日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

5月。こんなにも暑かったかなー。

2019年05月26日 | Weblog

 

 

  こんにちは。連休が終わったかと思ったら、すでに月末です。なぜか5月は早い、という印象です。

 連日夏日が続いているようで、北海道では30度以上の日もあるようです。いったいどうしたのでしょうか。よくいう「地球温暖化」なのでしょうか。それ以上に、深刻な気がします。本来ならば、このごろから雨ばかりの日々になるのですが。

 

 5月も終わります。10連休ということもあった月でした。10連休であろうとなかろうとぼくの読書には関係ないようでした。なぜななら、ぼくの読書は90分の(往復で180分ほど)通勤時間のなかで行なわれていました。 元号が「平成」から「令和」に変わって時代のながれをつくずく感じていた5月でもありました。そして、5月はぼくの誕生月でもあり、年齢も加味してしみじみと思う月にもなりました。とはいえ、昭和生まれのぼくにとっては、「平成」であれ「令和」であれ、自分ができあがた時代は「昭和」ですから、「昭和」という時代がもっと知りたくなり読んだ本でもありました。

 「昭和」があったから「平成」も「令和」もあるということを思えば、ぼくにとってはいちばん大事な時代であることには変わりはありません。その昭和は激動の時代ともいえると思えます。ぼくが思うに「昭和」という時代は、戦争から平和への模索のの時代だと思えます。そしてやっと「銃をもたない労働者が主人公」のスタートラインでもあったようにも思えます。武力でなく、人と人の話し合いでつくることとはいったどういうことなのか・・・という時代でもありました。

 そして「平成」という時代は、とことん労働者がいじめられた時代のようにも思えます。その結果、抵抗することも、自分たちの目指したいものも見えにくくされてきたようにも思えます。それは、格差や貧富のひろがりになり、生きていくことだけでせいいっぱい時代に進み、他人を思いやることもためらわれた時間でもあったようにも見えます。事実、非正規社員が正規社員を上回る時代も時間の問題ではないかとも思えます。それは、政治にもあらわれていて、ますます不安定な中で一極集中の政治へと変わっていっているようにも見えます。それがいまの政権の横暴な感じさえする形となっているのでしょう。いつの間にかバラバラになってしまった労働者は無党派層ばかりか、無関心層までつくってしまったようにも見えます。

 もういちど、戦争から今に至るまでの人びとの思いや行動をふり返ってみる必要がある時代はないと思います。最近は、小説でいうなら、松本清張さんのような、時代をとことん疑ってみる作家が登場していないように見えます。松本清張さんの「昭和史発掘」のように「平成史発掘」をだれが書いてくれる日がくるのでしょうか。ところどころのはありますが、時間軸をもって追いかけていく作家がの登場が待ち遠しい気もします。

 とまあ、前置きがながくなりました。ということで、今月は4冊になりました。

 

 

p232 「傷害致死事件」として捜査してきた東京地方検察庁が、八月六日、捜査結果を公表した。それによると、死因は「デモ隊の人ナダレによるク(軀)幹部、特に胸部圧迫による窒息死」で「(樺は)東大デモ隊の先頭、文学部学生集団のトップから十数列目に位置して、午後七時ごろ国会構内に突入、旧議員面会前付近の中庭まで進んだ時、警官隊に阻止されて後退してくる学生と、後ろから前進してくる学生集団の渦の中に巻き込まれ、人ナダレの下敷きとなった」と認定した。つまい、警官隊との接触はなかったとしている。

 p243 最後に挨拶に立った父親は、「現在民主主義は国会のなかにはなく、わずかに抗議集会やデモなかに燃え残っているだけです。娘は殺されましたが、娘の死がわが国の民主主義と平和を守るために役立つことは、わたしの親としての悲しみはこの上なく慰められるでしょう」と途切れがちに語ったという。慰霊祭は三時ごろに終わり、両親と兄二人を先頭に教授を含めた参加者四〇〇〇人が遺影を掲げながら、赤門を出て国会へと喪章デモをした。

 p277 九月一七日、多磨霊園で埋葬式が行なわれた。樺家の墓所は裏門から入り円形のロータリーまで進み、東西に走る左手に入ったところにある。二一躯二種三二側一四番に「樺家の墓」と書いた墓標と、「樺美智子墓誌」が建てられた。今はここに美智子だけでなく、父、母、それに早世した樺家の長男も眠る。墓誌の上段には、美智子の詩「最後に」が、下段に経歴が刻んである。

 p308 樺美智子を探して、改めて、美化され、聖化された美智子像と実像のズレを痛感した。彼女はきわめてすぐれた知性の持ち主で、努力家であったが、特別な存在ではない。偉大な革命家でもなく、ましてジャンヌ・ダークやキリストに擬せられていいわけない。まだ何事かを成したわけではない、これからというときに命を絶たれた。限りない可能性の向こうに広がっていた夢や理想を実現することができないままに・・・・・・

 彼女は、人生につて、人間について考え続けた人だ。その態度は、中学時代から過激な学生運動に身を投じた大学時代を通じて一貫している。自分は恵まれているけれど、貧しい人や苦しんでいる人がこんなにおおぜいいる。見て見ぬ振りはできな。正義はどこにあるのか。学生として何ができるのか追求した結果が、学生運動だった。

【著者紹介・江刺昭子】1942年生まれ。早稲田大学教育学部卒業。文化出版局で『装苑』『ミセス』などの編集に携わった後、71年よりフリーランスの編集者に。『草饐』で田村俊子賞。81年より日本エディタースクール講師、88年より神奈川県の女性史研究グループ「史の会」代表。

 

   ときはまさに「政治の季節(60年安保闘争)」。そしてそれが今の政治に反映されていないことに気がつく。例えば沖縄の問題へ・・・とつながっているよです。それでも、これほど政治への関心がもりがり「安保闘争」という時代ができたのでしょうか。それは、経済が安定したものの、そこでくらす人々の話が少しも反映されていなかったようにも見えます。今もほぼ同じ状況であるのですが、違うのが、それでも人々の暮らしに格差がなく「総中流化」があったからだと思えます。最近、その中流もなくなって、下流か上流化という時代が、まさに今のじだいであるのではないのでしょうか。だから、意見がかみ合わずバラバラになっていることを考えさせれます。衣食足りて礼節を知るという言葉があります。今は貧富のさが大きくて食事もとれず、眠るところもない時代になってバラバラという気もがします。よって、若者の政治への無関心へとなっているかのように思えます。

