夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

日帰りで相国寺伊藤若冲展へ

2007年05月31日 | 旅行
とうとう行ってきた。

http://jakuchu.jp/jotenkaku/

今月は、がんばって複数の論文(査読付を含む)を発表したり研究会で発表したりしたので少し自分への語ご褒美。

スケジュール的に無理だったのだが、どうしても諦めきれず、東京で研究会その他の用事があった日の夜行バスで京都に行き、到着した朝展覧会を見てその日のうちに大学に戻るという強行軍をやってのけた。(いちゃもん大好きな人がいるのでいっとくが、ちゃんと代休とっているしその日のうちに大学に戻っているから。そんな暇があったら勉強しようね。お互いに)

若冲が相国寺の大典禅師に師事し、禅の修行の一環として描いた釈迦三尊像と動植綵絵30枚だったが、明治政府の廃仏毀釈を生き延びるため後者が皇室に献上され、120年ぶりに再会を果す。
また、前々から見たかった金閣寺の障壁画も公開されている。
感激の一言だ。

昨年夏、石峯寺で若冲の羅漢像と墓を見、秋には国立博物館でプライス展を見、この春には砺波チューリップ公園内の美術館で川島織物が1904年セントルイス博物館に展示した動植綵絵のタペストリーの下絵などを見、そして今回この夢のような展示を見ることができた。

枯淡の趣のある障壁画と極彩色の動植綵絵という両極端な画法なのに、どちらにも若冲らしさがあふれ、一点一点を飽きるまで鑑賞した。幸せ。
三島も描いた金閣寺の放火犯林養賢は毎日この障壁画を見てたのか、いいなあ。

相国寺のそばにある同志社大学は環境抜群だし、法科大学院の校舎もすごく立派で羨ましい。

もうひとつうれしいことがあったのは、偶然、香港時代の友達と再会したことだ。
ご主人の転勤で香港→東京→オランダと転居していたが、4月に東京に戻ってきたとのこと。
平日だというのに入場するだけで1時間待たされ、入ってからも待たされるという大混雑なのに、ミュージアムショップのレジでたまたま隣にいて声をかけられた。奇跡のようだがやはり縁があるのか。彼女も東京から母上とわざわざ見に来たのだという。しばし、大航海時代のオランダ絵画のすばらしさ、オランダで成功しているワークシェアリング制度などについて話をし、東京での再会を約して別れた。

再会といえば、ゴールデンウイークにフィジーに行った際も、クルーズ船の上で話しかけられたのが、大学時代司法試験予備校で一緒だった他大学の友人で、年賀状のやり取りはしていたが、20年ぶりに再会した。
向こうは弁護士同士の夫婦なのでヒルトン、こちらは貧しい公務員同士なのでゴキブリやダニがいる安いホテルだったのは情けないが、やはり法科大学院で教え、法テラスにも登録している彼女と司法制度改革はおかしいと愚痴りあった。

大学に戻る前、遅い昼食は、錦小路の青物問屋の息子で「錦街居士」を名乗っていた若冲にちなみ、錦市場の「やおやの二階」という本当に八百屋さんのやっているレストランで京野菜中心の定食をいただいた。

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痴漢の卑劣さ その2

2007年05月30日 | profession
農水省の「なんとか還元水」大臣が自殺した。

「今時水道の水飲む人なんていない」なんて農水大臣がいっていいのかと呆れていたが、還元水のことより、もっと深刻な、自分の死によって闇に葬らなければならない何かがあったのだろう。

同じ日に農水省の課長補佐が京浜東北線で痴漢をしてつかまった。
「酔っていて覚えていない」というが、これも痴漢の卑劣さをよくあらわす態度。
酔ったふりをして触ればいざというときいいわけできるというこれまた姑息な逃げ道を作りながらの犯罪だ。よって覚えてないなんて大嘘である。

