夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

『39』感想文(ネタばれ注意)

2004年09月23日 | 演劇
1999年1月29日に書いた、映画『39』(森田芳光監督、堤真一主演)の感想文。 
古すぎてすみません。
ちなみに、堤真一はここで共演した鈴木京香と一時期つきあっていた。
それが週刊誌に出たとき、「鈴木京香、美男俳優と熱愛!」という記事が出て、「いくら無名だからって、美男俳優などという陳腐な表現はないだろう」と悲憤慷慨したものである。
銀行の同僚もこの記事が出たときに「初めてあなたのいっていた堤真一が誰かわかったよ」といってたけど。舞台俳優としては押しも押されもせぬ人だったのに。
1996年の『ピュア』でTV界で少し注目されたものの、『ザ・ドクター』ではひどい脚本と演出にファン一同泣いたものです(MMというプロデューサーの作品【サラリーマン金太郎】【金曜日の恋人たちへ】とかはどれも作品としてひどいけどなぜプロでい続けられるのだろう)
その後、2000年のドラマ『やまとなでしこ』をきっかけに民放ドラマにどんどん出演して今ではすっかりメジャーですが、それはそれで一番肝心な芝居のチケットが入手しにくくて困るんだけど。
舞台の立ち姿と声は本当にすてきです。

1.原作
原作も読んだが、原作は主人公がより凶悪だった。
とくに、原作では、被害者の身重の妻も主人公が手にかけるのに、映画では、被害者自身が殺したことになっていた。映画ではだから主人公に同情を覚えることが容易だ。
でも、こういうやり方ってどうなんだろう。
読み手をある程度選ぶ小説とちがって、映画では万人受けしなければならないから、原作にあるエピソードが主人公により共感できるようにかえられていることが多い。
たとえば、横溝正史原作『悪魔の手毬歌』では、方庵(映画では中村伸郎が演じた)は、原作ではむしろいい奴なのに、主人公青池リカ(岸恵子)が彼を殺したことを正当化しやすいように、彼女の弱みを握って犯したという設定にしていたのには違和感があった。
 
深作欣次『蒲田行進曲』も、とくに小夏がかわいい女に描かれすぎていて、つかこうへいの持ち味である原作のもつ毒がかなり薄まっていた。

2.映画
まず、全体としては、大変な意欲作で、森田監督は、やっとその才能にふさわしいテーマにめぐり合ったという感じがする。
それだけに、設定にいくつかの難点があるのが何とも惜しい。

�この映画のストーリーは、タイトルが示す通り、幼い妹を惨殺されたのに、犯人が刑法39条のために刑を免除されたことに対する恨みから、他人に自分の戸籍と恋人まで譲り渡し、他人に成りすまして多重人格者による犯行を装って犯人を殺し、刑法39条により無罪を勝ち取ることによって、復讐を成し遂げようとする男の話だった。

刑法39条がメイン・テーマであるから、法律論議をするのを許していただきたい。

この映画のテーマからして、畑田の犯行時の年齢を15歳に設定したのは失敗だと思う。

まず、15歳で殺人を犯した少年の処分方法には、保護処分と刑事処分があり、前者であれば刑法39条が適用される余地はないから、この映画では逆送されて刑事訴追を受けたものと推定される。

ところが、少年法20条で、送致の時16歳になっていないと、逆送はできない(注:2001年4月試行の少年法改正で14歳になった)。しかし、少年事件の場合、勾留23日以内に家裁に送致され、3ヶ月以内に審判がくだされるから、犯行時15歳だった少年が逆送時に16歳だった可能性は低い。仮に16歳になっていたとしても、私の友人の最近まで少年事件を専門にしていた裁判官によると、16歳の少年を逆送することはめったにないということである。また、逆送されても心身喪失で刑を免除されるような少年は、神戸の少年のように保護処分により医療少年院に送られるのが普通だそうである。少年はまだ発育途上であり、精神障害と断ずるには若すぎるとされ、改善可能な人格未熟状態と判断されることが多いからとのことである。

したがって、15歳の少年が精神障害のために殺人を犯したケースで、逆送されて刑事訴追を受けたが、刑法39条で刑を免除されるという結果になる可能性は限りなくゼロに近いということで、全くリアリティを欠く設定になってしまっているのである。

また、この映画が批判する刑法39条がもしなかったとしたら、「可塑性」ある少年に極刑を科すべきでないとの判断から、それこそ、逆送はせず、医療少年院で治療するであろう。そして、神戸事件で淳君の両親が味わったのと同じ無念さを遺族は感じるだけである。

以上、理屈っぽくなって恐縮だが、言いたいことは、畑田の犯行時年齢を15歳にしたことで、批判の対象が少年法なのか刑法39条なのか、焦点がボケてしまい、すっきりしなくなるのだ。

この映画が敢えて畑田の犯行時年齢を15歳とした理由として考えられるのは、
(1)工藤と畑田の年齢が近いという設定にすることによって、被害者の方が人生を狂わされたのに、犯人の方は進学、就職、結婚と順調に歩んできたという矛盾がより鮮明になるから。
(2)観客が神戸事件を連想してより興味をもったり、時代を反映しているという印象を与えるから。

(2)の方はやや邪道だが、本音だろう。しかし、このようにいらぬ色気と欲を出すことによって、せっかくのテーマの焦点がボケてしまうのはどう考えても失敗であろう。

(1)のことを別にすれば、畑田と工藤を同じ世代にする必然性はないであろう。むしろ、畑田の犯行時年齢を20〜22歳くらいに設定したら、まさに「刑法39条さえなければ…」という問題がクローズアップされるてくるであろう。

�工藤は恋人まで犠牲にし、あんな手の込んだ復讐をしなくても、自分が未成年のうちに、少年法を逆手にとって畑田を殺すという方法もあったのでは。

�いくら子供の頃別れたといっても、柴田の父親が、工藤を偽者と見破れないのは不自然過ぎる。たとえば、息子と名乗り出た時は、既にアル中で人事不省だったとかいう設定にすればよかったのに。

�何も恋人を赤の他人と結婚させてまで、多重債務者を工藤として仕立てなくてもよかったのではないか。工藤は故郷の人からは行方不明と認識されていたのだから、そのままにしとけばよかったのに、わざわざ昔の担任に年賀状を出してまで偽者の存在をアピールしなくても。特に、砂岡の性格上、嘘をつき通せないことは、聡明な工藤になら予想がついただろうに。そこまで犠牲を払わなくても…という気がするが。

以上、いろいろ難点を取り上げたが、この映画はこうした欠点をカバーして余りある出来映えだったと思う。

刑法39条に泣いた主人公がその刑法39条に復讐するという奇抜な設定もさることながら、そのために行った周到な準備の数々、自らを犠牲にして協力した恋人、そして、精神鑑定人自身が抱えるトラウマ…

全く先の場面が読めず、最後まで観客をぐいぐいつかんで離さない展開。斬新な映像処理。はりめぐらされた伏線。challengingな演出手法。

そして、堤真一のすばらしい演技。はじめは、多重人格の白目を剥いた演技が「作りすぎ」という印象だったが、それは、実は、「多重人格者のふりをする」演技だったからにほかならず、計算尽くされたものだったことがわかった。そして、復讐のために、全てを犠牲にし、精神医学の本を読み漁り、自分に成りすます多重債務者を探し出し、他人に成りすますという冷徹でストイックな生き方が納得できるような重厚な演技。そして、最後に本当の自分をさらけ出せた時の、解放感とともに本来の知性をほとばしらせた話し方。役者としての舞台上の演技も含め、さまざまな心象を自在に演じており、
出色の出来であった。ファンとしての欲目でなく、映画さえ興行的に成功すれば、主演男優賞候補に間違いなくなると思う。

鈴木京香はほとんどノーメークの迫真の演技で、「死の棘」で新境地を開拓した松坂慶子を彷彿とさせる。

助演の吉田日出子、樹木希林もすばらしい。
ただ、江守徹のあの目つきはいただけない。全くあの検事の性格が読めないし、どういうつもりであのような演出をしたのか、理解できない。

見所のシーンは、新潟の浜辺で香深が工藤の落としたサングラスごしにかもめを見る所と、香深が母親のほほについたご飯粒をなめとって
やる場面であろう。

いろいろ書いたが、全てこの作品への愛ゆえとわかってほしい。

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東野圭吾『幻夜』『白夜行』(ネタばれ注意)

2004年09月23日 | 読書
1.幻夜
少し前になるが、東野圭吾『幻夜』を読んだ。
これは、『白夜行』の続編ともいえる作品であり、これを読んで、東野圭吾という作家を見直したきっかけになったのだが(どれくらい感心したかは以下に感想文を添付)、『幻夜』はどうもいただけなかった。『白夜行』では、主人公二人の魂が寄り添っていたのに、『幻夜』では、男が女に一方的に利用されるだけで、せっかくの傑作である前作まで台無しになるような後味の悪い作品だった。

ちなみに、「見直した」というのは、彼の昔の江戸川乱歩賞作品『放課後』についてはそれほど感興を覚えなかったからだ。
私は、江戸川乱歩賞作品を、小説が対象になってから最初の受賞作仁木悦子『猫は知っていた』から、昨年までのものを(今年のは図書館の順番がまだ廻ってこない)全部読んでいる。
最近は質が落ちてきたが、昔の受賞作品はすごかった。
トリックや人間心理の描写が卓越しているだけでなく、『写楽殺人事件』では写楽の正体についての謎解き、『20万光年の孤独』には、考古学等、ミステリーを切り離しても、十分通じる世界が描かれていたし、『伯林1888年』では森鴎外、『猿丸幻視行』では折口信夫という著名文学者が主人公だったりして、重厚な作品世界を作り出していた。『アルキメデスは手を汚さない』の小峰元の作品(古代哲学者の名を冠したもの)も全部読んだけど彼は筆を折ったのだろうか?
一番すきなのは、大谷羊太郎の『殺意の演奏』。
高校の文化祭でミステリー劇の脚本を担当したのだが、この作品のトリックがあまりに気に入っていたので、トリックだけ使わせてもらった。
今はトラベルミステリーで荒稼ぎしている西村京太郎も、乱歩賞作品は『天使の傷痕』という、障害者差別を扱うきわめてまじめな社会派の作品だった。
そういえば、桐野夏生についても、受賞作品『顔に降りかかる雨』はそれほど感心しなかったが、『OUT』で示された才能には驚嘆し、今では全ての作品を読破している。最近では東電OL事件をモデルにした『グロテスク』に心酔した。

2.白夜行
普通、小説を読むということは、書いてある内容を鑑賞することであり、読者は受身であり作家は書く文章だけで勝負しなければならない。そうした常識を覆し、書かれていないことこそ最も重要であり、読者は想像力を総動員してそこで何が起こったかを推量するという、いわば読者の想像力が主役の小説である。革命的な手法ではないだろうか。
「白夜の中を歩くような人生」を生きる男と、彼を「太陽のかわり」として「陽のささない人生をやっと生きてきた」女の、出会いから別れまでの約20年間の魂のふれあいをを綴る作品だが、二人が実際に会っている場面は一度もなく、彼ら二人による完全犯罪の被害者たちの経験のみを語り、その背景にある二人の瀕死の魂の結びつきを読者に想像させる。そのうちに、読者にも次第に主人公の影にもう一人の主人公が寄り添っているのが見えるようになり、胸を締め付けられるような思いがしてくる。彼らを負う刑事が「君は本当に『一人』なのか」と思わずつぶやくように。
また、少なくとも4人の殺害、強姦、窃盗等の凶悪犯罪を描きながら、ミステリーでなく清冽な純愛小説の読後感を与える点も特異だが、それは、幼い頃、二人が大人の酷い仕打ちを受け「魂を奪われ」て以来、「自分たちの魂を守る」ためにしてきたことだと納得できるからである。
さらに、1970年代から90年代の、オイルショック等の事件やヒット曲等の社会風俗が丹念に描写されている点や、電気工学科出身の作者らしくコンピュータ・ソフトの偽造、ネットワークへの不正侵入など、IT技術の進歩に伴う彼らの犯罪の進化も緻密に描いている点も、特筆に価する。鋏、切絵細工、小物入れ、キーホルダーの鈴といった小物使いのテクニックも出色。
自分もこの作品に参加したのだという快い疲労感とともに、聖夜のラストシーン、ジングルベルの音がいつまでも読者の胸に響く。果たして二人の魂は救済されたのであろうか。
 
3.他の作品
本格的に読み始めたのは『白夜行』以来だから、そんなに読んではいないが、
『秘密』(映画化)『分身』(1993年作品だが最近胚移植による生殖医療が現実化しており、時代を先取りしていたんだなあ)『殺人の門』『ゲームの名は誘拐』(藤木直人で映画化)『手紙』『超殺人事件』(一部が『世にも不思議な物語』西村雅彦でドラマ化)。
どうも最近の作品では、他人を意のままに操る人間の悪意が描かれているような気がする。

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少子化を考える有識者会議分科会委員を務めて

2004年09月23日 | profession
私は、1998年9月に総理大臣の私的諮問機関である「少子化への対応を考える有識者会議」の二つの分科会の一つである「働き方分科会」のメンバーに選ばれ、12月に提言をまとめ新聞発表等により公表するまで、微力ながら活動を行った。本稿では、その活動についての感想と、少子化問題に関しての私見について述べることにしたい。
1. 分科会に参加しての感想
メンバーは、八代尚宏上智大教授を座長とする女15名、男10名の計25名で、会社役員から農家の主婦までバラエティに富む中、「男も女も育児時間を!連絡会」世話人や、在宅ワーク研究会主宰等の肩書を持つ人がいたのが特徴的だった。しかし、私にとって最もカルチャーショックだったのは、男性委員が、長年共働きだったり、自身が育児休業経験者だったり、育児ストライキや転勤拒否したことがあったりする、およそ日本の典型的なサラリーマンとはかけ離れた人ばかりだということであり、奥さんがフルタイムで働いている男性が一人もいない私の職場がいかに異常かということをつくづく思い知らされたのである。
そのような顔ぶれだから、12月に最終的に発表された提言の中で、「出生率上昇のために女性が家庭に戻ればいいというのは非現実的」という点が明記され、「男女の固定的な性別役割分業を隅々まで見直し、職場優先の企業風土を是正する」(この「隅々まで」というのは私の意見が採用された部分である)ことが必要という結論が出されたのは、必然であった。
しかし、年金の第三号被保険者制度や配偶者控除制度を撤廃すべきという意見は、複数の委員が主張し、会議の議事録にも何度も記載されたのに、できあがった提言を見たら「第三号被保険者制度などの議論を深め」という、かなりトーンダウンした表現になっていた。これについては、政治的配慮が働いた可能性があり、極めて遺憾である。

