードをもらうまでにはいかないていどの反則である。
 それでも反則は反則で流れが来たと思うがわにとっては、やっぱり「ひどい反則」であり「ブーイング」にはかわりはない。

 ぼくは、サッカーの試合を見るのがすきでこの手の反則をよくみる。だいたい、自分が出来ない、追いつかないなど体が疲れて身体の能力が落ちてくるにしたがい多くなってくるように思う。
 スポーツ選手も練習で鍛えているとはいえ人間である。疲れてくれば相手選手に追いつかない分、何かの手立てをする。足を引っ掛けて転ばせる、倒す…、というプレーが出てくるのだろう。でも、これも試合の醍醐味といえばいえることではないかと思う。反則を犯した選手とされた側が立ち上がったとき握手ができるくらいであれば「お互いさま」なのだと思う。大事なことは、相手選手に大きな障害が残るほどの反則をしないということ。プロ選手であればなおさらのことで、生活がある。治療で試合に何日も出場できなくなるような反則は「レッドカード」である。
即、退場は当り前だと思う。

 1994年サッカーワールドカップ米国大会で、決勝トーナメント初戦で開催国のアメリカ合衆国と対戦したとき、ブラジル代表のレオナルドが相手選手への肘打ちにより一発退場になったことを思いだした。厳しいかもしれないがこれは仕方がないと思う。それでも、残りの10人で勝利したものの、痛い退場だったことだと思うし、レオナルド選手のファンからも痛い退場だったに違いない。

 週末、やっと日大の監督が「監督辞意」を表明した。とき遅し、という感はある。いったい何をしてのだろうか。
 反則をしてまで勝つチームはは人々のいやな記憶しか残るまい。選手の自発的な反則だ、いや監督の指示だといわれているなか、これも選手の監督への「忖度」とでもいうのだろうか。なんとも、危険でいやな時代になってしまったのだろうか。

 今週、2018年サッカーワールドカップロシア大会の日本代表のメンバーは発表されていた。監督もかわりどんなチームを見せてくれるのだろうと楽しみにしている。正直なところ、今回のワールドカップでは日本の活躍は厳しいだろうと思う。それは、世代交代ができていない代表選手が多いのにもわかるような気がする。仕方がないのだろうか…。




 先週、年金事務所に手続きが終わったところで、今週は「再雇用契約」の手続きを終えた。
 60歳が定年退職ということを終えて、暮らしも少しはらくになるのかなあ…、と思っていたがとんでもなかった。よく冗談で「死ぬまで働くようだ」と言っていたものだが、これでは冗談では済まされないよう気になってきたものだった。
 契約をかわしたのは、ぼくと職場の上司、そして総務の担当者の3人での話し合いで進められた。契約の内容のなかで、「これまでの仕事を継続して…」という話があった。これはあくまでも職場の「要望」であって実際は無理だなあと思いつつ聞いていた。ぼくが考えていることは、継続はしてもいいが、これまでのように残業も多くできるわけでもなく、年金の「28万円の壁」の内容を超えるほど働けないということを話した。総務の担当者も「これまで通りはいかいだろう。同一労働・同一賃金というものが完全に実施されればいい。しかし、現実では契約社員は現役の3分の2程度に賃金が減っている」という見解だった。
 職場の上司は、それらを考えて職場をつくっていくことが仕事だろうとも思えた。「これまでの仕事を継続して…」では、管理職が今後増える中で、高齢者の継続社員もますます働きづらくなっていくのではないかと思えた。さらにボーナスの支給もなくなり、少なくとも働くモチベーションが落ちていくのは時間の問題だ。
 会社の平均年齢は高齢化の一途をたどっている。そこに、定年退職後の契約社員が増えればますますモチベーションはさがる一方だろう。同じ仕事をしていて、現役社員より安い賃金の理由はどこをさがせばいいのか、という疑問に答えてはいないように思う。
 
 とはいえ、現実的な問題を少しずつクリアーしながら仕事をしていかなければならなくなっている。年金の額と賃金。残業のこと…。どれも「28万円の壁」という不思議な壁を前にして右往左往している状態だ。当たり前に働いて、働いた分は賃金の一部で得る。それさえも考えなくてはいけないとは、どこまでも労働者を縛り付けている法律のように思えた。
 「働き方改革」というのが、国会で出たり入ったりしている。「加計問題」でなかなか審議にはいらない状況だ。「残業代ゼロ」ともきく。そこには、労働者(とくに高齢者)を死ぬまで働かせるとか、若者を過労死に追いこむような「世界で一番企業が活躍しやすい国」にしたのだろうか。これは「世界で一番労働者が働きやすい国」の間違いなのではないかと…。あまりにも問題の多すぎる「働き方改革」である。

 そんなことを思いながら、当面この1年が始まった。来年はちょっといい内容の契約内容にできるようにしたいものだ。それは、ぼくのためにもなるが後々つづくであろう高齢者のためにもなると思うからだ。
 今週、年齢的にはちかい、歌手の西城秀樹さんがなくなったのは63歳。「寺内貫太郎一家」の時代から知っているから、ぼくも高齢者なので他人事ではないのですワ。(合掌)




