夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

体制は変わらず

2005年07月21日 | profession

これは、教授会の内容でも職務上知りえた秘密でもなんでもないので、これで何かできるものならやってみろ、という感じで、あまりにも憂慮すべきことが起きたので書く。

新聞等で報道されている通り、昨日、文科省の設置審議会の現地調査があったのだが、とてもまじめに反省しているとは思えない事態が起きた。

みなし専任および処分を受けた教員以外の全員に、前もって20日に調査が来ることを周知していた(確認した)のに、私にだけ知らされなかったのだ。
地方紙に小さく載っていたようだが、購読していなければわからない。

どうして知ったかというと、昨日、用があって事務室にいったら、事務員全員(パート職員さんも含めて)の机の上に、現地調査の細かいタイムテーブルのコピーがあったのが、目に入ったからだ。
直接関係しない事務員にも悉く知らせていることを、私にだけあえて知らせなかったということだ。

そういえば、いつになくびしっとスーツで決めた某教員が、廊下で私を見て「まずい!」という顔でぎょっとしていたな。

たとえ、私は面接に呼ばれなかったとしても、一応そういう重要なことは前もって知らせてくれないと困る(服装も、あまり熱いのでムームーみたいなのを着ていたのだ)。
私の研究室の前の部屋で記者会見を開いたのに。

まあ、合理的な解釈としては、内部告発者と疑われ、批判的なことをいいそうな人間を排除したいから、または単なる嫌がらせだろう。
しかし、18名も面接に呼ばれたのに、こんなすぐばれる隠ぺい工作って?

周りをイエスマンだけで固め、批判的な人間は重要な情報から遠ざけ、干す、これって、処分された前研究科長と同じ行動パターンじゃないか。

それで本当に反省しているといえるのか?

こんなことで本当に世間の信頼を回復できると思っているのか?

他のさまざまな嫌がらせ(とてもここには書けない)のこともあり、堪忍袋の緒が切れた。

この前、テロに危うく巻き込まれそうになったり、12年ぶりに母校の一つ、オックスフォード大学を訪ね、NY大学に移った先生以外の恩師全員に会い、12世紀からそのまま使われている校舎なんかを見て、原点に還ったというか、私はここで勉強した時から研究者になるべく運命づけられていたんだ、と思い、くだらない奴を相手にするのはやめて研究に専念しよう、大学院の将来のために、私が人権侵害を我慢して収まることは我慢しようと思い始めていたが、もう同情の余地はない。行動あるのみ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Our Trust in Rule of Law

2005年07月11日 | 旅行
事件の翌日、女王と皇太子夫妻が別々に負傷者が収容されている病院を慰問し、フットワークの良さに感心した。

女王がその際のスピーチの中で、テロに屈せず、今までどおりの生活をし、我々の価値を損なわせないことが重要と言ったとき、この言葉が出てきたのに、感動。こういう言葉が王室メンバーからさらっと出てくるところが、さすが、マグナ・カルタの国だわ。(そもそもは王の専横から人権を守るためのものだったのに)

今まで通りの生活をすることこそ、テロを克服する方法、ということが強調されているので、昨日の日曜日予定されていた終戦60周年式典も予定通り行われ、王室全員が出席する式典を見ようと集まった人々で、バッキンガム宮殿前の広場は埋め尽くされた。

マグナ・カルタといえば、実物を大英図書館で見た。
昔大英博物館にあった文書類は今こちらに来ている。

シェークスピアのロンドンの家の抵当権設定証書Blackfriars Mortgage Deed(1613.3.11)もあって、ちょうど不動産登記所を見学した後だったので感激。
“William Shakespeare,(住所), mortgages to Henry Walker,(住所), for £60 a house that he had brought from Walker on the previous day for £140. This secured the balance of the purchase money for the property which stood by the great gate of the former Dominica priory of Blackfriars between Ludgates and the present Blackfriars Bridge”

この図書館には他にも、英国の作家の直筆原稿とか、ビートルズの自筆作詞原稿とか、最古の新約・旧約セットの聖書とか、お宝がたくさんあるのだが、私が思わず落涙したのは、南極探検でアムンゼンに敗れ、かつそこで命を落としたスコット隊長の最後の日記だ。そばにいた見知らぬ男性が「見てご覧、スコット隊長の遺書だよ。すごく感動的だね」と話しかけてきた(英語の発音からして英国人だろうが、英国人は米国人と違ってあまり知らない人に話しかけたりしないんだが)。
最後の言葉は、”For god’s sake, look after our people”(Picture shown)