2. 少子化問題に関する私見
(1)少子化をめぐる問題点の整理をすると、以下のようになる。
(i)生まれるべき子が生まれないという弊害
A. 少子化の影響(マクロ経済的視点)=年金財政等への影響
B. 少子化の要因=なぜ子育てと仕事が両立できないのか
C. 少子化への対策=仕事と育児を両立できるような支援策
(ii)子供の数が少ないことによる子供そのものへの弊害(受験戦争、育児ノイローゼ等)
(2) ここでは、紙幅の関係で、(i)B.についてのみ私見を述べる。
男女の伝統的役割分担意識を労働効率のために国や企業が利用していることが問題だと考える。特に、専業主婦を優遇するのは、以下の理由で、企業戦士の再生産(妻としての内助)上も、安い労働力(パート労働力)の供給源としても、企業の論理に好都合である為である。
① 長時間労働、頻繁な転勤を前提とする日本の企業社会では、企業戦士である男性社員を企業の意のままに効率よく使うためには、家事・育児を全面的に負担し、転勤にもついてきてくれる、私的な秘書としての専業主婦の妻の存在は、便利この上ない。
② 実際に、残業が多いため、共稼ぎと育児は両立できず、育児を誰かが専業でやらなくては、立ち行かないようになっている。筆者の回りでも、育児と仕事の両立に成功している女性の9割は、夫婦どちらかの母親に全面的に依存している。つまり、祖母に専業主婦役を引き受けてもらっており、祖母の仕事や趣味等私生活は犠牲になっているケースが多い。結局誰かひとり専業主婦がついていないと仕事と育児の両立ができないようになっているという異常な労働環境。
③ 普通に働いて、数百万円の収入を得るくらいなら、専業主婦か、年収100万円以下程度の収入しかない方が、経済的に有利という不平等な制度の数々:
3号被保険者の年金保険料免除、配偶者税額控除、企業の配偶者・扶養手当て、扶養家族がいないと社宅に入れなかったり、家賃補助がもらえない企業も多い。特に、第3号被保険者と、第2号被保険者の女性の数は、1,200万人でほぼ拮抗。前者が保険料を収めないために後者の負担増は年間一人35,000円という試算があり(日経新聞1998.5.14)、この制度は撤廃すべきである。
④ 「パートに出ても、絶対に扶養家族適格がなくならないように収入抑制しよう」という動き→「パートの時給が安くても、どうせ収入調整したいのだから構わない」という主婦が大勢出てくる。
⑤ 企業はそうした主婦を、安い労働力として取り込み、利用しようとする。→収入抑制主婦を派遣社員として一般職の代替に使う大企業が増えている。こうした派遣主婦は、OGや類似職種の経験者が多いから現役の一般職と同じくらい優秀なのに、コストは4分の1くらいですむ。→派遣業法が改正されて派遣労働者の職種の限定がなくなったら、この傾向にはますます拍車がかかるだろう。
⑥ 「女性は安く使えるもの」という企業側の認識の広がり→母子家庭等、パートで生計を立てなければならない女性の時給まで安くなる。→出産後、本気で働こうとしても、時給が安いため、保育園等の経費を差し引くと赤字になってしまう。
⑦ 女性は、男性と伍して働くか、家で育児に専念するか(扶養家族の範囲でパート程度稼ぐ場合あり)という二者択一を迫られる。まともな仕事をしたければ出産は諦めるしかない。
(3) 私自身の選択
男社会度の最も高い業界で総合職として働く私には、子育てはハンディとしか映らない。そして、国や会社の専業主婦優遇策を見るにつけ、被害者意識が募るばかり(男性の同僚の専業主婦の妻はいわば、ライバルの私的秘書。その分まで税金や社会保険料を払うのは構造的に敵に塩を送らされているようなものである。)で、これ以上不利な立場になりたくないと意地になってしまう。夫は子供がほしいほしいというが、私の生殖年齢が安心して子供を産めるような社会の実現に間に合うかどうか、悲観的になっている今日この頃なのである。

私は昨年首相の諮問機関である「少子化を考える有識者会議」の「働き方分科会」のメンバーになっていた関係で、厚生省がポスターを送ってきました。なるべく多くの社員に見てもらいたいと思って、総務の許可を得て社員食堂の掲示板に貼り出しました。
ポスターとしては、なかなかよくできているんじゃないでしょうか。職場の男性に「きれいごとじゃなくてもっと大変なところをポスターにしてもらいたいとか、もっと足元を固めるような政策をやってほしいって声もあります」と言ったら、「かっこいいというイメージを持たせた方が男には利くんじゃないか」と言われました。

厚生省が本気かどうか、私も半信半疑なところは正直言ってあります。それは、少子化の有識者会議に出た経験からも言えることです。編集部の方のお勧めもあり、まず、会議の模様からお話します。(大学の同窓会の会報に寄稿したものの抜粋です)

【分科会に参加しての感想】
「家庭に夢を」分科会の方には、下積み時代専業主夫だった鈴木光司氏もいたが、私は「働き方」分科会のことしかわからないので、ここではそのことだけを記す。
メンバーは、八代尚宏上智大教授を座長とする女15名、男10名の計25名で、会社役員から農家の主婦までバラエティに富む中、「男も女も育児時間を!連絡会」世話人や、在宅ワーク研究会主宰等の肩書を持つ人がいたのが特徴的だった。しかし、私にとって最もカルチャーショックだったのは、男性委員が、長年共働きだったり、自身が育児休業経験者だったり、育児ストライキや転勤拒否したことがあったりする、およそ日本の典型的なサラリーマンとはかけ離れた人ばかりだということであり、奥さんがフルタイムで働いている男性が一人もいない私の職場がいかに異常かということをつくづく思い知らされたのである。
そのような顔ぶれだから、12月に最終的に発表された提言の中で、「出生率上昇のために女性が家庭に戻ればいいというのは非現実的」という点が明記され、「男女の固定的な性別役割分業を隅々まで見直し、職場優先の企業風土を是正する」(この「隅々まで」というのは私の意見が採用された部分である)ことが必要という結論が出されたのは、必然であった。
しかし、年金の第三号被保険者制度や配偶者控除制度を撤廃すべきという意見は、複数の委員が主張し、会議の議事録にも何度も記載されたのに、できあがった提言を見たら「第三号被保険者制度などの議論を深め」という、かなりトーンダウンした表現になっていた。これについては、事務局が厚生省だったことから、政治的配慮が働いた可能性があり、極めて遺憾である。

制度としての専業主婦優遇措置の働く女性への悪影響を挙げます。
1. 経済的な損失
① 3号被保険者の分まで年金保険料を払わなければならない。以前も投稿したように、3号被保険者が保険料を免除されている手ために2号被保険者女性の負担は一人年間35,000円重くなるという試算があります。
② 専業主婦の夫の配偶者(特別)控除のために、税金を余分に払わなければならない。
③ 本来は基本給に上乗せされるべき人件費のファンドが、配偶者手当として専業主婦の妻を持つ男性社員に支払われる。
④ 社宅や保養所等、本人か扶養家族でないと利用できないものが多く、共稼ぎだと利用できない。会社や健康保険組合の経費で賄われているにもかかわらず。
⑤ 扶養家族から外れない範囲でしか働きたくないから時給は低くても構わないというパート主婦の為に、女性全般のパート時給が低く抑えられ、パートで生計を立てなければならない女性はいくつも仕事を掛け持ちしなければならなくなる。私の知り合いは、年間3000時間働いても、年収300万円くらいだそうです。

以下の2と3は、優遇制度そのものの弊害というより、優遇制度があるために、もし妻の分も税金や社会保険料を払わなければならない制度だったら共稼ぎしなければならない家庭まで専業主婦でいられることの弊害です。
2. キャリア形成上の障害
専業主婦の妻を持つ男性社員は、基本的には家事・育児につき一次的な責任を負わなくていい。したがって、長時間残業や頻繁な転勤にも応じることができ、かつ、妻子を養っている以上、応じることを拒めない。そのように家庭責任からフリーの男性と伍して働かなければならない女性は、家庭の方を犠牲にせざるをえなくなる。男は馬車馬のように働きながらも人の子の親になれるが、女はなれない。
3. 子育ての上の障害
専業主婦は、子供を通じてしか自己実現できないから、子供の教育に血道を上げ、代理戦争に駆り立てる。そのために受験戦争がますます悪化し、働く母親が子供をのびのび育てたくても、周りの環境がそれを許さなくなる。




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情は人のためならず ―ミャンマー・ミラクル

2004年09月23日 | 旅行
夫の転勤で香港に住んでいた2002年の正月休みに、夫婦でミャンマーに10日間ほど旅行した。
予め香港の旅行社を通じて日程等を作成し、専属の英語ガイド・ウィンさん(本職は経営コンサルタント)と若い運転手のオジ(軍事クーデターのために、名門ヤンゴン大学の中退を余儀なくされたという)が付いてくれた。40代独身男性のウィンさんは、歌うような英語で歴史や神話の詳細まで語ってくれ、いつもロンジ-(巻スカート状の衣服)をはき、靴を脱いで寺院を参拝する時、両踵を180度の角度にしてぺたぺた歩くのが微笑ましい人だった。
ミャンマーは敬虔な小乗仏教の国で、人々は宗教の中に生きている。1年の稼ぎを全て金箔に換えてそれをパゴダに貼りつけることだけを生きがいにしているような人もいる。首都ヤンゴンのシュエダゴォンパゴダの壮麗さも息を呑むほどだが、のどかな農村の田んぼの緑の中に忽然と金色に輝くパゴダが現れ、その周りで牛がのんびりと草を食んでいる景色こそこよなく美しい。パガンという、世界遺産にもなっている遺跡の町では、今でも続々と寄進者により新しいパゴダが建っている。聞けば日本円にして40万円くらいで新しいパゴダが寄進できるそうだ。エルメスのバッグ一つ分もしない値段で自分の名で立派なパゴダが建てられる、自分たちの金銭感覚の方がまちがっているのではないか、と考え始めたあたりから私達は不思議なミャンマー・ミラクル・ワールドに徐々に入っていったのだ。

←ここで夫から突っ込みが入りそうなので予め書いておく。
この時はこんなに殊勝なことを考えたのに、今年(2004年)冬のNY出張でエルメスの店頭にあった40cmバーキンを買ってしまい、夫から借金している小うさぎ状態なのである。ちゃんと借用書を書かされたし。

輪廻転生も当然のように信じられており、オジは自分の前世を全て覚えているそうだ。3歳の頃、家具の行商人だった両親に連れられてある村に行った時、自分が前世でその村に住んでいたことを突然思い出したとのこと。前世では早世したために息子や孫がまだ生きており、前世であったことを彼らの前で事細かに正確に話して驚かれたそうだ。今でも、井戸を掘る手伝いをしたりして、前世の息子や孫を助けているそうだ。
良いことをすれば次の生れ変わりの時、良い身分に生れ変わることができるという信仰があるので、皆一様に優しく、他の東南アジアの国のように、外国からの旅行者にふっかけたりしない。寺院の参道では、参拝者が善行を積む手助けにと、鳥屋が店を広げている。参拝者は買った鳥をすぐ空に放って善行を施すのである。
そんなミャンマーの人達に感化され、「何かいいことをしたい」という気持ちになっていた私は、観光名所・ウンタマン湖に200年前から架かっている全長1.2kmの木橋を渡っている時、一人の老人に声をかけられた。ウィンさんの通訳によると、日本のボランティア団体から寄付された古着をもらったら、ポケットに日本円が入っていたのでミャンマーの通貨に両替してほしいとのこと。軍事政権下で外貨の両替は厳しくコントロールされているのだ。夫は止めたが、私は「善行のチャンス」とばかり、良いレートで両替してあげた。

首都ヤンゴンの高級ホテルでも時々停電が起き、都市部の住居でも電気や水道の行き渡っていない貧しい暮らしでも、人々は敬虔な祈りの中で、来世に望みをかけて真摯に生きている。人間が生きていく上で本当に大切なことは何かを気づかせてくれた貴重なミャンマーへの旅はほどなく終わったが、ミャンマー・ミラクルが私の身に本当に起こったのはその2ヶ月後のことだった。

その年の3月に私は東京に所用があり香港から1週間里帰りした。たまっていたJALのマイレージを使ったのだが、途中国内で一箇所立ち寄っても同じマイレージでOKというので、大好きな沖縄に立ち寄った。土曜日の夜、那覇国際空港に降り立った私は、青くなった。予め香港の銀行で両替しておいた日本円の封筒と、香港からしょっちゅう中国に行くために両替しておいた人民元の封筒を、出発時に慌てて間違って持ってきたことに気づいたのだ。空港は閑散としており、銀行や郵便局も閉まっていて、クレジットカードでキャッシングしようにもATMも終了している。売店でも米ドルならともかく香港ドルは両替できないという。香港ドルと人民元はあっても日本円が一銭もない状況でどうやって那覇市内に行こうかと困っていた私は、その時、財布の底に、香港ドル硬貨に混じって500円玉があることに気づいた。だらしない私はミャンマーであの老人から両替したものをそのまま入れっぱなしにしておいたのだ。そして、その500円を使って市バスに乗り(モノレールは当時まだできていなかった)、なんとか那覇市内の予約したホテルにたどり着くことができたのである。ミャンマーの古い木橋の上で出会った老人から両替した500円に2ヶ月後沖縄で助けられた私。
情は人のためならず、というミャンマー・ミラクルを実感し、毎日のささやかな生活を大切にすることが、来世の幸せに通じるのだと素朴に信じることができるようになった私なのである。


