夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

歩きタバコ禁止法案に賛成!

2004年11月26日 | Weblog
昨日、民主党の長妻議員が歩きタバコ禁止法案を国会に提出した。
違反者は拘留30日以下または罰金1万円以下とのこと。

歩きタバコは危険だし、煙いし、それをやっているだけで、どんなに身なりが良くても下卑た人間に見える行為だ。私も人ごみでコートを焦がされたことがあり、また、ちょうど子供の目線なので、やけど事故等も起こっている。

最近では、道で歩きタバコの輩とすれ違うたびにこれ見よがしに手を左右に大きく振って煙を払い、「ニコチン中毒が!」と叫ぶことにしている(歩いている間も我慢できないのだから中毒という合理的な推定が働くだろう)が、元来無神経だから歩きタバコなんぞができるらしく、相手はめったに気づかない。
それから、子供の前でポイ捨てする親も信じられない。そういう行動を見たら、そして、道路にたくさん落ちている吸殻を見たら、子供は「自分本位に他人に迷惑をかけてもかまわないのだ」と思ってしまうのではないか?それが若者の倫理観を損なっていることにもっと注意を払うべきだと思う。

タバコをめぐる武勇伝はいろいろあるけど、亀有に住んでいる頃、選挙前、地元の自民党候補者の選挙運動員が何人か、駅前で「お願いします」と言いながら立っていたが、そのうちのひとりがすっていたタバコを側溝に捨てたのを見て、駅前交番に突き出したこともある。(別にどこの党の候補者でも同じことをしたけど)
驚いて、自民党の区議会議員が何名も駆けつけてきたのが笑止だった。

しかし、「他人に熱の危害が及ぶ態様で」という定義は曖昧すぎ、罪刑法定主義の観点からは難があるかもしれない。いっそ、「路上等公共の場所」と定義してしまえばいいのに。

タバコもマナーを守ってすってくれる分にはいいが、中毒性があるからなかなかそうはいかなくなるのが、人から理性を奪う。
タバコを吸うこと自体に偏見は神かけて一切ないが、なぜか、私の交友関係と喫煙には有意な関連性がある。「どうもそりが合わないな」と思っていると、あとで喫煙者であるとわかる,等、例え私の前では一切吸わないとしても、喫煙者とはうまくやっていけないというジンクスがある。友人と呼べる関係を結んでいる中で喫煙者の割合は1%くらいだ。
最近、「喫煙者なのに心から信頼できる人だ、私のジンクスももう通用しないな」と思っていた人物が、職業人としても人間としてもとんでもない人物だということがわかったので、「ああ、やっぱり」と思った次第。

「インテリはタバコを吸わない」という偏見なら、持っているかもしれない、と白状しよう。
私の学生時代、20数年前だから日本は今よりはるかに喫煙者に寛大だったが、東大法学部の先生でタバコを吸う人は私が講義を受けた中では一人しかいなかった。
学生もほとんど吸わず、ゼミ30名中0だった。
文科三類の学生は男子はクラスで一人(自分史に書いた片思いの人)を除いて全員吸っていたのと比べて、「将来人の上に立とうと思っている人間は違うのだ」と良い意味でも悪い意味でも感じた。
銀行の法務部でも吸う人はほとんどいなかった。
外交官配偶者として香港にいた際も、領事館の職員をみて、夫をはじめ、キャリアで吸う人は一人しかいず(おまけにすごい男尊女卑男だった)、ノンキャリアでは9割が吸っていたことがその確信を新たにしたものだ(こういうといやらしいかもしれないが、事実は事実だ)。

だから、この大学に昨年赴任したとき、smokerが多く、外部のお客さんも通す共同研究室が喫煙OKでタバコ吸い放題で煙でもうもうとしているのを見、また、他の教員に範を示さなければならない立場の人までが私の隣で「吸ってもいいですか」とも聞かずに吸い始めたのには、ものすごいカルチャーショックを受けた。「私はなんて野蛮なところに来てしまったのだろう」と。
だって、その前の月に健康増進法が施行されて公共の場所での受動喫煙の被害を管理者はミニマイズすることが義務付けられていて、ここは経済や法律を研究・教育するところなのだから。


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ジェンダーと法・角田由紀子先生

2004年11月19日 | profession
10月26日に、「ジェンダーと法」の講義で、ゲスト・スピーカーとして弁護士の角田由紀子先生にお話いただいた。

角田先生は、多くのセクハラ訴訟で原告代理人を務め、現在明治大学法科大学院で「ジェンダーと法」を教えていらっしゃる、ジェンダー法学の第一人者だ。
私は銀行員だった91年に先生の著書『性の法律学』を読み、「おかしいこと、理不尽なことをこんなふうに理論的に説明できるのだ」と感銘を受けて以来先生のファンで、昨年設立されたジェンダー法学会の第一回大会でお目にかかり、初対面にもかかわらず、ゲストスピーカーをお願いし、実現に至った。

現在静岡県弁護士会に所属する先生にわざわざここまでお越しいただくのは本当に申し訳なかったが、期待以上の迫力あるお話をいただき、学生たちも非常にいい勉強になったようだ。


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社会科学ゼミナール

2004年11月18日 | profession
昨年度に続いて、今年も法学科1年生を対象にした社会科学ゼミを担当している。
20数名ずつ3クラスに分け、3名の教員がそれぞれのクラスで5回ずつ法律や政治の基礎を教えるというもの。
(昨年度は3人のうち1人の教員が採点を放棄し困った【のみならずその人はレポートを学期終了後何ヶ月も学務係に置きっぱなしにしていた。つまり、学生が一生懸命書いたレポートを自分の研究室に持っていくことさえしていなかったということ。学生への裏切りだと思う】が、今年度の顔ぶれだとその懸念は全くないだろう)
昨年採点しなかったこの人物は今年の前期担当科目もいまだに(11月17日学務係に確認)採点していず、学生、とくに4年生を困らせているのは許せない。個別に聞きに行った学生で「君は不可だからレポートを書きなさい」と言われた者がいるようだが、それって非常に不公平じゃないだろうか。聞きにいった学生だけが不可を挽回するチャンスを与えられ、成績が発表されるまで待っていた学生は不可を挽回するチャンスがないなんて。学生にこんな思いをさせるなんて教員失格だと思う。常人の感覚では到底理解できない。(個人攻撃でなく、同じ教員として義憤にかられて書いたことは賢明な読者ならご理解いただけると思う)

今年度は少人数でしかできないことをしようと、私の担当部分では、以下の場所への見学を行っている。

少年刑務所見学
法務局見学
法律事務所見学

いずれも大学から近い範囲にあるからこそできることだが、こういう点は、徒歩圏にこういう施設が全てあるとは思えない大都会の大学で教えるよりメリットがあるなと思う。

法律事務所は今年の春に県弁護士会主催のハワイ州司法制度視察旅行に通訳として同行した際、ご一緒させていただいたTN弁護士にご協力いただいているが、改めて、地方都市の弁護士の果たす公益的な役割に目を啓かされ、こういう良心的な法曹の方々に日本の「法の支配」は支えられているのだなとつくづく思う。銀行員時代は、corporate lawyerとばかり仕事をしていたから。(といっても人権派の弁護士も個人的な知り合いならいるが。坂本堤さんとも話したことがある)T事務所のN弁護士(この方もハワイでご一緒した)が「東京でpracticeするという選択肢もあったが、いろいろな仕事ができて依頼人との距離も近い弁護士らしい仕事は地方でしかできない」という言葉が印象的だった。