【上野駅】
 かつては、東北、北陸地方の玄関口としてたくさんの人が乗り降りした駅だ。最近では、NHKの朝ドラマ『ひよっこ』で地方からの集団就職の人たちの模様が放映されていた駅のイメージが記憶に新しい。
 年配者の中には初めて「働く」場所として東京で降りた駅が「上野駅」だったという経験の持ち主も多いと思う。かつての東京五輪のブームにのって建設ラッシュの中、出稼ぎ労働者が正月とお盆の帰省ラッシュを映し出した駅でもあるように思う。
 東京都の近代化をおおきくささえてきた駅といっても過言ではない駅だった。

 ぼくの時代は「上野駅」は出稼ぎの時代ではなくてパンダ到来の上野動物園だったように思う。パンダがめずらしいことで多くの来園者が降りた駅でもあったはずだ。それでも多くの人が来てすぐみられるということは、なく、「整理券」をもらい延々と順番待ちをしたことをいつも「ばからしい」と思って眺めていたものだった。お目あてのパンダを見られず、ここでしか買えないパンダのお土産をかかえて帰ったのだろう。上野の西郷さんの銅像があったことも知らないで後で気づくこともったのだろう。

 上野駅は学生時代、箕輪で守衛のアルバイトをしたときがあった。帰る途中上野駅で降りることもあった。朝の上野公園の歩いているとブルーシートや段ボールにで作られた囲いのテントのようなところに人影を見ることもあった。夏なら、不忍の池は鳥が飛び交う気持ちのいいところだと思う。朝は人よりも水鳥の方が多かった。
 そんなある日、スーツをきたおじさんが寄ってきて「自衛隊に入らない」ということを言われたことあった。職探しをしている若いにいちゃんに見えたのだろうか、その場を黙って避けて歩いたことを思い出す。
 そのときは何にも考えずいたが、今考えるとこれが「経済徴兵制」というのだろうか。事実、アメリカでは格差が広がる中で奨学金が返済できずにいる人が多いという。その格差のために払えない学生の奨学金の返済を肩代わりしているともいう。(※詳細は『経済徴兵制』布施祐仁著・集英社新書で)
 大学生の奨学金の返済のために日々アルバイトをして勉強ができない。貧しさが人の生き方をせまくして、あまい言葉に引き寄せられていくのは世の常のように思える。いっとき、学生の教育費無償化の話題はどうなってしまったのだろうか。政権変われば、人の運命も変ってしまうようなひどいことになっていくようにも思える。



もう一つ「上野駅」にまつわる物語の記憶がある。それは青く、ほろ苦い思い出でがある。
 学生時代が終り、新しい生活にはいって一年後、ぼくは貧しいアルバイト生活をくりかえす日々だった。それでも友達にめぐまれていたからだろうか、「就職不安」はなかった。いずれどこかで働いているだろうという楽観があった。一度は公務員の試験を受けたものの落ちていた。それからというものアルバイトでどうにか生活ができていたのだから、この時代はのんびりしていた時代だった。そんな中、アルバイト先に福島の故郷へ帰ったクラスメートから一年ぶりに電話があり、あうことになった。あって見ると友達と二人だった。
 近くの喫茶店(当時はスターバックスやドトールはなかった)にはいり、久しぶりの再会に故郷の話やぼくの近況などを話していたのだろう。そしてついに彼女の口から「私、結婚します」と切り出したのだった。ぼくは驚いてしまった。お見合いをしたのかもしれないな…と思った。
 彼女は、ぼくが下宿生活をはじめた大学1年生からずっと話をしていた人だった。アパートの近所にあったので友達と一緒に遊びに行ったこともあった。彼女もぼくの所へも遊びに来てくれたものだった。4年生になってからは校内でときどき会うこともあった。

 今思うと、ふられてしまったなあ…と思った。
 そして、帰りの電車の時刻になったので別れたのだった。別れ際に行った言葉は忘れている。
 そして、2011年に3・11東日本大震災が起きた。福島といえば、福島第一原発事故があったところだ。放射能の影響はなかったのだろうか、と思った。彼女は元気に送っているのだろうかと思うばかりである。
 これが「青春」なのだろうと思う。ふと、山田太一のドラマの「遠まわりの雨」を思い出した。それぞれの家庭を持ち、何らかの縁で昔の恋人を思う話であっただろうか。それぞれの独立した人間がもつやさしい、悲しい物語だったと思う。
 それぞれの「青春という時」に生きた証が欲しいのかもしれない。誰にも知らされず、二人だけがポッと思い出す物語…。大事にしたいと思う。