 昭和は遠くなかれけり・・・。


 

p12 政治に関わる知識人としての尾崎は、共産主義とは関わりのない彼の仲間の多くと同様に、理性のために神がかった考えと、国際協力のための国家の侵略と、そしてリベラリズムのためにはファジズムと戦ったのである。このことだけからしても、尾崎は叛逆者というよりも殉教者だった。だが彼はまた同時に、共産主義者でもあり、スパイでもあり、日本民族主義者でもあり、共産主義を標榜する国際主義者でもあった。

 p15 一人の日本人として尾崎の心を最も強烈に揺さぶったのは、一九三二年の一月三〇日から三一日に起こった上海事変であったろう。朝日新聞社の特派員だった尾崎は三一日の午後、また翌日にも、包囲下の北停留所に行ってみた。そこでは中国人学生たちの加勢を受けた中国第十九路軍が日本の陸戦隊と必死に戦っていた。・・・一九三二年五月一五日に海軍の青年将校たちが最後の政党出身首相を暗殺した。一九三三年二月二〇日には、プロレタリア作家として有名だった小林多喜二が逮捕され、東京の築地警察署で拷問死している。また同時に同年二月二十七日、ドイツではナチスが国会議事堂を焼き討ちした。

 p41 一九二二年三月に一高を卒業して東京帝国大学に入学した尾崎は、第一次大戦後の日本に噴出した社会面での重圧に対応し始めた。・・・一九二二年には日本農民組合が結成され、北海道と兵庫では小作人のデモが起こった。そして七月二五日には一五〇〇人もの労働者が野田醤油の工場でストライキに入った。その年遅く一一月二五日は七〇〇〇から九〇〇〇人の女子工員たちが大阪の岸和田、和泉、寺田の紡績工場でストライキを行ったために日本の基幹輸出商品である繊維製品の生産が停止されようとしていた。・・・一九二二年七月一五日には有名な共産党員である堺利彦、山川均、荒畑寒村、近藤栄蔵、それに徳田球一らが日本共産党結成のための委員会を創設した。・・・一九二三年九月一日の関東大震災であり、それを最大級の天災の中で・・・。

 P65 広東省でのストライキは国家を挙げての革命騒ぎとなっていた時期に外国人たちに最も深刻な事態を引き起こした。それは中国・英国間に不和を生じ、一九二七年に蒋介石が英米

 

  最近、スパイ映画をあつかったDVDを見ました。『陸軍中野学校』と『ゾルゲ』いう映画のDVD。昭和も戦争へと突き進もうとする13年から16年ほどの時代。日本でもスパイ(諜報)活動の必要性をしるようになり、国際的なスパイ活動がおこなわれはじめたころなのでしょうか。主人公の椎名を演じた市川雷蔵、さらには上司でもあった加東大介・・・。ゾルゲが生きた時代のスパイとはどんなものなのかを知る映画でもあります。

 ゾルゲも椎名も同じようなセリフがあることが印象的でした。「平和」・安定」というためにスパイ活動を行なっていたということでした。どちらも立場ちがえば「民主主義」というとらえ方も違うように思えます。ゾルゲは中国における日本軍の侵略をくいとめるためにソ連に情報を送っていましたし、椎名は中国における共産党ひきいる軍隊の殲滅させることで中国を安定させると言っています。

 とはいえ、「戦争は政治の延長線上にある」といったクラウゼヴィッツの言葉が思い出されます。けっきょく政治の問題で、どちらがいい悪いではなく、自分の置かれている場所が問われる平和問題だと思えます。大切なことは、その結果、本当に人によいことなのか、さらにはそのことによって誰がいちばん被害をうけるのか・・・。そのことによって楽しく暮らせるのか・・・と考えることでしょうか。少なくとも、他国の資源を武力や暴力でとるような行為はあってはないらいことが大原則です。それが出来なくなると、いりいろな屁理屈を大義としてつけて、あげくのはてに武力行使があるのです。そのときに、相手を殺戮をするために暴力装置としての軍隊がうごくということなのです。

  あとは歴史のなかで、後世にとってよかったかということでしょうか。

 

1942(昭和17)年

p41 あれからもう十二年もたちました。あの時危うくチブスで死ぬところでしたが、人の運などというものはしゃく位偶然に支配されるものですね。

 1943(昭和18)年

p86 いやしくも人生の道に精進する者は、昨日より今日と進んでいることは確かです。この意味で人はどこまでも生きつづけてゆくべきだと思います。だが同時に人生はいつまで進んでも、向上しても、眼界視野が拡がっても、その極みというものはないので、いわば大きな観点から見れば、どこまで行っても同じことだということも知らねばならないと思います。

 p97 私の志がいかに正しかろうと(よしんば)、英子たちを欺きそしてこの境地に陥入れたことだけで、私は地獄に堕ちなければならないと思いました。それ故、私はあのこと以来、すっかり自分というものを棄てたつもりです。私自ら「為す」ことを思い断って、ただひたすら「見る」ものとしてのみ生きているのです。勿論どんな苦しいことでもしのぶつもりですから、英子の恨みもいきどおりもまたどんな復讐でも黙って受けるつもりです。

 p174 人の無智と、そうして他人の不幸を喜ぶ気持ちとは、無責任なデマの温床です。

 1944(昭和19)年

p205 身体を大切にして勉強の出来るうちは一しょう懸命に勉強しておくことです。そうして大きな眼を開いて世の中の正しい姿を見ることを怠らないように。お父さんが生きるかぎり楊子を守っています。

 p218 揚子よ、愛情の輝きをくもらすものはただ我欲と利己主義だということを知っておかねばなりません。私は幸にして生れつき珍しい位私欲の少ない男でした。恐らくは平和な単調な時代には不適当な正確な男だったのです。――男の友情には人一倍恵まれて来たのだったと思います。

 p289 いやいやながら目前の仕事をする態度だけは、いつの場合でも之を絶対に避けなくてはならない

これが貴重なる人生時間の空費たるばかりでなく、生涯の行路の障碍をなくすものであろうから。

 p293 この頃は本を読むよりもペンを執る時の方が多い。楽しんでかき記している。それはあたかも砂の上に文字を書くにも似てはかないものに違いない。しばしたたずんでこれを眺める人があるか否かも知れないことだ。しかしもとよりそれで結構だ。思うに人の世のいとなみで、総べてかくの如くはかないもので無いものが何一つあるだろうか。

 p336 楊子、夏休みになったら、うんと読書しなさい。緑陰の読書というものは凡そ人生のたのしみの一つに昔から数えられています。だがこれも生々とした喜びを覚えるのは青春にだけ与えられた特権です。

 p362 近来世情まことにあわただしい、英子も知人や友人達の或いは浮び。或いは沈むのを次々に目撃し、かつは自らの境遇を思って、さぞや灌漑の多きに堪えがたいことであろう。だが世はまさに走馬灯だ。これも一時、またかれも一時だ。心を落ちつけて静かに眺めていてほしい。