法務局では、本学経済学部の86年卒の登記事務官の方が親身に説明してくださる。

少年刑務所を見学して印象的だったのは、担当者の方の、「自分は災害があったら自分の家族よりまずここにかけつけ受刑者を守る。中越地震でもその地域の少年刑務所の収容者が安全な刑務所に移送された」という話だ。学生の感想文の中には「一般の被災者が避難所生活で難儀を強いられ、車で寝泊りしてエコノミー症候群で亡くなったりしている人もいるのに」というものが結構あった。

見学を3回行い、それぞれ感想文を書かせる。
残る2回のうち、初回は見学をより意義あるものにするため予備知識の説明をし、今1回は学生を3-4班に分けて発表をさせる。
テーマは、少年刑務所の見学にからめ、「少年犯罪実名報道」について、1998年におきた堺通り魔殺人事件の地裁判決、高裁判決を分析させるとともに、各班に実名報道が許される基準について提案させるというもの。

難しすぎるのではないかと思ったが、どの班もこちらの予想以上のすばらしい発表をしてくれ、うれしくて涙が出そうだった。
過去の少年犯罪についても詳細に調査したり、実名報道について判断する委員会の設置を提案したり、パワーポイントでプレゼンする班さえあった。

ところで、この授業のために高山文彦の「少年犯罪実名報道」を夏休みに読んだ。高山氏は私の座右の書「いのちの初夜」の著者北條民雄(ハンセン病患者として収容所で作品を書いていた人。私は全集も持っている)の生涯を扱った「火花」で大宅壮一ノンフィクション賞をとった人だが、彼の実名ルポはさすがに読ませる(新潮45を他大学から取り寄せた)。
ただし、堺の事件の犯人について「子供をもっても女としてしか生きられない」淫蕩な母に捨てられたという、母親の責任ばかりに言及するのがジェンダー的にはどうか、と思った。父親だって彼を捨てているのであるし、自分の両親に息子を預け、時々は会いにくる母親の方が、まったく音沙汰ない父親よりはましであり、そこに「母親は父親より子を愛すべきだ」という価値観や、次々新しい男を作ることへの非難も母は女より母であるべきという価値観が前面に出ていてフェミニストの視点からは感心できなかった。

この本の中に柳田邦男が裁判所に提出した意見書が出てくるが、その直前に(今更ながら)「犠牲」を読んでいたので、また関連妄想。「犠牲」を読んで身内の不幸を題材にしながらセンチメンタリズムに陥っていない(親馬鹿な部分は多少あるが)点がさすがと思ったが、ひとつ気になったのが、「ナイーブ」という言葉を、英語本来の意味(世間知らず、単純、幼稚)でなく、和製英語(繊細、内向的)の意味で多用していることだ。
ナイーブをどういう意味で使うかでその人の英語力がわかることがある。
ある同僚が、専門からして英語が少なくとも読めないとまずいだろう(アメリカの制度が多く取り入れられ、現在もその方向での改正が進んでいる分野だから)のに、私が悩みを相談した際、「先生って意外にナイーブなんですね。気にしすぎですよ」といわれ、「この人の英語力って」とショックを受けたことがある(けんかを売られたり嫌味を言われるシチュエーションではなかったが、一瞬けんかを売られたのではないかと思って相手の顔を見てしまったが、にこにこしていた)。少なくとも英語の使い手とわかっている相手には英語本来の意味で使うのではないだろうかと思ったから。英語の社会科学の論文ではnaiveという表現は「荒削り」という意味でよく出てくるからだ。

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本日発売のアエラ

2004年11月15日 | Weblog
に、取材を受けた記事が出た。
「東大卒女子40歳の現実」という巻頭特集。
夫の家事分担率90%以上とアンケートに回答したのはたった1人で、それは我が家のことである。
(夫の名誉のためにいっておくが、夫は多忙なキャリア官僚で現在内閣官房に出向中である。)

育った場所に対するコンプレックスも記事に書かれたが、
同じアエラに「学校選択制ランク 都内小中校一覧」という記事があり、わが母校の小学校が、区内で入学率ワースト4ということがわかったのが、象徴的。


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就職と留学(自分史5)

2004年11月09日 | Weblog
そんな不純な動機だったせいか、司法試験には失敗し、1987年に卒業と同時にある銀行に女性総合職第一期生として就職することになった。前年に施行された男女雇用機会均等法のおかげで、多くの企業が初めて女性の総合職を採用するという年に、司法試験で留年していたため、たまたま大学を卒業したのである。時はバブル経済の最盛期で、銀行をはじめとする金融界は株式市場や不動産の高騰に業界をあげて驚喜乱舞している時代であった。

他の総合職一期生世代の女性と同様、何をするにしても「女性で初めて」という肩書がついてまわり、マスコミの取材等も受けていたが、私はまず一人前の銀行員として仕事で認められたかった。私が配属されたのは法務部で、銀行のさまざまな法律問題を解決したり契約書を作成したりするのが主な業務であったが、知識がものをいう仕事であったために、女性であるがゆえのハンディをほとんど感じることもなく、懸命に仕事をこなし、銀行内での高い評価ももらえるようになっていった。

そんな私に、転機は入社3年目に訪れた。その銀行では総合職は入社3年目から海外留学生になるための試験が受けられるので、金融のglobalizationの流れをひしひしと感じていた私は、金融先進国である米国のロー・スクールへの留学を志願したのである。しかし、英語も入社当時に比べかなり上達していたのに、結果は不合格。かなり落ちこんで「こんな会社辞めて自費で留学してやる(当時はいくらでも再就職口があると思えたのである)」とまで思いつめたが、一歩進んで、「そうだ、もう一度受験して合格したら留学だし、だめだったら会社を辞めるのだから、どちらにせよ、今の法務の仕事はあと1年しかできない、ならば悔いを残さないように今しかできないことに全力を尽くそう」と思うようになった。それで、事務セクションと定期的に会議を開いてより支店の助けになる連携策を練ったり、書籍や論文の検索を容易にするためデータベース(まだエクセルもない時代であった)の構築を企画・実行したりと積極的に業務の改善に取り組んだ。また、私生活でも、「生まれて初めて海外生活をするには、苦手を克服する精神力がなければ」と思い、子供の頃から大の運動音痴で大学三年になる時「これで人生でニ度と体育をしなくてすむ」と喜んだ私だが、テニススクールに入ったり、スキューバダイビングの免許を取得したりした。