 最近はこの駅に降りることはなくなった。
 東京のはずれのような気がするし、いまでは行く用事もなくなった。若いころ谷川岳という山にいくために、夜行列車に乗ったものだった。いまはどうやっていくのやら…。
 昔はホームレスが多かった。今は外国人の観光客が多い。そして工事のオジサン…。2年後の東京五輪で「夢をもう一度」という気持ちなのだろうか。昔の静かさが好きだ。


 今月も半ばをすぎて終わろうとしている。今週は、「再雇用契約」をしてますます気落ちした週でもあった。なにがこんなにも気落ちしてしまうのかと言えば、自分の年齢がとうとう年金を受給するまでになってしまったということだろうか。そして、こんなにも安いのかという現実を知ってますます気落ちしてしまった。ローンを何もなければ、それほど苦にはならないのだが、ちょっと将来が不安になってきた…」というのが正直なところだろうか。

 これが現実なのだろうと自分に言い聞かせて進むしかない。まずは、年金の「28万円の壁」について勉強して知ろうと思っている。どんなにあがいても年金が上がるわけでもあるまい。できることは、これ以上少しでも減らないように工夫が必要になってくるだろう。「こんなことになるとは思わなかった」とならないためにも出来ることからやっていこうと思う。

 ますはボチボチやっていこうと思う。
 来週は、ひと月で一番忙しくなると思うが、気持ちにすこしでも「笑顔」をつくれるようにいこう。いやなことばかりでもあるまい。それにしても、やっぱり政治の悪さは生活の悪さにつくずくつながっていることが痛感した週でしたねえ…。「働き方改革」も野党が反対している理由も知らないといけないのだろなあ。
 それは、今週はこの辺で失礼します。

5月のなかだるみ…

2018年05月13日 | Weblog

こんにちは。
連休も終わり、5月も半ば。ちょっと中だるみもでてきそうな日々でもあります。世に言う「五月病」でしょうか。それでも日々の仕事は変わらず、あいかわらず忙しい日々を送っているように感じます。
 5月は天気がいいと外出も楽になるように面ます。暑からず、寒からずちょうどいい時期だと思います。それでも、沖縄からは梅雨入りのニュースを聞いたりすると、季節は夏に向かっています。散歩のとちゅう、ツバメが勢いよく飛んでいるようすは初夏がきていることを感じさせています。

 梅雨入りの沖縄と聞いて、今沖縄ではしかが流行しているとのことです。これまで、はしかと診断された人は10日現在で94人。年代別では30代が最多で30人。以下多い順に、20代23人、40代13人、10代8人だと言います。愛知県の患者20人。3月28日~4月2日に沖縄旅行をした名古屋の10代男性が、4月11日に診断された。予防接種は受けていなかった。この男性が受信した名古屋第二赤十字病院では、受診者ら計8人に感染が広がったと推定されている(毎日13日)。はしかはワクチンを接種が唯一の予防手段とされている。だから予防接種がされていない子どもにとっては大変な病気だといえる。広がらなければいいですが。今後が注視していく必要があると思います。




 ぼくの誕生日。とうとう年金の手続きをする日がやってきてしまった。いくつもの書類を準備し、四苦八苦して書いた申請書、そして預金通帳などを持っていった日だった。
 予約は9時30分。10分前ほどに行って受付を通して待機していた。
 座る前方に電光掲示板があり、現在の進行状況が表示されている。それによると「予約現在〇人」、「予約していない人〇人」、「当自相談に来る人〇人」と3つが案内されていた。さらにその下に「予約されていない人、当日相談の人は2人で1時間待ち、5人で2時間待ち」などという説明もあった。相談には時間がかかるようだ。2時間も待っている人も大変だろう。大病院の待合室のようだ。なんとも退屈で大変なところへ来たものだと思った。さりとて、「自分の生活費となる年金。めんどうだから帰ると、うかつに妥協できない」。人気食堂の「待ち」とはレベルが違うのだから。これまで自分が納めてきた貯金を取りもどすために誰もが必死さが沈黙のなかにあって、そのなかのぼくも必死だった。
 
 年金についてもっと勉強をしておくべきだろうと思う。なぜなら、毎月、給料から税金として国にとられていた自分のお金を取り戻すにはこちらから働きかけなければ何にもしてくれないのが国家。どこかでこんな言葉を聞いたことがある。チェルノブイリの原発事故の被ばく者の医療救援のドキュメンタリーだっただろうか、それとも2015年に「日本社会に抵抗という文化がない」といったノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチさん(68)だろうか、それとも『チェルノブイリの祈り』だろうか「国家は責任をもたない」というようなことを言っていた。こちらから働きかけない限り国家は何もしてくれない…、ということがよくわかった年金事務所だった。これは、こちらから請求しなければ国はそのお金をどこに使うのであろうか。国家予算にでもして、企業の海外進出への援助金にでもするのだろうか。いずれにせよ、誰も年金を送金してはくれないだろう。