それから、アンデルセンの生誕200周年ということで、特別展示をやっていた。
私もアンデルセンの童話に親しんで育ったが、結末が悲惨なものばかりなのが不思議だった(無理やりハッピーエンドにするディズニーはすごい!さすがハリウッド![もちろん皮肉]アメリカに留学して初めバークレーの語学学校に入ったとき(ロースクールの前に語学1ヶ月、プレロースクールを、ジョージタウン大学で1ヶ月やった)、Little Mermaidが教材だったので、途中ですでに私や他の日本人が泣いてしまい、教師に不思議がられ、「だって、結末を知っているから」といったら、彼に「ハッピーエンドに決まってるでしょ。だってアメリカ映画だよ」とといわれた)。

しかし、彼の生涯をつぶさに知って理解できた。
デンマークの地方オデンスで貧しい靴職人の息子として生まれ、11歳で父親を亡くし、貧困の中で
“the difficulties, indignities and sense of exclusion that made up Andersen’s childhood underlay every word he wrote: his sympathy for the outsiders, his identification, with the child or an animal such as the duckling or the nightingale, ignored or unheeded above the crows and babble; his vision of life as a solitary
struggle often ending in tragedy.”(“Hans Christian Andersen” Jackie Wullschlagerより。以下、引用は同様)
という人生観を培った。

後にJonas Collinという後援者を得て17歳になってから11歳の同級生に混じって学校に通い始めるが、勉強は苦手で、作家になってからもデンマーク語のスペルも正確にできず(彼と英国で二回会い、二度目は彼を同居させて苦い経験をしたディケンズも、「英語どころか、デンマーク語もちゃんと話せるかどうか怪しい」と述懐している)、校正者が直していたそうだし、後日地図上でコペンハーゲンの位置を正確に示せなかったそうだ。

社会から疎外され、見下されてきたアンデルセンが、作家として比類ない名声を手に入れったことは、「醜いアヒルの子」という作品にもっとも如実に投影されている。

しかし、その名声も彼を癒すことはなく、
“Admiration and fame became a drug for Andersen, who never fully overcame his bitterness at his early hardship, and remained still lonely in spite of his acclaim, nervous in temperament, gawky in appearance, sexually uncertain; he wavered between crushes on men and women, never developing a full relationship with anyone.”

病的なほど疑い深く用心深く、火事になったときにホテルの部屋から逃げ出せるようにといつも9mのロープを旅行中持ち歩いていたそうだ(それも展示してあった)。

アンデルセンは、それまで「年若い大人」としか認識されていなかった子供の「発見」と時代を同じくしたためにもてはやされたという面もあるが、彼のこうした内面が生む暗い物語が、子供に世界に立ち向かう心の準備をさせるからこそ、こうして長く読み継がれているのだと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Phantom of the Opera

2005年07月08日 | 演劇
今日も、警察からはなるべくロンドン中心部に出かけるなという注意が出ているので、かなり迷ったけれど、友人の家にいて、BBCを見ていた。幸い、何人かの弁護士と電話でインタビューができて、仕事のほうも思ったより進んだ。
アフリカ宣言のサインのときは、小泉さん真ん中にいたけど、あの緑色のペイズリー柄のネクタイは全然似合っていなかった。

それでこうしてエントリーもしているのだが、表題は、
私の一番お気に入りのミュージカルだ。
ちなみに今までロンドンまたはNYで見たものは、キャッツ、レミゼラブル、ミスサイゴン、ライオンキング、アイーダ、Beauty and the Beast, We will Rock You, マンマミーア。

初めて見たのは、1993年、留学中の英国でだが、感動のあまり、劇場でテープ(当時はまだCDはそれほど一般的でなかった)を購入し、大学の寮の部屋でいつもかけていたので、ほとんどのナンバーは今でも歌える。

今回、12年ぶりに同じ劇場:Her Majesty Theatreで見た。
(夜と週末はミュージカル・オペラ、夜開いてる美術館等に通っています。)

映画版を有楽町マリオンで見て、また、ロンドン行きの飛行機でやっていたので、それをまた見て、劇場版をまた見たくなったからだ。
私は演劇フリークだが、たとえ好きな役者が出ていても、同じ演目を二度見るということはあまりないのだが。

