日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

台風24号接近、秋が深まる夜長か

2018年09月30日 | Weblog

 こんにちは。
 今月は8月が終わったと思いきや突然の涼しさがきて、おどろいていました。あまりの寒暖の差に老人は追いつけいなくなってしまっていました。
 今年の夏は尋常ではない暑さでしたね。こんな年が毎年続くのかと思うと夏には相当な電気代がかかるのでしょうか。
 またしても、台風接近中という日です。せっかくの休日は台風の状況を聞きつつ、過ごしていることが多くなってきました。どこへでかけるにも傘と電車の運行状況が頭からはなれない日々です。
 散歩をしていたらまだ、セミががんばって鳴いていました。今週が最期でしょうか。なにか、「ことしもありがとう」といいたい気分になりました。


 今月間も終わりです。月末がやってくると「一年が早い…」と思ってしまうのは年齢のせいでしょうか。通勤電車のなかで読む本を物色するだけで一ヵ月が過ぎてしまうような時間の速さです。あれも、これも探しているうちにひと月が過ぎてしまうような感じでもあります。

 今回読んだのは、派遣労働者のことを書いた本でもあります。
 派遣で思い出すのは、「秋葉原無差別殺傷事件」です。彼もまた派遣労働者でした。事件では、現行犯逮捕された加藤智大が秋葉原で無辜な市民が次々に殺傷した事件でした。
 事件が冷酷だといわれる一方で、派遣労働者の実態が多く語られた気がします。ですが、結局、社会の問題という視点よりは彼個人の犯行のように語られているかと思えます。しかし、環境は人を変えるように、大きな原因は働く場所、生活の場所であったのだと思います。そして、それを作っている今の法律であることも見逃せません。派遣労働者が増える理由の根本的なところをもっとさぐれば、企業の体質や政治の本質があぶり出されることだと思います。


 ストーリーは大きな通り魔事件のかげとなってしまった、小さな一人の派遣労働者が「自殺」で処理された「903」という身元不明の写真番号をみつけたことから始まった。903号写真の死人の様子が気にかかる。刑事は「殺人」と断定して、捜査が再開されていく。事件は「毒物」による用意周到な手口によって殺されたという推理をとりながら犯人を捜し追いかける。捜査をするうちに派遣労働者がかかえる現実があらわになっていく。903号という数字からその人間の名前を探し当てる。そこにはよこたわる派遣社員から正社員になりたい人間の葛藤にたどりつく。氏名のわかった被害者の真実を探していく中で過酷に生きた人間の証が浮き彫りなっていく。さらに見失っていった真実がわかっていく。被害者の生活が浮き上がっていったとき、その真実の背景によこたわる「なぜ殺人をしなければならなかったのか…」という今日的社会の表情を見せていく。この小説は、今の働く現実のなかを通過したように思わせる喪物語であったように思います。

■p151 黙って組織に属していたら、定年まで安穏と生活できる時代はとうの昔に終わりとなった。現実問題として、日本有数の製造業のトップと、人材派遣会社最大のカリスマ社長が膝を突き合わせて「労働者をこき使う」相談をしているのだ。
■p63・下巻 「この国の首相は、施政方針演説の中で『世界でいちばん企業が活躍しやすい国を作る』とぶち上げました」
■p86・同 「規制緩和という美辞麗句の実態がこれですよ。労働者派遣法が漸次緩められた結果、働く人の気持ちを踏みにじるようなビジネスモデルが日本中蔓延したのです」
■p114・同 半年先の自分の姿さえ見通せない生活を送ってきた脇田ら非正規労働者が、人並みの暮らしと言った重みは存外大きい。その一言を発するまでに、どんな辛酸をなめてきたか。田川は世間の実態が大きく変わったことを知らなかった。
■p264・同 鑑識課の身元不明相談室で二年以上放置されていた中野が「903」という通し番号だったころの写真だった。竹の塚の暑の若手刑事が撮影した仲野変わり果てた姿だ。
■p307・同 「員が悪けりゃ、人間として扱ってもらえない世の中にしたのは誰だよ。俺と仲野が入れ替わっていた可能性があるんだよ!」なおも清村は続けた。
■p308・同 「しかし、今回尾事件の根っこは、トクダが鋼板をケチって安全性に問題ありの車両を世に送り出したことですよ」



 ぼくの周りにも派遣労働者がいる。その主な理由は「正規社員の産休や病気などで長期休暇」の欠員を補充するためと聞いている。
 ときどき話をすると交通費のうち「電車の定期代は出るがバス代は出ない」とのいうことだった。だから、雨以外の時は会社まで歩いている現実を知ることができた。正規社員の交通費は電車・バス代は支給されている。これはどんな理由があるのだろうかと思う。これは同じところで働いている人つぉてなんとも「理不尽だなあ」思うことがある。かといって、派遣の内実をどれだけ知ったところで解決するための手段を持たないのが現実だ。
 再雇用になったことで僕にも理不尽さを感じることが多い。
 例えば、同じ職場、同じ職場、そして年齢にムチ打ち残業もしている。それなのに「基本給」がものすごく低いのである。まさにアルバイト並みの賃金になっている。それから、社会保険、市民税、介護保険など公的税金というものが引かれるとすでに一桁という月もある実態となる。「なぜ、こうなってしまうのか?」月末には考えることである。
 派遣の人と話すと、そういう仕組みを直接受けているのは「派遣社員」の方はもっと理不尽だということを考えてしまう。「規制緩和」とか「多様な働き方」とか政治の世界でまとまった「労働者派遣法」はいったい誰のために法律なのか…。その根っこはいったい何だ。最近成立した「働き方改革」なのか考えてしまうこの頃である。
 『ガラパゴス』という小説はその盲点をついた作品であると思う。派遣社員がうまれしまう社会状況、現実には正規社員なりたいこと。そのために日々がんばっている現実。とくに製造業では具体的である。派遣労働者の弱みに、たくみにつけこむ派遣会社と企業の利害関係調整。そのはざまで苦しむ派遣労働者を主人公にその実態にメスをいれた小説だったと思う。
 現実に、「経済は順調」という政府の答弁には実感がないように「格差」はますます広がり、順調なのは一部の人だけだろう、と感じている。そして、相次ぐ企業の、隠ぺいの告発はいったい何を意味しているのだろうか。まさに、身近に、『ガラパゴス』の殺された仲野さんがいるのかのようだ。