忘れもしない。中学生の頃、京成電車でさほど込んでもいない車内で、隣に立っていたべろべろに酔っぱらっていた親父にお尻を触られた。
当時はまだ内気なローティーンだった私もさすがに腹に据えかねて、青砥駅に付いたときに、手首をつかんで何するんですか、といったら、今の今までまで立っているのもやっとというふりをしていた親父が、脱兎の勢いで階段を駆け上がって逃げたのだ。
その悔しさ、30年以上たった今でも忘れられない。

今はちょっとでも触られたらすぐ腕をねじってやると思うのだが、そういうキャラクターになったときにはもう触られないのよね。

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アメリカの病その2

2007年05月28日 | profession
銃の携帯が認められているのも、このような価値観からくるものなのだ。

銃の所持は修正第2条で認められているが、それは州権説と私権説が対立していて、必ずしも個人の権利と確定しているわけではないが、ライフル協会の政治力が強くてなかなか決着がつかない。

社会に対して被害者意識をもち、なるべく多くの人と無理心中することによって恨みを晴らしたい思う人間は一定の確率でどんな国にも存在しうる。

日本で起きた池田小学校の事件だってそのひとつだ。
でも、その際、銃という大量破壊兵器が簡単に手に入るかどうかで被害の範囲は全く違う。池田小学校の事件だって、日本が銃社会だったら被害者の数はあんなものではすまない。

ましてや、アメリカは、残念ながらそうした被害者意識をもつ人間がでやすい社会だ。

移民で成り立ち、多様性=diversityがあることを保障することが絶対的な国是であるのに、実際には激しい人種差別が厳然とあり、貧富の差のある階級社会である。その建前と実態の差が目を覆うほどグロテスクである。
しかも、社会保障制度が他の先進国ほど整っていないので、敗者になったらどこまで墜ちるかわからない。セーフティーネットのない社会に生きる恐怖など、脳天気な日本人には理解できまい。

それなのに、建前では自由競争なのだから、敗者はいいわけできないことになっている。
そうした社会への鬱屈、これはすさまじいものがある。

とくに、韓国系のアメリカ人は、一番辛い立場といってもいい。
ハーバードロースクールに留学していた際仲良くしていたJDの表彰される優等生で今回の犯人と同じ1.5世韓国系のジユンに、「日系アメリカ人学生より韓国系の方が多いのはなぜ」と聞いたのだが、彼女は、「日系人が移民した時期はもうかなり前で、既にアメリカ社会に定着している。強烈な上昇志向をもって子供を一流大学に通わせるという強迫観念はもうない。韓国系は、今でも続々成功を夢見てアメリカに来て、親が必死に働いて子供にいい教育をつけることに命がけである。」と答えた。

韓国系はCaucasianからはもちろん差別される。
しかし、一生懸命働いてそれなりに成功するので、他のマイノリティ(アフリカ系やヒスパニック)からは嫉妬されいやがらせされる。
上からも下からもいじめられ一番割りをくっているのだ。

私の留学中の1992年春、ロス暴動が起きて全米に衝撃を与えたが、その際、もちろん、ロドニーキング事件やラターシャ・ハーリンズ事件(どちらも陪審制度の弊害を絵に描いたような事件)の影響もあるのだが、混乱に乗じて多くの韓国系の商店がアフリカ系に襲撃されたのは、こうした背景もあるのだ。

それにしても、私が報道を見ていて涙が止まらなかったのは、Liviu Librescu教授が、自分も銃弾を受けながら76歳の瀕死の体力で文字通り必死にドアを押さえ、学生を窓から逃がした(それでこの教室の学生は一人を除いて助かった。この勇気がなければ被害者は倍増していただろう)というエピソードだ。
ユダヤ人で、ホロコーストをsurviveした人だという。

同じsurviverであるフランクルの著書「死と愛」は私の愛読書だが、その中に、創造価値、体験価値、態度価値というのが出てくる。
たとえば、人は健康なときは、仕事などを通じて社会の中で価値を創造できる。
病気になって入院しても、別の患者さんと会話したり、美しい音楽を聴いたりすることによって、価値を体験できる。
いよいよ寝たきりになっても、別の患者さんに迷惑をかけないとか、医師や看護師の負担をなるべく減らすようにするなどによって態度で価値を生み出すことができる、というのだ。