やはり、いろいろな意味で、非常に優れたミュージカル作品だと思う。

まず、内容面だが、ガストン・ルルーの原作を下敷きに、普遍的なテーマを斬新なスタイルで描いていることにあると思う。優しく、必ず幸せにしてくれるであろう男性と、危険で一緒にいても不幸になりそうな男性(このことは、私の一番好きなナンバーAll I Ask of You において、それぞれの男性がChristineに歌いかける科白が、 Raoulのそれが “Let me lead you from your solitude” であるのに対して、Phantom のは、“Lead me, save me from my solitude”であることに象徴されている)との間で揺れる女性というのは、源氏物語の浮舟と匂宮・薫大将の三角関係にも遡れる普遍的なテーマである。(そういえば、劇中最も美しいシーンであるPhantomがchristineを船に乗せ、地下水路をこぎ行くシーンは、匂宮が浮舟を舟に乗せて連れ出すシーンと似ている)

また、ChristineはPhantomに亡父の面影を投影しているので、これも古典的なエレクトラ・コンプレックスから説明できよう。
孤児である彼女の孤独とPhantomの孤独が共鳴しあって惹かれ合ったということも説得力をもって伝わってくる。

そして、これがミュージカルの場合、非常に重要な点なのだが、ミュージカルという形式の利点を十二分に生かしていることである。
ミュージカルには、「どうしてそこで急に歌い出すのか?」という根本的な不自然さが常に付きまとう(三谷幸喜の『オケピ!』にもそういう科白があるし、タモリもだからミュージカルは嫌いだと公言している)が、この作品では、舞台がオペラ座であり、主人公はPhantomと歌の指導を通じて心を通わせるという設定だから、歌うことはむしろ必然である。

さらに、作曲家が愛する女性の歌をプロデュースして成功させるというストーリーは、現実のA ウェバーと、当時の妻でchristine役のサラ・ブライトマン(後に離婚)の関係とも完全に重なっている。(日本でもTKと華原朋美がそのような関係だった)

そしてまた、劇中歌も、絶妙に物語とリンクしている。
RaoulがChristineを幼馴染と気づく場面で彼女が歌っているアリアThink of Meは”We never said our love was evergreen, or as unchanging as the sea, but please promise me, that sometimes, you will think of me!”となっており、その直後の再会のシーンで、Raoulは、子供のころ、彼女の赤いスカーフを拾うために海に入ってずぶぬれになった思い出を語る。

また、Phantomの、天才的な才能を持ちながら社会から隔絶された孤独感も、彼が作曲したという設定の音楽の素晴らしさとのコントラストで効果的に描かれている。これは、映画版『砂の器』(TV版は噴飯物)にも共通する。
Masqueradeはまさに、仮面の下に孤独を隠すPhantomの生き様そのもの、そして、劇の最後のフレーズは、”Hide your face, so the world will never find you”である!

今回役者の中では、Raoul役のOliver Thorntonが貴公子然とした美貌なのがとても印象に残った。ウェールズ人で12歳で初めて見たミュージカルがこれだったそうだ。

映画版との比較では、まず、プロローグの終わりにシャンデリアのベールが解かれるところで、シャンデリアの光が当たったところから、モノクロの画面がカラーの19世紀末の輝かしいオペラ座の場面に変わっていくという、映画ならではの演出がすばらしい。

また、劇場版では、Phantomにやられっぱなしでどちらかというと情けないRaoulが、映画版では仮面舞踏会の後でも決闘しようと剣を抜いたり、墓場のシーンでは、Phantomと戦って実際にねじ伏せるところまでいっている点で、優しいだけでなく、強く勇敢な理想的な男性という面が強調されている。

また、映画版では最後にRaoulが競り落とした猿のオルゴールを妻だったChristineの墓に供えると、そこにPhantomのバラが置かれているという場面が付け加えられている。

ひとつ、映画版の方がリアリティを欠くのは、マダム・ジリーがPhantomが見世物小屋から逃亡するのを助けたという設定だ。劇場版ですら、娘のMEGが、朋輩の出世に全く嫉妬しないのが、不自然なのだが、映画では、さらにその母親が恩人なわけだから、「なぜ私の娘にこそ個人指導してくれない?」ということになりはしないか?この親子はお人よし過ぎないか、と思うのは私の性格がひねすぎているから?