 今月9月はこれまで読んでみたい本を探していた。『ガラパゴス』は、なかなか図書館で借りようとしてもなかなか回ってこない任期のある本だった。やっと最近借りて読んでみた。これはもう推理小説というより「経済小説」だなと思えた。いま、この現実は遠い景色ではなく、すぐ隣に起きている景色なのではないのかとつくづく思えた本だった。





 仕事で船で遭難。助けられて米国へ。
 米国はゴールドラッシュ時代。繁栄にふくらむ時代。
 日本は鎖国時代。その時代のはざまで生きた彦蔵。人の善意にいっぱいふれながら自分の生をまっとうした漁師でもありました。世の中は、人であふれているが、そこで出会うことがその人を決定づける要因だなと思わせる小説でした。吉村昭の歴史小説。


【旗の台(東急池上線)】
 最近、入退院を繰り返している知人から「食事でもするか…」とい誘いがあり「旗の台」という駅で降りた。
 ここはぼくが二十代のとき過ごした駅。JR五反田駅から東急池上線に乗り換える4つ目の駅。ここから学校に、あるいは草野球の試合によく降りた駅でもある。夜は住宅街でもあることからとても静かな町だと思う。近くには中原街道、環状七号線も走っていて便利な場所だ。最近はこの沿線は世代交代ということなのだろうか若い人たちが多く見られるようになったように思う。
 ここは、ぼくが昔元気に走り回っていたころ、草野球で滑りこみホームインで骨折して通った昭和医大がある駅でもある。足首は腫れ、少しでもぶつかると痛かった骨折。まともに動けることができるまでおよそ1週間会社を休んだ。大変だったのは銭湯にいくときだった。骨折部分をがっちり石膏で固定していたので、かゆいやら痛いやらの1週間はつらかった。それでも、住んでいたアパートの近所には食堂あり、コロッケがうまい肉屋さんがあり、お菓子屋さんありと、食べるのには不自由がなかったと思う。よく通った食堂のオジサンとはよく話した。なんせオジサンに「ねえ、お見合いしてみない」といわれたくらいだ。(そのときは草野球と仕事がお面白くてそれどころではなかったのですが…)アパートの目の前の床屋さんにもよく行った。店員さんが夜中に品川スケートリンク(高輪)に行く理由がわかって、アイスホッケーというスポーツの大変さがわかったお店でもある。
 肉屋のおじさんはいつも大きな声で注文を反復していた。


 食事の帰り道に、住んでいたアパートに寄り道してみた。
 住んでいたモルタルのアパートは鉄筋のアパートに、よく叱られた不動産やじいさんのいたところもなくなっていた。
 肉屋も、おもしろい食堂のおじさん夫婦のいるところも消えていた。ここも鉄筋のビルになっていた。どこへいったのだろうか…。
 ぼくが還暦だとここにいたおじさん連中はもう天国かと思えた。
 人が変われば建物も変わる。建物がかわれば気持ちも変わる…時代も変わったということだろうか。
 何か寂しい思いを引きずっての帰り道だった。



 台風24号が関東地方に向かっている日曜日。「猛烈で非常に危険」な台風ときく。避難、停電の準備をとニュースでもよく聞く。とはいえ、準備しておくのはいいとしても、いちばん怖いのはなんだろうと考えたら停電だろうか。明るさがなくなってしまうと危険を感じるところだ。それでも原発は賛成できない。放射能はことごとく人間とは共生できないしろもので永遠にのこる。そんなしろものはもうゴメンだと思う。
 世の中というか裁判所では原発容認の流れの判決がつづく。いったい何を考えているのか、疑問である。人の命がことごとく犠牲にされるのである。
 困ったことだ。



 週末、用事で田舎にいきました。兄弟が集まって…とくれば「相続」の話でした。世間では大変で「骨肉争い」ともなってしまうことも、聞きます。どうして、人はこうも欲張りなのか…という気持ちにもなってしまいます。御多分にもれずわが兄弟たちも「それは、お金はないよりあった方がいい」と思う正直なところでしょうか。ぼくも正直そう思います。ぼんのうが人の道を迷路にする瞬間でもあるようです。
 年をとると、肉体が動かない分お金で動かしてもらうようになることが現実でしょうか。誰も助けてくれなけばなおさらです。

 そして、平等とはいってもどこでも格差がつけられるように兄弟でもそうなることに理不尽さを感じていました。なんの名案もないなか「欲張りが自分のいうことを聞け!」とばかりの見解も暗黙のなかにありました。いやー、これにはまいった…、というところが正直なとっころでした。亡き両親が遺したものが争いの材料になってしまっているなんて、遺産など残さずきっぱりとあの世に…と思ってしまいます。
 一方でこれが人間であることの証明なのだろうかとも思います。とはいえ、「カネが敵の世の中」とは思いたくないのです。最後は家族が助けてくれると期待するしかありません。さらには、兄弟が…と思います。それは日常の中ではぐくまれることだと思います。いかに日々の行動が大事かということを身につまされることです。「いまさら水くせえ!」と言える関係を作れるのも人間です。そして「平等にを」考えるのも人間なのでしょう。そこが大事な世の中なのではないのでしょうかね。それがなくなったら「争い」が始まるのでしょうか。子どものころ真っ黒になって一緒に遊んだ日々が懐かしい気がします。なんかやるせない気持ちで帰ってきました。さてどうなることか…。少しずつ前へ進めていきたいものですがね。
 今月いちばん疲れた一日でした…。