今回の教授の行為はまさに、極限状況においてこの態度価値を体現したものだ。本当にすごい。
私も大学教員として、このような事態(日本では起こらないなんてもういいきれまい)に際して彼と同じような態度がとれるだろうか。

もちろん、そのような人間でありたいと心から思う。
しかし、そうできる自信は正直いってないのが情けない。

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アメリカの病その1

2007年05月28日 | profession
4月16日のバージニア工科大学の乱射事件はアメリカ社会のさまざまな問題を浮き彫りにする事件だった。

ニューヨーク州の弁護士資格をとったのも、アメリカ社会についてきちんと批判できる立場になりたかったからだが、アメリカの法律を勉強して感じるのは、アメリカ人のどうしようもない孤独と相互不信である。

法は常識の最大公約数的なものだが、さまざまな国からの移民で成り立っている国なので、共通する文化、宗教、考え方の基盤というものがなく、誰にでも通用する常識というものはない。
そのために、法という規範には細かくいろいろなことを書き込まねばならない。

その法を横断的に見てみるとひとつの前提がみてとれる。
それは、「自分以外は誰も信用できない。自分の城=家を一歩出れば全部敵である。絶対的な信頼関係で結ばれているのは夫婦関係だけだ」ということだ。

たとえば、正当防衛では、侵害法益と被侵害法益が均衡していなければならない(つまり、受けそうになっている被害以上のダメージを相手に与えてはいけない)ので、日本では、加害者を殺してもいいのは、自分が殺されそうになった場合に限られる。しかし、米国では、不穏な方法で住居侵入された場合は、侵入者を殺しても均衡性が認められるのだ(服部君事件はだから無罪)。

また、日本では夫婦のみならず親子間でも同様に認められるいろいろな免責事項(親族相盗や逃亡幇助罪など)が、アメリカでは、原則夫婦のみに認められ、親子間では認められないし、その免責される事項の種類も膨大である。
(たとえば、性病になった妻に、夫の浮気の可能性を医師が聞くのは、通常名誉毀損になるところ、わざわざ配偶者にそうきくなら免責という規定がある。つまり、親子や姉妹なら医師に名誉毀損が成立する。また、一人に悪口をいっても名誉毀損だが、相手が配偶者なら免責。親や兄弟に他人の悪口をいうのは名誉毀損である)

日本では夫婦はそれぞれ夫、妻、父、母という役割さえ果せば、愛情の有無についてそれほど深刻に考えない傾向がある。だから、お父さん、お母さんと夫婦が互いを呼び合ったりするのだろう。
それで、夫が給料を運ぶという役割を果さなくなった定年後、人間として向き合ったとたん熟年離婚ということにもなる。

しかし、アメリカでは、愛情の冷めた夫婦は離婚すべきだという生真面目な倫理観があるようだ。
日本では問題にされない中絶の是非が大統領選挙の最大の争点になるなど、アメリカでは家族、とくに夫婦についての絶対的な紐帯は、他者との関係の冷たさとあまりの違いである。

それは、誰も信じられない世の中で、絶対的な信頼の対象は配偶者という価値観があるからではないだろうか。

日本では、ビジネス上の関係がかなりウェットなのに比べて、夫婦の関係についてはむしろビジネスライクである。
アメリカでは、ビジネス上の関係は非常にシビアなのに、夫婦関係には、ナイーブといってもいいほどウェットである。
ライバルを踏みつけにしても何も感じない冷酷なビジネスマンが「自分は妻を本当に愛しているか」と真剣に悩んでいたりする。