その甲斐あって次回の挑戦でめでたく社内選抜に合格し、留学への切符を手に入れたが、行く先まで会社は用意してくれない。自分で志望校に出願するのであるが、ここでも私は他人と違うことに挑戦した。普通、企業派遣留学というのは、米国のビジネス・スクールかロー・スクールに留学して学位を取得するのだが、ビジネス・スクールは2年間でMBAを取得するのに対して、ロー・スクールは1年間でLL.M.(法学修士号)を取得するというように年限が違う、しかし、同じ企業派遣で期間に差を設けるのは…というので、ロー・スクール留学生も2年間留学させてもらえるようになっていた。学位は既にとっているのに、2年目何をするかというと、ほとんどの人は同じかまたは別のロー・スクールで聴講生のような単位取得義務のない立場で勉強するのだった。しかし、私はそれでは時間がもったいないと思い、2年目はイギリスの大学院に行きたいと思い、人事部に許可を得て(バブル経済だから許された贅沢であろう)、アメリカとイギリスの両方に出願し、Harvard, Columbia, Oxford, Cambridgeをはじめとするほとんどの大学から合格通知を得たが、イギリスの大学には「1年後に行かせて下さい」と手紙を出して、1991年にHarvard Law Schoolに留学した。

私は28歳のその時まで、海外旅行どころか飛行機に乗ったこともなかったし、英語の読み書きはできても会話はからっきしだめだったので、Harvardの勉強には非常に苦労したが、それは予行練習に過ぎなかった、と思ったのは翌年Oxfordに行ってからである。外国人留学生に慣れておりある意味お客さん扱いしてくれるHarvardと違い、Oxfordのカリキュラムは厳しかった。Tutorの先生に会う度に「昨日は何時間勉強したの?最低8時間以上は勉強しないと落第しますよ」と脅され、その先生をはじめ回り中の誰もが私は卒業できないと思っていた。しかし、勉強の要領を徐々に覚え、卒業時にはFirst Classという、上位10%の学生だけに与えられる特別賞付きで卒業証書をもらうことができたのである.(日本人では初めてではないかといわれ、初めの頃さんざん脅した先生も「厳しいことをいってごめんなさい」といってくれた)。

二つの法学修士号を手に、1993年に銀行に復帰した私を待っていたのは、完全に崩壊しきったバブル経済だった。国際業務のセクションに配属された私は、入社当時とあまりに様変わりした経済状況に唖然としていた。バブルの頃、できる銀行員の証であった不動産融資は、(当時の)大蔵省からほとんど犯罪視される等、全ての価値観が180度変わっていた。「鬼畜米英」といっていた学校の教師が終戦を境に掌を返したように米国を礼賛するのとも似た節操のないあり方に、私は「世の中には何一つ確かなものなんかない」と思うようになった。

他の(主として男性の)同僚と同様、ジェネラリストとして出世の階段を上がっていくことこそ銀行員の花道と考えていたが、出世して役員になっても、かつて「手柄」だった取引が犯罪扱いになり引責辞任を迫られるケース等を見ていて、出世できなくても法務のスペシャリストとして生きていこう、そしていずれは大学で教えたい、と思うようになった。それで、激務の傍ら法律論文を発表したり、また、「教えたい体質」はその頃からあったのか、ロースクールに関する情報が極端に少ないことに自分自身が悩んだ経験を後進に役立ててもらうため、懇切丁寧な出願手続きのガイドからハーヴァードでの生活体験記までカバーしたガイドブック『ロー・スクール留学ガイド』を出版した。今でもロースクール留学の最もコンプリヘンシブな本として読まれている。日本人留学者で知らぬ人はいないらしく、初対面の渉外弁護士から「あなたの本で勉強しました」と声をかけられることもある。

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法学部進学と失恋の顛末(自分史4)

2004年11月09日 | Weblog
にもかかわらず、私の悩みは解消されなかった。進振りの希望提出のぎりぎりまで大学の近くの喫茶店で髪をかきむしった末、結局教養学部の相関社会科学科にし、もちろんすんなり希望は通った。カリスマ的人気のあった社会学の見田宗介教授のゼミにはまっており、その影響もあった(ゼミの先輩にエッセイストの岸本葉子氏がいる)。

しかし、私の煩悶はさらに深くなった。2年生の後期から専門課目の授業もたくさんとるようになったが、教養学部であるだけに、課目選択の幅も教官も、1年生の時のように広く自由度の高いものだった。そもそも大学1年次は私にとって夢のように楽しい時だった。カルチャースクールのような感覚で自分が知的好奇心をもてる課目を好きなだけほぼ自由に選び、楽しくてたまらない授業を一生懸命聞いていたら自然に試験でもいい成績が取れた。

しかし、このような楽しい日々があと2年以上続くのかと思うと、逆に不安でたまらなくなってしまったのである。これでは、自分が大学で何らかの専門知識を身に着けることはできないまま、浮草のようにふわふわと漂うだけで終わってしまうような気がして、足元が急に崩れて奈落の底に落ちていくような夢をよく見るようになっていた。また、研究者としてやっていくには、言語社会心理学のような学際的な研究分野の場合、ここまでやれば可、ということはなく、大袈裟にいえば、世の中のありとあらゆる文献に目を通す必要があるのでは、そしてその上でオリジナリティを出さなければならず、私にはとてもそんなことできない、という茫洋とした不安にも襲われ、半分ノイローゼから完全ノイローゼになっていき、私は「何でもいい、体系や枠組がしっかりしていて、まじめにやれば一通り専門知識が身につく学問をやりたい」と切実に願うようになり、翌年もう一度進振りを受けて、ウルトラCで法学部に進学しようと思うようになった。成績は十分足りていたので、そのままの成績で臨めるよう、試験はいっさい受けないで翌年の進振りに臨み、無事法学部に進学した。

しかし、ここでも私は自己嫌悪に苦しめられ、結果としてボランティア活動からも遠ざかることになった。

なぜ法学部を選んだのかと聞かれると、三島由紀夫がやはり東大法学部出身だったこと、三島もトーマス・マンの「小説家は銀行員のような生活を送らなければならない」という言葉をよく引用していたように、まず実務家として有用な人間になってから趣味で文学研究をしたいと思って、等と聞こえの良い答えをしている。しかし、実は私は度しがたいほど嫌らしい人間であり、私の中に、「東大でも一番ステイタスの高い学部に所属したい」という上昇指向があったことは否定できなかった。ノイローゼになったのも、一般大衆に一番頭がよさそうとわかってもらえる法学部でなく、通にしかわからない教養学部に属している自分、俗っぽい意味で「一番」ではない自分が許せない、耐えられない、というのが実は一番の理由だったのではないかと今は分析している。世間的に見て一番じゃなきゃ生きていけず、実際に心が壊れてしまうどうしようもない人間だったのだ、私は。この自分の心の醜さに気づいたのがこの時だった。
両親に代表されるような無学でナイーブな一般大衆と自分は違うと思いながら、そのナイーブな価値観で「すごい」と思われる位置に自分がいないと嫌だという厄介なダブルスタンダードが自分の中にあることに気づいたのだ。

教養学部や文学部を出て研究者になったのでは、偏差値が低かったのでは、と世間が疑う(なんと歪んだ思考であろうか)。文科三類の同級生が「法律や経済なんて無味乾燥な勉強する奴は馬鹿だ」と批判していたのも私には「すっぱい葡萄」にしか見えなかった。できるだけ文学と遠そうな実学を使う、ステイタスがあり所得も高い職業に就いて、自分は頭も良く有用な人間であるという世間に対するアリバイを作った上で好きな文学研究をしたい、というとことん卑しい願望を抱く人間だということを、自覚するに至ったのである。

いわば自分は転向した訳で、熱くマルクスを語った文科三類の同級生にも合わせる顔がないような気がして、本郷でも彼らに会いそうな生協食堂等には行かないようにしていた。

そして実は、もっと大きいものも犠牲にしていた。私は入学時から文科三類の同じクラスのある男子学生に片思いしており、進振りのためのオリエンテーションでたまたま彼も私と全く同じように相関社会科学科か教育心理学科かで迷っていることを知り、同じような思考の持ち主であったことに驚喜したが、結局私は全く違う道を選んでしまった。彼は教育心理学科に進学し、クラス中の誰よりも早く卒業時に研究仲間と結婚し、研究者になっているらしい。もちろん私の全くの片思いであったから、たとえ同じ進学先を選んでもどうにもならなかったとは思うが、20年経った今でも彼がくれた聖書(英語の授業でキリストの生涯を扱ったテキストを使っていたので、話しかけるいいチャンスと思い、クリスチャンの彼に「聖書はどこで入手できるか」ときいたらその場でくれたのである)を本棚の片隅に見る度に失ったものの大きさに胸が疼く。

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東大点友会時代のこと、福島智さんのこと(自分史3)

2004年11月09日 | Weblog
私はそこで駒場店友会という点字のボランティア・サークルに入った。受験勉強中自分の試験の点数のことしか考えられない自己中心的な毎日が嫌になり、「何か人の為になることを大学入学後はしたい」、ということを目標にして非人間的な勉強の毎日に耐えていた、というと聞こえはいいが、学生時代何か打ちこめるような課外活動をしたい、でも、スポーツは大の苦手である、という消去法的理由があったことも否めない。

駒場点友会は伝統のある本格的な点字サークルで、ベテラン点訳者である深川静郎氏を指導者として厳しい指導を受け、日本語点字と英語点字をみっちり叩きこまれた。当時は、コンピューターによる点訳のような便利なものはなく、専ら「カニタイプ」という、英文タイプライターの中で左から右に動く四角い印字器の左右に、両手の人差し指、中指、薬指を置いて打つためのカニ足のようなキーが付いている道具で点字を打っていた。これらの6本の指のどれを打つかという組み合わせ(2の6乗で64通り)で、日本語も英語も表せるのである。大学を卒業し、点字から離れてからも、流行歌を口ずさみながら、その歌詞(日本語でも英語でも)に合わせて無意識に指を動かしている自分がいた。そのおかげで、香港で約20年ぶりに点字をやろうとした際も、指が完全に点字を覚えており、ほとんど勉強し直す必要がなかったのである。

駒場点友会の活動は、主としていろいろな大学に在籍する盲学生のために教科書を点訳したり、盲学生を受け入れている大学の入学試験の点訳をしたりするもので、とくに後者はとても面白かった。晴眼者の会場と盲学生の会場は分かれており、私たち点訳者も別の部屋で控えている。晴眼者の会場で試験問題を配布すると同時に私たちにも渡され、急いで点字に直したものを、係員が盲学生の会場に持っていく、という臨場感あふれるボランティアであった。

それに対して前者の普通の点訳は、割り振られたものを自宅や下宿に持ち帰ってしこしこやるという孤独な作業で、つるんで遊ぶのが真の目的かと疑うようなサークルもある中、主な活動が一人でやる辛気臭い作業ということで、途中で挫折してしまう部員もいた。しかし、私に関しては、すべてのことに意味を求めるという強迫的な性格がものすごくこういう作業に向いていて、全く苦にはならなかった。前述の通り、高校卒業と同時に現金はいっさい渡されなくなり、学費・交通費・本代の全てを家庭教師のアルバイトで賄っていたので、私の生活は、大学の授業、点字ボランティア、アルバイトの3つでほぼ占められていた。

学園祭では、希望者にその場で点字の名刺を作ってあげ、点字に関するパンフレットを配るという活動を行い、これが後述する香港でのバザーでの活動につながっている。

こうした活動の縁で、筑波大学附属盲学校の塩谷治先生と知り合い、先生が力を入れている「福島君と共に歩む会」にも参加することになった。福島智氏は、ご存知の方も多いであろうが、現東京大学先端科学研究センター助教授である。当時は、盲学校在学中に聴力も失い、盲聾者となりながらも、勉強を続けようと苦労していた。そんな彼をさまざまな形でサポートする会が「福島君と共に歩む会」であった。私のような晴眼者だけでなく、多くの盲学生もメンバーになっていた。

そこでは、視力も聴力も失った福島君のために、指点字という驚くべきコミュニケーション手段が用いられていた。彼の両手の人差し指から薬指までの6本を、前述のカニタイプのキーに見たて、その上に話者が自分の同じ指を重ねて置き、カニタイプを打つように指を動かして文字を綴り、それに対して福島君が声で答える(途中失聴者であるため、言葉は普通に話せる)のである。福島君は、聡明なだけでなく明るく前向きな性格で、ハンディを克服して偉い、というレベルでなく、その人間的な魅力から、ハンディがあること自体をこちらに忘れさせる人だった。私の指点字に関西訛りの言葉で答える明るい声を聞いていると、こちらが励まされるような気がしたものである。

忘れもしない、あれは大学2年の夏、「歩む会」の合宿が河口湖で行われた際のできごとである。
当時、私は自分の進路のことで悩み、半分ノイローゼのようになっていた。

これを話すためには、少々長くなるが、部外者には極めてわかりにくい東京大学の進路決定システムの説明から始めなければならない。入試の時から学部毎に分けられている他の多くの大学と異なり、東京大学では学生が入学時に自分の専攻を最終的に決定することはない。入学時に文科一類、文科二類、文科三類、理科一類、理科二類、理科三類という6つのコースのうちどれかを選ぶことになっているが、これは大雑把な目安でしかない。最終的に3年次に進学し卒業する学部・学科は、2年生の前期終了時に、学生の希望とそれまでの教養課目の平均点により決定されるのである。この進学先決定のプロセスを「進振り(進学先振り分け)」という。

といっても、文科一類の学生は教養課程の単位さえとれば成績如何にかからず法学部に、文科ニ類の学生は同様に経済学部に、理科三類の学生は同様に医学部に進学できるので、実質的に進振りを受けるのは文科三類、理科一類、理科ニ類の学生であったので、人気の高い学部・学科に進学するためには教養課程で良い成績を取らねばならず、そういう学生にとってはもう一度受験があるようなものなのである。文科三類では、人気のある教養学部や、文学部・教育学部の一部の学科を除けば定員割れで競争はなく、第二志望にそうしたすべり止めの学科を書いておけばどこかに進学することはできるが、悲惨なのは理科系だった。理学部・工学部はだいたいどこの学科でも競争があり、しかも、年によって足切りの点が変わってしまうので、安全パイというものがなく、前の年では進学できた成績でも僅差で行けなかったり、同じように第二志望、第三志望にもあぶれて進学先がない、という事態に陥る学生も少なくない。こういう学生は、2年生の前期修了の時点で翌年の進振りに備えるため、もう一度1年生の後期からやり直すことになり、これを、学年末試験で進級できなかった留年と区別して「降年」と呼んでいる。

反対に、成績が極めて優秀な学生にはウルトラC的な進学が可能であり、理科ニ類の希望者のうち10名だけ、および理科一類の希望者のうち数名だけが医学部に進学できたり、文科ニ類と文科三類の希望者のうち5名だけ法学部に進学できる制度があった。東大工学部建築学科出身の女優の菊川怜が「医学部にも行こうと思えば行けたけど、そうしたら女優の夢は諦めなければならないと思ったので建築学科にした。」とインタビュー等でいっているのは理科一類でこのウルトラCが可能な成績だったということなのである。

実は、私も文科三類に所属していたが、たまたま、ウルトラCで法学部に進学できる成績だった。勧められもしたが、当時は法学部には興味がなかった。元々、三島の研究者になるつもりで、文科三類に入学したのも、文学部国文学科志望だったからだ。

しかし、大学に入り、社会学や心理学を学んで、文学研究にもいろいろなアプローチがあるのを知ったことが私を迷わせていた。実はボランティア活動も大きな影響を与えていた。私は大学で点字サークルに入ると同時に、育った地元の「葛飾手話の会」という社会人の多いサークルで手話も学んでいた。そのため、盲人と聾唖者の双方に接するようになったが、その両者を比較すると、コミュニケーション手段にハンディをもつという点で共通しているはずなのに、認知の仕方に大きな違いがあった。聾唖者にはリンゴ、みかんの違いはわかってもその上位概念である「果物」というのが理解しにくい、というように、耳で音声をキャッチできないことが、とくに抽象概念の形成、ひいては現実の相対化能力に大きな影響を与えるのに対し、盲人にはそうした問題はなかったからである。ヘレン・ケラーも「何か一つだけ取り戻せるなら、聴覚がほしい」といっていたそうである。このように、コミュニケーションや言葉というものにまつわるハンディの概念形成に与える影響に関心が向き、言語社会心理学の勉強をしたいと思うようになった。盲人や聾唖者がその欠落によって影響を受けているとすれば、三島由紀夫は、既に引用した『太陽と鉄』でわかるとおり、逆にその過剰によって人生を支配されたのではないかと思えたからである。言語社会心理学を勉強しようとすると、当時考えられたのは、教育学部の教育心理学科か、教養学部の相関社会科学科のどちらかであり、ともに人気学科ではあったが、もちろん成績上は全く問題なかった。そのどちらに進学すべきかということを悩むあまり、半ノイローゼ状態になってしまったのである。大学2年の夏中、そのことばかり考え、本屋や図書館に行けばいろいろな本を手に取り、まず著者略歴を見て大学時代どんな勉強をした人なのかばかりを知ろうとする、という状態だったので、世間で何が起こっているか、その頃の記憶がすっぽり抜けている。今はミーハ―で芸能界にも詳しい私が、当時は、流行っていた中森明菜も南極物語も全く知らないでいたのである。

そんな時、参加した「歩む会」の合宿で、ある夜、福島君の弾くピアノに合わせ、会の中心的メンバーで盲学生の女性が歌ったのが尾崎亜美作詞作曲で杏里が歌った「オリビアを聴きながら」であった。前述のような事情で、当時流行していたはずのその曲を私はその時初めて聴いたが、リズムを合わせるために彼女が福島君の後ろに立ち、彼の両肩に手を置いて、指点字で歌詞をなぞりながら歌うその姿は、私の魂を芯から震えさせ、一幅の絵のように私の瞼に今でも焼き付いている。ハンディを負いながらもこんなに美しい姿で人を感動させることができるこの人たちに比べ、私の悩みはなんと卑小なのだろうと恥ずかしくなった。

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高校時代(自分史2)

2004年11月09日 | Weblog
私が去年の10月から住んでいるマンション(そのローンの支払のために経済的窮乏を強いられている)は、出身高校のすぐ近くだ。15歳の時から、いつかここに住むのが夢だった。その理由を以下に記す。

私が汚水にまみれた環境から抜け出す第一歩を記した筑波大附属高校はまさにユートピアだった。私はここで教育を受けたことを心から誇りに思う。
偏差値や東大の進学率のことをいっているのではない。自分の頭で考え、他人を尊重するというリベラルな教育を実践していたからだ。もし、子供に恵まれることがあれば、大学には行かなくてもいいが、(むしろ、職人とか、大学以外の道を見つけることができるような子供になってくれたらこんなうれしいことはない。私は他に何もないから学歴に縋ったが、最上の学歴を身につけても幸せになれなかったいい見本だからだ。)この附属高校で学んでほしいと強く思う。

校則も制服も自治会も生徒指導部も進路指導部もないのに学生は節度を守って行動し、かつ、お互いを尊重するという、私がその後属したどの組織よりも大人同士の関係を取り結んでいた。3年までクラブ活動をしていた生徒も東大に現役合格した。バリバリの理系の生徒でも面白くない授業で机の下で読む内職本はサルトルだった。教師から命令されなくても、民主主義とは何か理解していて、文化祭実行委員会が立候補すると、その委員に民主的正統性を与えるためだけ(つまり選挙で勝たせるため)だけに、負けるための対立委員会候補が自主的に立ったりする理想的な環境だった。

教育内容もすばらしかった。自分で受験勉強できる学力のある生徒でないと成立しないといわれればそれまでだが、歴史科目以外の社会科は全て教科書を全く使わない授業だった。地理ではアパルトヘイトや沖縄問題を扱ったり(その先生は現在琉球大教授となり教科書裁判の原告になっている)、倫社では松本清張の『日本の黒い霧』をテキストにして帝銀事件や下山事件を扱ったり、尾崎秀実の『愛情は降る星のごとく』が夏休みの課題図書になったり、政経も朝日訴訟等の福祉問題を扱ったり、全て世の中の常識を疑い、自分の頭で考える訓練をさせるものだった。私に与えた影響は計り知れない。

私が学者になったのは、金融業界の激変を目の当たりにして「世の中には何一つ確かなものなんかない、でも研究や教育の価値だけは不変だろう」と思ったというどちらかというと消極的な理由からだと自分では思っていたが、高校でこういう教育を受けたことが、人に影響を与える教師という仕事のすばらしさを知らず知らずに心に刻み付けていたこともあったのではないかと思う。

高校では、オーケストラ部、新聞部、文芸部の三つの部を掛け持ちし毎日遅くまで没頭していたが、成績は常にクラスで1、2番をキープしていた。授業を聞けば大体のことは理解でき、試験の直前以外は家で勉強することもなかった。

中学の時に出会った三島由紀夫は近くの小石川図書館で高校1年で全部読破し、ますますのめりこんだ。きっと、似たようなタイプの人間だから、自分の人生の不如意を解決する鍵を三島文学が握っているような気がしたのだろう。毎年11月25日の彼の命日には必ず黒い服を着てくることはクラス中知らぬ者はいない事実だったし、三島がどこかで書いていた「雨が降るからといって傘のようなちゃちなものでそれを防ぐ姑息さ」というような表現を守り、雨でも絶対に傘を差さなかった。
だから、単純だが東大の国文学科に行って三島研究専門の文芸評論家になろうと思い、東大文科三類を受験して現役で合格した。

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桐野夏生『グロテスク』と私の高校入学まで(自分史1)

2004年11月09日 | Weblog
今日、「ジェンダーと法」の授業で、読書感想文の課題図書を発表した。
1.小説
 水晶内制度 笙野頼子 新潮社
 女たちのジハード 篠田節子 集英社文庫
 百年の恋 篠田節子 朝日文庫
 グロテスク 桐野夏生 文芸春秋
2.ノンフィクション
 Search きみがいた―GID(性同一性障害)ふたりの結婚
平安名 祐生・平安名 恵   徳間書店
3.評論・エッセイ
 男流文学論 小倉千加子・上野千鶴子・富岡多恵子 ちくま文庫
 結婚の条件 小倉千加子 朝日新聞社
 負け犬の遠吠え 酒井順子 講談社

『グロテスク』については、いろいろな意味で思い入れがある。
私の育った環境抜きにしては語れないので、少々重い話につきあっていただきたい。

私はキューバ危機のあった1962年、10月31日に山口県徳山市で生まれた。
1933年生まれの父は大分県宇佐郡院内町の山奥の貧乏寺の長男で、生母を生まれてすぐ亡くし、後妻に来た継母から生まれた5人の弟妹への遠慮もあり、高校も大学(現九州工業大学)も夜間を卒業し、高校時代からアルバイトで家の経済を支えていたそうである。当時、徳山の石炭会社に勤めていた。
1936年生まれの母は神戸の裁判所通訳の祖父と小学校教師の祖母の間に生まれた6人きょうだいの末っ子で、両親を早くに亡くしたため、高校卒業後、徳山市に嫁いだ姉の家から父と同じ会社に勤めており、父とは職場結婚であった。
私が生まれて2年後に妹が生まれたが、その直後に一家は東京に引っ越した。燃料としての石炭の優位性に翳りが見え始めたため、父が東京の電気会社(住友電工の子会社)に転職したためである。だから、私は出身地はどこですか、と問われると、迷いながらも、徳山の記憶は全くないので、それ以降海外生活を除き離れたことのない東京、と答えることにしている。
父は葛飾区青戸にある工場勤務だったので、はじめ、亀有のアパートに住んでいたが、すぐに青戸の父の工場のすぐ隣(といっても広大な敷地の奥の壁に接しているので父は工場の門まで、今医療過誤で話題の慈恵医大青戸病院等を5分ほど迂回して通っていたが)の社宅に移った。木造平屋建ての二軒長屋で、葛飾区の真ん中を南北に流れる中川の西側の土手のすぐ下という場所であった。
そこでの暮らしが今の私を作ったといっても過言ではない。一言でいうと、両親をはじめとする周りの大人に絶望し、世の中に呪詛にも似た恨みをもち、「絶対にこんな世界から這い上がってやる」という歪んだ上昇志向を自分の中で暗く、その分強く培い、ついに自分自身の人生を破壊するほどの怪物的な情念にまで育て上げた時期であった。
「田舎で育ったよりはましでしょう」という人もいるが、地方都市にはその地方都市ならではの伝統と文化がある。しかし、葛飾区は東京23区に属しながら、東京の山の手にある洗練はそのかけらももちろんなく、かといって浅草のような伝統的な下町の粋や人情もない。長く田畑だった土地に、単に家賃や物価の安さから戦後低所得者が多く住むようになっただけの町は、ある意味田舎より始末が悪い。都心に通勤するホワイトカラーのベッドタウンとなっている千葉県や埼玉県の新興住宅地より格が下がることにも異論はないだろう。葛飾区で育った、このことは私のコンプレックスの中核をなすものであった。

最近読んだ桐野夏生の『グロテスク』は、私の感覚が普遍的なものであることを教えてくれた。東電OL事件にヒントを得たこの作品は、慶応女子高校と思われる学園での過酷な階級社会でのサバイバルを伏線として描いている。語り手は葛飾区と思われるP区に住んでいるが、同級生から「P区に住んでいる人はこの学校ではあなた一人よ、私も実はP区に家があるけど恥ずかしいから親に港区にマンションを借りてもらっているの」といわれるシーンがある。後述する私が入学した山の手の進学校でも、階級差別はなかったが、葛飾区でしかも京成電鉄利用者は私一人だったことからくるコンプレックスや、私鉄がストライキを解除しても京成だけがストライキを断行することが多かったがそれでも学校が休みにならないため、私一人通学するための苦労を味わったことは忘れることができない。

余談になるが、桐野氏はフェミニストの視点(本人はこういわれたくないかもしれないが私にはそのように思える)から人間や人生の闇をえぐることにかけては天才的な作家であり、大傑作『OUT』をはじめ著書は全て読んでいる。一方、東電OL事件は、先進国でありながら女性が良心や自立心があればあるほど過酷な境遇に陥っていく男社会・日本の暗部を象徴する事件であり、私をはじめ、多くのキャリア・ウーマンに「ひとつ間違えば自分も同じことをしていたかもしれない」と思わせるような事件であった(その上事件当時私の職場の銀行は被害者の職場の隣にあったから恐ろしいほどの現実感があった)ので、「桐野氏が描く東電OL事件!」と大いに期待して読んだが、ストーリーはもちろん期待以上だし、こうしたおまけもついてくる貴重な読書経験であった。
「どんな絶世の美女でも、天才でも、諦めるしかない、女に生まれてしまったら」という科白が絶望感とともに、現在「ジェンダーと法」と教える私の胸に迫る。
大楠道代にそっくりな美人で女であるということで得もしてきたであろう桐野氏の筆によるものだから尚更説得力がある。

もうひとつ付け加えれば、最後のシーンは、三島由紀夫の『豊饒の海』終盤で盲目の美青年と醜い狂女が寄り添うシーンを想起させ、また最終章の「彼方の滝音」というタイトルも『豊饒の海』で輪廻転生の証拠となった滝の記憶とシンクロする、と思うのは三島マニアの関連妄想に過ぎないだろうか。

話を葛飾区に戻すと、大好きなサザンオールスターズのコンサートで桑田さんが「どこから来たの」と聴衆に振り、「え、沖縄、北海道、遠くからありがとうね。え、葛飾区?参ったなあ、葛飾とか足立とかいわれた日には」というくらい、あるいはベストセラーになった『金魂巻』でも「千代田線マルビ方面(東方面)、マル金方面(西方面)」と揶揄されるくらいの場所である。
それでも、もちろんインテリや教養人が全くいないわけではない。中島梓氏は青戸出身だし、吉本隆明氏も会社員時代、上野から青戸の会社に通勤していたこともあるそうである。
また、同じ下世話な下町の貧乏暮らしでも、北野武の『菊次郎とさき』(足立区梅島が舞台)のような教育熱心な母親がいればまだ救われただろう。

しかし、私の両親は、教育熱心どころか、知性や教養を生活の敵として憎しみを抱く類の人間であった。だから、私たち子供には徹底して「勉強する時間があったら家の手伝いをしろ」といった。私は本を読んでいると叱られるので、夜中に布団の中で懐中電灯で本を読んだりする小学生であった。京成沿線に住んでいると一番近い繁華街は上野であり、時々母に連れられて上野のデパートに行ったが、当時まだ駅にたくさんいた浮浪者の群れを指さして母は「敦子、ああいう人たちは案外インテリ崩れが多いんだよ。あんたも本ばっかり読んでると将来ああなるよ」と脅すのである。絵本を読んでもらったことどころか、本というものを買ってもらったことはなく、いつも区立図書館で本を借りていた。子供向けの本のコーナー「児童室」にいつもいるというので、小学校の同級生の男子から「アートネーチャー♫」のコマーシャル・ソングの節回りで「じっどうしつネーチャーン」と囃されていた。手伝いは小学生の時から掃除、洗濯、食器洗いとさせられていて、手回しで絞った洗濯物をまず盥で漱いでから洗濯機で漱ぐその冷たい手の感触を今でも覚えている。肌が弱く、台所洗剤で両手は主婦湿疹で赤くずる剥けになり、リンデロンを塗って白い布手袋をつけて寝る小学生だった。高校三年の受験の直前だけは頼んで食器洗いだけにしてもらったが、東大入試の前夜でも夕食後の食器洗いは免除されなかった。

ちなみに、私の夫は家事の大部分を引き受けてくれる人で、とくに私の主婦湿疹を心配して自分の出張中でさえ洗い物はしなくていいといい、出張から台所に直行して着替えもそこそこにまずたまった食器を洗ってくれる人なので、親と同居していた学生時代よりも結婚してからの方が家事の負担が減ったという世にも珍しい状況になった。

中でも絶対に許せないと今でも思っているのは、「基礎英語事件」である。家は貧しく、ラジカセなど買えず、テレビの上に旧式のステレオがあるだけで、ラジオを聴くときはテレビを消さないと聞こえなかった(イヤホンもヘッドホンもなかった)。塾どころか参考書も買ってもらえない私は中学1年生の時、乏しい小遣いの中から基礎英語のテキストを買って毎日ラジオで勉強していたが、ある日、放送時間にたまたま母がテレビで映画を見ていた。「お母さん、悪いけど基礎英語の時間だからラジオ消してくれない?」といった私に母は烈火のごとく怒り、「子供の癖に親の楽しみを邪魔するのか」といってとうとうテレビを消してくれなかった。

母が見栄を張ってジャポニカの百科事典を一式買ったのは奇跡だった。暇さえあれば私はそれを読んでいたが、それを見ると母は怒るのだ、「飾るもんで読むもんじゃないよ、汚れるから読むんじゃない!」と。

もっと許せないのは、私たち子供に小学3年生くらいまで幼稚園児のふりをさせ電車の切符を買わず、中学も1年までは子供用の切符しか買ってくれず、そればかりか、いろいろな駅の入札の鋏の形を研究し(降りる駅と同じ鋏の形の切符でさえなければ、キセルはばれないから)、最低料金分の回数券を乗る駅と降りる駅で使いまわさせるというややこしいキセルを強要したのである。
こうした経験が私を強迫的な規範意識の持ち主に育て上げ、会社では法務部でコンプライアンスをやり、路傍のタバコのポイ捨ては見知らぬ人にでも注意し暴力を振るわれたりし、とうとう法学者になり、大学でも学生に厳しく学則を守らせることで恐れられる教師になる、という生きづらい道を歩ませ続けている。

話を元に戻そう。「絶対にこんなところで埋もれたままにはならない」と考えた時、普通の女の子なら玉の輿コースを狙うのだろうが、私の容姿ではそれが無理なことはよくわかっていた。だから、私は「学歴による階級上昇」を早くから目論んでいた。学歴だけは、生まれ持った才能が乏しくても努力でカバーできる領域である。フェミニスト的には噴飯ものの三島は、「芸術家と女はどちらも生まれ持ったものだけで勝負する点で似ている」というくらいだ。しかし、こんな両親だから中学受験などさせてもらえるはずもなく、高校受験での一発勝負だった。区立の中学から数年に一人しか入れない筑波大学附属高校に幸い入学できた。

さっきから、「子供の癖に知性とか教養とかいって気持ち悪い」と思った読者もあろう、しかし、こんな両親だからこそ、私は余計に知性や教養に限りなく憧れるメンタリティの持ち主になったともいえる。逆に普通の両親だったらここまでインテリジェンスにこだわる人生を歩いてこなかったと思う。もちろんその方がずっと幸せだったと思う。

誰にも引けをとらない知性の持ち主になり、それを世間にもわかりやすく認めてもらえる位置に自分がいないと生きてゆけないという観念に囚われ、実際にそれが少しでも揺らぐたびに恐慌状態になり、そんな状態を何度も経ながら、また、そもそも遺伝的に見れば良い筈のない知能で、東大法学部を卒業し、ハーヴァード大学、オックスフォード大学、香港大学から3つの法学修士号を取得し、オックスフォードでは日本人初といわれる最優秀賞まで獲った、否、そうしないと生きてこられなかった、この苦しさを誰が理解できるだろうか?

東大でも、親は食べさせてはくれたが、高校卒業後一銭の現金も渡してくれなくなったので、学資も本代も全てアルバイトで賄った。そうしながらも、成績は上位数パーセントに入っていたので文科三類という、本来文学部・教育学部にいくコースから法学部に進学できたのである。

成果ばかりを人はいう、しかし、本当にここまでしなければ、否、ここまでしても欠乏感を拭えないこの歪んだメンタリティが苦しくてたまらない。逆に一番でなくても幸福を感じられる正常な神経の持ち主ならこれから話す地獄もなかったと思うのだ。
話を元に戻すと、金も知性も教養も親としての自覚もない両親を反面教師とし、「絶対にこういう人間にはなりたくない」という思いだけで私の子供時代は過ぎていった。

(続きはいつかupします)


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銀嶺祭・点字サークル

2004年11月09日 | profession
わが点友会が市民タイムズの取材を受け、10月24日付けの同紙の一面トップで記事が掲載された。

銀嶺祭で、来訪者に点字の名刺を作成するというイベントをやったが、かなり奥の部屋だったにもかかわらず、3日で85名も来てくれた。これは、東大の点友会の駒場祭における来訪者が三日で100人程度というから大した数字だ。入部希望者も何人かいた。

2日目には、東大点友会から部長以下6名(うち全盲者1名、弱視1名)も遊びに来てくれ、楽しく交流も行った。

何より、今までは私がセットした講習会という形だったのに、今回は全て学生だけの力で準備したことがすばらしかった。ふだんなかなか顔を出せない部員も、頑張って名刺作りに精を出してくれ、そのことが本当にうれしくてたまらなかった。このように、学生の成長ぶりを間近で見られたとき、つくづく教師になってよかったと思う。

信毎の取材でも、銀嶺祭当日に関する記事では唯一写真付きで大きく取り上げてくれた。

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ええにょぼ(ネタばれ注意)

2004年11月09日 | 演劇
今、NHKの衛星2で毎朝「ええにょぼ」という、1993年4月から9月まで放送した朝ドラの再放送をしている。

これは思い出のあるドラマだ。
1993年8月初めに、アメリカ、イギリスへの留学から帰国した時、やっていたドラマだから。
私は海外審査部に配属され、ロンドン支店等から上がってくる融資案件の審査を担当していたので、時差を考慮し、9時50分出勤だったから、このドラマを見てから寮を出ていた。

2年ぶりの日本は何もかも変わっていた。しかし、バブルが崩壊しきっていたという暗い面だけでなく、いわゆる55年体制が崩壊し、細川内閣誕生という画期的なことがあり、日本もいい方向に変わるのではないか、と期待していたのだ。

朝ドラは従来は、女性の忍従や苦労の話、しかも誰かの妻という立場(良くても夫とともに苦労するというパターン)での苦労という、ジェンダー的には旧弊なものが多かったのに、この朝ドラでは、主人公が医師でしかも新婚早々単身赴任するという設定なので、「時代も変わった。働く女性が生きやすくなるのだ」と喜んでいたのだ。
結局壊れかけた夫婦仲を修復するために病院を辞めて商社員の夫の海外転勤についていくところで終わるというゆるーいストーリーとはいえ、時代の変化を象徴すると思っていた。
(私が大人になってからリアルタイムで見た朝ドラはこの作品だけ。)

反面、ロースクールへの留学という人生の目標を一つクリアして、「次は結婚」と思い、結婚願望の強い時期だったから、中山美穂の歌う主題歌「幸せになるために」を切ない思いで聴いたりもしていた(この歌は今でも結婚式で歌ったりする)。

11年たって、自分がこの主人公と同じように都会に夫を残して地方に単身赴任する立場になったことをつくづく面白いめぐり合わせと思う。
慣れない仕事へのとまどいや、週末になると夫の元に飛んで帰る描写も、今は自分と重ね合わせてみてしまう。

ところで、主役を演じた戸田菜穂は、あまり演技がうまいとは言えず、とくに色気や情感がなく、生き残ることはできないのではないかと思っていた(その後、民放で主演した『スチュワーデスの恋人』を見て「早晩消えるだろう」と確信した。これは、『スチュワーデス物語』の路線を継ぐ大映ドラマだが、恋人のパイロット(宅麻伸)が失踪した妻の嫌がらせに悩まされるという設定が、昔田宮二郎が主演した『白い滑走路』(ジェームス三木脚本)に似ている。
彼が主演した『白い影』『白い巨塔』『高原へいらっしゃい』が最近相次いでリメークされたのだから、これもリメークか再放送してほしい。)

徹子の部屋に出たのを見たら、広島の大きな歯科病院の娘で、美人のお母さんが、小さい頃から彼女の工作作品やテストを全て保存しているという、絵に描いたようなお嬢様だと知った。

でも、11年たった今でも、主役こそ張らないが、準主役級でちゃんと生き残っている。
ショムニの秘書杉田美園役で、テーブルの上で薔薇をくわえてフラメンコを踊るというすごいシーンを衒いもなくやった時点で非常に見直したのだが、ここで役者として一皮剥けたのが生き残りの転機だったのでは、と想像する。

朝ドラのヒロイン女優も玉石混交で、山口智子なんかも、『同級生』で、安田成美演じる名取ちなみの親友役程度だったし、鎌田敏夫が1年の長丁場に挑戦した『過ぎし日のセレナーデ』でも、古谷一行と高橋恵子の娘役でほとんど出番はなかったし、このまま消えるに違いないと思った。『もう誰も愛さない』では役を選ぶ余裕もないのか、と思ったのが、いつのまにか「生き様がかっこいい女優NO1」になっていたのには驚いた。
(泣かず飛ばずで、『太陽にほえろ』のお茶くみ以来、映画『獄門島』で殺される双子の役や、大原麗子主演の『隣の女』に妹役で出ていたくらいの記憶しかないのに、88年の『抱きしめたい』で久々にドラマに出たらトレンディ女優NO1になった浅野ゆう子ほどの詐欺感はないが。でも、この作品は、浅野温子演じる麻子の魅力的な人間性と女の友情を見事に描いた出色のドラマだった。三谷幸喜も尊敬しているという松原敏春氏に合掌。)

たしかに、山口の主演した『29歳のクリスマス』はすばらしい作品だと思うけど、演技でいえば同じ鎌田脚本の『ニューヨーク恋物語』の桜田淳子ほどではない。(実は、桜田が、仕事のために私生活を犠牲にする決断をするときNYの橋の上で黙々とホットドッグを食べるシーンと、山口が陸橋の上で煙草を吸うシーンは重なるのだが)桜田の演技は、キャリアウーマンの哀しみとそれを引き受ける潔さを余すことなく伝えるすばらしい演技で、アイドル出身とは思えない英語の科白の発音とともにドラマ史に残るものと思っている。女優復帰してくれないかな)

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骨は拾ってやる

2004年11月09日 | Weblog

前の項で書いた出張に行く朝、地下鉄の駅で知らない男性に殴られた。

健康増進法が施行されるずっと前から防災上禁煙だった地下鉄の駅で煙草を吸っている男性がいたので注意した結果だ。
今までも、禁煙地域での喫煙やポイ捨てを、見れば必ず注意してきたから(中島義道の煙草版?)、危ない目にも度々遭ってきたが、顔面を拳で殴られたのは初めてだ。
今でも触ると痛い。

そういう行動をとるから、「いつかさされるのではないか」と家族にも心配をかけているが、夫はタイトルのコメントをいう。

でも、ポイ捨て等、自覚のない悪が一番許せないと私は思う。
これからもこういう行動をやめないのだろうな。

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Sentimental Journey

2004年11月09日 | profession
3日から7日まで、国際交流委員会の仕事で、Y先生と、香港、深土川、上海に出張してきた。
本学と香港大学、上海師範大学等との大学間協定のための交渉に行ったのだが、予定以上の成果をあげることができた。香港大学で一番忙しいという留学生担当Katherine Wan氏や、法学部長のJohannes Chan氏も、時間を割いて会ってくれた(Chan先生は私が大学院在学時から、よくしてもらっていた仲)し、上海でも大物ばかりに会うことができた。
中でも、約2年ぶりの香港は、何もかも懐かしく、何を見ても涙が出た。知人のバリスタで立法府に勤める李裕生氏はレパルスベイの自宅に泊めてくれたが、私の住んでいたマンションも見えるご近所なので、尚更だった。
中国出身のY先生は李夫妻と普通話で話し(李さんたちがゆっくりしゃべってくれたので、大体わかった)、私が話す時は、内容によって普通話、広東語、英語を使い分けるという多言語会話も楽しかった。

香港がこれほど好きなのは、男女平等だからだけではない。
香港人の率直で裏表のない性格、そして、人生の幸不幸、リスクを全て自分で負うという潔いところだ。
国や制度がunreliableなものだと骨身にしみている彼らは、頼れるのは自分だけと考え、自分への投資を惜しまない。どんな年齢、性別、職業の人も、今より少しでも良い職業・ポジションに就こうと、多くが夜学に通っているので、香港には、朝、夕、夜21時とラッシュが3回ある。
私が在籍していた香港大学法学部大学院も授業は全て夜で、同級生は、現役の弁護士ばかりだった。授業の後「これから帰って仕事」という人もいた。
リスク分散の本能があるから、子供は一人ずつアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等別の国に留学させ、いざという時一番安全な所に一家で行けるよう布石を打っておく。
通貨も心からは信用しないので、着の身着のまま逃げられるよう、男性でも金属のアクセサリーを身につけている。

考えてみれば、日本人の、お上信仰や、国や政府が何とかしてくれるだろう、とか、日本という国で権威があるものを重視するという考え方は、かなり危ういんじゃないか、と考えさせられる。

永住してもいいと思うほど大好きな香港への旅だったが、残念ながら夕方着いて翌朝出るという慌しいものだった。privateでゆっくりまた来たい。

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