 明日から10月です。来月こそは身辺整理をと思案中です。捨てるものを探しては思案中です。それから、紅葉をもとめて山歩きもやりたいものです。NHKの朝ドラも新しくなります。これまでやっていた『半分青い〇〇』は見ませんでしたが明日からは『まんぷく』は面白そうです。『カーネーション』や『ひよっこ』は面白かったけどどうでしょうか。それ以上を期待したいものです。
 来月末には、また兄弟が集まる予定…。さてさて。少しは進展すればと思います。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

暑さもなくなり、山歩き再開

2018年09月23日 | Weblog

こんにちは。
 だいぶ涼しくなってきました。この時期はひと雨ごとに寒くなっていくように思います。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われますが、まさに本当です。近くの墓所ではこの連休中は、多くの墓参りの人たちをみることができます。普段はひっそりと静かな場所なのですが、この日ばかりは小さな駅が通勤ラッシュのようになる日でもあります。忘れかけた日々を、誰もが花をいけながら考える日でもあるのでしょうか。静かな墓地が、今日だけは、多くの人たちでそれどころではないような混雑ぶりです。


 さて今週は2回目の3連休でした。これといって予定がありませんでしたが一日久ぶりに「山歩き」に行ってきました。場所はいつも同じところでした。雨上がりということもあってかたくさんの花や動物(さる)に遭遇した一日でした。



 直径10㎝もあるキノコ。なにか宇宙からの侵入者のような光景でした。歩いている人もみな、足を止めて見入っていました。それにしても大きいキノコです。模様がとてもかわいいので撮ってみました。さすがに雨あがりは、キノコをよくみかけます。キノコご飯がうまいですよね。子どもの頃、よく母に連れられて、雨上がりの近所の林にキノコ採りにいきました。さすがに、食糧難時代を生きた人はちがいます。食べられるキノコはよく知っています。



 疲れてへこたれていたら、アザミの前にハチが飛んできました。こんなとげだからけの花から蜜をどうやって味わうのでしょうかね?



 秋といえば「萩」ですね。花札ではあまり強いカードではありませんが。秋が身近に感じさせる花です。涼しいわけです。



 秋を代表する花です。山口百恵さんの「秋桜」を思い出しました。いつまでも「子どもでいたい」という詩が印象的でした。やわらかく、季節をいちはやく感じて、凛としてかぜに吹かれるコスモスはいいですねえ。ぼくには、子どもで居たい思う人はいまはいなくなりましたよ。それでも、山では、まさにガキですが…ね。自然のふところで遊ばれている子どもですが。


【山歩き・いまではぼくの唯一のリクレェーション?】
 ぼくが初めて山歩きをした20代のとき、山はもっと静かな、おごそかなもののように思えました。まさに「六根清浄」って感じがありました。先輩の山好きな人にさそわれ奥多摩、丹沢、谷川岳など週末には出かけてました。どれも、出かける前には他の一切のものを断ってこの一日にむかう準備をしていたように思います。だから、最低でも一週間くらい前から予定をたて、持ち物を割り振り、交通のアクセスを探し…などということをやりました。

 いちばん印象に残っているのは3人で三峰から雲取までの縦走でした。ちょうどお盆のときです。当時は三峰のロープエイもあって登山口までいけました(今はどうなのだろうか)。そこから雲取まで行って山小屋に一泊でした。お客さんも数えるほどで、山小屋の主人も少ないせいかドラム缶風呂を準備してくれました。そうとう疲れていたので、すぐ寝てしまったようでした。翌朝、奥多摩にぬける登山道が一直線で見事でした。膝元くらいの熊笹のなかを歩いた記憶もあります。

 高尾山は都内ということもあって、40年前から一人で行っていました。
 40年前には、人もまばらで休日であっても売店はシーズン中以外はしまっていました。山道で出会う人も1時間に一人くらいでしたよ。今のように山道が明るくなく、木々がうっそうとしていて暗かったように思います。ですから、今では想像もつかないくらい静かな山歩きが楽しめました。ときおり、もよおす小用もどこでも気がねなくできました。静かさがとても懐かしい時間です。

 あれから40年後、一緒に登った人たちは、一人は入院患者、一人は北海道にかえっての大地震にあっていました。みんなそれぞれの苦闘の人生を送っているのでしょうか。そんな悪戯をしてきたわかでもないのに…。

 今では高尾山口(京王線)から降りると登山姿の人たちのひと盛りです。まるで原宿の駅前のような人波です。カラフルな登山服をきた老若男女です。ぼくは、数年前からこの様子を避けて、高尾山(中央線)の方から山歩きをするようになりました。ここでも、やっぱり人の多さは昔の比ではありません。バスは臨時バスもでるようになり、まだいい方です。
 今週の山歩きもそんな状況でしたよ。

 時は流れ「山ガール」という言葉とともに誰にも愛される山が、こんな近くにあることは幸せなことだと思います。まさに『命の山・高尾山』(酒井喜久子著)でいわれている「子どもから老人まで愛されている山」なんだということを覚えます。そして、そこに住んでいる人たちのことも少しは考えさせれます。
 いっときのブームではないものをこれからつくりあげることが、若い人たちができることだと思いますよ…。なんでもできることから、歩く足元から感じた高尾山を後世に残したいものです。
 きっと、また子どもをつれてくることがあることでしょう。そんなとき、車ばかりの山はいやでしょうし、それに伴う騒音ばかりの山もいやでしょう。

 今でも当時買った山靴を手入れをしながらはいています。(その靴を買ったお店はもうありませんが…)。最近思うことは、世の中かわっていくばかりです。それが誰のためなのか…。ブームも大切だと思います。山を歩いていると子どもづれはかわいく、若い人が元気に歩いているのを見ると、こちらも元気になります。ぼくは、これからもあわてず、元気な人たちの後姿を追いかけて歩く山歩を続けていけたらと思います。それには、まずは軟弱でも健康で…などと思います(今回の山歩きで見かけたご夫婦。ヒザが下山できたのか。一生懸命ご主人が励ましては、歩いていました)。