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卑劣な犯罪

2007年05月28日 | Weblog
このブログでも書いた、京都石峯寺にある伊藤若冲の羅漢像が、倒されたり真っ二つに割られるなどの被害に遭ったという。

http://www.sankei-kansai.com/01_syakai/sya052507.htm

昨年ここに行ったが、ひっそりとした小さなお寺だった。現在相国寺承天閣で若冲の特別展示会をやっていてまた注目されているので、犯人は思いついたのだろうか。

何が動機かわからないが、お寺でしかも芸術作品を修復不能なほどに破壊するなどなんと卑劣な犯罪なのだろう。羅漢像の題材は釈迦の生涯や賽の河原など仏教に題したものだから、それこそ仏罰が下るぞ。

この頃世をはかなみたくなることが多い。

司法制度改革は大失敗でせっかく築き上げた日本の法の支配は崩壊しかねない。

憲法も改悪されそうだ。

こんなときにリベラル派の東大法学部の憲法学者が痴漢で逮捕されるし。
もちろん、疑わしきは罰せずだから黒と決め付けられないが、報道によると本人も「好みだったのでやった」と認めているという。

年齢からすると私と在学時期が重なっているが面識はない。
でも、東大法学部始まって以来の情けない不祥事ではないだろうか。

大学教員の痴漢といえば、うちの大学でも数年前にそれは恥ずかしい事件があった。(以下は全てマスコミに報道されたこと)
セクハラ、アカハラなどの対策をするイコールパートナーシップ委員会の委員長を務める理学部の教授が富山に学会に行った際、書店で女子高生に「遊ばない?」と書いた名刺を見せつつお尻を触り、逮捕されたのだ(起訴猶予)。供述によると「大阪や東京出張の際も何度もやっていた」そうだ。

彼は3ヶ月の停職処分を受け、結局自分から辞職したが、事件はそれだけでは終わらなかった。

それからしばらくして、またマスコミに出たのだが、なんと、彼は神奈川県で強制わいせつで逮捕され、今度は起訴され裁判になり有罪(執行猶予付き)になったのだ。
その内容も嗤える。
ネットで女子高生から生パンツを買う約束をし、神奈川のショッピングセンターの障害者用トイレに入った。8万円で買う約束をしていたのに、片手に札をもって、「パンツだけなら6万円、触らせてくれたら8万円やる」と言い出し、「約束が違う」と嫌がる女性高生を無理やり触って声をあげられ御用になったというのだ。

こんな人間をハラスメント対策の責任者にするのだから、この大学のハラスメント対策がどんなにでたらめなものか容易に想像がつくだろう(実例は別の媒体で詳細に書く予定)。

痴漢は、私でさえ若い頃何十回となくされたことがある。
だからきれいな人はもっとすごい被害にあっているだろう。

あれは本当に嫌なものだ。
まず、物理的に気持ち悪い。
今でも忘れられないのは、大学1年のとき駒場に向かう京王線の車内で、期末試験日の朝、硬い棒状のもの(それが何かは思い出したくもない)を臀部に後ろからずーっと当てられていたことがあって、試験の出来にさしつかえるほどの死にたいような不快感だった。

見知らぬ人のタバコのポイ捨てを注意するような気の強い私でさえ声をあげることができない。
なぜなら、被害者が恥じ入る必要ないのにものすごい羞恥心にかられる。
それに、ただの性欲をぶつける対象=ものと扱われたことに人間性を否定されたような屈辱感を覚える。

さらに、卑怯なことに、声をあげても「満員でたまたま手がそこにいっただけだ」と言い訳されそうな微妙な触り方をするので、やっぱり指摘しづらい。「自意識過剰だ。お前みたいなブス誰が触るかばーか」と嗤われそうな気もする。
(懲戒解雇になった東大理事の触り方も眠っている間に隣の女性の太ももに手がかかっていたのを気づいた後もそのままにしていた、という典型的な卑怯な触り方だ)

いいたいことは、もちろん、映画「それでも僕はやっていない」に描かれているような冤罪もあるだろうが、逮捕される数千倍は泣き寝入りしている被害者がいる犯罪なのだということだ。

日本の女性は満員電車でけして男の味あわない身体的不快感と屈辱を味わって、「なぜ女だけがこんな目に遭うのか」とフェミニズムに身体感覚で目覚めるのではないのかと思う。