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2002/3/29~4/1洛陽・開封・鄭州の旅

2004年09月23日 | 読書
一、3月29日(金)
九龍の中港城から朝9時45分発のフェリーに乗って深土川の蛇口へ、約1時間で到着。
そこで他の参加者(総勢10名)や現地ガイド(中国旅行社の鐘雲氏)と会って、バスで約1時間ほどの深土川空港へ。新空港は旧空港の隣に1995年に作られたもので、硝子張りの天井はロンドンのガトウィック空港を思わせる。香港・広州の空港と近いので、中国政府は国際線をあまり就航させず、国内線に特化する政策とのこと。
空港で昼食を食べたら、ワンタンメンが25元 もするのに、ぬるくてまずく、びっくりした。 
13時50分の搭乗機までのバスは、飛行機の目の前で20分ほど停車してしまい、ドアも開かない。中国人がどんどんと足を踏み鳴らす等の抗議をしてやっとドアが開いたが、先が思いやられる出来事であった。
機内(深土川航空)は思ったよりずっと清潔で、機内食の食器等も7年前(別の会社だが)に比べるとずいぶんましになった。機内エンターテインメントもついていて、画面で山
口百恵の「絶唱」という古い映画のハイライト場面をやっていたのにもびっくり。
予定より30分以上遅れて、鄭州の空港に着いたのは、16時30分。待っていたガイドは、陳利明という若い女性。
今日の予定の観光は明日にして、1時間ほどかかって開封のホテルに直行。高速道路から見た途中の光景は、一面の小麦畑の中に、菜の花(油用)と、ピンクの桃の花、白いりんごの花があり、夢のように美しい景色だった。街に入ると、店の看板にはやたら「補胎」という字が目についた。後で聞いたら、「胎」は「タイヤ」の音訳で、タイヤ修理の店ということらしい。また、たくさんある「摩托」という言葉は「モーターバイク」の音訳とのこと。
さらに市街に入ると、「矛盾洗衣粉」とか、「矛盾」という言葉の入った会社名等が目につく。「もしかしたら、矛盾という言葉の語源になったエピソードはここの市場で生まれたのかな」と思いあとでガイドに確認したらそうだった。また、映画「千と千尋の神隠し」に出てきたような古い街並みがいくつかあった。
バスの中の説明:河南省は日本の2分の1の面積で一億人の人口を養っており、四川省から成都が中央政府の直轄地として独立したために、最も人口の多い省。主な産業は農業。
ホテルは吉祥酒店という三ツ星ホテル。到着してすぐ、ホテルで夕食をとった 。ラフテーのような豚肉の煮込みや、いろいろな野菜料理、柔らかい豆腐料理等、10種類以上の料理が出て、味も良かった。岩佐さんの提案で全員で自己紹介。その後、近くの「鼓楼夜市」を見に行った 。道路の両側にいろんな露天が並んでいる。麺を打つ実演や、もち米で作ったケーキのようなお菓子(八宝飯。一皿4元)、交易の地(開封は、交易の中心だったため、回族も多く、清真料理の屋台にウイグル人のような風貌の人もいた。京劇の劇場に「服務員月薪400元」という広告が出ていた。
ホテルに帰ってから、7階のサウナに行った。サウナは壊れており、かわりに大きな桶みたいな風呂釜にお湯を張ったものに入った。フェイシャルマッサージ・パックと体のマッサージ(天井のレールにぶら下がって体の上を滑ったり、踏んだり、体操みたいな格好をしたりというタイ式マッサージのようなダイナミックなもの。仕上げに自分のポニーテールの髪の先で撫でてくれるというユニークなサービスも)を1時間半やってもらって128元 。日本人の客は初めてだという女の子にとても一生懸命やってくれたのでチップを渡そうとしたが断られ、そんな中国人は初めてなので感心した。

二、3月30日(土)
1.鉄塔
朝、8時半にホテルを出発し、鉄塔へ。
開封は、魏、梁、晋、後漢、周、北宋、金の七つの王朝の都があったところ。特に、北宋時代は張択端の「清明上河図」にあるように、運河が掘られ、黄河と揚子江の交叉する場所でもあったことから交易の街として栄えていたが、現在では度重なる黄河の氾濫(特に14世紀の明代のもの)で運河や北宋時代のものはほとんど全て(鉄塔は丘の上に建っていたため残ったが、それでも基底の部分は埋もれたまま)地中に埋もれているとのこと。発掘したくても、地下水があるため困難ということであった。色が遠目には鉄のように見えるので「鉄塔」と呼ばれているが、実際は、緑色を基調としたたくさんの瑠璃瓦で作られている。瓦の一つ一つは仏像等の形の彫り物(浮き彫りではなく凹)があるが、同じパターンがいつもあるので型で焼いたものらしい。八角形13層あり、高さ55.88m。一層に一つ風を通す穴があいている。「開封寺」という寺の一角をなす仏舎利塔だったが、現在も原型をとどめているのはこれだけ。現在北西に傾いているのは、季節風の影響。元々は、120mの木造の塔で、季節風を計算し、初めから南東に傾けて作っていたが、落雷で崩壊したとのこと。
この説明から、中国では、風向きを、日本と反対に、風の行く先で「南風」等ということが判明して面白かった。
敷地内の売店に「清明上河図」のコピー (本物は今台北の故宮にある)や中国画の刺繍等が売っていた。
2.大相国寺
次に、大相国寺へ。日本の相国寺と区別するために「大」がつけられたというこの寺は、555年創建。広い境内には、まず初めの建物に布袋様の像があり、その裏には韋駄天。横には、それぞれ剣、傘等の持ち物を持った四天王が二人ずつ控えている。2番目の建物は大仏殿で、釈迦を挟んで右に文殊、左に普賢の各菩薩像があり、全て金箔が施されている。3番目の建物には、千手千眼観音像がある。昔、3人の娘のある太守が不治の病にかかり、生きた人間の手と眼を食べれば治るといわれたが、長女は子供がいるから、次女は結婚したばかりだからと断り、三女は喜んで父のために死んだ、それを神様が憐れんで千の手と眼を送ったとのこと。リア王のような伝説は万国共通らしい。銀杏の木の一本彫りに金箔を貼ったという4面の像は、全てお釈迦様を掲げており、たくさんの手の中に眼がある。実際の手の数は1056とのこと。一番奥の建物の左横にはここで修行したという空海の像があるが、中国語の説明の中に、「長岡国立大学で勉強した」というような件があり、長岡京のことかな?側には、「松山なんとか講」(お遍路さんの組織と思われる)による寄付を記念するプレートがあった。讃岐出身の空海だから四国に縁があるのか。深土川のネイルサロンの楊小姐に姓別の占(10元)をお土産に買った。
3.宋代一条街
次は、前の日にバスから見えた宋代一条街を見学。宋時代の建物を清時代に再現したものということ。建物は日光東照宮にそっくりな色使いと釘代わりに使われている独特のコネクティングポイント(管なんとか方式というらしい)があった。門の前には、2頭の象。鄭州を表わす漢字は「豫」、昔この辺に象がいたということ。野性の象を人間の知恵でコントロールすることから、豫定の「豫」の語源となり、転じて文明の曙にもなったという、黄河文明の発祥の地らしい由来に感動。門の両脇にある古い建物の向かって左側は銭湯、右側は中国銀行の支店として使用されているほか、他の建物も立派に現役の店として活躍している。他の似たような古い街並みは書店街だった。
さらに、河陜山会館(河南省、陜西省、山西省の同郷会、昔交易の中心だったため複数の地方出身者が集った)という、関羽が祭ってある場所に行った。やっぱり日光東照宮みたいな建物。門を入って中庭の先にある本堂の入口の上には「威震夏華」という文字が。夏は開封にあったとされる中国最初の王朝だから、関羽の威光が中国のすみずみまで行き渡るという意味とのこと。他にも、関羽が重症を負い手当を受けながらも碁に興じるという豪傑振りを示す絵とか、奥には、繁塔等、開封のたくさんの名所が写真(白黒だが)で紹介され、中庭を囲む建物の向かって左のものには、「清明上河図」そっくりに作った立体ミニチュア模型もあった。
昼食は、鄭州に行き、ガイドさんの会社と同じビルにあるレストランで。
4.洛陽
その後、洛陽ガイド李さん(男性)と合流して、洛陽へ。
洛陽は、人口130万人の都市で、洛河の北側という意味。川の土手に日の当たる北側が陽、南側が陰だから。
ちなみに、簡体字って面白いと改めて思ったのは、陽の簡体字がこざとへんに「日」、陰の簡体字がこざとへんに「月」と書くことで、元の字ではなく、陰陽五行説を忠実に反映している中国らしい略し方だと妙に感心してしまった。
夏、殷、東周、後漢、西晋、魏、北魏、隋(煬帝)、唐(則天武后)の九つの都があったことから、「九朝の都」ともいう。ちなみに、中国では私たちが歴史で習ったように「前漢・後漢」といっても通じない。なぜなら、長安に都があった時代を西漢、東の洛陽に都のあった時代を東漢といっているから。なぜ、日本の歴史教育はこれに合わせないのだろう。
5.白馬寺
白馬寺の前はきれいに整備された公園になっている。
ここは、後漢時代68年にできた中国最古の仏教寺院で仏教発祥の地とされている。インドへ派遣した僧が白馬にまたがって帰ってきたことが由来といい、門前には一対の馬の石像がある。北魏時代、洛陽には3000以上の寺があったが、現存しているのはこれだけ、といっても、戦乱や火事で焼け、現存の建物の中で最古のものも元代のもの。
大雄殿には十八羅漢があり、乾漆法という中が空洞のつくりになっている。上の欄間には、ヒンズー寺院にあるガルーダにそっくりな「大凰」という鳥の浮き彫り。竜を食べて困るので、如来をよんで供物を差し出させたら、以降食べなくなったという由来のある絵だった。奥には、元代に再建したという後漢公邸の避暑地があり、左に竺法蘭、右に摂摩騰という二人のインド高僧の墓があり、中の四角い水溜りはお金を投げて浮くと運がいいといわれている。そこの売店で、仏教の発祥地にあやかろうとブレスレット型の数珠を20元で買った。
この避暑地の入り口の手前の向かって左側には空海の立像があり、大相国寺で見た、松山なんとか講が日中国交正常化20周年で(1992年)立てたらしい。
6.漢魏古城
運転手さえ知らなかった、畑の中にある、昔の城壁の後。でも、言われないとわからないただの、土塁が少し残っているところ。でも、20世紀世界10大考古学発見の一つとのこと。のちに河南省博物館でここで発掘されたものを見ることになる。
7.水席料理
その夜は、真不同飯店という、100年以上の伝統のある有名料理店で、洛陽名物水席料理を食べた。則天武后の好物という宮廷料理で、スープをはじめ、水っぽい煮込み料理等が次々に出てくる。10種類の菜と3種類の主食、そしてデザートは以下のとおり。
① 牡丹燕菜(大根の細切りの煮たもの)
② 洛陽熱貨(豚肉のもつ煮込み)
③ 洛陽肉片(豚肉の味噌煮込み)
④ 料子風+中国語のふかひれを表す漢字
⑤ 鶏蛋餅(トルティーヤみたいなもの)
⑥ 酸湯焦炸丸(揚げた紅芋入りすっぱいスープ)
⑦ 西辣魚片
⑧ 女乃湯火屯吊子(豚の腸)
⑨ 火会四件(豚の肝臓)
⑩ 三色火会蟹
⑪ 油炒八宝飯(鼓楼夜市で売っていたもち米で作った一見ケーキのような甘いお菓子)
⑫ 蜜汁人参果
⑬ 五香芝麻餅
⑭ 白飯
⑮ 米酒満江紅
⑯ 洛陽酥肉
⑰ 条子捉肉
⑱ 洛陽海参(紅芋の粉を固めてナマコに見立てたもの。海がないのでナマコはぜいたく品)
⑲ 円満如意湯(ウイグル料理に似た卵スープ)
⑳ 果物(いちご、みかん、りんご)
スープが後のほうででてくるのは、ウイグル料理に似ている。やはり、交易の中心だったところにはウイグル文化が残っていて、ウイグル料理店も多い。

その日の夜は、洛陽大酒店に宿泊。

三、3月31日
1. 龍門石窟
待ちに待った龍門石窟へ。
伊河をはさんで、西山が龍門山、東山が香山。
後漢時代までは伊闕といったが、皇帝の住むところは「竜宮」と呼ばれたところから、後漢時代に「龍門」と呼ばれるようになった。
今回見たのは西山だけだが、東山にも石窟はある。また、頂上に白楽天の墓がある。
北魏時代の494年、都が大同から洛陽に遷されたときから始まり、北魏時代に3分の1、あとの3分の2は、それ以降の時代、唐代にわたって作られ、2、345の石窟、2,800以上の石碑、十万体の石仏がある。
(1) 万仏洞
唐代、860年から20年かかって作られた。阿弥陀仏の上にある54の蓮。天井の蓮の中に「永隆」の文字が見える。
(2) 蓮花洞
525年から527年に作られた。中央の釈迦像には顔がない。天井には蓮の花があり、最小の2cm大の仏像がある。
(3) 奉先洞
一番有名な洞、というより、階段を上っていった先にある巨大な盧舎那仏は、則天武后に似せて作られたとのこと。像の高さ17.14m。耳だけで1.9m。則天武后が化粧料を寄付して875年から55年がかりで作らせたとのこと。奈良東大寺の大仏に似ているので、これを見た遣唐使が伝えたのではないかといわれている。腕は唐代の地震で破損。両側には、大相国寺等でおなじみの配列:カショー、アナンの弟子と文殊・普賢菩薩、そして四天王がまわりにいるが、自然崩壊している。
(4) 古陽洞
「龍門二十品」という書の名品のうち、十九品がここにあるので書家がよく訪れる。
仏像の顔が長いので鮮卑人をモデルにしたといわれている。
(5) 薬方洞
門のところに、漢方薬140種類の作り方が彫ってあるのでこういう。
(6) 賓陽三洞
中洞、北洞、南洞の三つの洞がある。中洞は宣武帝が80万人を動員して作らせた北魏時代のもの。南洞は唐代のものなので北魏に比べてふくよか。
(7) 潜渓寺洞
入り口のすぐ脇にある阿弥陀仏のある洞。