 ときどき山歩きで前を行く人を見上げてみると、以前同じような後姿の登山者ではないのかなーと思うときがあります。それだけリピートする人が多い山だというこですかね(下写真)。
 ※とりこし苦労であればそれでいいのですが、秋から冬にかけての、ぼくが大事にしていることは、「山での行動はおそくとも午後4時までには還る電車の駅にいるようにしたいと考えています。無理であれば引き返すか、エスケープできる予定表をつくっておくことが大事ですよ。



 連休最後の日。何度も入退院を繰り返している知人に会いに行って来ます。食事を一緒にする予定です。
 今週、好きな女優がなくなったニュースがありました。とても残念ですね。菅井きんさんとか樹木希林さん。どちらもいい女優でした。黒澤明監督の『天国と地獄』をみていたら菅井きんさんがチョイ役ででていました。樹木希林さんは『あん』という映画でハンセン病役で黙々と仕事するなかで「生きる」ということを強く感じさてくれました。あんは甘い…。あますぎてはいけない。あきない甘さをつくる…など。いい演技でしたね。いい俳優さんが多いですね。もう『ジュリー」というあの名セリフが聞けませんね。

 「形あるものはいつか消える・壊れる」ということは知っていても少しずつ身近になってくると、いったい人は何をしてきたのかと思います。まさに「諸行無常」でしょうか。
 まあ、形あるだはたくさんの苦しみがあるのでしょうかね。それでも生きていくことでいろいろ勉強して生きていくのでしょうか。
 たくさんの楽しみがあったはずなのですが…、しれが「無」になってしまのは当人だけで、誰かが思い出してくれるのでしょうかね。

 では今週はこの辺で。
 来週は、月刊も終わったのでのんびりいけそうです(のんびりいく)。他は忙しくとも、ぼくは関わりなくいきたいですワ。なんせ、最低賃金の身分ですから。
 いい休みでしたか…。
 読んでくれた人、ありがとうございました。


秋雨前線のなかで…思う。

2018年09月16日 | Weblog

 こんにちは。
 連休は秋雨前線の影響でくもり空の多い日が続きそうです。雨がふるたびに涼しさも、さらには寒さもやってくるのでしょうか。
 セミの声も聞かなくなってきました。かわって町には秋祭りの太鼓の音が聞こえてきました。考えてみれば、春から夏にかけては自然のなかの生き物がいろいろな音を出して楽しませてくれました。冬にむかっては、人間がそのかわりに音を出している季節なのだろうかと思いました。

 さて今週は、テニスの全米選手権で大阪なおみ選手の大活躍には驚きました。テニスには興味がないぼくも応援してしました。20歳の若さということも活躍できる条件だったのでしょう。それにしてもすごいことだと思います。
 今、日本のスポーツ界は、スポーツ以前の問題でもめています。パワハラ、セクハラ、果ては幹部の助成金疑惑など。2020年東京五輪どころではないのではないかと思うほど疑惑のスポーツ界の内実が告発されていました。
 あらゆるスポーツの不祥事がニュースになっていました。日本の選手たちはプロもアマもこんな中で練習していることが現実なんだと考えさせられることが多い一週間でもありました。全部がそうとは思わないけれども、そんななかでまじめに頑張っている人は救われませんよね…。

 自民党総裁選が始まっていました。2候補の選挙戦の言い分を新聞で読んでいた週でもありました。もとより、これまで首相であった安倍晋三氏。その対抗馬として出てきた石破茂氏。二人の記事が出るたびに、読んでいました。そのなかで一番違いがあるのは憲法の考えがあるように思えます。安倍氏はこれまで通りの法案強行採決のやり方で議会で多数を得て中で、説得しようという様子もみえました。ぼくは、石破氏は慎重にするべきではないかという見解がいいと思います。拙速にすすめることへの無理解の危険性を指摘していたと思います。ぼくとしては、これまでの安倍首相の国会運営には疑問ばかりありました。法案の強行採決や加計・森友疑惑問題などもまだ未解決です。それらを考えたみても交替する時期にきているのではにかと思えますが…。(とはいっても、部外者ですからどすることもできませんがね)



 沖縄では、翁長知事の急逝によって県知事選が行われいます。オール沖縄推薦の玉城デニー氏と与党推薦の佐喜真淳氏との戦いがくりひろげられています。いちばんの争点は普天間の米軍基地を名護市辺野古移設に反対か賛成かということになっていました。かつて、翁長知事は「日米地位協定が憲法より上にきていることが問題」と語っていました。その延長線上にあるのが今回の辺野古移設問題であるのだろうと思えます。
 これまで沖縄は米軍基地があるために多くの被害をうけてきました。しかし、その被害の直接の真意は「日米地位協定」が壁になって捜査ができませんでした。現在でも、県内で米軍の飛行機事故がおきてもその被害や原因を調べることは一切できない状況がつくられているとのことです。オスプレイが海に墜落したときも、遠くからみるばかりでした。そんな理不尽がこの辺野古移設反対のなかにも入っています。

 いまだに沖縄は昭和の占領時代のままなのです(日米地位協定は160年代締結以来一度も改定がないそうです)。そんな理不尽を改めさせるためにがんばってきたのは翁長知事であったのだと思います。ちなみに、日本以外の米軍駐留地では、日米地位協定のような理不尽はないそうです。米軍の戦闘機が駐留地の上空を勝手に飛べないそうです。イタリアなどは事前報告があり承認されなければできないということです。最近、イタリアのランベルト・ディーニ元首相が「国際的な(協定)見直しを進めないと日米関係だけが奇異になったしまう」との見解を述べていました。

 いずれにせよその背景には本土の「無関心」が上げられています。観光だけではない沖縄の現状を知ってほしいし、現実に関心を持ってほしいというところでしょう。今年、全国にオスプレイが配置される中、墜落が以外にもすぐ近所で起こる可能性も…。無関心ではすぐある危険は避けられないのかもしれません。
 そんなことを思った週でした。
 ついでにこんな記事もありました。米国のオバマ前大統領が11月の米中間選挙の応援で「民主主義の最大の敵は、ハワイとハウスの個人ではない。人々の無関心だ。あなたが政治に飽き、投票日に家にいることが最大の敵だ」(朝日・15日)という言葉が印象的でした。



今週、都内で会社の「創立50周年祝賀会」があった。はやいものだと思う。ぼくは、会社に入社して35年ほどで定年になった。それまでいろいろなことがあった。
 昨今では、世の中は「3年転職」が多いなかでは、考えられないほど長い年月を同じ会社で働いてきた。今の若者にとっては信じられないかもしれない。時代は「終身雇用制」というながれの中にいたせいでもあったのだろう。毎年「辞令」という会社の異動という混乱の中にあっても、同じ職場で働き、今の出向先もここ何年も同じである。

 10年ほど前、一度異動の辞令もあったが上司と話し合ってやめてもらった。そのとき、なんと言ったのかもう忘れている。
 ときどき後輩から、「あのとき何と言って異動を断ったんですか」と聞かれるが忘れているから「さーてね?」というだけである。この後輩も異動を断るための参考にしたかったのだろう、いつも答える「さーてね?」で話は終わりにしている。

ぼくが働いてきた時代は国鉄、郵政、電通、社会保険もろとも民営化を進められてきた時代でもあった。
 いちばん印象に残っていることは「国鉄民営化」である。当時の首相は「浮沈空母」発言の自民党の中曽根首相の時代。「民営化反対」を訴える多く国鉄労働者が自殺者を出たので記憶に残っている。国労はで「民営化によって組合つぶし」だと主張していた。労働者が減ることは危険だということなのだろう。安全・安心の公共交通を支えてきた組合員の自負もあったのだろう。さらには民営化によって、国労(国鉄労働組合)つぶしではないか…ということが問題になっていた。事実、国労組合員は理不尽な職場の異動命令もでていたようだ。一方で組合をないがしろに民営化が断行された時代だった。それでも、労働者は抵抗する組織もしっかりしていたと思う。政治の方向もよく問われた時代でもった。

 民営化の断行によって、多くの労働者は余儀なく職場を失ったことだろう。そのつながりでぼくの職場も民営化のあおりを直接受けた会社でもあった。
 民営化のよって仕事が減り、お金も人も少なくなっていった時代だった。
 ぼくがいた会社でも余波で、「定年前希望退職」もでた。彼らがいなかったならきっと今の会社もなかなったのではないのだろうか。辞めた人たちは、それぞれの仕事についていると聞く。そして、今の50周年があるのは彼らがいたからであろうと思う。

 そんなことを考えた行った50周年だった。
 「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる。過去の罪を心に刻まなければ和解の道はない」という言葉がある。これはワイツゼッカー元大統領の(西ベルリン市長などを経て、1984年当時の西ドイツの大統領に就任。その翌年の1985年5月、第2次世界大戦終結から40年の演説のなかでいわれた言葉)言葉である。この演説をを思い出すたび、一会社の歴史のなかには、いろいろな人間の歴史がある。それぞれの思いをどれだけ支えにきたのかいま学ばなければいけなのだろうと思う。
 再雇用になって、ちょっと職場の一線から離れてみて考えられることもある。その一つ一つの中に今があること…それが大事だと思う。
 今回の「50周年…」はそんなことを感じられなかった。いったいどういうことか。不勉強なのか、主催者の怠慢なのか…。いずれにせよ、次回はぼくはいないだろう。世の中がどうなっていくのか。これではなんの50年かわからないだろう…。なにを言いたかったのか。




【魚釣り・小魚に遊ばれても…好きなんだ】
 すっかり晴れた秋の多摩川の一日。肌をさすような暑さがきえた休日。朝から散歩にでると必ずいるのは釣りをしているオジサンたちだ。長い釣り竿はアユ釣りだろうことがわかる。一方、短い竿でのんびり岸から釣りをしている人もいる。何が釣れるのかじっと後ろから見ているとうきは動くものなかなか釣ったところにおめにかからない。それでも、のんびりうきを眺めているのもいいなあと思う。

 都会に住むようになってから釣りは、箱ものしかやったことがない。近所の釣り堀にいっては一日釣っている。こちらは入場料もはらっているからだいたい釣れることが多いのである。しかし、最近この釣り堀もいつ間にか埋められてマンションが建ってしまった。建設ラッシュでもあるのだろう。人がどこからともなく流れてきては、住み、暮らし始める。ぼくもその一人であるから、うらみごとを言ってもはじまらない。

 ぼくの理想とする釣りは、沼とか川とかでする釣りである。
 以前、嫁さんの実家(四国)にお盆に帰ったとき理想の釣り場があった。山すそで、池の近くにはお寺もあり静かな場所だった。夏の朝、一人起きて釣りに行く。まだ誰も起きていない。起きているのは新聞配達の人くらだろう。池にうつる山の影が何とも幻想的だった。1時間ばかりすると鮒やナマズが釣れた。うきが動くとゆっくり湖面に波紋が広がり、静かさが身に伝わってくるようだった。釣れない日もあった。それでも、ときどき動くうきを眺めてはドキドキしながら釣りを楽しんだ思いがある。釣れないときでも怒る気にはならなかった。静かなことが釣りの醍醐味だと思っている。小魚にエサをとられてはまた、投げこんでうきを見ている。
 静かな池にも波紋が広がるときがある。「おおー、大きいのがきたぞー」と思って釣りをする…。そんな釣りが好きだ。

 ボーっとしている時間でもあるのだろう。
 残念なことに、最近そんなときがめっきりなくなったように思う。



 街路地には曼珠沙華がなんの予告もなく咲いていました。やっぱり涼しくなった、ということが伝わってくるきます。
 今年の夏は、集中豪雨やら台風やら、さらには北海道の地震と暑さに中に災害ばかりが印象に残った夏だった。それらの被害の終息はいまだに聞いていない。こんなことを思うと、冬は関東地方が集中豪雪地帯になったりして…、というのもないといえないかもしれません。関東に大雪がふれば交通機関がマヒしてしまうのはわかっていると思います。だいたい教訓がその時まで全然生かされないのがいままで傾向のようです。揚句のはてに「想定外」なる言葉が何度も飛び出してくるのかもしれません。
 関東に大地震が来ないとは言い切れません。
 
 来週はちょっと忙しい日々です。明日からちょっと頭がいたい日々です。
 それはそれでぼちぼちでいきましょうか。
 やっと涼しくなってきました。来週の3連休は山歩きを再開したいと考えています。天気さえよければ…ですが。無理はしませんが、さてどうなりますか…。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

平成最後の夏に…

2018年09月09日 | Weblog

 こんにちは。
 すこしずつ秋を感じさせる音や空気の涼しさが感じられるようになってきました。なによりも、日の出がおそくなり、日の入りがはやくなってきたことが身じかに感じるこのごろです。会社が終わり、バス停での車のヘッドライトがまぶしく思えるほどです。夏にはこんなことはなかったのです。このまま、猛暑を忘れていくのでしょうか。
 バス停で暗くなった空を眺めていたらコウモリが飛んでいました。それだけ、暗くなるのがはやくなったということなのでしょうか。

 さて今週は、台風21号あり、北海道の地震ありと自然の猛威に震えをおぼえる日々でした。これでもかと思えるほど自然が「平成最後」の試練を人間に与えているようでした。
 台風によって関西空港が浸水し連絡橋が使えない状況になって、空港は孤立した島のようでした。電源も切れ滑走路も使用できなくなり、移動が困難な人たちであふれていました。空港でも北海道でも動こうにも移動ができない状況でした久しぶりに「ブラックアウト」という言葉も聞きました。

 どちらも、人々の足場がなくなったような状態が多く報道されていました。
 そして、観光にきた人たちが大阪でも北海道でも多く見られました。きっととんでもないところに来てしまったと思ったのではないのでしょうか。旅先ではこれはまさに「想定外」の出来事だったと思います。観光客にとって、遭遇してしまった場面に何を思ったことでしょうか。

 地球は何億年の歴史があるなかで、地殻変化してきた一つの惑星にすぎなかったことを思います。その変化が人間の意思に関係なく地球規模で変動が続いていることを、ここ数年のあいだに特に感じていました。
 不幸にもその変動に遭遇してしまった数年になったことなのかもしれません。人間がつくりあげたすべての破壊してしまうようです。でも、地球そのものにとっては、地球の宿命のほんの一瞬のときなのでしょう。
 そんなことを考えた一週間でした。私のいるところでも、地震がぜったい起こらないということは誰も言ってはくれません。
 被災者へのインタビューで「今、いちばん何が必要すか」と聞かれて「(ガスコンロ)ボンベ、懐中電灯、紙」という返答には、生活の中で何が大事か語っているように思えました。
 いまだ、土砂崩れの被害の捜索が続いています。自然がどれだけの災害を与えているのでしょうか。




【還暦・結果よりも緊張感かな…】
 休日の朝、散歩コースの多摩川では草野球でにぎわっています。
 そん球場のなかに「還暦早朝野球〇〇」という横断幕をしている場所があります。きっと、全員が60歳以上のなのでしょう。そして、野球が好きなのでしょう…、ということを思います。中には「過去の栄光よもう一度!」と思っている人もいるかもしれません。きっと、チームの人たちは定年後でいわゆる毎日サンデーの人たちも少なくないかもしれません。

 ぼくが興味があるのは、ここにきている人たちはどんなつながりの人なのだろうかいうことをよく考えます。みんな野球が好きな人にはかわりはないのでしょうが、それだけではできないでしょう。ぼくが考えることは最低でも、野球ができる環境がある人たちで、ある意味余裕があることがいえるのではないかと思えます。あるいは、自営業で運動の楽しむ一つとして野球をやっているのではないかと思えます。

 ぼくも草野球をやっていた時がありました。それは、会社内で好きな人が集まっての野球部というチームをつくっていました。会社の福利厚生の一つとしてあったのでしょう。春から夏にかけて企業独自の大会もありました。そこで優勝すれば、全国職業別草野球大会に参加できる野球大会でした。
 もちろんそこまで行くには、ぼくたちのような昼休みキャッチボールだけやっているようなものでは無理なのは当然です。もうちょっとのところまでは行きますがやはり、無理なのでした。前回の優勝チームと対戦したときがありましたが、そこチームのピッチャーの投げる球の質の違いをまざまざと感じるだけで終わっていました。そのチームは一軍と二軍があるようなチームですからどう頑張っても無理なのはわかってしました。でも、そのチームと対戦する緊張感は好きでした。緊張してやるスポーツは、そうめったにあるものではありません…。結果はいつもコールドゲームでした。

 最近はスポーツでの緊張感がありません。ぼくも還暦になり聞けば、その大会もどこでも不況のあおりでやらなくなったそうです。そして、ぼくのいたチームも影も形もなくなっていました。昔は、職場にはグローブやボールが見られたのですが、今はみません。それをやろうとする人も聞きません。もっぱら見る方が多いようです。
 いつしか、野球をスポーツとしてやらなくなっていました。野球は最低でも9人いないとできないのですから。それだけ、横のつながりが希薄になったということでしょうか。なんにつけ、そういう時代になっているように思います。それでも、職場を離れてチームをつくりやっている人たちは「エライ!」と思うこのごろです。なにが「エライ!」のかと。それは、プレーをするということよりもこうして集まることの大切さを感じさせていることなのだと思います。




 ながい間働いていると職場の中には産休をとる人がいる。
 とくに、日本のような社会では「産休」となるといつも大変なことだと思う。いっとき「育メン」などというとってつけたような言葉があるが、現実休むとなると何の裏付けもなく、休むためには当事者が会社以上に気をつかってしまう状況。

 現実休むとなると、その職場が欠員の補充が必要になる。だから、代用教員ではないが、産休者が帰ってくるまで補充してくれればまだいい方だろう。「男女雇用機会均等法」があるが内容などはよくわかっていない上司もいる。さらには、それを伝えるべく企業の教育もない。産休当事者が担当者に代わって少しずつ話している。働きながら子どもを産むということは、それは大変だという現実が、まだまだ法律ではみえない部分がたくさんあることだと思う。

 ぼくが定年前の職場では、実際のところは産休を休む本人がいちばん大変でそのまわりの人たちにとっては「どうでもいいようなこと…」という風景があったように思う。一人が産休で休めば、その分を誰がカバーするのかなど話し合われたこともなかったのではないと思う。組合も個人のこととして、なるべく触らないようなところも見えたように思う。

 今、一歩さがって見える職場は一人でも協力者がいることが大切なことだと思える。誰か一人、職場に産休経験者がいることがいかに大切なことか見えてくる。辞めず、働き続けるということは誰よりも同じ職場の人の協力が必要な時代はないようだ。いかに立派な法律があってもさしせまって大事なのは身近な理解者ではないのだろうか。



 連日、北海道で起きた地震での被害者の不休の捜索が伝えられています。なんとも平成最後の年は被害の多い年である…という思いがあります。南は沖縄の辺野古新基地移転工事でもめて、大阪では台風の豪雨と強風での災害、北は福島第一原発の廃炉処理と避難民への生活保障、北海道の地震と日本列島は自然災害の通り道になっているかのようです。どれも災害です。さらには人災でもあるわけです。
 
 そんなことを思うと平成の日本は災害集中年であるようにも見えます。
 おろしも自民党の総裁選がはじまったようです。目立つのは安倍氏の圧倒的な支持が報道されることです。かたや石破氏は苦戦している様子です。こんな時だからこそ両氏に防衛予算ではなく防災予算というものをちゃんと選挙のメインにしてほしいものです。いつ、どこで起こるかもしれない不安を取り除くことが政治の一つの課題になってほしいものです。
 今日の新聞記事に(9日・東京新聞付)「欧米を中心とする研究者や文化人ら133人が7日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護辺野古への移設について『今こそ(日本は)沖縄の要塞的役割を考え直すときだ』と反対する共同声明を出した」と伝えています。沖縄の民意は反対なのではなかったのではないのでしょうか。

  来週はちょっと忙しくなる様子です。一週間がんばって3連休です。
 涼しくなってきましたのでボチボチ山歩きでも再開さいてみようかと思案中です。
 今週はこのへんで失礼します。秋雨前線も近づいています。
 読んでくれた人、ありがとうございました。


9月。ひと雨ごとに涼しい風の中に思い出がありますか

2018年09月02日 | Weblog

 こんにちは。 
 暑さがひと段らくしたと思いきや今度は雨が雷を伴って降ってくる不安定な日々が多くなってきました。毎日、折りたたみ傘をもって通勤するようになりました。最近では、秋に降る雨とはちょっと違っていて雷も一緒にともなっているのが特徴です。そして、一極集中の大雨です。雷での停電、大雨での床下浸水…と多くの被害がかつてないほど起きています。
 まさに9月1日「防災の日」を語るに必要な防災を多く考えさせる日々になっているようになってきました。これまでの「秋雨前線」というしっとりとした雨ではないことも特徴でしょう。そして台風。去ったあとにすぐに追いかけてくるように次から次に発生しては、豪雨とカゼをまき散らしては多くの被害のつめ跡をののこしては消えていくような雨です。

 さて今週は、中央省庁が雇用する障害者数を水増しをしていた問題がニュースになっていました。なんでこういうことになってしまうのでしょうか。官僚と言い、省庁といい「制御不能」になりかかっているような病気です。
 だれが修正するのかと思えば、政権与党は首相選でそれどころではないようです。まいってしまいますね。




<9月の風に>
 誰かが夢見て歩いた道にも
 小さな坂道にものこったものは
 後悔といまのげんじつなのかもしれない

 あのとき吹かれた風は
 いまはもうなくなっている 
 消えたものを追い求めても
 何になるのだろうかと
 道はまっすぐに伸びているだけに
 今日をつくっている

 あの路地に 
 この坂に
 あの林に

 …とおもう時代人の笑顔があった
 人の怒りがあった
 痛みも
 涙も
 それでもまっすぐに道は続いていた
 その道を歩くとき 
 横道にそれたとしても
 生きてももどれる
 まっすぐな坂のある
 道がまだあるかもしれない
 今日という風に吹かれて歩ける
 道…





【七光台・東武アーバンパークライン】
かつてこの駅はなかった。ぼくが子どものころは…。この駅の周りは田んぼだった。学校の帰り道は蛙がないていたり、小川では小魚、ザリガニを追い行けていた道草の場所だった。今では、大きな駅に変身してそれを利用する住宅がたくさん建っているような景色になっている。名前までも「アーバンパークライン」ときては、もはや田舎者が顔を出すよちのなくなってしまったような変貌ぶりだ。

 この近所にぼくが通った小学校がある。今年はなんと「創立145年」ということだった。ということは、ぼくの両親も通っていたのではないかと思う。もちろん兄弟たちも全部ここまで通っていた学校でもある。100年以上も前であるということは、戦前、戦中、戦後の時代の景色をつくってきたのだろう。両親は、戦前、戦中にお世話になり、ぼくの兄弟たちは戦後ということになる。145年後…。そのときからいままで残っているものは何かあるのだろうか。見渡せば、楠の木くらいだろうか、あとは全部かわっているように見える。校庭の隅にあった二宮金次郎もどこへ行ってしまったのだろうか。

 ぼくが通った学校の印象は、学校全体が汲み取り式の便所のにおいがいっぱいの記憶が残っている。それでも、校庭ではそんなにおいも気にすることなくゴムボールを追いかけた野球であったり、土と汗の匂いの残る学校だった。
 そのなかでも小学校4年生の時の記憶が鮮明のこる学校でもある。

 夏休みも終わり、学校ではそれぞれの「夏休み自由研究」や「夏休み宿題」を提出する9月だったように思う。ぼくは、自由研究もやらず、夏休み宿題も半分くらいしかやらず提出していた。登校日に先生に呼ばれて「なぜ、こうなの…」と先生に怒られて、あげくの果てに平手打ちをもらった記憶がある。その先生はT先生。山梨からきたその年初めて受け持った4年生に期待していたのだろう、その期待を裏切られてたならず怒ってしまったのだろう。泣きながらぼくのほほをなぐっていたのだった。いまなら「暴力事件!」と言われそうだが、ぼくにとっては「当然だろう」と思えた一日だった。