 大事なことは何もしないのが「国」だなと思う一日だった。学校教育でもちゃんと憲法を教えてほしいとも思えた。教育で、三大義務「教育の義務」、「勤労の義務」、「納税の義務」をやり、それに必要な国がなすべきおともちゃんと教育で教えてほしいものだ。そして、義務に関して国が保障すべきことも教えてほしいものだ。その時になるまで分からないというのは、フェアーじゃないような気がする。

 とはいえ、最近の日本年金機構の事故が多い。
昨年9月「約598億円の年金加算支給漏れ問題で、最大590万円の支給漏れは3人いて、うち2人は日本年金機構の事務処理ミスが原因」(朝日/2017年9月16日)などがあった。こういうことが多くなると、結局、年金受給者が申告しなければそのままになってしまうのではないか…と不安である。

 年金事務所にいって、担当者がパソコンに黙々とキーボードをたたいている姿はいかに入力ミスが大きなミスにつながるかを予告しているような気がした。手書きの時代よりもはるかに多いと思えた。
 不安は増長する。これが今の日本年金機構のぼくの気持である。がんばってほしいといっても本質は、仕事の中身にあるのだろう。

 これからは少ない、目減りしていく年金受給者として生きていくしかないのだろう。「悠々自適」などという言葉は遠い。




【五反田駅】
 学生時代を卒業してから40年近くたっている。最近、五反田には頻繁にいくようになった。知人がこの駅から乗り換えていく駅に住んでいるからだろう。
 そしてぼくにとっては、この近くで日々青春時代を送っていた駅でもある。どこへ行くにもこの駅を経由して移動していた。卒業してからしばらくこの駅から有楽町まで利用していた。

 今は少しはきれいになった目黒川はどぶ川だった。小さな歓楽街もあって草野球の帰りはよくよった。
 それにしても五反田はあまり変わらないが、周りが変わった。次の駅の大崎はずいぶん変わった。昔は五反田のほうが華やかだったかが、いまは大崎駅が大きくなり、人の乗り降りも多い。どちらからといえば大崎は「うらぶれた駅」だった。それが今では、天高くそびえるマンションのなかにある。
 五反田駅は通過駅だった。いちばん利用していたように思えるがそれほど印象にない影のうすい駅だ。唯一、面影が残ってるのは駅ガード下の食堂、この食堂はあったように思う。遅く帰った会社帰り、歓楽街をぬけ、酔っていた体を池上線に乗り換えるときの風の強さを感じた駅のホームは忘れない。国道1号線の上にある駅でもある。冬の寒さを痛感した駅だ。
 池上線のなんときれいになった車両よ。緑色のいもむし電車だったのにいまはすまして走っているのが時の流れを感じるなあ。



 とはいえ、今ではこの駅をおりても誰も見知らぬ人たちが通り過ぎて行く。学生だった40年前は、学校からこの駅に来るまでは誰かに会っていたように思う。みんな20代のわかい顔で通り過ぎていたのだろう。五反田から学校に行く途中、目黒川のすぐわきに、大きな本屋さんがあったように思う。買いもしない本もよく立読みしていた本屋さんだ。今年、知人に会った帰りに歩いてみたが消えていた。今でもは死語になってしまったが「ノーパン喫茶」というお店もあったなあ。友達と一度行ってみたことがある。どこへ行ってしまったのだろうか。
 20代の若いクラスメートの顔はもうほととんど忘れているように思う。それと同時に、町の様子も印象に残っていなくて忘れている。今住んでいる駅の次によく利用した駅だったのに印象が薄いのは時の流れがあまりにもあるからだろう。この駅でさようならをした「片思いの」の人に手をふっていた時代も遠くなった。知人のところに行ったときガード下の中華そばやさんに寄ってみようかと思う。酒で寄った舌でしか食べていなかったようだ。味は忘れても「うまい」と思って食べていたのだろうか。そんな味を感じてみたいと思うのもいいかなア。五反田駅の思いでは『片思いの楽しかった時代』だけが残る。若さいゆえそう思い起こさせるのだろうか。若いってやっぱり素晴らしい時間なのだろう。




 1月から「大規模修繕」もいよいよ終わりが近づいているようだ。週末、業者が足場を片づけていた。ちょっとはきれいになったのだろう。予定では今月後半には完了になっている。何が変わった…。まあ、表面的にはきれいになったことぐらいだろうか。15年に一度のメンテナンスである。
 正直なところ15年も時がたっていると、中身はけっこう傷んでいて、新品のころがなつかしい。痛んで違うことは、耳をすませば音が違う。なんにつけ音が変化してきている。いちばんわかるのは、住み始めたころは小さな子どもたちが声変りをしている。挨拶の声がちがう。もうひとつ自動ドアーの開く音。15年前には静かな音だったが、今はちょっと何かを引きずっているように音にも雑音らしいものが混じりつつ開閉している。それでも、自動ドアーの役目をしていれば通り過ぎるだけになっている。そして、いちばん身近なトイレの水の流れる音である。息もたえだえしく、という音が混じっているように聞こえる。「疲れたよー」とでも言っているように思える。