 p371 この年月があったからこそ、今日僕は始めて人生の真意義を覚り、かくも静かにかつ楽しく日を送ることも出来るようになったのだ。もしもこの異常なる月日が無かったなら、僕は毎日ただ怱忙の裡にあくせくと日を送ってしまったことだろうと思う。

 p412(尾崎秀実について)より

 もしそうだとすれば、尾崎は祖国を売ったのではないか? もしそうだとすれば、われわれは彼に対して抱いている敬意と同情とを訂正しなければならいのではないか? そう考える人もあろう。このような人たちに対しては、私はいわねばならない。もしも祖国という語が帝国主義日本、軍国日本を指しているとすれば、たしかに尾崎は祖国を売ったに相違ない。そのような日本が滅ぶことを尾崎は願っていたし、そのためにこそ行動したのだから。だがもしも祖国の語が日本国民の圧倒的部分である勤労大衆そのものを指しているとすれば、尾崎は断じて祖国を売りはしなかった。それどころか、彼は祖国を救うために、祖国の繁栄のために、彼の命を賭けて行動したのである。もしもわれわれが真の祖国を愛しているとすれば、われわれは彼がその祖国のために捧げた犠牲を深い感謝をもって受けとらねばならぬのである。

 こんにちでも、古い愛国主義の宣伝の悪影響から抜けきっていない人々がいる。愛国主義の正体は何であったのか……愛国主義が一にぎりの大資本、大地主、軍閥、官僚の利益のためには無益かつ有害の、侵略戦争に国民を駆りたてるための、熱病的な宣伝にならなかったのであるが、国民の大部分はそれを看破し得なかった。

 

「平成」から「令和」へと時代は変わっていく。その時代に生れた者にとってはそれまでのできごとがなんら自分の生活との関わりを感じることはあまりないことだろうと思う。「歴史は当事者のみの責任で始まり終わる…」という気持ちが強くある。「令和」という改元がどうであろうと実際のところ当事者とそれに関係する人たちが歴史の表舞台で表現しているだけにすぎないように見える。それを国民はおもしろおかしくささやく、かも自分もそこの時代に立っていることを思いめぐらし、人に語っているにすぎないのであろう。とはいえ、当事者にとっては歴史の一ページを後世に記録として残したという感慨は語る国民よりもいっそう大きいものになっているに違いない。

  今回『愛情はふる星のごとく』(尾崎秀実著)は昭和という時代、日本が戦争に突き進んでいくなかで起きたスパイ事件である。それも国を挙げての戦争という時代のなかにあってトップシークレットの海外流出をこころみた人たちの話でもある。日本中が中国に侵略に関わり、さらには太平洋戦争へと突き進んでいく中で起きたスパイ事件である。流失した情報がその後の国の強いては利益を得ている人たちへあたえる損害は大きい。それによって、日本という国があるいは、アジア諸国がどう変わっていくのかが歴史になっていくのだろう。その評価は、戦後にかなり関係各国の評価はそれぞれかわっていくが史実として多くの人に理解する場所を与えてくれたことは大変貴重なものだと思う。

 スパイ事件の当事者として本人はもちろん家族も巻きこんだなかで家族に送られたはがきや手紙を紹介したこの本は、だれでもが理不尽に拘束されながら語る物語なのかもしれない。ただ、尾崎の場合が国策を外国に漏えいしたという、いまでいう内部機密を海外にリークしたということだ。漏えいに関して。本人がいちばん知っていたにもかかわらず続けたこと中での家族へ手紙だった。リークした内容は語られていないが、これまでの自分の行ってきたことへの後悔よりもその「大切さ」を家族とともに理解できることだろうと思う。

  おりを見て、尾崎秀実というジャーナリストがなにを考え、何をしようとしていのかは、今後の資料の読書以外にないものと考えている。

 たまたま、歴史のなかでのスパイ事件で犯罪者といわれてから、最悪の事態になってしまった。それでも、それまで尾崎秀実自身多くの人にあい、信念のなかの行動が短い命を輝かせたということも大事なことだと思う。

 「平成」があったのも、「令和」になったのも「昭和」という時代があったからなのだ。「昭和」の時代になっても多くの「平和」は語られていただろうし、まして「武力行使はしない」ということもいわれて来た。にもかかわらず、武器は多額の借金をしてまで買っているし、憲法9条は変えられるような時代になっていく。それはなぜなのか? その理不尽はどこからくるのか?

 身近な「平和」をもっと考えたみたとき、私にできることなどきっと何もないだろうし、老いぼれてくればますますそのことは現実だろうと思う。それでも自分のできる「平和」をどうにかして引き寄せていたい気持ちは持っていたいような気もする。その行為のできる人たちを眺めては話し、読み、語れるようにしたいものだ。そんなことを考えさせてくれた一冊でもある。

 

 p82 小学六年生の歴史の授業で、あと少しで日本が朝鮮半島を植民地にしていた時代の話になるという時、私はどうしてか緊張していた。しばらくすると先生は植民地時代のわずかな数行で終わる朝鮮半島の歴史を淡々と読み上げ、まあ、これは朴(パク)さんのような人の話ですね、と付け加えた。クラス全員の視線が私に向けられた。私はどうしていいか分からずへらへらと笑って見せた。

p101 駅までの道も、ジェファンはずっと微笑んでいた。その横顔は眺めているとなんだか落ち着いていて、少し顔がぽおっとした。それに可笑しなことに、そのまま眠りに落ちてしまいそうだ。ジェファンのように、きっと一生かけてもなれない。

p107 誰とも目が合わぬように少し先の地面を見つめながら歩いた。ここは何処だなんだ。昨日までは、ここは私にとって危険な場所ではななかったはずだ。それが突然、こんなにも危険を感じる場所になるなんて。道の先にある曲がり角が酷きて恐ろしい。そこまで歩いて何事もないと、自分のことを笑いたくもなるが、実際には笑えない。

p116 私がもし朝鮮学校へ転校することがなかったら、ああやって普通の制服を着て、その中に国籍を隠したまま、北朝鮮がミサイルを発射したって、最悪のそのミサイルが日本の何処かに落下していたって、制服の中にひっそろと姿を隠し、他の同じ年頃の仲間と安全に過ごすことが出来たのだろうか、と。

p142 「当たり前でしょ。誰がすすんで、そんな無謀なことをするのか。叩かれるに決まっているのに、革命でも起きない限り、あれはあそこに在り続けるのか、分かった?」私はしばらく沈黙した。

p139 今回のことで、今まで以上に北朝鮮への注目は集まり各国に緊張が走っている。今後、更なる批判も増えるだろう。そうすれば日本で一番に危険にさらされるのは、私たち朝鮮学校に通う子供、弱者である我々生徒だ。

p167 異常と正常を見極めるのは誰の仕事なのだろうか。神か。それとも人間か。私はその二つの世界の狭間にいた。宣告待ちだ。外の世界からすっぽりと隠されていた。

p170 もし、目の前で、子供たちが辛い思いをそているのだとしたら。もし、大人たちが持っているプライドを少し捨てることで沢山のことを解決できたとしたら。そうすることで少しでも子供たちの未来が明るい方向へ向かうとしたら。大人は子供の為に努力するべきなのではないだろうか。世の中の差別や不平を訴えることで、もし核心から目を逸らしているとしたら。