満員電車自体があまりないからかもしれないが、外国では電車内の痴漢はあまりないそうだ。他人にばれなければ何をしてもいい、どうせ被害者は声をあげられまいという、逃げ道を作りながら被害者の羞恥心や良識(違っていたら悪い)につけこむ、日本人特有の恥の感覚にも関係する、せこくて陰湿で卑劣で、被害者にものすごいダメージを与える許しがたい犯罪だ。

国会中継で安倍首相が社会科の教科書に出てくる憲法の三大原則を暗誦するようにただ連呼するばっかり(意味がよくわかっていないのは明らか)で、「法律の支配」と「法の支配」が区別できていないことといい、こんな頭の悪い奴がリーダーなのかと目の前が真っ暗になった。

舛添さんは質問で「首相のことを○○と誤解する声がありますので、ここでぜひそうでないことをこの場でご確認させていただきたい」といって、いくつもの点について、安倍首相に言い訳の機会を与えるためだけの提灯質問をしているし、大学1年のとき政治学の授業を受けたときはもっと気骨のある人かと思ったのでがっかりだ。こんな意味のない質問のためにどれだけの国民の血税が使われているのだ。

給食費や保育料を払わない親とか、もうこの国はだめだ。

夫が国家公務員という仕事を一生続けたい人でなければ、もう日本以外のどこかで暮らしたい。

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それが社会常識

2007年05月27日 | profession
「特急田中3号」というドラマは、東京一偏差値が低いという設定の産業流通大学(略してサンリュウ大)の鉄道研究会の3名の大学生と大手商社派遣OL3名が中心になる、昔の「不揃いの林檎たち」に設定の少し似ているドラマである。
4月18日放送分に以下のようなエピソードがあった。

4浪したうえに2留(いずれも友達を助けるために試験を受け損ねた)している大手ホテルチェーンの御曹司(超弩級の鉄)が、卒業のかかった科目のレポートがどうしても書けずに昨年の先輩の提出したレポートを丸写しして提出し、それがばれて(当然である)、単位を落とし、3留することになり、ホテルも弟に継がれそうになる。
教授(阿藤快)に嘆願に行くと「君は私を裏切ったのだ」といわれすごすご引き返す。

「諦めずにもう一度頼みにいくべきだ」と友達(カトゥーンの田中聖(こうきと読む。社保庁で間違われないように気をつけよう)と、最近できちゃった結婚がきまった塚本高史)が強く勧めても、彼は「俺は教授のことも傷つけてしまったのだ。そんな資格はない」という。

それがまっとうな人間の考え方だよね。
三流といわれている大学に4浪して入った学生でさえそれくらいの良識はあるとこの手のドラマで描いているいうことは、それが社会通念だということであろう。

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某国立大学病院の意識に絶望

2007年05月24日 | Weblog
同じ敷地内にある病院に時々行っている。
東京の大学病院より圧倒的に空いているし仕事の合間に行けるので助かる。
今回は検査で行って来たのだが、患者として市民として絶望するようなことがあった。

東京の病院では待合室が5倍くらい混雑しているが、携帯電話でメールしている人を一度として見たことがない。
しかし、この病院の待合スペースでは、行く度に必ず携帯メールをしている不届き者を複数みかける。

そこで、今日、検査の点数のことが疑問で医事課に行ったついでに「患者の携帯電話についてのこの病院の方針を教えてください」といったら、課長補佐という人が以下のような信じられないことをいった。以下、私との会話を再現する。