私自身は、12年前に見たときは、留学という目的を果たし、次は結婚、と思っていた時期だから、Christineに感情移入し、前述のAll I ask of youも、彼女の立場から、孤独から救ってくれる男性にめぐり会いたい、と思いながら、オックスフォードの寮の部屋でこの曲を聴いていた。同じ意味で、中学のときから好きだったCarpentersのOnly Yesterdayの"After long enough of been alone, everyone must face their share of lonliness""I've found my home here in you arms"というフレーズも繰り返し聞いていたのだが。が、今回は、Phantomの救いのない孤独な魂と自分を重ね合わせてしまう。最後のシーンは、涙が止まらなくなった。

自分には過ぎた相手と結婚して10年経っても癒されないほど、私の孤独は根本的なものだったのだと今回気づかされた。

今回見た他の作品・We Will Rock Youとマンマミーアは、それぞれQueenとABBAのヒットナンバーの人気に依拠した作品で、ちょっと掟破りじゃないかと思う。

オペラ座の怪人 スペシャル・エディション(2枚組) [DVD]
ジェラルド・バトラー,エミー・ロッサム,パトリック・ウィルソン
メディアファクトリー

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戒厳令のロンドンから

2005年07月08日 | profession
あまりたくさんの人には知らせていない(いない間に研究室で変なことされると困るので)が、私は今、researchのためにロンドンに来ている。
心配してくださっている方もいらっしゃると思うので、書いておく。

うちの法科大学院は3学期制で、2学期は8月から始まる。
民法7部あるうちの3,4,6部のほか、英米法と中国法も担当するから、今のうちにまとまった調査をしている。

1992年から1993年までオクスフォードの大学院に留学し、その後も銀行の出張で1994年と1995年に来ているから、ちょうど10年ぶりだ。

(研究費(交通費込みで年間30万円)がどうせ全然足りないし、今私のあらを探そうを躍起になっている人がいるので、休暇届を出して100%私費できている)

今回の主要な目的は、昨年と今年の春、アメリカでも調査し、それと比較しようとしている、英国の信託法や信託業務、そして不動産登記制度の調査だ。

そのために、非常にショッキングな出来事に遭遇することになってしまった。

先週は、母校の一つ、オックスフォード大の法学部図書館でリサーチしたり、10数年ぶりに恩師ふたりと会ったりした。卒業したSomerville College(サッチャー元首相の出身校)に宿泊したのも、何もかも懐かしさに涙の出る経験だった。

今日は、午後にClifford ChanceとFields and Fishersの信託業務担当のパートナー弁護士とアポがあったので、それまで、大英図書館で調べものをしようと、居候させてもらっている友人(前に勤めていた銀行のロンドン支店のスタッフで、英国人と結婚して30年近く英国に住んでいる人で、私が銀行でロンドン支店の融資案件の審査をしていたときから、親しくさせていただいている。昨晩はオペラフリークの彼女の指南で二人でロイヤルオペラハウスにリゴレットを観にいった。
ご親切に甘えご厄介になり、本当に申し訳ないと思っている。
でも大学の教師は逆成果主義、まじめに研究や教育をやればやるほど、こうして可処分所得や自由時間が減っていく。だから、10年以上論文かかない、授業ではレジュメも配らないなんていう先生が出てくるわけだが)
)の、ロンドン郊外の家を、9時前に出た。

ところが、途中のWest Hampsteadという駅で停まってしまい、「電車は再開する見込みがないので、駅から出て下さい」といわれた。
このときは、ロンドンの地下鉄は相変わらずunreliableだな、くらいしか思わず、139番のバスに乗りかえた。

バスは非常に混雑していて、携帯電話で外部と話していた他の乗客と情報交換したら、「ラッセルスクエアでバスが爆発し、その関係で全ての地下鉄がとまっている」とのこと。このとき初めてただならぬことが起こっているとわかった。

バスは、11時前にやっとOxford Circusに到着し、当初10番のバスに乗り換えて大英図書館に行こうと思っていた私だが、情報を集めるために、近くにあったJCBプラザに寄った。

そこで、BBCのニュースを見ていると、地下鉄やバスなど複数の箇所で爆発が起こり、同時多発テロの可能性が高いとの事、ロンドンは地下鉄全線と国鉄だけでなく、zone1(最中心部)のバスは全て止まっているとの事。
戒厳令というのはちょっと大袈裟かもしれないが、スコットランドヤードの人がTVで「Stay where you are」といっていたし、会社の人はみな建物から出るなといわれていたようなので。