 ぼくの体も同じだ。60年以上も息をしているとどこか音が違っているのも当然だろう。最近、手の指の関節を鳴らす音を聞いていると、ちょっとずつ違うのがわかる。朝「ポキン」という音だったとしたら、昼は「パキン」と聞こえるように思える(ぼくだけだろうか)。その音を聞きながら、仕事と自分の調子のよさを考えているような時もある。「今日は調子がいいぞ」とか、音を聞きながら自分に暗示をかけているような時が多くなったこのごろだろう。
 「限られた資源」でこれからもうまくやっていくしかないようだ。そんなとき、自分の音から感じとっているような日々がある。まだ、はじけるような指の音がしているので安心しいこうと思うのだ。これが「バキッ」とか音なしになったときは注意が必要だということだろう。

 とりあえず、年金受給申請を届けたがまだまだこれからだろう。それは間違いの多い年金機構だから。一部年金を受給するようになったのだが「28万円の壁」ということを聞いたことがある。働きすぎてしまうのもよくならしい。本当のところはちっともわかっていないのが現状。少しずつ、理解を深めていければいい。



 今週は「中ダルミ」というところが正直なところです。
 まあ、どうにかボチボチやっていくしかないようです。来週から月末に向けて忙しそうです。月末、また休みをとろうと計画中です。それくらいは甘えていいのだと思います。再雇用契約社員ですから…。割り切っていきるのも大事なことです。友だちは「死んだふり休暇」をとって頑張っている。
 今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

5月の空に、あくびをして。

2018年05月06日 | Weblog

 こんにちは。
 メーデーも、憲法記念日、子どもの日も終わり、連休が終わります。
 今年の連休はとても天気がよかったのが印象的でした。例年なら、休みの真ん中あたりに雨が降り、雨がやむころには休みが終わっている、というところでした。今年は、1・2日が雨でしたが、あとは晴れていました。おかげで、外歩きがたくさんできた休みでもありました。

 とはいえ、どれもいい状態にないことは連日のニュースなどでいわれています。第89回メーデーでは、「働き方改革」というテーマがありました。「残業時間の無料化」への動きのなかで「過労死」がますます増えてくるのではないかということがいわれていました。さらに、官僚による「セクハラ」問題がありました。このセクハラにさらに、ジャニーズのトキオのメンバー少女虐待問題が一緒に上げらていました。どれも、労働環境が悪くなるいっぽうの状態は変わっていないということでしょう。

 憲法記念日では、安倍首相は「改憲」をいまだに目標にしています。憲法は変えるより、本当にその法律が守られているんか実証するのが大事なのではないかと思います。憲法を変えるということは、その時代の権力者の拘束を緩めるということです。それを権力者自ら変えるといことはいいことではないことになるでしょう。なぜなら、自分の都合のいいようになってしまうということがあるからです。「押し付け憲法だ」とか「時代に合わない」とかいうことがいわれています。一方で「日本の憲法は世界に誇れる平和憲法」ということもいわれています。どちらも、なんらかの利害がはたらいているのではないかと思います。とくに「憲法9条」の「改憲」があれば、絶対に国防予算が増えて、その増えた部分の替りに社会保障や教育などの予算が削られるか、あるいは消費税をあげるようになるのがこれまでも状態でしょう。ならば、変えることはないということの方が働く人にとってはいいに決まっていると思います。

 そして子どもの日。
 子どもは37年連続減の1553万になっています(総務省の4日発表の人口推計では14歳以下の子どもの数は1553万になっている)。前年比17万人減。総人口に占める割合12.3%と1950年以降、過去最低となりました。その背景には、「子ども食堂」や「児童虐待」、さらには「いじめ」などがあることはニュースでも多く聞きます。
 
 これらのどれも、働く環境が悪くなっているから憲法も子どもも、全部悪くなっているように思えます。人が安心して働けて、経済的に余裕ができれば、もう少し両親が子どもにも目を向けられるだろうし、教育にも希望をかなえられるようにするだろう。いまは、低賃金で長時間、働くだけでせいいっぱいの時代になっているように見えます。あえぐの果て「過労死」になるような労働条件で、子どもを産みたいと思う人がいるようには思いません。
 その結果、格差が生じ富める者はますます利益をよる仕組みになり、貧富の差が大きくなり「頑張ろう」という希望さえも奪ってしまっているように見える。その結果、「年金」にも波及していきまます、老人いも住みにくくなっているのが現状だろう。

 いずれにせよ、働く人たちにとっていい環境づくりが、子ども、老人にとってもいい環境づくりの一歩だということです。これは、過去の歴史がちゃんと証明しています。貧しさがあらゆるものへ波及していくということだと思います。5月の連休も終わり、またこれらの問題が始まっていくことは変わりません。悲しいかな今の与党政治はすでに自浄作用がなくなっているように見える中、ますます悪くなっていくということは誰も理解することでしょう。もちろん年金暮らしにも影響は大です。