 その後、そのT先生はいつものように接してくれたのだった。むしろ、そうされるとぼくの方も「後悔」していたように思う。子どもなりに「これじゃあたりまえか」とも思ったのだろう。それを怒ってくれた先生の涙がだけが印象に残っている。みんなで先生の下宿にも遊びにいったこともある。ものおきの一部を改造して明るくなっていた。部屋は香水のにおいが印象的だった。暑中お見舞いもだして返事ももらったことがある。「おおきくなったら山梨(山梨の人だった)に遊びにきて下さい」という文字は今でも忘れてはいない。いじめもあったのだろうと思う。ぼくもいじめられたり、いじめたりしていたようだ。それが証拠に、蟯虫検査の後は「ギョッ」というあだ名の子も忘れてはいない。それでも、遊ぶときはそんなことはすっかり忘れられていた。うつろうが、うつされると大げさに考えるより遊んでいたときは夢中だったのだろう。そんな時代だった。世はまさに民主教育の時代…。

 先生も明るかった。いろいろ問題があったのだろうが日教組も強かったのだろう。教育者も元気だったのだろう。あの時代のアーバンパークラインはのろい電車だった。そののろさのおかげで人もゆっくり生きていけたのかもしれない。いつも、T先生のことを思いだすと『思い出ポロポロ』や『家族ゲーム』という映画を思い出す。子どもは子どもなりに悩んで生きて大きくなっていったのだろう。それでも、それを包む心やわらかな大人たちのおかげで助かっていたのかもしれない。

 できれば、T先生にあいたいなあ…。
 生きていれば80歳かそれ以上だろうか。夏休みが今週でおわるところも多いことだろう。宿題をやらずに登校した生徒に、今の先生はどんなことばをかけてあげるのだろうか。何もいわないのだろうか。それとも、思いっきり叱ってくれるのだろうか。あの時の「夏休みの宿題」を引きずっているぼくである。それでもいい思い出になっているし、いい教師にめぐりあったことを宝物のようにしている。今も涙を流して怒ってくれる人、いまどれだけいるのだろうか…。




 8月の忙しさに追われた2週間。それも終わり、やっと落ち着いたので週末は故郷に墓参りいってきました。天気はくもり空。雨にならなければと心配していましたが、昼間は天気にもめぐまれいい墓参りもできました。
 ついでに、散歩をするつもりで子どものころ通った小学校、中学校まで歩いてみました。すすむ方向にむかっていけば、通う道々には大きな建物が同級生がいた住居が消えたところに多くありました。「ここにいた同級生はいまどこにいるのだろうかなあ」と思いながら散歩でありました。

 ぼくが子どもの頃、小さな足で歩いていて時代といは景色がほとんどが変わってしまっているのですが、道そのものは残っています。歩くうちに子どものころ怖かった道、滑ってころんだ坂道、寄り道する小川はありましたが、印象に残るったことは、坂道が減っていることでした。雪が降ったあと滑ってころんだ急な坂道や自転車に一気に進めなかった坂道ががゆるやかになっていたところが多いのには驚きました。「これが便利ということ」なのでしょうか。人が多くなったということでしょうか。

 坂道が減るということは、人口と比例しているのかもしれません。
 人が望もうと望まなくても、人の歩く場所が平たんになっていくのでしょうか。それだけ、坂をよじのぼる人の苦労をどこかに回っているということでしょうか。半世紀も前に通った道、楽になった分、失ったことをちゃんと考えないといけない時代になったかもしれません。
 それにしても「夏休み宿題」の代行会社があって、利用する人もいるそうです。ぼくとしてはあきれるばかりです。宿題くらいは自分でやってほしいものです。どうしても分からなかったら誰かに聞く…という繰り返しが人との関係をつくるのだと思います。自分の弱点もしることもできるのではないのでしょうか…ね。



 夏の甲子園が終わったと思いきや、アジア大会とスポーツイベントめじろ押しに放送されいたのが印象的だった。以前は、ニュースくらいでしか知ることができなかった代表選手の活躍だった。これも、2020年度の東京五輪の前座的な目的なのだろうかと思う。まあ、いわば意図的な放送だろう。東京五輪は暑さの問題が働く人への問題にもなっていたのには驚いてしまった。
 「サマータイム制」という、労働者に東京五輪の間だけでも、協力を強いている状況になっていた。世の中にはこれを「冗談じゃない」という人も多い。朝2時間ばかり早く家を出て、2時間早く帰るという聞けば単純なことなのだが、本当にこうなれば夏はいいと思うが、現実的には、朝2時間早い通勤時間にするには、起きて朝食をとるために準備をする時間は、その前にしなければ無理である。まして、リアルタイムで東京五輪を見ていれば、結局、無理をしてしまう…、あるいは残業があれば会社にいる時間がこれまでよりも長く、きつく感じるだろう。体にいいわけはない。

 それでも強制的にするようにするには世論の「EUでサマータイム制廃止の選択」と常識を払しょくしなければならない。それには世論を変える必要にせまっていく形をつくることにしなかればならない。それは、ある意味、「非国民」という死語の復活を意味することかもしれない。
 それも、同じ言葉でなくてそれに近い言葉ができるかもしれない。その背景を考える前に、地ならしをしておくイベントをもりたくさんで放送する必要がある…。と考えれば今後の方向が見えてくるだろう。そんな「恐怖」を覚えてしまうのは考えすぎだろうか。ボランティアもあるのだろう。健康で暇なひとは参加してもいいが、強制はよくない。

 週末はやっぱりお天気がいいです。
 週末に和歌山の知人から野菜が届いていました。収獲の季節なのでしょうか。地球とうまく付き合っていく仕事とは気持ちがリラックスできることでしゅか。土は手をかけた分だけお返しをしてくれるのでしょう。明日からまた通勤電車は混みはじめるのかなあ…。
 読んでくれた人、ありがとうございました。