敦煌や新疆ウイグル自治区にある石窟と比べると、簡素。
第一に、彩色がない(あるいはほとんどはげている)
第二に、敦煌や新疆では、中央の仏の裏にもうひとつ空間があって、涅槃物があったりしたが、龍門のは単純な一室構造ばかりだった。
今度是非、この違いがどこからくるか調べてみたい。
2. 関林堂
1593年建立、660アールの敷地。219年孫権に殺された関羽の首塚があるところ。
中国にはほかにも二箇所関羽の墓があるが、首があるここが最重要といわれている。
「林」というのは、聖人、偉人の墓のことだが、「林」という言葉が使えるのは、孔子と関羽だけ。
入り口の前に印鑑を彫る人がいたので、100元で作ってもらった。
門の左に、関羽が曹操に捕らわれて、家来になることを勧められたときに、竹の葉に模した詩で劉備に変わらぬ忠心を伝えた墨絵がある。「哀謝東君意 丹青独立石莫嫌孤曹談終久不彫霊」。門の上の「成容六合」は西太后の書といわれている。六合とは、天地東西南北のこと。
一堂の次、二堂では、孫権のいる南京の方角をにらみつけている関平がおり、三堂は寝殿。
裏の売店で、梅の花のような白い模様が自然に出ている火山石でできた文鎮と、関羽の記念切手を買った。
3. 少林寺
少林寺は494年にインド僧のために建てられた
少林寺のある中岳、太室岳(1492m)、少室岳(1512m)を合わせて中岳嵩山といい、中国五岳のひとつ。太室は正妻、少室は愛人という意味があり、愛人の方が愛されることから、高さが逆転しているという説があるそう。
(1)塔林
塔林は、僧の墓が林立する場所。最高15mの墓が224基あり、七層という点は同じだが、時代によって形が違う。四角:隋唐宋、丸:元、六角:明清。唐代最古の塔は、楊貴妃の体型を模してずんぐりしているといわれている。
僧の死後、弟子が寄付金を募って建立するので、①地位、②弟子の数、③功徳がそろわないと立派な墓ができない。独立した墓を建てられなかった僧については、「普通塔」にまとめていれるので、普通塔は追加できるよう入り口が開いている。ただし、普通塔のレベルも功徳によってちがう。小僧さんようの「普通童行」もある。
先代29代少林寺方丈の墓は1990年(死亡は1987年)に建てられた立派なもの。
(2)少林寺本堂
門の「少林寺」の文字は、康煕帝の揮毫といわれる。
三大火災(唐、宋、1928年の国共内戦)で消失したが、1980年代に再建した。映画「少林寺」は、李世民(太宗)を少林寺の僧が助けた話。それに謝意を示すために太宗が彫らせた石碑に「世民」のサインが残っている。
僧80名と在家弟子1000名が暮らしている。尼僧用の住居は別のところにある。
樹齢1400年という銀杏の雄木は結婚しない僧になぞらえたもの。そこにあいているたくさんの穴は拳法の練習でできたものだという。
庭にある明代の粥を炊いた鍋は深く、人の背より高いが、料理僧は拳法の技で天井からぶらさがって混ぜたらしい。
また、日本の寺にもたくさんある、亀の甲羅に石碑が乗っているもの、少林寺にもたくさんあったが、あれは亀でなく、「贔屓」という、竜の九番目の子供だということがわかった。この子だけ姿かたちが違うので、同情されかわいがられたところから「贔屓」という言葉ができたのだろうか。
(3)立雪亭(達磨亭)
527年にできた。小乗仏教の盛んな中国で大乗仏教を布教しようとして、受け入れられなかった達磨大師は、9年間近くの山にこもった。恵可が弟子入りしようとしたが拒まれたため、誠意を示すために、雪の中に立ち続けた上、自分の腕を切り落としたという逸話からこの亭ができた。
(4)少林寺拳法見学
近くにあるたくさんの拳法学校のひとつで、生徒がパフォーマンスを見せてくれた。中にはたった6歳の子供もいて、拳法そのものはもちろん、その前に時間をかけて呼吸法で気を整えているところはとても興味深かった。外でも生徒がずっと訓練をしていた。
なぜか、この辺には一人っ子政策のスローガンの看板がたくさんあって、「少生優生」とか、「丈夫有責」とかでかでかと書いてあった。
この日は鄭州の索菲持国際飯店に宿泊。夜は一時間100元のマッサージに。

四、4月1日
1. 黄河遊覧船
船で黄河を遊覧。海のように広大な河。そして、泥が多い。途中で船を降りた場所は、河の中洲のようなところだが、ジャンプするとその部分が凹むのにすぐ戻るという面白い現象がみられる。
2. 河南省博物館
非常によく整理されて英語の説明もついている良い博物館で、黄河文明の発祥地河南省の面目躍如。とくに、墓の副葬品「明器」のすばらしさにはうなった。家や台所の精巧なミニチュアとかが、昔のお人形さんごっこみたいに作られて、副葬品として埋められていたのだった。

夕方、飛行機で深土川へ、そして船で香港へ。

五、ガイドさん
今回の旅行が楽しかったのは、ガイドさんが優秀でいい人だったことに負うところが大きい。
陳利明という洛陽出身、1978年10月19日生まれの女性のガイドさんで、去年の夏に大連外国語学院日本語学科を卒業したばかりで、鄭州の旅行会社に勤めている。男性のような名前なのは(中国でもそう)、姉3人の後に生まれたため、誕生後1ヶ月で一人っ子政策が施行されたそう。河南省からはその年ただ一人日本語学科に進学し、卒業時も200人中4番だったという秀才。卒論のテーマが「はとがの使い分け」というのにはびっくり。将来は学者になるのが夢だそうで、博物館の説明も、研修会にあらかじめ参加するなど、とても熱心で誠意ある対応には感心した。
昨夏のシルクロード旅行で中国人に偏見をもってしまったが、考え直した。
こういう人との出会いこそ、旅の醍醐味と思わせるガイドさんだった。
また、同行者がみな、知的好奇心のある方ばかりだったので、いろいろ教えてもらったりして楽しい時間をすごすことができた。

                                   

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2002年オランダ・ベルギー・フランス美術館めぐりその3

2004年09月23日 | 旅行
三、フランス篇
1.パリ
6月6日の夜遅く、ブリュッセルから列車でパリに到着し、ひかりさんのお勧めでJCBを通じ予約しておいた、Louvre Saint Anneというホテルへ。ひかりさんがいっていた「ひぐま」のまん前です。ホテルのあるSaint Anne通りは、東京三菱銀行があるせいか、日本食屋さんがずっと続く日本村みたいな場所になっていました。ホカ弁屋さんもあって、8日の夜買いに行ったら、ロシア戦勝利の読売新聞の号外を配っていました。

2.モンサンミッシェル
次の日は、パリビジョンのツアーでモンサンミッシェルに行きました。

ノルマンディー地方の、林のような生垣、Bocageの続く場所をバスでずーっと走っていき、やがてモンサンミッシェルが見えてくる。
私のイメージでは、引き潮の時のみ渡れるところというイメージだったが、舗装された堤防のようなものがあり、車ですぐ下まで行ける。ただ、堤防の脇にはたくさんの羊が放牧されており、塩水を含む草を食べるので独特の美味しさで、名物料理になっているとのこと。また、ノルマンディー地方では大西洋からの海風が湿気を運ぶためぶどうが育たず、かわりにりんごを植えていて、シードルが名産。さらに蒸留したものがカルバドス。

8世紀、司教オベールの夢に大天使ミカエルが3度現れ、この地に聖堂を建てろというお告げをしたところ。信じないオベールに、ならば証拠を見せようとミカエルが司教の額に指を当ててそこに穴ができたという逸話が城砦内の壁に彫刻として描かれている。それからも、ミカエルはさまざまな奇跡を起こした。
巡礼者が海を渡っている時に大波が来て、逃げ遅れた妊婦がミカエルの加護で海中で出産し授乳までしているというかなり古い絵をブリュッセルの王立美術館で見たのを思い出した。

城砦に入ってすぐ、オムレツで有名なレストランがある。マダム・プーラーが始めた店で、卵を入念にかき混ぜるのでスフレのようになるのが特徴。大きなボールでかき混ぜているところも、観光客に見せてくれる。周恩来が欧州を放浪していた頃、お金がなくてここで無銭飲食したが、首相になってからここを再訪してお金を払ったというエピソードが彼の写真とともに残っている。
外壁をとおって階段を上り、西のテラスへ。ここからは、はるか英国まで見渡すことができ、ガイドがノルマンディー上陸作戦について話してくれた。大きな鉄板を海に沈め、その上に廃船になった軍艦を沈めてそこから上陸したと。
そばにあるトンブレンヌという小さい島は、ここからモンサンミッシェルの城砦を造る花崗岩を運んだ場所。ルイ14世の寵臣フーケが豪勢な城を建てたため、王の怒りに触れて壊されてしまったというが、パリ近郊にある贅沢な城はそのままなので、やはりパリビジョンからツアーが出ている。
修道院附属教会は、階段から見ると、教会には見えない(逆から見ると壮麗)のは、百年戦争等で要塞として使われていたので、敵になめられないようにするためとのこと。

屋根の天辺には1897年エマニュエル・フレミエの作った32mのミカエルの像があり、1989年革命200周年のとき、修復されてヘリコプターで再びつけられたとのこと。
一部がロマネスクで3段構造になっており、主祭壇はゴシックになっているが、ロマネスクでは壁と柱を強化しなければならない結果、窓を大きくできないということから、柱をそのまま天井に繋げるゴシック建築が生み出され、それによって美しい大きなステンドグラスを作ることができた、というロマネスクからゴシックへの変化を目の当たりにできる場所。また、ノルマン人らしく、天井は、バイキング船のように樫の木でできておりしかも湾曲している。本当に、10年前の旅行で北欧の博物館で見たバイキング船にそっくりでした。また、修復するたびに当時の最新流行を取り入れるため違って様式が部分的に出現することや、職人が誇りを持って仕事をし、石畳の各パーツにそれぞれアルファベットが彫ってあるのはどの職人の仕事かわかるようにするためとのこと。
大理石でできた柱をめぐらせた中庭は、僧たちの瞑想の場所だったとのこと。柱の上には美しい花等のレリーフがあるが、一箇所だけ4人の人間の顔になっている。12使徒の内、福音書を残した4人の顔とのこと。
次に僧たちの食堂は、壁一面に窓があるが、短い間隔で桟がでているため、入口からは見えないという凝ったつくりになっている。
その真下が王や貴族の食堂。僧たちの食堂の下に貴族の食堂があるというのが宗教的建築物らしい。
隣のサント・マドレーヌという小さな部屋には、ステンドグラスに巡礼者の印、貝殻と香油壷の絵が。当時、エルサレム、ローマ、サンチャゴ・デ・コンポステーラに次いで巡礼者がたくさん訪れた場所であったせい。貝殻は巡礼者の象徴、マドレーヌはマグダラのマリア(香油壷は彼女の象徴)を語源としていると思うのだが、貝殻型のマドレーヌが定番なのは何か意味があるのだろうか?また、プルーストの『失われた時を求めて』で紅茶にマドレーヌを浸す思い出が出てくるのは何かの符丁なのか?
その後、下から物資を運んだ巨大水車のレプリカがある部屋、死んだ僧の骨壷を納めてた部屋(火葬でなく、薬品で肉を溶かしたらしい)を訪れた。
ガイドは、日帝時代の1934年に韓国で生まれたため日本語のできるガイドのキムさんという女性。説明が詳しく、とても面白かった。

3.ロワール城めぐり
6月8日は再びパリビジョンでロワール城めぐりです。
10年前にブロワ城だけは行ったのですが。

(1)シャンボール城
世界遺産にもなっており、二重らせん階段(昇りと下りが別々)がダヴィンチの発案といわれているところ。
格子天井にはフランソワ1世の紋章である火吹きトカゲが彫刻されていたり、外壁に、菱形やマル形のスレートが貼りつけられているのが特異だった。
2階の広間にあるユリシーズのタペストリーの続きは、シュベルニー城にある。
フランソワ1世は、天才でありながら流浪の人生を余儀なくされたダヴィンチをここに呼び寄せて創作を援助し、その最期をも看取ったとされている王です。
だから、ダヴィンチが肌身離さずもっていたモナリザがルーブルにあるのです。

(2)シュベルニー城
ここは王族でなく、アンリ4世の大法官の息子・アンリ・ユローの持ち物でした。
そのせいか、ティチアーノの「コシモデメディチ」等の名画や調度品がかなりよい保存状態で残っています。
とくに、離れの館は、フランス革命中ミロのヴィーナス等の避難場所になっていて、今でもオークションが開かれるそうです。廊下の壁にアメリカ独立戦争への助力を請うワシントンの直筆の手紙が飾られていたり、食堂の数十枚のパネルがドンキホーテの物語になっていたりするのも見事でした。

(3)シュノンソー城
アンリ2世が20歳も年上だったとされるディアンヌドポワチエと住んだ城です。そのため、デイアンヌを狩の女神ダイアナになぞらえた絵があります(似たような絵や彫刻がルーブルにもあります)。
アンリ2世が御前試合で選手の槍がささって事故死した後、正妻のカトリーヌ・ド・メディシスがこの城を取り上げて、建て増ししたのが、よく写真に出てくる河をわたり向こう岸まで続く美しい部分です。
アンリのHとカトリーヌのCをふたつシャネルのマークのように組合せた紋章が使われていますが、それはディアンヌのDにも見えるとことが皮肉です。ルーベンスやムリーリョの絵もあります。
この城を1733年に購入した徴税請負人デュパンが息子エミールの家庭教師に雇ったのがジャンジャックルソー(教育に関する有名著作はここからきている)で、そのために革命のときも城は無傷ですんだとか。

ここで、フォンテーヌブロー派のことも勉強できて、ルーブルの予習になったのはいいが、日本人の男性ガイドの説明はいまいちいいかげんで、カトリーヌドメディシスとマリ−ドメディシスを混同しているのが、プロとは思えず前の日の人と比較しても残念でならなかった。いい年して、こんな仕事ぶりで日本人として恥ずかしくないのだろうかと思った。