五月
五月の雨音をきく
いくつものは雨粒が地面をたたいては消える
「はるダヨ…」といくつもの
地面にノックをしている
生き物たちはその音に春を聞くのだろうか
いっときの休息をとる人は
「ひと息…」と思いながら
休みをうけいれている
それでもいつかは暑い夏のおとずれに期待をふくらませ、一日が消えていく

思い出は南風にのって遠い記憶が運ばれる
その思いが北風の過ぎ去ったあとに聞く
「お前はいったい何をしにやってきた」と。
はるか太平洋の空にぽっかりと浮かぶ雲

五月の雨が運び来る
遠い記憶、遠い思い出
今日という一日に何かが聞こえてくる
雨が地におちる音に
消えては甦るその時間
「アリガトウ」と感謝の気持ちだけがよみがえってくる

五月の雨に
きっとくる青い空を期待している





 五月の連休が終わります。あまり考えたくないことですが…仕事が始まるころ「どんな連休をおくりましたか?」という会話もでてくるのでしょうか。
 ぼくの方は、毎年行っている一年に一度? の「老人たちの遠足」にいって来ました。遠足とはちょっと大げさかもしれませんが、定年を過ぎた職場の人との食事会のようなものです。若いころは、各自がそれぞれ自分の予定を必死に遊んでいたのでしょう。体力もあったでしょうし、一生懸命思い出をつくっていたのだと思います。

 そして、還暦もすぎても頑張れるかと言えば「ちょっとムリ」ということでできることは、近所を散策して今まで通り過ぎてきた町並みを歩き、美味しいものを食べる…ということで連休の一日をすごすことをしています。今回は2回目にあたります。中には大病も経験している人も増えていく年代です。年金一人暮らし、あるいは家族をもちつつの人たちのぼんやりした遠足です。

 今回は東急沿線の武蔵小山(ワンショット参照)に集まりました。
 それぞれの田舎から出てきてすでに東京暮らしのほうが長くなったことを再確認した集まった一日でした。そして、変貌を繰り返す年の都市計画に翻弄(ほんろう)されてきた自分たちの周りにも目をむける時間でもありました。それが、本当に便利になったのか、よかったのか…、上を見上げるたびに考えることが多いようでした。

 道々歩いていくと、昔は簡単に覚えられた道や、見晴らしのいい景色も大きなビルがたちははだかり、迷うばかりの遠足でもありました。
 迷っては戻り、戻っては探した食事の場所は昔ながらのちょっと汚れたお店の方が安心できるのでした。
 年々、行動範囲が狭くなっていくようです。ぼくがいまいちばんいい遠足はとはいえば、本当に低い山を歩いて、温泉に入りたいものです。きっとビールがうまいことでしょうか。
 遠足のメンバーもあと何年一緒にできるのだろうかと思うこともあります。人それぞれ体や財布と相談して生きていくしかないようです。
 また、年末に寒い中の遠足も楽しみにしたいものです。




【武蔵小山駅】

 連休後半に旧友が集まって飯でも食おうということになり、「武蔵小山」に会うことになった。降りた駅は、武蔵小山かと間違えるほど、ぼくの記憶とはちがった風景があった。
 40年ほど前、ぼくは学生として、よく歩いた町でもあった。当時、今日のような人たちはいなかっただろう。高層マンションもなかった。電車は踏切の上を走っていた。駅前の住民は、きっと昔からの住んではいた人達ではないだろう。歩いてみると、古いお店は看板をだして移転先を案内していた。今やアーケード街は、その日の観光客ばかり目立っていた。事実、人気のお店の前では長い列が多くみることができる。
 それでも観光客ばかりのいる列を抜けてちょっと道からはずれた先には、昔ながらの町並みもあった。住民が軒先の花壇に水をさしている姿もあった。これが、ぼくが40年前に多く見た景色だったにちがいないと思った。そして、軒先の水やりの風景のなかに、20歳代のぼくが歩いていた。

 学生のころ、クラブ活動の先輩のアパートを訪ねていたことを思いだす。訪ねては、先輩の趣味の音楽のLPレコードを聴いていた。ピンク・フロイドの『狂気』というアルバムが好きになった。ダイヤトーンというスピーカーやサンスイという音響機器の名前もそこで好きになった。先輩曰く「この作家はこれからどんどん出てくるよ。読んでおくといいよ」と言われた作家が藤沢周平だった。おかげでぼくは、いまでも好きな作家となっている。そんなことを語り合ったところでもあった。

 もう一つ忘れられない思い出の場所でもある。ぼくが社会人になった職場の上司がここの住人だった。映画の話や野球の話は、玄人顔負けの人で、僕と話していてもきっともの足りなかったのではないかと…、今では思う。それでも、公私で話しやすい上司だった。いちばんよかったのは自分の趣味や主張をおしつけない性格がとても好きだった。時々、ぼくが所属していた職場の草野球チームを応援してくれた人でもあった。語り口がまさしくよく聞く「江戸っ子気質」でさっぱりした人だった。ラジオ番組で有名な毒蝮三太夫さんのような感じの人だった。