補佐「通話は限られた場所でしかできないはずです」
私「でもいつもメール打っている人がいるのですが。通話だけでなく、電源を入れているだけでも問題があるはずです」
補佐「通話やメールの送信がいけないのは知っていますが、電源だけでもいけないなんて聞いたことがありません」
私「でも東京の病院ではどこでも徹底していますよ」
補佐(激昂して)「じゃあ、具体的にその病院の名前を教えてください。問い合わせますから」
私「東大病院とか慈恵医大病院とか」
補佐(挑戦的に)「わかりました。じゃあ、東大病院に問い合わせさせてもらいますよ。いいんですね。」
私「携帯電話の電源自体が有害だというのは常識でしょう」
補佐「それはあなたの常識でしょう。私は専門知識はないので知りません。それに、本当に電源がいけないなら患者さんのポケットの中まで調べろっていうのですか」
私「それは無理でしょうからせめて表に見えているメールだけでも注意してくださいと…」
補佐(感情的になり、私の言葉をさえぎり)「そんなのおかしいじゃないですか。電源自体が有害ならメールだけ取り締まっても仕方ないでしょう。だから電源自体が有害なんてことあるはずない」
私「じゃあ、病院の医師や看護師がみな携帯でなくPHSを使っているのはなぜだとお思いですか?私が入院した際も『携帯は禁止なのでPHSを貸し出す』といわれましたが、それはどうしてですか」
補佐「そんなこといったらパソコンはどうなるのですか」
私「入院患者のパソコンが禁止なのは電力使用の関係と聞きましたが。パソコンの電源自体が有害ということはないと思います」
補佐「私はそんな専門的なこと知りませんといっているじゃないですか。とにかくそんな話をしても仕方ないのでもう帰ってください」(といって手を振ってしっしと追っ払うしぐさ)

確かに私は喫煙マナー(喫煙小屋が自転車置き場のそばにあり、しかも空気穴がたくさんあるのにいつもドアを開けっ放しで医師や職員が喫煙しているため自転車を停める際に煙がくるのでそのたびに苦情をいいにいっていた。敷地内全面禁煙もやっと今年の4月に実施し、市内の他の総合病院に数年以上遅れている。だから救急指定をそっちにもっていかれたりするのだ)についてうるさくいったりして、煙たがられている患者かもしれないが、国立大学の付属病院の医事課の課長補佐が携帯電話の電源の有害性を知らず、指摘した患者に暴言を吐くというのはどうなっているのか?

後で確認したら正面玄関に「院内では携帯電話の電源を切ってください」という大きなステッカーが貼ってあったのに、医事課の課長補佐がその意味を知らないとは。
しかも苦情を受け付ける係の人間がこれでは自浄作用もありえない。

保健所で調べたらノロウイルスなのに、「細菌性」と診断されたこともあったし、
これでは「患者として」安心して受診できない。この町に住むことについて絶望的な気持ちになった。

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為替差益が読めないアナウンサー

2007年05月18日 | Weblog
先週、海外投資所得の申告漏れで逮捕された会社員のニュースを目覚ましテレビで高島彩が読んでいて、「為替…」とつまったところ、アミーゴ伊藤に「さえき」とフォローされて「為替差益」といい直した。

これは普通の読みかただし、第一難しい専門用語ともいえないだろう。
こんな言葉も知らないでアナウンサーになれるし、人気番組のメインキャスターにもなれるのか、心からびっくりした。

言葉で馬脚をあらわすことはよくある。
どうして日本人は欧米で評価されただけでその人への評価を急激にアップさせるのかわからないが、菊池凛子が帰国後のインタビューで「真摯的に」といっているのを見て愕然とした。
真摯は形容動詞なのだから、的をつけるのは誤りである。
別に、全ての人が正しい日本語を使えなくてもいいが、俳優という職業にとって言語能力は非常にクリティカルではないのか?

ホリエモンがまだもてはやされていた頃、外国プレスへの記者会見で「I cannot speak English better]という中学生でも犯さない誤りを見てがっかりした。インターネットについては最新情報、最先端の情報は英語で発信されるから、最低限の英語能力は、彼の仕事が本物ならば必須だと思ったので、この時点で「偽者だ」と確信したのである。

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タバコが無辜の他人の命を奪う

2007年05月10日 | Weblog
8日の、山陽道で社員旅行のマイクロバスがトラックに追突されて21人が死傷した事件、トラックの運転手がタバコを取ろうとして運転を誤ったのが原因だそうだ。