4.ルーブル
6月9日、10日、12日、三日間ルーブルに通って、アジアオセアニア以外は全部見た。

10年前は団体旅行なので、主要な作品しか見られなかったので。文字通り、足は棒になり、最後には目も霞んできたが、作品は全部見たし、オーデイオガイドマークのあるものは全て説明も聞いた。部屋によっては各国語(日本語もあり)の説明ボードがあるところもあり、それもほとんど読んだ。
もちろん、素晴らしかったのはいうまでもない。
三島由紀夫が一番好きだというワトーの「シテール島への船出」、ミケランジェロの「瀕死の奴隷」もじっくり見たし。彼は遺作で主人公にマンテーニャが一番好きと語らせているので、マンテーニャのサンセバスチャンやキリストの磔刑も堪能した。エジプトの特別展をやっていたので、それも見た。

5.シテ王宮
9日の夜、夫は先に香港に帰りました。
11日は火曜日でルーブルが休みでした。
まず、ひかりさんのアドバイスにしたがってJCBプラザへ。
そこで、レストランの予約ができるのを知って、Guy Savoyという凱旋門の近くの三ツ星レストランへランチに行きました。味もサービスも大満足でした。バターが甘いのとソルティなのと両方出てくるのも初めてでしたし、生牡蠣に合うのはこれ、鴨に合うのはこれ、とその度に違うパンを配ってくれるのも初めてでした。また、担当ギャルソンの人が、「いちご」とか「ごゆっくり」とか日本語が少しできるのにもびっくり。一人きりの食事でもなんの手持ち無沙汰さもなく、3時間もかかって食事しました。それで、あづさ姐さんのおすすめのロダン美術館(月曜休み)に行く時間はなくなってしまいました。三ツ星レストランなんて日本人を馬鹿にしていると思ったのに。でも、逆に、「日本人観光客なんかあてにしなくても三ツ星ならやっていけるはずなのに、こんなに親切なのはかえってあやしい」なんて思ってしまった自分が悲しひ。

ギャラリーラファイエットでは、香港で買いそびれていた期間限定販売のランコムのアイラインを安く買いました。
その後、シテ王宮にいく途中、地下鉄を降りたところで、ある白人が私の顔を見て「カワグチ」というので、GKの川口かな、と思って思わず振り向いたら、彼が引き返して来て、話しかけてきました。川口というのは川口市のことで、アメリカ人の彼は今はパリ赴任ですが、以前東京赴任で、川口にあった工場にも行っていたそう。名前を聞いたり、今晩食事でもどう、とか聞いていきます。(どうやらナンパのようです)
どうやって断ったらいいかなと思っていたら、ちょうど「東京のどこ」「今香港に住んでる
の」「どうして香港に?」「夫が領事館に転勤になったから」といったら、「約束があるか
ら」とちょうどシテ王宮の前で離れてくれました。

シテ王宮のコンシェルジュリーでは、ベルサイユのばらに夢中になった小学生時代を思い出して、マリーアントワネットの独房とかを見学しました。
その後隣接したサントシャペルに入ろうとしたら、もう終わったと。
3日間有効の共通チケットを買っていたのですが、その2002年版のパンフレットでは、18時半までのはずなんですが、18時の間違いだそうです。こんな情報が間違っているなんて呆れてものも言えませんよ。

それから、cottoncandyさんもいっていたHerve Chapelierのブティックで鞄を三つかいました。
このブランド、全然知らなかったのですが、街で何度も見かけて「かわいい!」と思って、ギャラリーラファイエットの人に絵を描いてみせてブランド名を聞いたのです。
それにしても、パリのブティックって早く閉まってしまうので、買物するのが大変。
ルイヴィトンだけ20時までなのでどうして、とJCBの人にきいたら、行列を18時半に締めきってもその客をさばき終わるのはそれくらいになってしまうとのこと。
日本人観光客ってどうしてパリ本店にこだわるのでしょう。香港の店はがらがらなのに.値段はそうかわらないはずです。何より悔しいのは、お金を落としてやって、不景気のフランス経済に貢献すればするほど馬鹿にされるという構図です。どうせお金を使うのなら、感謝されるところで買物はしたいですよね。
街に出たのはこの日だけ(あとは郊外観光や美術館のみ)ですが、会う日本人らしい女の子という女の子はみなヴィトンの紙袋をもっていて、帰りの空港カウンターでも「超過料金です」と言われて後ろに並んでいる人も構わずその場で必死で鞄に詰め替えている日本人の女の子がいたなあ。

四、一番残念だったこと
今回の旅行はもちろんとても楽しかったのですが、心に鉛のようにつかえていることがあり、こんなことで悩む自分自身が変なんじゃないかと、意見をお聞きしたいのです。

というのは、ルーブル美術館の日本語のオーディオガイドの問題です。
翻訳自体は、自然でとても良い日本語だし、喋っているのも、発音から明らかに日本人の中年男性と若い女性で、素人とも思えない感じなのに、漢字の読みが間違いだらけなのです。思わず書きとめてしまいました(こういうことすること自体が異常でしょうか?)

男性の間違え
手法=テホウ
礼賛=レイサン
福音書=フクオンショ
神々しい=カミガミシイ
荘厳=ソウゲン
死刑執行=シケイシュッコウ
ここに記されている=ココニキサレテイル
技(一語)=ギ
設立時=セツリツドキ
女性の間違え
豊饒=ホウギョウ
建立=ケンリツ
心酔=シントウ

頻繁に出てくる言葉もありますから、まちがいを聞くたびに、同じ日本人として情けなさにその場にしゃがみこみたくなるほどの絶望感を感じ、その恥ずかしい思いを今もひきずっています。
日本人の教養ってこんなレベルまで落ちているのでしょうか。日本人であることをやめたくなるほどがっかりしています。
また、他人事なのにこんなふうな感じ方をする私は異常なのでしょうか。

また、ルーブル美術館に(フランス語は書けないので英語になりますが)手紙をだす、在パリ日本大使館の文化部に手紙を出す、等の方法で直してもらうことを考えていますが、どう思いますか?

五、オランダ人とフランス人
それから、オランダ人とフランス人についても思いを新たにしました。

オランダ人て私の性格に似ている、って思いました。
友達のユーディットに、最近あなたの国はワークシェアリングの成功と安楽死の合法化で有名よ、という話しをしました。
また、「なぜ飾り窓を合法にしているの」ときいたら、「適法でも違法でもいずれにせよ、そういったものは存在するでしょ、だったらちゃんと管理して病気の予防をしたり税金も取ったほうが合理的じゃない」とのこと。
ちょっとした公園にも点字ボードがあるし、道路には獣道のトンネルがあるし、老人用施設もモダンできれい。弱者や環境にはやさしいんです。
そうなんです。徹底した合理主義で、表面だけのきれい事が大嫌いで、お世辞やお追従も苦手で、でも本当は誠実で弱いもののことを考えている。

英語がすごくよく通じるのも北欧とここで一ニを争う感じです。

フランス人は、苦手です。フランスファンの方、ごめんなさい。
まず、はっきりいって怠け者、そしていいかげん。
パンフレットの基本的な開館時間の誤りをはじめ、約束違反ばかり。
美術館の職員も、自分たちが時間通りに帰りたいものだから30分前には客を追い出しにかかる。たいてい自分の配置にはいず、隣の部屋で同僚としゃべくっている。禁止のフラッシュ撮影をしても誰一人注意しない。カタログに載っている作品を示して「この部屋のどこにあるのか」と聞いても、「知らない」と答えたり、あごをしゃくるだけ。脳みそのある動物だったら、「門前の小僧習わぬ経を覚える」じゃないけど、どうせそこにいなければならないなら、自分の受け持ちの部屋くらい作品を鑑賞したらどうなのか?そのくせ白人の客には親切。
その姿を見て、一等客用の待合室のトイレが三週間壊れたままでも同僚と喋ったりトランプしたりしている中国人の服務員を思い出しました。中国人とフランス人て似ているっていわれているらしいですね。
ある夜、ちょっと気分が悪くて、ホテルの部屋から電話でモーニングコールを頼もうとしたら、フロントがずっと話し中です。もうパジャマに着替えていたのですが、仕方なく上着をはおってフロントに降りて行ったら、従業員が電話で話しこんでいます。文句言ったら「イタリアから友達が架けてきたんだよ,切れないだろ?」っていうんですよ。
最後の日、ぎりぎりまで美術館にいたかったので、2日前にシャトルバスを20時半に頼んだら、他の客の都合で20時にしてくれと。
当日は遅れに遅れ結局20時半ですよ.来たのは。でも謝りもしない。
空港までずっと英語で嫌味言っていました。What a developed country! I feel sorry for
the other member countries of EU to have France. You will live on what your
ancestors left forever! 一生祖先の遺産で食ってろ!とかね。でも「だからワールドカッ
プで負けるのよ」は、英語で言うと殺されかねないので日本語にしておきました。
10年前も犬の糞の多さにびっくりし、いくら芸術の都といってもこんなことして平気なやつらは絶対に信用しない!と心に決め、香港でも犬の糞を見るたび「近所に住んでるフランス人に違いない」と毒づいていたほどでしたが、今回もフランス嫌いの気持ちを新たにしました。それにしても、どうして、フランス人であるとか、フランス語をしゃべるというだけで、自分たちは世界一、なんていう根拠のないプライドを持てるのか、全く不思議ですよ。
フランス語が外国語として勉強するものとしてメジャーなのも、フランス人が英語できない(また話さない)という要素が大きいしね。ユーディットもいっていましたよ。オランダ人はつい英語に切り替えちゃうから、外国人はオランダ語がなかなか上達しないって。

言いたい放題,失礼しました。
でも、日本の過去の経済発展の理由もよくわかりますよね。
ひとりひとりの労働者がなるべく手を抜いて早く帰りたい、と思う代わりに、なるべくいい仕事をして、認められたいと思って働いたらどうなるか、その見本が戦後日本でしょう。
でも、そのかわり日本人は物理的にはquality of lifeを失い、精神的には「みんな同じじゃ
なきゃだめ」というプレッシャーに苦しめられる。
よいサービスを享受することと、quality of life、個人の本当の意味での自由や自立は両
立しないものなのだろうか、という永遠に解決できない疑問に突き当たるのはこういう時です。


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2002年オランダ・ベルギー・フランス美術館めぐりその2

2004年09月23日 | 旅行
二、ベルギー篇です。
オランダで4泊したあと、6月3日の夕方の列車でアントワープへ。最後のキンデルダイクはアントワープのインフォーメーションの閉まる時間を気にしての観光になってしまいました。
3泊したアントワープでは、希望通り、駅前の三ツ星Agoraホテルに予約が取れました。一部屋64ユーロ(朝食付)です。

1.ゲント
翌6月4日にはゲントへ。
バーフ大聖堂のファン・アイク兄弟の「神秘の子羊」、もう感涙ものです。
キリストに擬せられた子羊の犠牲の絵を中心に、マリア、ヨハネ、アダム、イブ、カインとアベル等が無数の聖人とともに描かれている祭壇画です。
日本語のオーデイオガイドがとてもすばらしく、一つの絵なのに、1時間もたっぷり説明してくれます。
これで私はすっかりフレミッシュ絵画のすばらしさに開眼しました。
ミニチュアも買って、居間に飾っています。

2.ブルージュ
大急ぎでブルージュに移動。インフォーメーションに寄ったらカウンターでラジオがサッカーを中継していて、「どうですか?」ときいたら、ベルギーが1点入れたよ、と。やっぱり負けるのかなと思いつつ、まず、鐘楼へ。366段の階段はきついけど、安野光雅の絵のようなブルージュの美しい街並みが一望できます。
降りる時、狭い階段で遠足らしい子供たちとすれ違うと、フレミッシュ語はわからないのですが、口々に私達に何か攻撃的なことを言っている。「負けたからざまあみろ」とでもいってるんだろう、と思っていたら、引き分けがよほど悔しかったのだと後でわかりましたが。

世界遺産になっているぺギン会修道院。ここにも日本語の手書きのガイドがあります。

メムリンク美術館。英語のオーデイオガイドがあります。元々聖ヨハネ施療院だったところなので、病院の遺品(手術道具等)や、病院の依頼で描かれたために、尼僧が描かれている絵、その精神に添った良きサマリア人の絵等がありました。もちろん、目玉はメムリンクの「聖ウルスラの聖遺物箱」ですが、「聖家とリーヌの神秘の結婚」も素晴らしく、またミニチュアを買って飾ってあります。
それと、鏡に映る被写体の姿を描きこむ手法は、10年前マドリードのプラド美術館にあるベラスケスの「ラス・メニーナス」(1656年)を見て感心したのですが、ここにある、「ファン・ニウベンホフと聖母の連祭壇画」(1487年)にも既に、そうした手法が用いられていると知ったのも新鮮な驚きでした。但し、もう一つのパネルにある人物も含めた二人の人物の後姿が鏡に映っているので、ベラスケスのような意外性はないのですが。ルーブルにある「両替商の夫婦」(マセイス1514年)の鏡にも、絵には描かれていない聖書を読む人物を映して、夫婦の俗物性と対照させていますよね。

グルーニング美術館。ラッキーなことに、ヤン・ファン・アイク特別展をやっていました。
テーマ別に、軸になるファン・アイクの絵と、それから影響を受けたと思われる他の画家の作品を並べています。そのために世界中の美術館から絵を借りたようで、ブリュッセル王立美術館にもここに貸しているからない、という絵がたくさんありました。
アルプスを超えて、イタリアの画家たちにまでこれほど影響を与えていたなんてすばらしいです。
「ファン・デル・パールの聖母子」では、聖ゲオリギウスの盾に外にいる群集が映っています。
英語のオーディオガイドと日本語のガイドブックがあります。

昼は時間の節約のため、持ってきたパンをゲントからブリュージュまでの列車内で食べ、ブリュージュでワッフルを立ち食いしましたが、夜は、アラン・シャベルの愛弟子の、ベルギー一といわれているレストランDeKarmelietで食事しました。

3.アントワープ
(1)ホーボーケン
6月5日は、まず、「フランダースの犬」ゆかりのホーボーケン村へ行きました。地下鉄の終点です。NYにもホーボーケンという地名があるのは、旧オランダ領だったことの名残ですね。
アントワープのインフォメーションで「ネロとパトラッシュの散歩道」という日本語のブローシャーが入手できます(1.24ユーロ)。ホテルでホーボーケンの行き方を聞いたらフロントの人に「パトラッシュ(ただし現地語ではペトラルカ)でしょう」といわれるくらい、日本人のこの話好きは有名。
村といっても、住宅地ですが、そこに着いて地図を見ているだけで、町の人が「パトラッシュはそこだよ」と教えてくれるネロとパトラッシュの像は、観光案内所の前にあります。地元の彫刻家が作ったそれはアニメとはかなりちがいますが、写真を撮って感激。1985年の除幕式には在ベルギー日本大使がテープカットしたということです。案内所の中は、「フランダースの犬」に関する出版物があり、懐かしいアニメの絵を見ただけで、私は最終回を思い出して号泣してしまい、夫がなぐさめてくれました。
このイギリス人女性作家の童話は地元では知られていなかったのを、あまり日本人観光客の問い合わせが多いので、観光案内所の職員が日本語を勉強して原作を調査し、どうもモデルになったのはホーボーケン村らしいとつきとめたのです。アロアの家のような水車小屋もあったようですし(現在は売られているのでその場所(小学校)にミニチュアの水車が建っています)、作者ウィーダのいた頃、アロアと同じ年頃の女の子も粉屋にいたようです。散歩道は、ネロとパトラッシュが手厚く葬られたとされる教会から始まり、銅像を通って、原作によく出て来る並木道を通り、水車のミニチュアまで行きます。ベルギー人にこの話が今でもあまりうけないのは、村人が彼らを見捨てるような冷たいことをするわけがない、いくらでも助かる道はあったはずだ、ということらしいです。日本人のセンチメンタリズムはどうも理解しにくいのでしょう。
観光案内所は、このことがなければ絶対に造られなかったでしょうし、日本人のためだけにあるような場所です。それでも常勤職員が二人いるのだからたいしたものですが、言葉はわからないながら、私達を見てサッカーの話をしているのだけはわかりました。日本人がたくさん来るとわかっても、日本のように便乗して土産物屋がたくさんできているわけでもなく、銅像を象ったプラリネが売られているお菓子やさん(といっても目立たない)やパトラッシュという名のレストランが1件あるくらいで、町がとくにそれがために潤っているわけでもないのに、この親切さはどうでしょうか。そこにまた感動します。

(2)アントワープ市内
ネロの憧れたノートルダム大聖堂も外せません。ルーベンスの「キリストの昇架」「キリストの降架」「聖母被昇天」は見られましたが、「キリストの復活」は残念ながら修復中でした。お金を払った人だけが見られるというのは、最近まで続いていた制度だということです。ルーベンスの斜めのラインの使用によるダイナミズムに圧倒されました。

王立美術館でもすばらしいルーベンスのコレクションを見ました。

夕方、マルクト広場のカフェでベルギービールを飲んでいたら、ドイツと引き分けたアイルランド人が狂喜乱舞して、並んでお尻を出したり、大騒ぎしていました。
夜、ミシュラン一つ星の'l Formuisは、イマイチでした。
2日前にいったサーアントニーファンダイクの方が、圧倒的に味もサービスも雰囲気も値段
もよかったので、こちらの方がお勧めです。ホテルで予約してもらったらフロントの人がびびっていましたが、50ユーロのコースだってものすごくおいしいし、サービスも洗練されている割に気取りはなくてすばらしいです。
それから、昼行ったBacinoの白アスパラガススープ(日本では缶詰が普通だがヨーロッパでは初夏の風物詩である白アスパラガスは旬だったので毎日のように,いろいろな料理を食べていました)とムール貝を5種類のスープで煮た料理は絶品でした。

4.ブリュッセル
(1)王立美術館
6月6日の朝、ブリュッセルに到着し、何はさておいても、王立美術館へ。英語のオーディオガイドと日本語のガイドブックあり。
またまたラッキーなことに、ここではブリューゲル特別展をやっていました。
ブリューゲルは、一番有名なピーター・ブリューゲル(父)と息子のヤン・ブリューゲル、ピーター・ブリューゲル(息子)の3人がいますが、息子たちは父を超えられなかったようで、(当時は名画のコピーは頻繁に行われていたとはいえ)父の名画の模写ばかりしている感じです。この特別展では、父のオリジナルと息子たちのコピーを10枚以上展示しているのです。
「イカロスの失墜」のコピーには、オリジナルにはなかった父の飛ぶ姿があったり、「鳥の
罠」という絵のコピーの一つには、他の村人に混じって、うんとちいさく、イエス親子のエジプト逃亡の図が描かれているし、「ベツレヘムの戸籍調査」は、オリジナルだけ右の方でスケートを履いている男性がいる、といった具合です。館員に「ベツレヘムには雪は降らないはずですが」と質問したら、当時は地理的な知識もないから、画家は自分の知っている村の風景をベツレヘムとして描いたのだということでした。
名画がたくさんありましたが、メムリンクの「聖セバスチャン」が珍しくタイツをはいているのが印象的でした。私の大好きな三島由紀夫が聖セバスチャンに異常な執着を示した人だったので(ダヌンツィオの翻訳もしたし)、つい聖セバスチャンの絵は真剣に見てしまいます。今回の旅行ではあちこちで見ましたが、可能な限り写真も撮りました。読書会の仲間に送るつもりです。
結婚前に夫と渋谷のbunkamuraにマグリット展を見に行ったのですが、彼の特別展もあって、たくさん見られたのが幸せでした。

それにしても、フレミッシュ絵画はすばらしい。今までは、素朴だとか、稚気にあふれているとしか思っていなかったけど、不明でした。
基本的に文盲の多かった庶民にキリスト教教育をするために描かれているので、一つの絵に新旧聖書上のいろいろなエピソードや教訓がびっしり描きこまれています。おかげで、聖人とそのシンボルを覚えてしまいました。預言者ヨハネ:子羊、福音者ヨハネ:毒蛇の杯、マグダラのマリア:香油壷、聖バルバラ:塔(父親に閉じ込められた)、聖カテリーナ:車輪(キリストと結婚したといって君主の求婚を拒んで車輪に轢かれた)。でも、自分が殺された道具をもっているというのはいくら殉教のシンボルとはいえ、日本人の感覚ではちょっとわからない面もありますが。受胎告知には、聖母の純潔を表わす百合、水の入った透明なガラス瓶というのが定番です。そして、祭壇画の場合、両脇のパネルには、絵の依頼者が祈る姿で、背後にそれぞれの守護聖人を従えて描かれています。これは、中国のシルクロードの石窟仏教壁画でも、供養人といって、寄付者の姿が描かれていますから、そこのところは洋の東西を問わないのでしょうね。祭壇画は、普段閉じられていますから、閉じた時見える部分にも絵が描いてありますから、美術館でも後ろに回って見てみて下さい。

(2)その他
サンミッシェル大聖堂を見てから、グランプラス、そして小便小僧。世界三大がっかりのひとつらしいがすごい人だかり。(もう2つは、コペンハーゲンの人魚姫(確かに思ったより小さい)とシドニーのオペラハウスとか、三番目には諸説ありますが)。お土産にコルネのチョコを買い、マグリットの絵のついた(青い空に雲が鳥の形に切り取られている)傘を買い、慌ててブリュッセル・ワッフルを買って、パリ行きの列車に乗るために駅へ。この列車では、近くの席に画家の奈良美智がいました。


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2002年オランダ・ベルギー・フランス美術館めぐりその1

2004年09月23日 | 旅行
夫からHPの更新をさぼっているだろう、といわれた。
時間がないので、昔書いた旅行記などをupすることにする。

以下は、2002年5月から6月まで、香港大学の期末試験の直後に、アムステルダムにゴッホ・ゴーギャン展を見に行き、ついでに2カ国の美術館めぐりをした体験をあるMLに流したもの。呼びかけはその参加者のHNです。
素朴と洗練がぎりぎりのところで調和を保っている、15世紀フレミッシュ絵画にはまるきっかけになった旅でした。



先週の木曜日の深夜帰ってきて、4ヶ月ぶりに夫人会があったり、端午節のドラゴンボートレースを見に行ったり、日本人倶楽部で中国法のことで講演したり、点字の講習会をやったり、深土川にいって、オーダーメイド、エステ,ネイルをしたり、広東語の授業に出たり、始まったバーゲンで買物の梯子したり、いまだ時差ぼけが取れずボーっとしながらも、忙しい日々でした。
一、オランダ篇
1.Enschede
スキポール空港から列車で2時間ほどのEnschedeという町の友人ユーディットを訪ね、2泊させてもらいました。車でクローラーミューラー美術館に連れて行ってもらい、ゴッホの絵を見た時は、感涙に咽びました。
ユーディットとは9年前イスラエル旅行で知り合ったのですが、その時は離婚後長く付き合っていた恋人と別れたばかりで元気がありませんでしたが、昨年再婚し、初孫にも恵まれ本当に幸せそうでした。出産後専業主婦になったものの、どうしても働きたいという気持ちから努力して職をもち、市会議員も務めたという指向が夫とぶつかり離婚原因になったという話は、本当に身につまされました。離婚後も、法律上は認められる生活費の送金を断り,独力で資格をとって自活したという話には感動しました。
彼女は、ユダヤ人で、隠れ家で1944年に生まれたのですが、その隠れ家の写真を見せてもらったり、「シンドラーのリスト」の配給収入から作られたホロコースト記録基金からインタビューを受けたという83歳の母上にも会えたことがとてもいい経験でした。ユーディットは、何よりも、私のひどい日本語訛りの英語(文法やボキャブラリー的にはOKですが、いかんせん発音が)を一生懸命聞いてくれて(中にはわからなくてもわかったふりをする人もいるのに)、それに集中するあまり車の運転で道をまちがえたりするという誠実さには感動しました。前々から考えていた、英語の訛りを直すコースにいくことをさらに堅く決心したことはいうまでもありませんが、2日の間に私達が話した互いの人生のこと、一生忘れないでしょう。
年齢や国籍さえ超えるこういう魂のふれあいのために、人は生きているのではないかと思ったほどでした。

2.デンハーグ
amiさんに教えていただいたマウリッツハイス、とてもよかったです。
英語のオーディオガイドがとても充実しています。
フェルメールの「デルフトの眺望」、「青いターバンの少女」、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」等が素晴らしかった。
「マドゥローダム」という、東武ワールドスクエアのようなところもお勧めです。
なかなか仕掛けが凝っていて、大人でも楽しめます。行くのなら、小銭をたくさん用意してください。所定の小銭を入れると、いろいろなおまけの楽しみがあるアトラクションがあります。とくに、78番の木靴工場では、50セント入れると、ミニチュアのトラックがデルフト焼きの木靴の記念品を工場から運んできてくれて、それを観光客がお土産にもらって帰ることになっていて、楽しいです。

3.アムステルダム
(1)ゴッホ美術館
念願のゴッホ・ゴーギャン特別展。
今回の旅行は構想10年というこの展示を見るためのものでした。
すごい人でしたが、日本語のオーデイオガイドがとてもよくできていました。
二人の画家の出会い、同居、別離それぞれの時期に、どんなふうに影響を与え合ってきたかを、テーマ別に展示しています。
たとえば、1888年10月にゴーギャンがゴッホの黄色い家に来た時携えていた共通の友人ベルナールの「牧場のブルターニュ人女性」という絵を、ゴッホが模写したり、二人して同じ風景を描いたりしています。
ゴッホのゴーギャンを慕う気持ちはいじらしいほどで、ひまわりも、友情の象徴として、元々は、これで黄色い家を飾ってゴーギャンを歓待するために描いた作品でした。1888年8月に元々12枚描いた内、気に入った2枚だけを飾ることにし、その内の1枚がロンドンナショナルギャラリーにあるものです。花瓶にVincentのサインがあります。
安田火災の買ったものは、ゴッホがゴーギャンと同居中の12月に描いたもので、これは最近までClaude-Emile Schuffehecker(1861-1934)の贋作ではないかと疑われていました。(安田火災はいい面の皮と思われていたようです)しかし、今回この展示のための調査で、本物であることが確認されたのです。というのは、この作品だけジュートに描かれている(他はカンバス)のですが、そのジュートの繊維の流れ等を調べた結果、ゴーギャンが注文したジュートを二人で分けて使ったのだとわかったとのことです!ただし、花瓶にVincentのサインがありません。
ゴッホ美術館所蔵のものは、ゴーギャンが去った後、1889年1月に描いたもので、花瓶にVincentのサインがあります。
これら三つの作品が一堂に並ぶのは100年以上振りとのことです。それから、よく「14本のひまわり」と誤訳されていますが、14本の作品も初期にはありますが、この有名な三枚の絵はいずれも15本です。
「アルルの女」は、モデルのジノー夫人を、脇でゴーギャンがデッサンしている間に、ゴッホが熱に浮かされたように完成させてしまった作品ですが、ゴーギャンが残していったこのデッサンを元に、ゴッホは5枚も新しいアルルの女を描いて、その内の1枚をゴーギャンに送ったりもしています。
二人の決定的な違いは、想像力で描けるゴーギャンに対して、眼前にあるものしか描けないゴッホということにもありました。だから、ゴッホはモデルを雇う金がなかったこともあり、自画像や自己作品のコピーをあれほどたくさん描いているのです(ルーラン夫人の絵もたくさんある)。そのことは、1888年12月、ゴーギャンがゴッホがひまわりの絵を描いている肖像画(ひまわりの生花も入っている)を描いたこと(12月に生のひまわりはないはずだが、ゴーギャンには描ける)に端的に表れています。
ゴッホが描いた椅子も、一方は自分を象徴する、石の床にパイプとともにあるもの、一方はゴーギャンを象徴する、豪華な床に知性を象徴するろうそくと本が置かれているというように好対照になっています。
企画展の二人のそれぞれの(この展示における)最後の作品の演出もとてもきいています。ゴッホのは、糸杉の側にゴッホとゴーギャンらしい二人づれのいる絵、これを見て、いまだに友情の復活を信じる彼に涙が止まらなくなりました。ゴーギャンのそれは、タヒチで故国フランスを懐かしむあまり友人に送らせた種子からその庭に成長したひまわりを描いた「肘掛椅子とひまわり」です。ゴッホの影響を本人は強く否定したようですが。数々の現地妻の絵もあいまってゴーギャンの非情さとゴッホの純粋さが対比されている展覧会といえるでしょう。
それにしても、60以上の美術館から作品を借り、調査し、テーマ別に分類するという膨大な作業にはほとほと感心しました(ただし、ゴッホの耳切り事件直後の包帯した自画像はこの美術館所蔵なのに、この特別展ではコピーしか見せないというのはどういうこっちゃ)。

(2)国立美術館
英語のオーディオガイドが充実。見所の代表的な20絵画だけを外さないための地図もくれますので、まずそれを見てから残りを見るというのはどうでしょう。
レンブラントの「夜警」、フェルメールの「恋文」「手紙を読む女」「台所女」「デルフトの家並みの眺め」、ファン・ハーレルムの「ベツレヘムの嬰児虐殺」等が印象的でした。

4.キンデルケルク
のんびりした田舎の水郷地帯にたくさんの水車がある世界遺産です。7、8月の土曜日のうち1日は全部が回るそうですから、確認して合わせていったらどうでしょう
か。一つの水車だけ中を見せてくれます。管理人が、客がきた時だけ、どこからともなく自転車で現れるし、木靴を履いているのにもびっくり。
個人で行くとなると、ロッテルダムから地下鉄でZuidpleinにいき、154番のバスでまた1時間くらいなので、本数も少なく不便です。
ロッテルダムから、船で行くツアーが午前と午後2回(10:45と14:15)、12.5ユーロ、でていますから、それで行ったほうが効率的だと思います。
TEl:010-2183131, info@rebus-organisatiebureau.nl
ロッテルダムのインフォメーションで予約するのが一番わかりやすいと思います。


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プロ野球のスト-法律家のぼやき

2004年09月10日 | Weblog
私は野球のことは全くわからない。
昔大洋ホエールズはドラマ「太陽にほえろ」の出演者・スタッフの作っている球団だと思っていたくらいだ。
野球の選手も、TVのCMに出ているか、『巨人の星』に出ていた選手しかわからない。
だから、堀内はわかる。『巨人の星』はビルドゥングス・ロマンとしてすごい傑作だと思う。
夫が広島の大ファン(ほとんど感情を表に出さない人なのに、広島の勝ち負けだけは喜怒哀楽を露にするのが理解できない)なので、絶対眼には入っていると思うが、広島の選手の誰一人名前と顔が一致しない。12球団名もそらではあげられない。
非難覚悟であえて言えば、贔屓の球団の勝ち負けに一喜一憂する人生って悲しくないか?自分の人生を戦うのを諦めたから、贔屓の球団に代理戦争させている人もいるような気がするのだ。

また、野球中継が延びるために、ドラマの予約録画を24分多めにしておかなければならないのが大変うざいし、DVDの無駄遣いでもある。うっかり長めに予約するのを忘れたりすると大変だし。それで最終回の最後のところを見逃したこともある(私はドラマフリーク、そっちの方がよほどくだらないという人もたくさんいるだろうが)。
経済の先生に、プロ野球中継が、野球に興味がない人に課している余分なコストがどれくらいか(もちろん、ファンが多く、日本全体の経済にプラスになっているのは承知しているが)、一度ぜひ計算してほしい。

前置きが長くなったが、それでなぜ、このタイトルかというと、連日話題になっているこのニュースを見るたびに、疑問に思うことが、たぶん多くの人と違うからだ。

ー選手会は法人格がないので、誰の名義で仮処分申請をしたのだろうか?
ー「オーナー」は、法的には何か?株式会社である球団の代表取締役社長は別にいるようだし、会社法上の何に当たるのか?
ー合併や新規参入を制限する業法はあるのか?ないなら、報道されているような規制は独禁法上の問題はないのか?

会社法上は、株主(球団の株主は1社の企業だけだろう)の利益を考えればいいのだから、ファンの意見に配慮するのは「会社の社会的責任」という論点の格好の事例にはなるだろう。
学生時代故竹内昭夫先生が会社法の授業で「会社の社会的責任」を強調しすぎると本質を見失うとおっしゃったのを思い出す。

法律を知っていると、ドラマなんかも楽しめないことがある。
よくあるエピソードで、地主や大家が不動産を売るから店子が出て行かねばならず、それは困るので買い取るお金を必死で集めるというのも、法律上は、住んでいる借家人、登記した建物を持つ借地人は不動産の買主に対抗できるから、おかしな話だと思ってしまう。

先日も反町隆史主演のドラマ『ワンダフル・ライフ』で、商店街を買収するつもりだった不動産会社の社長(沢村一樹)が余命いくばくもない息子がその商店街の少年野球チームに入れてもらったので、 独断で計画を中止するというエピソードがあった。
本来感動的なエピソードなのだろうが、「株主が社長の一族だけならいいけど、そうじゃなければ背任になるし、株主代表訴訟の対象にもなる」と考えてしまった。

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国際取引法

2004年09月10日 | profession
一昨日から、柏木昇先生の集中講義「国際取引法」を受講させていただいている。
柏木先生は、三菱商事法務部を経て東大法学部教授になり、現在は中央大学法科大学院で教鞭をとっていらっしゃる。私も銀行法務部出身だが、今でも実務家が大学教員になるのは狭き門で、学界に転出できるだけで幸運と、とりあえず初めて赴任する大学は選択の余地がないものだ。
ましてや1993年に実務家出身の東大法学部教授として初めて選ばれた柏木先生は、実務家出身大学法学教員のホープといってもいい方だ。
そんな方の講義が聴けることがどれほどラッキーなことなのか、本学の学生がわかっているかどうかは?だが、とにかく私は、前々から楽しみにしてた。

企業法務に携わっている者は、「経営法友会」等を通じた横のつながりがあり、柏木先生には私の結婚式にも出席していただいたりした。

講義はすばらしく、教員としても参考になることばかりだ。
おなじ国際取引といっても、銀行員の視点と商社の視点は違うからだ。
とくに、貿易は、銀行員の時はL/C発行関係等の貿易金融の観点しかなかったので、傭船契約を含む商社独自の視点は非常に勉強になった。

商社時代のいろいろな国での具体的な経験談も臨場感にあふれとても面白い。
私も前期の契約法で自分の銀行員時代の体験を話したり、「契約締結上の過失」のところでUFJをめぐる攻防を解説したり、実務の話をするよう工夫したが、民法の授業だと、条文や判例でカバーすべき範囲が決まっているので、実務の話も時間と戦いながらになるが、こういう応用科目なら、と思った。

 アメリカの司法制度を解説するための映像資料等について情報を交換させていただいた。
私が先日国際商事法務8月9月号に掲載した、新入生ゼミナールで裁判員制度を理解させるために『いとこのヴィニー』『12人の怒れる男』『12人の優しい日本人』等を授業で見せたりした教育方法の論考も読んでいてくださっていた。


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good news (でも大変そう)

2004年09月10日 | profession
法科大学院の設立について、設置審から中間回答があった。

自分のことだけなら書いてもかまわないと思うのだが、
各教員予定者に科目ごとに○×がつけられるのだが、私は全ての科目でセーフだったようだ。
ちなみに私の担当科目は
民法第3部(債権総論)
民法第4部(債権各論)
民法第6部(担保法)
英米法
中国ビジネス法

論文の数だけは(単行本除く)40近くあったので自信がないわけではなかったが、実際に結果を聞くまでは心配だったのでほっとした。

既に設立された法科大学院で民法を教えているベテランの先生に聞いたら、法科大学院の1コマの準備は学部の4倍の時間を要する上、未修クラスでは、正規の講義の半分くらいの時間、プラスで補講してやらないと無理だそうで(学部教育は準委任だけど、法科大学院は司法試験合格という仕事の完成を目的とした請負だもの、仕方ない)来年からは研究の時間は全くなくなりそうである。

今年のうちに今着手している研究の目処をつけておかなければ、と覚悟した。

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期間限定の愚痴

2004年09月07日 | profession


身分が明らかになっているblogなので、すぐに消去することになるのだろうが、何らかの形で昇華させないと何も手に付かないので、いったん書いておく。

非常に汚いやり方で、名誉を傷つけられた上に、意見を圧殺された。
さすがに詳細は書けないけど。
こんなことがあっていいのか?!と思う。
(詳細が知りたい人は直接メールをください。)

こういうことを書くために,特定少数の人にしかアドレスを明かさない裏blogを作る必要があるかも、と真剣に考え始めている。


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点字サークル合宿その2点字図書館・福島智さん・東大点友会

2004年09月05日 | profession
投稿画面に入力していると消えることがあるのでワードで作成し貼り付けることにする。

【福島智さん】
合宿でみんなに会わせたかったのは東大先端科学技術研究センターの福島助教授だった。彼は東大初の盲聾の教員で、私が学生時代「福島君と共に歩む会」で活動していた関係で友人である。彼が出演した徹子の部屋等を見た方はご存知と思うが、明るく聡明な彼には、こちらの方が貴重な何かをもらっている、という印象を受ける。
学生に直接会ってもらえれば、きっといい刺激を受けると思い、連絡しようとしていたら、なんと彼からメールが来た。
彼が金沢大を経て東大に赴任したのは知っていたが、久しく連絡を取れずにいたが、この4月に点字で近況報告を送ったところ、彼からすぐにメールが来た。私は返事をしなければと思いつつ、徒に日にちが経ってしまっていたが、8月のはじめ、こちらが合宿のことを頼もうとしてパソコンを開いたら、彼から4月のメールを「万一着いていないといけないので再送します」と再送していたのだ。(福島さんずぼらですみませんでした)
偶然を喜び、さっそくお願いしたところ、快諾していただいた。

余談になるが、私は結構こういうシンクロニシティが多い。
先日の入院中も2回もあった。私は日経を資料にするために切り抜くので、夫に東京からまとめて持ってきてもらって少し前のものを読んでいたら、胚移植の記事があり、古い作品だが東野圭吾の『分身』をベッドで読んだばかりだったのでびっくりした。また、手持ちの本を全部読んでしまったので、病院の談話室の本棚にあった京極夏彦の『姑獲鳥の夏』をたまたま読んだら、しばらくして大好きな俳優のTSが主演で映画化されるというニュースに接した。(1995年以降、彼の舞台は全て見ている。香港にいたために『贋作・桜の森の満開の下』『欲望という名の電車』(内野聖陽のは見たのだが)をmissしたのは返す返すも残念)ちなみに、京極作品はそれまで『嗤う伊右衛門』と『どすこい』しか読んでいなかったが、鶴屋南北の歌舞伎の元ネタになった四谷左門町の田宮家の婿養子を主人公にした前者は傑作だと思った。(先日友人と歌舞伎座に勘九郎の『四谷怪談』を見に行き、古典のすばらしさも実感したけれど)『姑獲鳥の夏』は、昭和20年代の東京の描写や衒学的な会話の醸し出す独特の雰囲気は良かったけれど、肝心なトリックが「ええ?!」と思うようなあまり説得力のないものだったので、この点を映画化でどうするか興味津々である。

【日本点字図書館】
合宿当日。
参加者は経済学部4名、工学部1名、理学部1名、経済学部教員のお嬢さんで16歳のCSさん、私の計8名で、まず、高田馬場にある日本点字図書館に見学に行った。
入り口では全盲の職員甲賀さんが待っていてくれた。彼女とも「共に歩む会」の仲間で、20年ぶりの再会だった。今日はお子さんの保護者会で休暇だったが、私が来ると聞いてわざわざ来てくださったのだった。大学2年の夏、「共に歩む会」の合宿で河口湖に行った際、福島さんが弾くピアノに合わせ、彼女が指点字(後述)を彼の肩に打ちながら「オリビアを聴きながら」を歌ったときの感動を私はいまだに覚えている。当時私は進路のことで死ぬほど悩んでいた(東大では2年生の時学部学科を決める。三島由紀夫が好きで文芸評論家になるつもりで文三に入った私は、点訳ボランティアの影響もあり、結局法学部に進学して現在は大学で法学を教えている)が、この思い出は、思いつめていた当時の最も光り輝くシーンである。
やはり会のメンバーだった植村さんも職員として働いていて、点字印刷の仕組みを説明してくれた。

デジタル化による情報技術の革新は点訳技術をも劇的に変えていた。
私の学生時代、墨字(点字に対して普通の文字をこう呼ぶ)だってアナログだった。ワープロはそれほど普及していなかったから、学生時代のレポートは手書きだったし、就職してからも会社で作成する文書はほとんど手書きだった。ハーヴァードに留学中の1992年1月、マッキントッシュのノート型パソコンが初めて出て、さっそく入手して図書館で使っていたら、たくさんのアメリカ人学生が覗いていったことを思い出す。
点字はもちろん、超アナログの世界。前述のカニタイプで一文字一文字打っていくしかない。点字図書館でも基本的にはそういう方法で点字を作成していた。しかし、現在は、点訳データをパソコンソフトで作れる。英語の翻訳ソフトのように、墨字を入力すれば点字になる翻訳ソフトまである(とはいえ、英語のソフトがそのままでは使えないように、精度は今一なので、結局よほど長い文章でない限り点字入力するとのこと)。そのようにした点訳データをフロッピーに落として、点字専門のプリンターで印刷するのだ。その速さにびっくりした。
そうして作った点字本は書庫にずらっと並んでおり、全国の利用者の請求に応じて郵送で貸し出しているとのことだが、現在は無料の郵送料も郵政民営化でどうなるかわからないとのことだった。
点字図書館は朗読・録音サービスも行っており、ラジオ局のスタジオのような本格的な録音室が大小15室もあるのにもびっくりした。
朗読ボランティアは倍率10倍の難関で、登録している104名中9名しか男性はいない。指名がかかる朗読者もいるそうだ。
現在『セックスボランティア』という本が話題になっていて、私も奇麗事だけのボランティアには限界があると思っていたから、思い切って「ポルノ小説のリクエストもあるのですか」と聞いたら、そういうリクエストの方が多いくらいです、非常に自然なこ、とですよねとガイドの金木さんという女性がおっしゃった。