 定年してしばらくして、がんで入院したときき、何回かお見舞いに行った思い出もある。何年かした後、その訃報を聞いた。最期はどんなだったのだろうか。半年くらいして、上司がよく通った飲み屋さんで休日に「お別れ会」をやった。いまだにそういう幅の広い上司にあったことはない。ぼくにとっては、「人間の宝物」みたいな人だった。最近の保身ばかりの上司を見るとつくづくいやになったとき、ふと思い出す人になっている。

 月日は流れて40年後の駅を見上げては「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」(芭蕉)と思う。人の流れのなかでふと立ち止まってみるとぼくが一番、長く持っていたい人の風景をつくった駅でもある。
 とはいえ、駅の変わりようをみてつくづく問の流れの大きさに身震いした駅だった。便利さがや効率性が最優先された駅にも見えてくる。それでも、新しい歴史が流れていくのだろう。


 
 【余談】「非日常」だから面白いことも多い。だからといって…自分のいるところは見失わないようにしたい。ある受刑者の脱走から考えることは…。

 連休の間は、働いてもいないせいかなんとなく忘れるものをしているような毎日です。
休んでのんびりしていることが「非日常」という気持ちがありました。そして休みが終わると「日常」にもどってきます。再雇用契約社員という身分にもどるということです。本当はそんなわけ方をしたくないのですが「日常」の現実があまりにもかた苦しく、息苦しいせいか休んでいることが「非日常」になってしまうのかもしれません。

 先月末に、愛媛県今治市の松山刑務所から受刑者が脱走して一週間ばかり逃走をしたニュースがありました。町は騒然となり、日々不安の日常を送ったとのことです。脱走者にとっては、刑務所にいることがつらかったのでしょうか。受刑者にとっては、脱走することによって逮捕されるまで自由の身となり、「非日常」がめぐってきたことになりました。ということを考えれば受刑者にとって脱走は「日常」から逃避だったのでしょう。その行為をみて、「それは脱走した受刑者だけにいえることではなく、日々生活しているぼくにもいえることではないのかな…」と思えました。いっときの逃走できる日があれば、今までの自分の反省も社会のありようも忘れられるのではないかなと思えました。

 とはいえ、受刑者が受刑者らしく「日常」をつくる方法は服役することです。犯罪者ですから逃走する理由にかかわらず法律上、罪になってしまうのだと思います。

 ではぼくはどうなのか。契約労働者です。ならば契約労働者の「日常」はどうやってつくるのでしょうか。働いて、賃金を得て、暮らしのローンを払えて、食費も稼げて生きていくことでしょうか。それがあたりまえになっているのでしょう。この当たり前がくずれた時「非日常」を「日常」に立て直すために頑張るのでしょうか。そのなかに「非日常」ということを考えていくのでしょうか。そう考えるとぼくの「非日常」はいいものではなくなります。夢にまでもみた「非日常」が「日常」をくずすことになってしまっている。

 そんなことを考えてみると「○○らしく」ということが日々の生活の中で大事なことなのだな、と思えます。ぼくにとっての「○○らしく」は「契約労働者」らしく、なのだろうということです。ということは、有給休暇も賃金も、残業時間も、また、今年から出るだろう年金も保障されなくてなりません。それがなくなったとき「ぼくらしく」がなくなり、まさに「非日常」になっていくということなのでしょう。
 誰もが「○○らしく」をちゃんとしていれば「非日常」を考えなくてすむと思います。

 ただ「○○らしく」があまりにもなくなってなってしまっていることが問題なのでは思います。例えば、「政治家」。政治はそもそも、弱者や貧しさを助けるためにあるのが原則だと思えます。それが権力を得て、私利私欲に走り邪魔者を排除するという政治は「政治家らしく」から遠い存在になってしまっています。それがその政治家の「非日常」なのでしょうか。その結果、その政治の結果、「○○らしく」なくなることが少なくなっていく人が多くできるでしょう。それが貧富の差をつくり、社会にも貧富をつくり差別や暴力がつくられるのでしょうね。

 少しでも「日常」に「○○らしく」をつくっていくことが大事だなと思います。
 それが、その人の原則だと思いますが。




 この連休中に、いらない書類や本を整理してしまおうと考えていたが終わってみれば「全滅」。その代わり、今年になって初めて「老人の遠足」に参加したりしたことは面白かった。行くまでは「ちょっとめんどうな」と思っていたが、行ってみたらごくわずかな人たちでしかなかったけれど、自分のいる場所みたいなものが分かったようでうれしかった。

 そして、高尾山の新コースを探して歩いたのもよかった。道に迷ったが(よほどのことがない限り迷わないと甘かったが…)
 ちょっとは山のことをちゃんと考えるきっかけになったように思う。これから新しいルートも少しずつみつけて行こうと思う。それにしても、高尾山の圏央道のトンネルはすさまじい広さには驚いた。トンネルのおかげですごく遠回りをしたのでそう感じたのかもしれない。