携帯電話もネットワークが混み合って全然つながらないので、親切な日本人のスタッフが、電話を貸してくれて、アポのキャンセルと、日本の夫への電話ができた。その時点では夫は深刻さがまだよくわかっていなくて、私はいらついた。

そういえば、似たようなことが婚約中にあったな。地下鉄サリン事件の日、夫の使っている路線がやられたので、夫から「心配しているのじゃないかと思って」と私の職場に電話があったが、私は夫の使っている路線だったことを知らなくて、冷たいと言われてしまった。

ここでじっとしていた方がいいのか、それとも早く帰ったほうがいいのか、(でも、交通機関はないし、タクシーも捕まらない)、下手に動くとまた何かに巻き込まれるかもしれない、と迷っているところに、JCBの男性スタッフが、タクシーを調達してきてくれ(前の仕事柄UCカードばかり使っていたが、これからはJCBをもっと使おう、と決意した)、他の客と一緒に乗ることができ、その人たちのホテルに寄ってから、13時ごろやっと滞在先にもどることができた。

といっても、高校生のお嬢さんが帰宅するまで家に入れないので、近くの中華料理店で食事しながら、広東人だという主人と広東語で話したりして(広東語の響きはいつも私に楽しかった香港時代を思い出させる)時間をつぶし、15時ごろやっと家にたどりついたわけである。

情報は錯綜しているが、今のところ、地下鉄の三箇所の爆破では少なくとも33人が亡くなり、バスの爆発で亡くなった方の数はいまだ不明、150人以上が重傷を負っているそうだ。

平日の9時前後という通勤時間を狙ったテロに、昨日のオリンピックの狂喜から一転してロンドンは激しい怒りと悲しみに襲われている。バッキンガム宮殿にも半旗が翻っている。

私も、被害者になっていたかもしれないのだ。
事件の起きたEuston, Kingscrossといった駅は、大英図書館のすぐ近くだから。
きっと被害者の中には観光客も多数含まれているだろう。
無辜の人を無差別に傷つけるテロへの怒りを、心から感じた。

9.11を思い出すと、私は香港にいて、ずっとCNNを見ていたが、画面の端の文句が、
America Under Attack
America in War
War Against Terrorism
とだんだん扇情的になっていったのをよく覚えている。

しかし、BBCの放送は、もっと冷静で、いろいろな現場からの生中継の下に、交通情報等が字幕のように帯状に流れている、とてもtidyなものだ。ここにも国柄を感じる。

オックスフォード大法学部の先輩で好感をもっていたブレア首相が、最近イラクのことではアメリカの子分みたいになっているのが気に入らなかったが、彼の、以下のコメントには全面的に同意する。

"Whatever they do, it is our determination that they will never succeed in destroying what we hold dear in this country and in other civilised nations throughout the world."

それにしても、ブッシュの談話はBBCに流れても、小泉さんは全然出てこないな。
G8のメンバーがずらっと並んだ前でブレア首相が声明を読み上げた映像でも、両隣にはブッシュとシラク、その隣にも別のメンバーがいて、小泉さんは映りもしなかった。こういうことで英国の日本観がわかるよなー。

人類全体を巻き込むこういう悲惨に対して、法学研究者というのは、どのようなhelpができるのだろうか?いつもいつも考えてしまう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NY州弁護士登録

2005年07月06日 | profession
写真は受験地Albanyの高速道路の下にあった硫黄島メモリアルの絵。非常に象徴的だと思ったので。

5月にNY州の司法試験の合格通知が来たことを書いたが、正式に登録するためには、書類上の煩雑な手続が必要である。

基本的には、Application for Admission to Practice as an Attorney and Counselor-at-Law in the State of New York
という一連の書類を出すのだが、それは、
①Application for Admission Questionnaire
②Addendum: Designation of Agent
③Form Affidavit as to Applicant's Law-RElated Employment and/or Solo Practice
④Form Affidavit as to Applicant's Good Moral Character
という4種類の書類だ。

①は、本人の書く、今までの学歴や職歴のほかに、犯罪歴がないかどうか等の細かいたくさんの質問に答えなければいけない書類だ。
米国らしいなと思うのは、犯罪歴等と並んで、「養育費の支払を滞らせていないか」という質問があったり、「あなたは未来永劫合衆国憲法に忠誠を誓うか」という質問があったりすることだ。
こういう質問があるために、官庁等からの派遣でロースクールに留学し、NY Barに合格しても、公務員の忠誠義務に抵触するからという理由で、結局登録しないままの人が多いらしい。