彼女のおっとりと品のある口調ながらユーモアや福祉行政への鋭い批判をちらりとのぞかせた語り口は絶妙だった。
普段フェミニストの嫌煙家として攻撃的なしゃべり方をしている
私も、こういう話し方の方が受け入れられやすいなと反省した。

【福島研究室】
その後、駒場にある先端研の福島研究室を訪ねた。
福島さんには指点字の通訳が2人つき(目も耳も不自由な彼は、彼の指を点字タイプに見立てた通訳者がタイプを打つように文字を打つ指点字通訳をする)、研究生や院生、支援室(東大には障害を持つ教職員・学生を支援するためのバリアフリー支援室というものがあり、福島研究室の隣にある)専従職員の他、福島さんの呼びかけで、駒場点友会、本郷点友会からも6人の学生さんが参加してくれ、茶話会形式で歓談した。
福島さんはちっとも変わっていず、うれしかった。

ちなみに、こちらからのコミュニケーションは指点字だが、彼は話す方は全く問題ない。闊達な関西弁でジョークを飛ばす。聞こえなくなった時に、お母さんが指点字で必死で会話を続けたので、話す力を失わずにすんだのだ。この母上にも何度も会った事があるが、すごい肝っ玉母さんだ。

また話がずれるが、だから、最近のドラマ『オレンジ・デイズ』で、福島さんより年長で失聴した沙絵(柴崎コウ)がしゃべろうと思えばしゃべれるのに「一度笑われたから」という理由で発声しようとしないのはかなり違和感があった。そうやってコミュニケーションの手段を自ら制限し、手話ができない相手と会話しようとしないのはかたくな過ぎるのではないか、プライドが高すぎるのではないかと思った。
ちなみに、何回か出てきた、タイトルの元にもなっている、背伸びしてオレンジの果実を木からもぎとるシーンは、同じ北川悦吏子脚本でやはり聾唖者が主人公のの1995年のドラマ『愛しているといってくれ』(豊川悦司・常盤貴子)の最終回で、一度別れた二人の再会シーンでも出てきた。
ただし、常盤貴子がりんごをもごうとして手を伸ばし、トヨエツがとってやる、というシーンだったが。昔のヒット作品からこんなにコンセプトを借りるなんて彼女もネタが切れてきているのかと思った。

感心したのは、各人の座った位置等も通訳を通じて把握し、聞こえないはずなのに、しゃべっている人の方を向いて答えてくれることだった。だから、見えない、聞こえないということをつい忘れてしまいそうになる。ここまで持ってくるには相当の苦労をなさっただろうなと思った。支援室の方が、「信大はe-learningの大学院を全国で初めて設立したというところなので、バリアフリーを考える私たちは、お会いできるのを楽しみにしていました」とおっしゃった。
研究する上で、一番重要な最新の情報を入手するのはどのようになさっていますか、と質問したら、「人的なコミュニケーション・ネットワークを通じて各人の得意分野の情報が入るようにしている」とのこと。各国の障害者教育にも関心がおありのようなので、私が香港の盲人協会を訪ねた際の資料をお送りすることにした。
本学経済学部3年のMさんが点字サークルを継続させる秘訣は、と大学点字サークル懇談会の会長をしていた研究生の前田さんに質問したところ、「やはり盲学生のニーズを途切れさせないこと」とのこと。知る限り、本学に盲学生はいないが、今年の冬に見学に行った近所の松本盲学校と連携するとか、盲学生がいて、レジュメ等も全て点訳しているという長野大学とネットワークを作る必要があるかもしれない。
理学部のK君が福島さんに「学生時代どんな本を読むことを薦めますか」という質問をしたら、福島さんは「瀬々さんが昔北條民雄の『いのちの初夜』を座右の書にしています、とおっしゃったのを記憶しています」とのこと、彼がそれを覚えてくれていたことに感動した。

彼の研究室をその後訪ねたところ、パソコンには点字キーがついていて、画面の墨字が自動的に点字キーに変換されていた。これなら、少なくともパソコンの画面上の文字は晴眼者と同じように読めるので、デジタル化は障害者のバリアフリーにも役立っているのだなと改めて思った。研究室は広く、常時指点字通訳者やスタッフ20数名が出入りしている。隣接する支援室には録音用の部屋もあり、墨字をすぐ点字にするスキャナーもあった。

【駒場点友会】
福島さんと別れ、東大の点友会の人たちに、「点訳作業室」を見せてもらった。昔は、学館というぼろい建物に小さい部室があるだけだったが、今は、バリアフリー支援室経由で盲学生(現在数名いるとのこと。私が現役のときは院生が一人いるだけで、他大学の盲学生の教科書の点訳を主にやっていた)に依頼された点訳をするため、1号館(駒場キャンバスの正門を入って正面にある時計台のある建物)の1階に「点訳作業室」を与えられていた。
点友会はOB組織がしっかりしていて、香港で点字講習会をしているときも、頼んで道具や教科書を送ってもらっていたのだった。

その後、渋谷のセンター街の居酒屋で、合同コンパを行った。
文一2年のS君という中心メンバーは自身も弱視(本人は墨字しか使わない)で、ハンディのある立場で点訳をやっているというのに、全然気負いがないし、Mさんという工学部4年生はその日が院試で合格したとのこと、そんな大切な日に来てくれ、学生たちにいろいろ有益な示唆をくれた。
銀嶺祭で点字名刺作成をすることになっているが、その時に東大点友会でも遊びに来てくれるということになった。

2次会はカラオケで盛り上がり、護国寺の私の家には11時過ぎに到着。
それから3時ごろまで話をし、消灯。
翌朝は、夫の作ったブランチを食べて三々五々解散した。




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点字サークルの合宿その1点友会

2004年09月05日 | profession
いま、30分くらいかけて書いたものが消えてしまい、かなり参っている。
だから、少しずつ書いていくことにする。
初回は敬体だったが大変なので常体にする。

3,4日は点字サークルの合宿を行った。

私は学生時代点字サークルに入って点訳ボランティアをやっていた。専門課程に進んでからは遠ざかっていたので、ブランクは20年くらいあったが、体で覚えたものはなかなか忘れないものである。というのも、当時はカニタイプといって6つの点を使う点字を、両手の人差し指から薬指までを6つのキーに当てて、どれを押すかの組み合わせで文字を表記するので、指が覚えていたのである。歌を歌いながら、膝に点字を打っているということはいまだによくある。

2001年から2002年まで、香港の総領事館に転勤した夫に伴い外交官夫人として住んでいた香港でも、駐在員夫人や現地で働く日本人、香港人の希望者20名ほどに定期的に点字の講習会を開いていた。慈善バザーでは点字の名刺を作って販売するというイベントも行った。(駐在員夫人、とくに外交官夫人の世界は『白い巨塔』の「くれない会」の千倍ひどくて、私は非常に消耗した。点字の件も「前例がありませんから」となかなか企画を通してくれなかった)

昨年6月にこの大学に赴任してからも、サークルはないが、学生のに教えたいと思い、ビラを掲示板に貼ったりして希望者を募り、9月から月1-2回のペースで講習会を開くようになり、現在は13名のいろいろな学部の学生が参加している。
いずれサークルという組織的な活動に発展すればいいな、とは思っていたが、そういうことは教師が音頭を取るようなことではないと感じていたが、最近学生が自主的にサークル活動にしたいといってきたので、仮称「○大点友会」が発足した。この仮称は私が所属していた「駒場点友会」からとったもので、天祐に通じる発音が気に入っているが、いずれ本学らしい名前を学生が考えてくれればいいと思っている。

「鉄は熱いうちに打て」の通り、合宿をして機運を盛り上げようということになった。

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入院の顛末

2004年09月02日 | Weblog
HPを作っていろいろな経験をたくさんの人と共有したいなと思っていましたが、私には無理と諦めていました。
しかし、昨日たまたま目にした占い(私は結構占い好きです)に「9月3日からの2週間が今年最大の転機、HPを作成したりするとラッキー」とあり、これを9月1日に読んだのは(雑誌は3月に出たもの)何かの導きと思い、「勢いでできるところまでやってみよう」と考えました。
初心者でもできるブロクなのにまだまだ荒削りですが、だんだんと改良していこうと思います。辛抱強くお付き合い願えれば幸いです。

たくさんの方に心配していただいた入院の顛末からご報告します。
大学に赴任したのは昨年の6月ですから、昨年度の後期、今年度の前期を終えて、やっと一通り。
初めての教師生活で無我夢中の1年でした。
前期に担当したのは新入生ゼミナールと契約法(週2コマ)で、後者では、毎回小テストを実施しました。答案は少しずつ返していたのですが、半分くらい残ってしまい、最終講義(7月27日)までに返却しなければ、と採点のため徹夜続きの毎日でした。試験は、たとえば百貨店の通信販売のHPのコピーを配布し、その特定商取引法上の問題を記述させるといった文章問題ばかりだったので、140名分の採点は時間がかかります。
前日の26日、採点しながら、右足の膝下がだんだん痛くなってきて、夜中の2時に全ての答案を採点し、名前別に綴じ終わった際、気づくと足は腫れ上がり、歩くたびに激痛が走るようになっていました。「明日の講義ができなくなっては大変」と慌てて大学病院の救急に駆け込み、診てもらったところ、熱も7度7分あり、とりあえず薬をもらい、明後日また受診することになりました。
27日は朝から体がだるく、講義の直前まで研究室のソファで横になったりしたものの、何とか最終講義を終えましたが、「これは変だ」と思い、大学の健康安全センターにいったら熱が9度近くあり、所長からすぐ病院に行くようにいわれ、病院では「即入院」と言い渡されてしまいました。

2時間だけ猶予をもらい、急いで大学に戻って、翌日の期末試験の手当て、その他のいろいろな調整を行い、宿舎にも行って大急ぎで身の回りのものを準備し、一人で入院しました。

病名は「蜂窩幟炎」。足の虫刺されか草かぶれかでできた傷口から細菌が入って、徹夜で免疫力が低下していたために血液の炎症になったということで、入院して抗生物質の点滴を受けなければならないとのことでした。

期末試験の代行をしてくださっただけでなく入院中足りないものを取ってきてくださったA先生、自主的に期末試験の応援に来てくださった椎名先生、おいしい葡萄をもってお見舞いに来てくださった青木先生、手作りパン等をもって2回も来て下さった閻先生、ありがとうございました。

夫は金土日と来てくれ、土曜日には夫に車椅子を押してもらい、再び研究室に行って、次の週、期末試験の解説講義や新入生ゼミの15回目の講義を控えていたので、退院が長引いた場合の手配をしました。

おかげさまで入院は丸7日間ですみ、8月2日には無事退院できました。

翌3日には、予定通り新ゼミの最終回を、4日には契約法の期末試験の解説講義、同夕方には点字講習会を行いました。夏休み合宿をしよう、という話がまとまりました。
4日にはハワイ大学ロースクールのフォスター教授が、集中講義と特別講演のためにいらっしゃいました。
フォスター先生はこの春、長野県弁護士会のハワイ視察旅行に私が通訳として同行した時に大変お世話になった方です。(視察報告は国際商事法務2004年7月号に掲載しました)
5日夜は、フォスター先生の特別講演「司法の独立」で通訳を務めました。ただでさえ身長差があるのに、先生用の椅子が高すぎて私も座ると遠すぎるので、痛い足をかばっての立ち通しがちょっとつらかったです。普通に日本語訳するだけでなく、法律の専門用語については解説を加えたりし、聴衆にわかりやすいよう工夫しました。小宮山学長もいらして医学者らしく生殖倫理と裁判のことを質問してくださり(質疑応答も通訳しました)、本当はスケジュールの都合で1日目しか来られない予定だったのに、翌日もスケジュールを変えて来てくださいました。
お世辞だと思いますが、2日目の挨拶の際、「本当は今日別の予定があったのですが、昨日通訳が非常にわかりやすく門外漢でも楽しかったので、わざわざ予定を変更して今日も来ました」と言ってくださったのがうれしかったです。その2日目の講演のテーマは「Corporate Governance」で、日本の制度についても通訳の際、説明を加えたりしました。

6日の講演の後、フォスター先生のために長野県弁護士会の方々がハワイ視察旅行の際のお礼の宴を設け、それにも同席しました。参加者一人一人がハワイの感想とお礼を述べ、ハードでありながら楽しかったハワイ旅行がその場に蘇ったかのように愉快な一夜でした。
働く女性として尊敬してやまない田下弁護士と久しぶりに会えたのもとても嬉しかったです。
夢見ていた職業とはいえ、現実の大学という職場にはがっかりすることも多々ありますが、激務の中でも地域法曹のあるべき姿を真摯に考え行動する長野の弁護士の方々に接するたびに勇気づけられます。

7,8日の土日は夫が来ました。単身赴任が始まってから、私が帰京できない週末は夫が来てくれます。今は観光シーズンで道が混んでいるので大変なのですが。どちらかが出張でもない限り、週末は必ず一緒にいます。
7日の昼は、5月に私の官舎で女性教員ばかりでbaby shower partyを開いたお礼ということで、A先生がお宅に招待してくれました。料理もおいしかったし赤ちゃんもとてもかわいく、抱かせてもらった夫の姿があまりにさまになっているので、なかなか子供ができないことが改めて淋しくなりました。

翌11日は、私も聴講させてもらっていたフォスター先生のアメリカ証券取引法の集中講座が終了。
優秀な法学者でありながら気さくで謙虚なフォスター先生の人柄にはみんな感動します。
私が法学論集3号に発表した国際金融に関する英文の論文の抜刷を差し上げたら、翌日に「私の知らない国際金融会議の情報が載っていて、非常に役立ちました、さっそくネットで詳細を調べました」とおっしゃる勉強家ぶりにも脱帽です。

その日は新ゼミ、契約法の成績提出の仕上げで徹夜となりました。

1回目の日記、長すぎてすみません。
明日は点字サークルの学生が東京の我が家に合宿に来ます。







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