 最終日は、恒例の妻の友達の紹介でコンサートに行ってきた。曲はバッハのヴィオラ曲。3時間ばかりの演奏(休憩もあった)だったが、ぼくにとっては、拷問のように思えてしまった。なんせ、クラシックのことはよくわからない。自分でその道の関係者なら拷問には感じないのだろうが。まいった。

 どれも、外へと行動してはじめてわかること。
 さて、読者のみなさまはいかがでしたか。楽しい「非日常」を過ごせたでしょうか。明日からまた、ボチボチと仕事が始まります。力まず、力をぬいていきたい一週間にしたいものです。来週は、とうとう「年金受給申請」の提出をします。書類には不明な点が多くてまいってしまいます。

 では今週はこの辺で失礼します。
 お祭りは終わりだ!!お疲れさま!!
 読んでくれた人、ありがとうございました。

難攻不落の城へ行けず【番外編】

2018年05月01日 | Weblog

 こんにちは。
 連休はどちらでお過ごしでしょうか。故郷でゆっくりしているのでしょうか。あるいは旅先で旅を満喫しているのでしょうか。どちらにしても、仕事や世間のいやなことを忘れているのでしょうか。
 日々の生活から一歩外へ、ゆっくりできる場所をもとめて外出する季節でもあります。
 ぼくの方は、久しぶりに「山歩き」に一日利用して行って来ました。今回は、いつものコースから離れて新しいコースを探し歩いてきました。なんでもそうでしょうが、初めて歩くところは何かと不安もありますね。地図は持っていても道迷いなど危険もあったりすます。一方でどこまで山で地図を読めるかがためされるということもいえます。今回はこれらのことをとくに大事なことだとういうことが、山歩き原則をだと痛感した一日でもありました。


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 今回、連休中の一度はチャレンジしたいと思っていた「北高尾山稜」の山歩きに行ってみました。
 当初の目的は、陣馬高原下から八王子城跡まで歩く予定でいました。
 連休の間、連日混雑する高尾山は避けたいという気持ちもおりましたので「北高尾山稜」とういうコースを選んだ理由です。しかし、初挑戦、予定通り歩き切れるかが心配でもありました。


 とはいえ、一人くらいいるだろうと思っていましたが、山歩きのコースにむかうと、陣馬高原に2台のバスが下車した登山者の誰一人として今日のコースには見えませんでした。静かでいいなと、いうよりいちまつの「不安」といったところが正直な本ねすか。「おーい、誰かこっちにきてくれよー」と思っても、後ろも前も誰一人、人かげのない山道でした。
 そんなわけで、山歩きは静かなものでした。誰もいないことを幸いに、遠くの山に思い切り大声を出しても誰も応えることもなく、むなしくぼくの声がやまびこになって返ってくるばかりでした。

 最初の分岐点の底沢峠では、陣馬高原から景信山にむかう人にはたくさん出会うことがありましたが、さらに城跡にいく途中で堂所山ではほとんど人の姿もまばらになっていきました。
 北高尾山稜は、いくつものピークを越えての山歩きです。下ったと思いきやすぐに登りという少しキツイものでもありました。景色は木々がうっそうとしてあまり展望がのぞめません。唯一展望がいいのは、最後の富士見台です。天気がよければ遠くに富士山がみえます。

 今回の「北高尾山稜」はきっと、高尾山の山歩きのなかでいちばん静かな登山だと思います。ただ、いくつもの峠があったり、杉木立のなかを歩くので景色はいいとはいえません。静かに登山道を踏みながら歩きたい人にとってはいいコースだと思いますが…。あまり人気がないのでしょうか、ところどころ道に迷いそうな道標もあります(僕だけかもしれませんが…)。地図は必携でしょう。当日、スマホを見ながら横道にそれてしまった若者がいました。目標は高尾山に行きたいとことでしたが、途中横道にそれてから向かうということでしたが、歩いていくうちに目標の高尾山がだんだん遠くなっていくので、僕に「ここから高尾山に行くルートはあってますか」と聞かれました。若者は地図はなかったようで、地図を広げて現在の位置や進むべきルートを説明して向こうようにいったこともありました。
 山は地図では近いですが実際歩くとかなりあるということは原則です。さて、ちゃんといけたのかな…と思いつつ下山でした。

 今回の山る気から高尾山にはバリエーションがあることに気がつきました。あとは、エスケープできる地点をさがすことも大事でしょう。ちなみに、高尾山は南高尾縦走、奥高尾縦走、そして今回の北高尾山稜の3コースのルートがあるそうです。いつも歩いているのは奥高尾(陣馬高原から景信、高尾)です。一つの登山口からいろいろなコースを選ぶのも山歩きの楽しみです。そのなかでいちん自分にあったコースを何度も歩くこともいいと思います。四季折々の風景を想像していけるくらいにしたいものです。
 次回は、ちゃんと八王子城跡につけるようにしたいものですが…。