そんなことで命を失った人徳者という社長は成仏しきれない。遺族も納得できないだろう。

タバコはその依存性においては違法ドラッグも上回る強度をもつので、タバコのためには理性が吹っ飛ぶという現象はどんな人格者にも見られる。

現在は、マナーを守って吸おうとすると、いつも「どこに灰皿があるか、いつどこで吸えるか」を考えていなければならない。ほかにいくらでも考えなければならないこと、しなければならないことがあるのに、タバコごときに振り回される人生のばかばかしさに早く気づき、やめてほしいものだ。

タバコといえば、東京の家でよく利用する区立の図書館の附近で、昼頃、図書館の職員が名札とエプロンをつけたまま歩きタバコをしているのを見かけ、ポイ捨てはもちろん、歩きタバコも禁止する文京区条例に区立図書館職員が違反していいのか、と苦情をいいにいった。
事務所に案内されて、「○○という人の上司を出してほしい」といったら、他の職員が困っていた。職員の名が全部書いてあるボードを見たらその名がトップにあったので、「もしかして館長なんですか」といったら、他の職員は「私の口からはいえない」とわけのわからんことをいう。(後で館長であることが判明)
こうやって見え見えのことでも身内を庇ってごまかすというのが日本の組織では期待されるのだなと改めて思った。

身内の不正を庇うのが当たり前という価値観といえば、ドラマ化されていた『華麗なる一族』でも、西田敏行扮する義父の汚職を実父(北大路欣也)がマスコミにリークしたからといって、キムタクが「リークした奴を殺してやりたいほど憎む」といっていた。それっておかしいよね。汚職した方が悪いのに、そういう価値観をヒーローに語らせるほど日本人の価値観はそうなのか、と絶望した次第。

話はそれるが、あれは不愉快なドラマだった。ストーリーよりも、キムタクをいかに格好良く見せるかということに主軸がおかれた安手のアイドル映画みたいだった。それに、中村トオル(妻役の吹石一恵とは20歳近く違うのでは)、西村雅彦、山本耕史と並んだときの身長差があまりないのは???である。
1960年代に、茶髪で長髪の鉄鋼マンは絶対いない。キャリア官僚役の中村トオル(『海猿』で殉職する直前生まれてくる子の名前を考えていて伊藤英明がなんでカタカナの名前なんですかといったら「馬鹿野郎、カタカナの名前には偉い人がたくさんいるんだぞ」っていうのは、普段寡黙な役だけに笑えた)だってださい73分けで役作りしてるんだから、もっとちゃんとしろよ。
北村一輝なんか、売れない頃、記憶もされない脇役なのに、ドラッグで歯がぼろぼろのチンピラ役をやるためだけに歯を数本抜いたらしいよ。(演技のうまい注目している役者だが北一輝と一字違いなのはわざとかといつも思う。ちなみに北一輝と有田八郎は佐渡島出身で、どちらも三島と関係があるのは面白い)

キムタクといえば、今まではドラマの中で必ずといっていいほどタバコを吸っていた。
『ビューティフルライフ』なんか、青山の歩道でタバコをポイ捨てするシーンまであって(いい人という設定の主人公にタバコをポイ捨てさせるのはまずかろう)腹が立ったものだが、今回は喫煙シーンが一度もなかったことだけは評価しよう。

しかし、30年くらい前に、山村聡、加山雄三、林隆三,小川真由美、島田陽子などが出たドラマの方がずっと重厚でよかったことにかわりはない。とくに、次男役の林隆三が表面従順ながら久我美子扮する母への思慕と父への憎しみという複雑な感情をもつという難しい役を繊細に演じていて出色だった。
私は中学のときから30代好きで、北大路欣也、古谷一行(高校の近所の実家古谷写真館にいってお父さんに話し聞いたりした)、林隆三のドラマは欠かさず見ていた。高三のとき、『噂の刑事トミーとマツ』の課長役の林隆三見たさに、駿台の東大コースを水曜日だけは一時間(あまり人気のない先生の国語の授業だったせいもあるが)サボってたもんね(ビデオデッキなど当然ない時代)。

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