 子どもの頃、ぼくの通う学校にもきっと自分の本当の民族を隠して机を並べて勉強していた人もいあただと思う。それに気づくのは、何十年のあとのことになってからだった。それは、たとえば『キューポラのある街』にでてくるワンシーンが思い出される。なぜ、あそこで少年は船に乗って朝鮮へ帰ってしまったのだろう、かとか理解できるのは後のことである。日本人にとっては、それは後のことであっても在日朝鮮人にとっては、生れおちた瞬間からの「問い」であるのだろう。

 そして今では身近な人の中にも朝鮮の人々の助けも借りて生きている現実がある。差別する理由は少しずつわかってきた。それは、元に戻れば自分のかかわることになるのだということがわかってくる。ぼくにとっては二つの民族が在日朝鮮人にあるように、日本人に生れても貧富の格差が広がる中で、あるいは、正規社員。非正規社員という中での現実。本人は決して望んでいなくとも、そうしてしまう政策が「差別」の原因だろうと、つくずく思うのだ。差別を増幅させるスイッチが権力がにぎっていることもあるだろう。

 もっと身近なものでパワハラ、セクハラもその原因の根底には「差別意識」が潜んでいるのだろうと思う。そしてそのことで利益を得ている側のたくみな政策があるのだろうと思える。まさに「異常と正常」を見極めるものが大事なのだろう。

 

 

【おまえはどこから来たのだ・・・そしてどこへいくのだ】
 毎週休みの日は、近所を散歩をするようにしている。歩いているといろいろなものを目にすることが季節ごとにみることができる。音もたくさんきく。5月の初めのころはウグイスやカッコーの鳴き声をたくさん聴いていた。どこにいるかは姿はみえないこの鳥は声を楽しむだけである。
 最近では、家の軒下によく見るのはツバメの巣である。日々見るたびに巣の中にはヒナが2~3羽見かけるようになったのが最近の特徴でもある。散歩をしてると楽しみがまた一つ楽しみが増えたわけである。遠いどこからやってきて、ワンシーズン住み、子どもを育て夏も盛りのころにはもういなくなっている。最近では渡り鳥も越冬するという記事を目にする。されでも、渡り鳥、いま見ているツバメももう少しで巣立ちして飛んでいくのであろう。
 
 こうしして考えるとツバメは人間とうまくバランスをとって生きている鳥なのかもしれない。自然のなかで育っていく・・・というよりも、人間とともに共同して生きている。愚痴もいわず(言っているのかもしれない)一つの季節を過ごして去っていく。まさに旅人でもある。ツバメを見ていると誰よりも多くの旅の話をもっているように思える。
 (「男はつらいよ」で寅さんが柴又に帰ってきて、家族に旅の話をしている夕飯どきみたいな)ものを思い出す。きっと、ツバメも子どもに旅の話を聞かせているのかもしれないと思う。

 

 さいごに思うことは、民衆にとっては戦争はすべて「貧しさからの脱却」から始まっているように思えます。貧しさに政治が戦争に拍車をかけるようになっていく仕組みではないかと思います。事実、これまでの大戦は、貧しからの脱却が暴力によって解決された悲劇といえるのだと思います。

 等など・・・・。

 月刊誌もやっと終わったことだし、明日は月に一度の有給休暇をとる予定です。

 そろそろ梅雨がめぐってくる時期ではないかと思います。サッカー女子ワールドカップも来月早々から始まるのでしょうか。楽しみはこれくらいでしょうか・・・。

 今月読んだ本で、散歩の途中にそのお墓があるようなので訪ねてみました。ゾルゲも尾崎秀実も樺美智子さんの墓の前に立つと、「ほんとうにこの人たちの生きた時代があったんだ」と立ち尽くす感じでした。いずれ、土のなかに入る人間ですが、今回の本紹介の人たちはみんな、夢半ばで時の政治(権力)によって亡くなった人たちです。どんな思いをもっていたのでしょうか・・・、そんなことを考えた5月でした。

 さて、来月は梅雨の毎日が始まるのではないのでしょうか。毎日傘をもつ日が増えそうです。今月63歳になり、さらには「再雇用契約更新」もありました。いつになっても、再雇用者は賃金も上がらないのも理不尽な気もします。何が「働き方改革」だろうかと思います。使用者は、労相条件についてはけっこう話をするのですが、こと賃金などについて、となると口を閉ざすようです。自分が損するわけでもないに・・・。悲しいかな、正規社員の労働組はありますが、非正規社員の組合はありません。労働組合も再雇用者へ相談窓口のようなものがありません。誰もが、あと何十年先の自分が考えられなくなっているような気がします。そんな会話も少しずつしていきたい6月です。

 それでは今月はこのへんで失礼します。

 読んでくれた人、ありがとうございました。


梅雨が関東にも近づきつつあります。

2019年05月19日 | Weblog

 こんにちは。

 今月もあとわずかで終わりです。10連休ということもあって、月日の感覚も早いのかもしれません。1カ月の速さを何でいちばん感じるかといえば、仕事と休日の差で決まっているようなところがあります。休日の多い場合は、1日がはやく感じて、仕事が多いとなかなかすぎていかないような気がします。同年齢の知人にとっては退職して田舎に帰って「365日休日」の人にとっては、さぞかし1年単位の速さがはやく感じられるようです。気がつけば、年をとっていると気がつきます。高齢者にとってどちらがいいのかといえば、仕事をしているときより、自分の好きなことをしているときの方がいいと思いますが・・・。

 休日の一日は週末は予定のないかぎりは多摩川に散歩に行くようにしています。この時期が一年でいちばんいい季節だと思います。足元には花や虫たちが自然の息吹を感じさせてくれていますし、川にめをやれば鳥や魚もたくさんみることもできます。それらを見るたびに自然のサイクルの中に生きている人間という動物なのだなー、と思います。ツバメが巣をつくり始めた家々の軒下を見るにつけ、ことしも始まったような気がします。日本はやはり4月が始まりだという国だなー思います。

「戦争をしないと、どうしようもなくないですか」という議員

 北方領土返還を求めて訪問先での日本維新の会の丸山穂高衆院議員が「戦争をしないとどうしようもなくないですか」発言には唖然としました。政治家は戦争を食止めるためにいるのでしょう。それが、戦争をけしかているような暴言にはあきれます。最悪なのは、これは「表現の自由」といういう。国会では議員辞職勧告決議案提出の動きもあるようです。どうしてこうもでも、おろかな発言をする議員が最近増えているのでしょうか。だいたい、与党の首相自身の発言の「福島の放射能汚染は完全にブロックされている」とか「私や妻が関係していたら総理も国会議員も辞める」も危ういが……。それに準じてすなっているのか国会議員の質が問われ…いるように思います。これにはどろきよいうより、あきれた。「チコちゃんに叱られるよ「。

  最近NHKが変容しているという思い過ごしか・・・

 最近読んだ新聞で番組への投書が「なるほど」と思うものがあった。「チコちゃん叱れる」という番組への投書だった。投書をした人は5月3日(金)「憲法記念日」の日にあった「チコちゃんに叱れる」の放送についてであった。投稿によると、3日(金)の「憲法記念日」の夜放送の「チコちゃんに叱られる」の番組を楽しみにしていたそうだ。「憲法記念日」にちなんでチコちゃんがどんな含蓄を披露してくれるのか楽しみにしてところ、どうでもいいことばかりでガッカリしたという内容だった。これまで記憶しているのは「NHKなら、時事を読んでそれに関係する放送をしては広く国民に世の中のことなどを放送していたはずなのに」・・・と思っていた。ところが、いつからこうも変容してしまったのかがっかりしたと思うのも無理はないだろう。まして受信料+税金を納めている側からみれば、今日のいちばん大事なことくらいはわかってはずだろうなあと思うがどうしたことだろうか。これも、安倍首相への「忖度」だろうなーと思えてしまったのは考えすぎだろうか。

 ちゃんと憲法を世に理解させないと、丸山議員みたいな人が出てくるのではないのだろうかという危惧を覚えた。そう思いませんか。

【いずれは、みんな土の下(都立多磨霊園)】
 散歩を通していろんなところに迷い込むもの。今回は、大きな都立霊園に迷い込んだ午後だった。とにかく広いことには驚く。なんせ、霊園のなかをバスの停留所まであるほどである。一つひとつ見ていくには一日あっても無理だろう。大きな墓石に刻まれた名前をみてまた驚く。名だたる戦犯の人もいる。芸術家や作家もいるとのこと。歴史の中にその名を残した人たちが活躍した時代の様子を、教科書の歴史で習った程度の知識が思いつく。みんなそれぞれ社会のなかで確かに良かれ悪かれ歴史の一シーンをつくった人たちなのだろう。その結果、今があり、僕がその最後の地にたっているという現実をつくってくれた人たちだ。感謝していいのか、うらんでいいのかその人なりをよく理解して立つべきところなのかもしれない。
 
 最近本で読んだ「ゾルゲ」というスパイの墓もあった。ふり返ってみれば、ゾルゲの生きた時代には戦争がほとんどの人の日常だったのではないかと思う。食糧不足、貧困が世界中に蔓えんしていた時代だ。とくに日本は資源不足のために、ほとんどが戦争という覇権争いをしていた。結果として、戦争に負けて落ち着いたときに考えるようだ。戦争のど真ん中にいるときは、勝つことだけを念じていたのかもしれない。なぜななら勝てばどうにかなるという時代だった。そして支配する者と支配されるものが当たり前の時代だった。それをなるねく小さくしたいと思ったのはゾルゲかもしれない。だから、日本が戦争に負けた時にも生きていたら、彼は英雄だったかもしれない・・・。そう思える。ただ、戦争が不利になってきたため、秘密ファイルと生きた証人まで消してしまおうと軍が動いた結果、尾崎秀実もズル下も死刑になっただろうと思う。だから、残念なことにこれまでの死刑の本当のところは現存する資料では解明できないだろう。それでもわずかな現存した資料をみるかぎりで、その人なりを解釈するしかない。そんななか、人びとにとってはお墓は歴史の宝庫なのだと思うえる。
 
 とはいえ、人は寿命によっていずれ土のなかに消える。大事なのは死んで思われるより、本人が生きていた時間どれだけ楽しかった(苦しみの中から)かが大事なのかもしれない。そんな気がした。

 今週、今年の1年間の「再雇用」の契約更新がありました。

 内容は「賃金」に関しては(ここが大事なのですが)は変わらず、最低賃金のままでした。ちがっていたところは休日で、これまで正社員とはほぼ同じようになりました。これからまた、65歳までの年金満額支給年齢まで働くことになります。ぼくが、入社した当時は60歳定年、それからは好きなことをして暮らそうと考えたいたのですが、現実はそうはさせてくれませんでした。まずは政治で年金支給年齢が上がり、それにともなう賃金規定がきまり、最近65歳定年と年金支給は70歳までのばされようとしています。契約時に担当者との話では、今後ますます高齢者の増加があるとのことでした。極端なはなしですが、職場は派遣社員と高齢者の契約社員ばかりの時代も遠い世界の話ではなくなるのでしょうか・・・。事実、ぼくの職場では約4割が外部派遣社員でもあり、ぼくのような高齢者再雇用2割の割合で動いているところです。少子高齢化対策は外国人でつなぎ、あとは年金支給者をいかに減らすかというところが政治家の考えているところなのでしょうか。

 政治はあの手この手で、人件費をやすくしてこの場を乗り切ろうとしているようです。そして、企業の利益をあげようとしています。さらには法人税のなどは上げないようですからますます利益が上がるはずのなのですが、その分配は労働者にはこない政治があるようです。さらには、今年10月には消費税10%にするということです。賃金は抑えられ、削られるなかでの10%消費税は大きな負荷がかかります。これがいま与党のやっている政治なのでしょう。

 その流れの中で「働き方改革」といっています。その中の目玉が「同一労働同一賃金」という政策があります。本当にそうかといえば、現実は違うようです。この政策はとりあえず、賃金には盛りこまず、労働条件(休日、交通費など)が同一になるようです。これも、実際のところは「努力義務」となっていれば、現実にはなっていないとこかもしれません。

 そんなことを更新のあとに考えました。これからいったい日本の労働者はどこへむかっていくのでしょうか……。

 とはいえ、最近の再雇用労働は少しもモチベーションがあがらずの日々になっているような気がします。その最大の理由は、これほど世間では「働き方改革」(机上の)とワイワイとはいうものの会社は知ってか知らないのか無視しているようなところあるようです。さらには、現場の正規社員の人たちはまだ「高齢者」とか「65歳定年制」だとかという話は雲の上の話とでも思っているのでしょうか、この話題は少ないようです。「働き方の多様化」などという美辞麗句のなかに忘れているのでしょうかねえ。思い返せば、昔ぼくも定年退職者のことを去りゆく人ばかり思っていました。それが、自分のこととなると譲れないものが出てくるようです。まあ、「自業自得」といえば、そうなのでしょうか。労働組合も、今のところ、笛吹けど踊らず……というところでしょうか。

 「再雇用」を機に今年はそんなことを考えていきたい1年しようかと思います。ちょうどこの時期「働き方改革」のニュースも多くなってしました。そんな記事も参考に考えていけたらいいのだろうと思います。

 今週うれしいことが一つありました。

 出向先の人が4月末頃の入院から人が職場復帰をしました。職場での上司でもある人が入院してから職場は、担当を決める人の配置やお客への対応で大変であったようです。ぼくとしても、少しは協力していかないといけなくなり負担も増えていたほでした。お互いがなるべく負担をかけないようにとやってきましたが、それでも最後に責任をとる上司がいないということは大変です。まして、一字一句と言葉づかいを大事にする月刊誌や新聞編集の職場では「編集長」のような人がいなくなると困ってしまいます。まだ完全復帰はむずかしいようですが……。よかったですわ。

 同年輩が病気やけがなどをしてしうまうと、年が病を増幅させるようで無事であることがむずかしく、即入院ということが多いようです。揚句のはてに、体のあちこちにガタがきていることで回復もままなりません。それは、他人事であっても不安が自分にものしかかっているようです。最近、身近な人が鬼籍にはいってしまったことなど思うとなおさらです。

 「無事がなにより」ということがいちばんこころにいい薬です。正直、ぼくは本社の人たちより出向先の人とのほうがよく話もできることに驚いているくらいである。少なくとも、人が話をしようとしているときスマホばかり気にしている本社の若者よりはいい。明日も出向先で仕事です。のんびりいきまーす。

 今週はこの失礼します。読んでくれた人、ありがとうございました。


5月が始まってみれば・・・もう下旬へ

2019年05月12日 | Weblog

 

 こんにちは。そよ風がとても気持ちのいい季節になってきました。散歩をしていても足元にたくさんの花が見ることもできます。やっと初夏の季節になってきたようです。ツバメも巣作りを本格的にやっていました。人の住む軒先にどこからか泥を運んできては一日中、忙しい日々のようすです。それでも、以前よりは少なくなってきたのには心配しています。昨年よりは1件少ないようです。

 さて、10連休が終わってから1週間が終わりました。早い毎日がすぎていったように思えます。火曜日からでしたからそう思えるのもありますが、満員電車に乗って、印刷まじかの月刊誌の編集が1週間おくれで始まったということもありました。さらには、重なっているものが多すぎて朝から夕方まであわてている日々でもありました。とかく、人間はあわてているときがいちばん危険なときのようで、電車の飛び乗り時、あるいは早急な仕事の始末・・・余裕がなくなった先はきまってけがをしたりミスが続くものです。そして「余裕」がなくなり、他人を思いやることもなくなり殺伐とした空気がつつむようです。そんなことはわかっている!!、としても人間の悲しさでしょうか繰り返し日々があるようです。休日の日、多摩川の散歩道を歩きながらゆっくり流れる川も雨がふれば水が増して流れが速くなり、いろいろな災害をつくるようにも似た景色だな、という思いがあります。

 さて今週は、10連休後のニュースで多くの悲惨な自動車事故が多く耳にはいりました。4月末には、東京池袋で83歳の男性する乗用車が暴走し、女性(31歳)とその子ども(3歳)を死亡させてた報道がありました。5月初めには、大津市では交差点で1台の車が保育園児の列に突っ込み、園児2人が死亡しました。いまや車は便利なものではなく、「走る凶器」と化しているようにも見えるともコラムにもありました。傷ましい事故が続きました。全国的にはもっとたくさんの自動車事故が起きているのだと思います。運転手は誰もが事故を起こそうと思って運転はしていないでしょう。そして歩行者もまさか、自分のところに自動車が突っ込んでくるとは思ってもいないのでしょう。それでも、多くの事故が起きているのには何か原因があるのでしょうか。

 いっとき「アオリ運転」というのが話題になりました。こちらは、運転手が故意に事故を誘発しているようなところがあるようです。連休中で渋滞が予想される道路です。それを知って車を利用しているはずなのですが、いざその現場になってしまうと、個人的な怒りが他人にぶつけられてしまう理不尽な世の中です。とはいえ、バスも電車もないところでは、車は大切な移動手段であることも見逃せません。とくに、地方では国鉄民営化になって赤字路線は次々に廃線になっていくのを見るにつれ、ますます移動にことかきます。知人に親の介護のため病院までつれていくのに車を利用してしまう・・・。自分が高齢者で免許返納の時期だとしりながらも利用しているそうです。いっそのこと、そんなに事故が多いのであれば、病院が近くにきてくれないかと思うこともあります。あるいは、介護の必要な場合は、自治体が細かなケアーをしてくれる政治をしてくれればいいとも思えます。税金は、公務員の人件費にだけあるのではないのでしょうからね。それが社会保障ということなのでしょう。

 こんなことを考えていたら、ますます老人は一極手中で異動に便利な都会に住みたくなるのもわかります。それは、経済的に余裕がある人だけでしょう。若者が、都会に集中する気持ちはわかるような気がします。それは、お金もかからないくてもいい若い時代だけのことだけです。

 もうひとつ。新聞で消費税10パーセントで賄う予定で「幼児教育・保育無償化」について読みました。これは、認可・認可外にかかわらず無償化するようです。国の将来をつくる子どもたちのことです。できるだけ、低賃金の親にとってはありがたいこだと思います。でも、以前、待機児童が問題になっていましたが、それは解消できる見込みがあるのだろうかという疑問があります。無償化になるのは、認可・認可外のところにはいれたときのことでしょう。だから、まず初めにやることは待機児童の解消ではないのでしょうか。いまや、共働きはあたりまえの時代です。安心して、働いている時間は保育所なりにあずけなくてはなりません。その入り口のところが解決できているのかということが疑問に思います。各自治体へ予算を振り当てで保育所を増やすことが大事なことだと思います。まずは入れる場所がなくては無償化といわれもなんの解決んもならないような気がします。

 そして、疑問に思うのは誰でも無償化となれば、高額・低額所得者も同じにということでしょう。なにか不公平にも思えます。これは、ある意味高額所得者だけ優遇するような気がします。大事なことは低賃金者への大変な生活のカバーでもあっていいのではないかと思います。高所得者にとってはいいでしょうが・・・。本来やるべきことは生活に大変でも子どもを育てることへ希望がもてる政治ということであれば所得なども考慮する必要があるようにも思えます。本来、お金がなかなか生活に追いつかない人への社会保障なのでしょうから。

【ときには旅にいきたい・・・】
 10連休が終わったと思いきや、毎日はそのつけがいっぱいあった週。
 一週間が終わる。そうと思ったら、どこかにゆっくり旅行にでも行きたくなったと思う。独身であれば、家庭のことも心配せずに<ポット>とどこかに旅行しているのではないのだろうか。それが独身者の特権化のように行動してたかもしれないなあーー。

 松尾芭蕉の句に「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり」ということもある。知らない町をゆっくり温泉にでも入って、見知らぬ人と故郷のことを話したりするのもまた旅でもある。お互いの心境は言葉のなかにはわからない。ただ、こうして道行く人の会うのも何かの縁と思い話すことが大切な時間だと思うのだろうなあ・・・。そんな余裕を手に入れたく旅にいきたい・・・と思う。
 と思いつつ「四国遍路」に思うをはせる日々である。無理でしょうかね。

 気がつけば今月、誕生日でした。63年間もよくい生きて来たな・・・と思いつつ過ぎて行きました。職場では、2番目にふけたオジサンになっていました。こんな日が来るなんて思ってみなかった若いときでしたが、現実はちゃんとついてくるんですね。これからの目標など考えてはいないのですが・・・。強いていえば健康でしょうか。とはいえ、年々、足腰が弱くなっていくのが自覚できるほどになっています。階段をあがるのにも大変です。いずれは、歩けなくなるのでしょうか。年をとるということはまずは動きがにぶくなるということ。「生涯現役」なんてウソくさいことはいいませんが、健康なときぐらいは働ければいいのではないのでしょうか。体が動くうちは行動して日々を送れることが大事だと思います。悔いが残らないようなどとも思いません。いっぱい残せるほど、好奇心を持てればと思います。この年になってからは、どんなところでも「死」はそんな遠い存在ではないようです。

 年をとるのは必然ですから仕方のないことだと思います。でも、できるだけ若ぶらない、欲張らない、怒らない、という日々を送りたいものです。 あとは風任せかなー。来週はどうでしょうか。1カ月も担当の月刊誌が終わると「終わった」といつも思います。そんなわけでやれるところまでやってあとは、のんびりいきましょうか。「契約更新」の月でもありました。なるべく公平な気もする契約内容に近づけてみたいものですが、現実なんともなせけなるくらい安い賃金です。なにが「同一労働同一賃金」だよと思いながら日々ですね。それは今週はこのへんで失礼します。

 読んでくれた人、ありがとうございました。


10連休の後に、なにがありましたか・・・。

2019年05月05日 | Weblog

 こんにちは・・・。

  連休もいよいよ今日をいれて残り2日になりました。どんな連休になったのでしょうか。

  連休の間、天皇の退位、即位式とあり、さらにはメーデー、憲法記念日など5月は関係者にとっては休みといったところではなかったかもしれません。「平成」が終わり「令和」ということもありました。取り立ててどうということではありませんが、改元するということは、一時代が終わったとような感じを持たせます(実際はこれまでの日々の延長戦上なのですが・・・)。ということもあって、憲法集会では、安倍首相が「憲法改正」を強く主張もしていました。いったい今後はどうなっていくのでしょうか。まあ、これまでの政治のやり方を見るにつれ、不安ばかりつのります。

 また、10連休によって「働くのが好きな日本人」にとってはお祝いしている場合じゃないこともあったようです。病院が休みに入る前に大変混雑したことや、休まず仕事のなっている人は、子どもを保育園にあずけたいが休みであったとかありました。さらに深刻だったのは、日雇いで働く人たちは収入が減ってしまって生活がより苦しくなるともいわれていました。そんな中で10連休は始まりましたが、身近なところではどうだったでしょうかね。一方で、天皇が即位の仕方が前回とちがう方法であったのはよかったような気がしました。昭和天皇が崩御したときは、毎日が落ち着かず。暗い日々が一週間ほど続いた感じがしました。これからは、生前引退もあってよいのでは思います。ただ。テレビが朝から晩までその放送ばかりには疲れました。実際、10連休を満喫できた人はひとにぎりの「セレブな人たち」くらではないかと思いますが・・・。

 そんな日々が続きましたが・・・。どうでしたでしょうか。

「五月の空に」(とある都立霊園を歩いていて思う)

「改元」という儀式があった。

休みのなかに組みこまれた一つの時代終わりとはじまりだ

「平和」ということが多く聞かれた日々でもあった

「オメデトウ」「二つのお正月のようだ」とか新しい時代に感動があったという・・・

ぼくにとっては いのちのちぢむ時代がはじまっていくだけなのだろう

これまでにいくつもの歴史が繰りかえされてきたことを思った

夢でもなく現実の中にある「平和」である

老いを受け入れはじまる明日である 

誰でもが自分の寿命をいつでも誰かのきっかけで生きていく

それがときの為政者からの「平成」という言葉から「令和」になった

夢をかなえる時代になる人もあれば静かに去って行く人も逝く

これまでを忘れぬように、明日が始まるだけである


 
【「そこに山があるから」なんて言えないけど!山を歩くということ】
 いつごろからだろうか、山に行くことがすきになったのは・・・。「こんなめんどうくさい、疲れる、うっかりするとケガまでするのに」と思いながらも出かけていくようになったは、20代のころだっただろうか。入社してまもなく一部の人たちのあいだで山登りをするブームがあったようだ。今でいう「マイブーム」ということだろう。「〇〇へ行ってきた」という話を聞いいていた。ある日、職場に学生時代山岳部だった人がいた。「もう行かない」ということで、これまで使っていた道具を頂いたのだった。ザック、シュラフ、手袋(冬用)、ダウンジャケットなど、今もときどき使っているものがあるくらい高価なものだった。昔の人は物を大切にするからだろうか、それとも山岳部という本格的なところにいた人だったからであろうか、しっかりしたものが多かったように思える

 そのころ、ぼくも同じ年代の人たちと少しずつ山登りをするようになった。丹沢、奥多摩、秩父。遠くでは谷川岳地と少しずつ遠出もするようになった。独身時代ということもあって、自由気ままに集まっては楽しむようになった。20代は疲れを知らぬ時代でもあったようだ。奥多摩では遭難しそうになったこともあった。暗くなって、やっと林道にたどりついたこともあった。雨の中体を冷やし動けなくなったこともあった。それでも若さだろうか歩き続けた思いでもある。山歩きはぼくたちの間では熱に罹った「マイブーム」であったのだろう。30代から40代は少しずつ遠のいていった。仕事の内容も変わり、これまでいた先輩も辞めていき、ぼくらが職場の中心になるにつれ、休日は家庭サービスや休養日になることが多くなった。とうとう、年1回ぐらいになっていった。通常こんな感じで終わっていくのだろうかと思う。

 さて50代から60代になってから今度は、若い人たちを誘って行くようになった。一緒に歩く山は、自分が若がえったような気がしたのはよかった。若い人の元気な姿は、薬を飲んで治療しているよりもよほどいい薬になるのではないか思えた。そんな中、同年代の人たちは、入院をしたり、亡くなったりと一緒にいけなくなってきた。とうとう、いまでは単独でいくことが多くなった。そうすると、前よりもまして慎重に丁寧に山歩きをするようになった。
 
 まわりを見わたせば、ぼくの20代のころとはぜんぜん違う人たちの山姿の人たちを見るようになった。これが「山ガール」なのだろう。道具も開発が進んで軽くなり、着るものもカラフルになりオシャレな人たちをみかけることもある。頂上でときどき、ゆっくり休んでいると同年輩らしい人と話すことがある。なぜだろうか、最後は自慢話で終わってしまうことが多い。本当は、自分にとっての山の魅力みたいなことを聞きたいと思う。自分の歩いてきた山道をとことん誉めるような話ができるだろうか・・・。森のなかにはいって静かな木々に風があたり音をだしたり、小動物がきれいな鳴き声でいたり、春先では小さな花が咲いていたり、と一本の山道にはいろいろなことがある。それを、聞くのも最近の楽しみである。一生つきあえる山を逍遥する日々が年々減っていくなかで少しでも自分の体にあったところを歩いていきたと思う。実際に歩いては「寒い、暑い、疲れた」という後悔もあるのだろう。それでも、下山には「来てよかった」と後悔しないようなものにしたいものである。正直なところ、そう思える下山はなかなかないところでしょうか。それでもまた歩き出すことも大切なころでしょう。

※いつも手元に置きたい山の本は『低山を歩く』『新編・登山読本』横山厚夫(山と渓谷社刊)、『新編・単独行』加藤文太郎(同)です。若い人へのおすすめ本は『氷壁』井上靖(新潮文庫)、『孤高の人・上・下』新田次郎(同)もおすすめです。

 とうとうながい10連休が終わります。いかがでしたか。ゆっくり楽しめましたか。ぼく方はどこへいくでもなく10連休が終わります。連休にはいる前に10日間のスケジュールをつくってみました。そして実行できたのは6割程度でしょうか。「あれもやろう、これもやろう」というスケジュールではなかったのですが、実際に休みになってしまうと、めんどうなものが「明日へ」と遠回しになっていくところが現実だったように思います。そんななかで、唯一頑張れたのが「1日50ページ読書」でした。どこへいくにも、時間をみつけては本を開く・・・という習慣をつくっておきたいと考えてみました。山にいくときも、散歩にいくときもすぐ出せる文庫本をもっていました。大事なことは、「一日の始まりをまずは読書から」という休みのなかで習慣ができればいいかな、とやってみました。気づいたことは、そんなときの本はやっぱり文庫本がいちばんいいですね。暑い単行本は荷物なってしまいがちです。そして図書館で借りた本は汚せませんしね。10連休ボーっとしているとチコちゃんに怒られちゃいますよ。

 もう一つ強いてだせば、2回山歩きにいきました。それも、ほぼ同じところを歩き、2回目のときは距離を伸ばしてみました。さすがに10連休だからでしょうか、登山者がたくさんいました。その分、落し物もたくさんみかけました。地図、タオル、スタッフバッグ、手袋、ボールペンなどでした。おそらく、リュックにちょっとひっかけたり、入れたりしてつもりがこの結果になったのでしょうね。へんなところに思いがいって、これでは財布も落ちていたら最高!と思ってもいましたが、ありませんでした。残念??

 さすがに2回目から帰ったあとは、体の節々がガタガタになっているようでした。こことちよさより痛い日々でした。やっぱり年ですか・・・。

 日々できなかったことをやろうと決意しつつ突入した10連休でしたが、フタをあけたらほぼいつもと変わりませんでした。大事なことは、言うまでもなく、資金と計画性と自分の対応度のようなものが全然たらないことがわかりました。そして、きっと人は、計画しているときがいちばん楽しいのかもしれませんね。おおよそ、計画と同じようにことが運ぶとは思っていないですし、実際はうまくいくことなどあまりないことが、変な自信となって終わります。それでも、少しずつやれることを計画してやらないと楽しくないこともわかります。

 何であれ、計画と実際はちがいます。そんなことを考えるとそのときどれだけそんな自分を許容できるかということでしょうか。

  10連休という、かつてないほどの休みがありました。

 どんな日々を送ってきましたか。ぼくのほうは。スケジュール倒れを反省しつつ明日からはじまる日常を考えていました。いつでもそうであるように、休みが始まる前は楽しくて、始まってしまうと流されて、終わったときに後悔みたいなものが残ります。これまでもそうであったように今回も同じでした。ということは、少しも進歩がないのかなーと思います。これが「現実」なのだろうか・・・と素直に受け入れないければいけないのでしょう。それが、ぼくの人生をつくってきのですからね。

 さて明日から、再雇用の日々がはじまります。5月は「契約更新」の月でもあります。これまで更新のとき考えていたことを少しでも反映してほしいことを盛り込んでくれるようにするだけです。「働き方改革」なんていっても、誰でにでも反映しようなどとは考えていないでしょうから・・ね。

 連休中に二度の山歩きはきついようです。いまでも体の節々が痛みます。一か月に一度がいいペースなのに無理があるようです。少しずつ痛みもとれていくことでしょう。

 さて、今回はこのへんで失礼します。5月が始まったようです。

 連休中に、近所の都立霊園を訪ねてみました。東京ドーム何十個分・・・という説明には驚きながら歩いていました。本当に広いということを感じていました。この霊園にはこれまでに歴史の舞台に登場した人物が多く眠っているそうです。おもいしろいと思ったのは、生きて時代には立場も思想も相反する人々が、結局同じ地面のなかにいるということでした。生きていれば、きっとあいかわらず批判したりしていたのでしょうかね。死んでしまえば同じ穴の中・・・。どうしてこうなってしまうのでしょうかねえ。ある意味、人間は愚かなものはいないのでしょうかね。きっと、生きているときは必死に生きている証(印)を求めていたからでしょうか。まさに平家物語の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」ということでしょうかね。お疲れさいまでした。

明日から日常が始まります。満員電車に揺られ、またしても他人の背負うデイバッグにこずきまわされ、鼻先にスナホをつきつけられ、痛い視線を浴びて、またしても、愚痴の日々が始まりますかね。365日連休はいつ来るのだろうか思いながらはじまりますか・・・ね。

 今回は「10連休」の連発でした。休めない人のおかげでもあります。もう、こんなことはないでしょうかねえ・・・。あとは「忌引き」のとき。日本人は働くすぎです。働いているときが一番、平常心なのだろうかと思います。休暇のときの使い方をもとうまくできれば、もっと楽しいはずですが。

読んでくれた人、ありがとうございました。