②は、訴状の送達等について、ニューヨーク州最高裁のClerkを代理人にしてする書類(米国の民事訴訟法では、原則的に州内で訴状を送達できないと裁判管轄がなく、それができないため、予め送達代理人を指定しておく)

③は、法律関係の職歴がある場合に、そのときの上司から出してもらういわば推薦状。
仕事ぶりや、弁護士にふさわしい人格・識見を具えているかを詳述するようになっている。
私は、2つの銀行の法務部にいたので、それぞれの上司に作成をお願いした。

2001年まで勤めていた銀行で次長だった上司は、学生時代に司法試験に合格し、途中で休職して研修所も修了している人だったが、統合してメガバンクになってから弁護士になった。(といっても銀行の顧問弁護士の事務所の一つに就職し、結局銀行関係の仕事を多くされているようだが)
理由はおっしゃらないが、統合により、法務部の古きよき伝統が失われたからだろうと私は推測している。同じように尊敬する先輩も外資系銀行の法務部に転職した。私がいた頃の法務部は、金融法務という分野を作ってきたといってもいい大変アカデミックなことにも力を入れているところで、草創メンバーの弁護士でもあるOB(故人)は、民間人で初めて法制審議会の委員にも選ばれたくらいだ。
大銀行で、第一線で最先端の法律問題を扱いながらも、毎月のように、判例紹介や新法解説の論文を外部や内部の雑誌に書かされ、その次長が付きっ切りで添削してくれ、下手な大学院よりずっと密な論文指導をしてもらった。しかも、毎日最先端の問題を扱うというインプットもしながらだ。
今考えても、超多忙ではあったが民法を研究する上で、最良の環境だったと思う。
新しい法務部では、そういう執筆活動もほとんどなくなって、事務指導に力を入れるように変わってしまったそうだ。

大学卒業してすぐ勤めた銀行の法務部長だった方(その後監査役になり、数年前に引退されている)には、約10年ぶりに再会した。
その上司は、総合職一期生だった私に本当によくしてくださり、日本の司法試験を続けていた私の勉強に配慮してくださったり、銀行法務検定で全国最優秀賞をとったときも人事部に掛け合って社内表彰をはからってくださったり、留学する際も強く推薦してくださった大恩人だ。
司法試験の勉強については、「若い人のやる気というのは、お金で買えないから」といってくれたことをありがたく思い出す。

④は、「人格証明」
弁護士になるのにふさわしい人格であることを友人等2名に証明してもらうのだが、この友人というのは、親族、同僚、卒業したロースクールの教職員等の利害関係人を除き、同じ町に住んでいる人で、1名はできれば弁護士がいい、というので、事務所見学でもお世話になった森濱田松本のQ弁護士と、三島由紀夫研究会で20数年前に知り合い、ずっと親しくしているKさんにお願いした。

①~④まで、notarize(公証)しなければならないのが大変だった。
米国には、戸籍とか印鑑証明といった制度がないので、たとえばBAR Examの願書等も、このnotarizeをしなければならない。ただ、日本と違って簡単に資格は取れるので、ロースクールの事務員で資格を持っている人が何人かいるので、その人に願書をnotarizeしてもらったりする。

ちなみに、notaryの地位は国によって違って、スペインや中南米では、大学の法学部を卒業しただけで弁護士資格を取れるが、本当に権威のある法律職はnotaryであり、それになるのは大変なのだそうだ。
香港では、notaryの手数料は法定されていて儲からないので、わざとその資格をとらない弁護士が多い。でもそれでは不便なので、事務所に一人だけ資格を取らせた弁護士を置くが、彼(女)はそれを引き受ける分割のいい仕事の機会を奪われるので、相当の手当を出しているらしい(中国人らしいやり方だ)。

それに代わるものとして、米国大使館でnotary serviceを受けるか、公証役場で認証してもらうかということになる。
前者は一件30ドルですむが、書類作成者のIDとして基本的にパスポートしか受け付けない。
元上司二人はパスポートの有効期限が切れており、公証役場でやっていただいたら、一件13500円かかった。

いずれにせよ、今回の手続で、いろんな方に助けていただいて今の私があるのだなと感謝し、つらい現在を乗り越えるよすがにすることができた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする