三、フランス篇
1.パリ
6月6日の夜遅く、ブリュッセルから列車でパリに到着し、ひかりさんのお勧めでJCBを通じ予約しておいた、Louvre Saint Anneというホテルへ。ひかりさんがいっていた「ひぐま」のまん前です。ホテルのあるSaint Anne通りは、東京三菱銀行があるせいか、日本食屋さんがずっと続く日本村みたいな場所になっていました。ホカ弁屋さんもあって、8日の夜買いに行ったら、ロシア戦勝利の読売新聞の号外を配っていました。
2.モンサンミッシェル
次の日は、パリビジョンのツアーでモンサンミッシェルに行きました。
ノルマンディー地方の、林のような生垣、Bocageの続く場所をバスでずーっと走っていき、やがてモンサンミッシェルが見えてくる。
私のイメージでは、引き潮の時のみ渡れるところというイメージだったが、舗装された堤防のようなものがあり、車ですぐ下まで行ける。ただ、堤防の脇にはたくさんの羊が放牧されており、塩水を含む草を食べるので独特の美味しさで、名物料理になっているとのこと。また、ノルマンディー地方では大西洋からの海風が湿気を運ぶためぶどうが育たず、かわりにりんごを植えていて、シードルが名産。さらに蒸留したものがカルバドス。
8世紀、司教オベールの夢に大天使ミカエルが3度現れ、この地に聖堂を建てろというお告げをしたところ。信じないオベールに、ならば証拠を見せようとミカエルが司教の額に指を当ててそこに穴ができたという逸話が城砦内の壁に彫刻として描かれている。それからも、ミカエルはさまざまな奇跡を起こした。
巡礼者が海を渡っている時に大波が来て、逃げ遅れた妊婦がミカエルの加護で海中で出産し授乳までしているというかなり古い絵をブリュッセルの王立美術館で見たのを思い出した。
城砦に入ってすぐ、オムレツで有名なレストランがある。マダム・プーラーが始めた店で、卵を入念にかき混ぜるのでスフレのようになるのが特徴。大きなボールでかき混ぜているところも、観光客に見せてくれる。周恩来が欧州を放浪していた頃、お金がなくてここで無銭飲食したが、首相になってからここを再訪してお金を払ったというエピソードが彼の写真とともに残っている。
外壁をとおって階段を上り、西のテラスへ。ここからは、はるか英国まで見渡すことができ、ガイドがノルマンディー上陸作戦について話してくれた。大きな鉄板を海に沈め、その上に廃船になった軍艦を沈めてそこから上陸したと。
そばにあるトンブレンヌという小さい島は、ここからモンサンミッシェルの城砦を造る花崗岩を運んだ場所。ルイ14世の寵臣フーケが豪勢な城を建てたため、王の怒りに触れて壊されてしまったというが、パリ近郊にある贅沢な城はそのままなので、やはりパリビジョンからツアーが出ている。
修道院附属教会は、階段から見ると、教会には見えない(逆から見ると壮麗)のは、百年戦争等で要塞として使われていたので、敵になめられないようにするためとのこと。
屋根の天辺には1897年エマニュエル・フレミエの作った32mのミカエルの像があり、1989年革命200周年のとき、修復されてヘリコプターで再びつけられたとのこと。
一部がロマネスクで3段構造になっており、主祭壇はゴシックになっているが、ロマネスクでは壁と柱を強化しなければならない結果、窓を大きくできないということから、柱をそのまま天井に繋げるゴシック建築が生み出され、それによって美しい大きなステンドグラスを作ることができた、というロマネスクからゴシックへの変化を目の当たりにできる場所。また、ノルマン人らしく、天井は、バイキング船のように樫の木でできておりしかも湾曲している。本当に、10年前の旅行で北欧の博物館で見たバイキング船にそっくりでした。また、修復するたびに当時の最新流行を取り入れるため違って様式が部分的に出現することや、職人が誇りを持って仕事をし、石畳の各パーツにそれぞれアルファベットが彫ってあるのはどの職人の仕事かわかるようにするためとのこと。
大理石でできた柱をめぐらせた中庭は、僧たちの瞑想の場所だったとのこと。柱の上には美しい花等のレリーフがあるが、一箇所だけ4人の人間の顔になっている。12使徒の内、福音書を残した4人の顔とのこと。
次に僧たちの食堂は、壁一面に窓があるが、短い間隔で桟がでているため、入口からは見えないという凝ったつくりになっている。
その真下が王や貴族の食堂。僧たちの食堂の下に貴族の食堂があるというのが宗教的建築物らしい。
隣のサント・マドレーヌという小さな部屋には、ステンドグラスに巡礼者の印、貝殻と香油壷の絵が。当時、エルサレム、ローマ、サンチャゴ・デ・コンポステーラに次いで巡礼者がたくさん訪れた場所であったせい。貝殻は巡礼者の象徴、マドレーヌはマグダラのマリア(香油壷は彼女の象徴)を語源としていると思うのだが、貝殻型のマドレーヌが定番なのは何か意味があるのだろうか?また、プルーストの『失われた時を求めて』で紅茶にマドレーヌを浸す思い出が出てくるのは何かの符丁なのか?
その後、下から物資を運んだ巨大水車のレプリカがある部屋、死んだ僧の骨壷を納めてた部屋(火葬でなく、薬品で肉を溶かしたらしい)を訪れた。
ガイドは、日帝時代の1934年に韓国で生まれたため日本語のできるガイドのキムさんという女性。説明が詳しく、とても面白かった。
3.ロワール城めぐり
6月8日は再びパリビジョンでロワール城めぐりです。
10年前にブロワ城だけは行ったのですが。
(1)シャンボール城
世界遺産にもなっており、二重らせん階段(昇りと下りが別々)がダヴィンチの発案といわれているところ。
格子天井にはフランソワ1世の紋章である火吹きトカゲが彫刻されていたり、外壁に、菱形やマル形のスレートが貼りつけられているのが特異だった。
2階の広間にあるユリシーズのタペストリーの続きは、シュベルニー城にある。
フランソワ1世は、天才でありながら流浪の人生を余儀なくされたダヴィンチをここに呼び寄せて創作を援助し、その最期をも看取ったとされている王です。
だから、ダヴィンチが肌身離さずもっていたモナリザがルーブルにあるのです。
(2)シュベルニー城
ここは王族でなく、アンリ4世の大法官の息子・アンリ・ユローの持ち物でした。
そのせいか、ティチアーノの「コシモデメディチ」等の名画や調度品がかなりよい保存状態で残っています。
とくに、離れの館は、フランス革命中ミロのヴィーナス等の避難場所になっていて、今でもオークションが開かれるそうです。廊下の壁にアメリカ独立戦争への助力を請うワシントンの直筆の手紙が飾られていたり、食堂の数十枚のパネルがドンキホーテの物語になっていたりするのも見事でした。
(3)シュノンソー城
アンリ2世が20歳も年上だったとされるディアンヌドポワチエと住んだ城です。そのため、デイアンヌを狩の女神ダイアナになぞらえた絵があります(似たような絵や彫刻がルーブルにもあります)。
アンリ2世が御前試合で選手の槍がささって事故死した後、正妻のカトリーヌ・ド・メディシスがこの城を取り上げて、建て増ししたのが、よく写真に出てくる河をわたり向こう岸まで続く美しい部分です。
アンリのHとカトリーヌのCをふたつシャネルのマークのように組合せた紋章が使われていますが、それはディアンヌのDにも見えるとことが皮肉です。ルーベンスやムリーリョの絵もあります。
この城を1733年に購入した徴税請負人デュパンが息子エミールの家庭教師に雇ったのがジャンジャックルソー(教育に関する有名著作はここからきている)で、そのために革命のときも城は無傷ですんだとか。
ここで、フォンテーヌブロー派のことも勉強できて、ルーブルの予習になったのはいいが、日本人の男性ガイドの説明はいまいちいいかげんで、カトリーヌドメディシスとマリ−ドメディシスを混同しているのが、プロとは思えず前の日の人と比較しても残念でならなかった。いい年して、こんな仕事ぶりで日本人として恥ずかしくないのだろうかと思った。
4.ルーブル
6月9日、10日、12日、三日間ルーブルに通って、アジアオセアニア以外は全部見た。
10年前は団体旅行なので、主要な作品しか見られなかったので。文字通り、足は棒になり、最後には目も霞んできたが、作品は全部見たし、オーデイオガイドマークのあるものは全て説明も聞いた。部屋によっては各国語(日本語もあり)の説明ボードがあるところもあり、それもほとんど読んだ。
もちろん、素晴らしかったのはいうまでもない。
三島由紀夫が一番好きだというワトーの「シテール島への船出」、ミケランジェロの「瀕死の奴隷」もじっくり見たし。彼は遺作で主人公にマンテーニャが一番好きと語らせているので、マンテーニャのサンセバスチャンやキリストの磔刑も堪能した。エジプトの特別展をやっていたので、それも見た。
5.シテ王宮
9日の夜、夫は先に香港に帰りました。
11日は火曜日でルーブルが休みでした。
まず、ひかりさんのアドバイスにしたがってJCBプラザへ。
そこで、レストランの予約ができるのを知って、Guy Savoyという凱旋門の近くの三ツ星レストランへランチに行きました。味もサービスも大満足でした。バターが甘いのとソルティなのと両方出てくるのも初めてでしたし、生牡蠣に合うのはこれ、鴨に合うのはこれ、とその度に違うパンを配ってくれるのも初めてでした。また、担当ギャルソンの人が、「いちご」とか「ごゆっくり」とか日本語が少しできるのにもびっくり。一人きりの食事でもなんの手持ち無沙汰さもなく、3時間もかかって食事しました。それで、あづさ姐さんのおすすめのロダン美術館(月曜休み)に行く時間はなくなってしまいました。三ツ星レストランなんて日本人を馬鹿にしていると思ったのに。でも、逆に、「日本人観光客なんかあてにしなくても三ツ星ならやっていけるはずなのに、こんなに親切なのはかえってあやしい」なんて思ってしまった自分が悲しひ。
ギャラリーラファイエットでは、香港で買いそびれていた期間限定販売のランコムのアイラインを安く買いました。
その後、シテ王宮にいく途中、地下鉄を降りたところで、ある白人が私の顔を見て「カワグチ」というので、GKの川口かな、と思って思わず振り向いたら、彼が引き返して来て、話しかけてきました。川口というのは川口市のことで、アメリカ人の彼は今はパリ赴任ですが、以前東京赴任で、川口にあった工場にも行っていたそう。名前を聞いたり、今晩食事でもどう、とか聞いていきます。(どうやらナンパのようです)
どうやって断ったらいいかなと思っていたら、ちょうど「東京のどこ」「今香港に住んでる
の」「どうして香港に?」「夫が領事館に転勤になったから」といったら、「約束があるか
ら」とちょうどシテ王宮の前で離れてくれました。
シテ王宮のコンシェルジュリーでは、ベルサイユのばらに夢中になった小学生時代を思い出して、マリーアントワネットの独房とかを見学しました。
その後隣接したサントシャペルに入ろうとしたら、もう終わったと。
3日間有効の共通チケットを買っていたのですが、その2002年版のパンフレットでは、18時半までのはずなんですが、18時の間違いだそうです。こんな情報が間違っているなんて呆れてものも言えませんよ。
それから、cottoncandyさんもいっていたHerve Chapelierのブティックで鞄を三つかいました。
このブランド、全然知らなかったのですが、街で何度も見かけて「かわいい!」と思って、ギャラリーラファイエットの人に絵を描いてみせてブランド名を聞いたのです。
それにしても、パリのブティックって早く閉まってしまうので、買物するのが大変。
ルイヴィトンだけ20時までなのでどうして、とJCBの人にきいたら、行列を18時半に締めきってもその客をさばき終わるのはそれくらいになってしまうとのこと。
日本人観光客ってどうしてパリ本店にこだわるのでしょう。香港の店はがらがらなのに.値段はそうかわらないはずです。何より悔しいのは、お金を落としてやって、不景気のフランス経済に貢献すればするほど馬鹿にされるという構図です。どうせお金を使うのなら、感謝されるところで買物はしたいですよね。
街に出たのはこの日だけ(あとは郊外観光や美術館のみ)ですが、会う日本人らしい女の子という女の子はみなヴィトンの紙袋をもっていて、帰りの空港カウンターでも「超過料金です」と言われて後ろに並んでいる人も構わずその場で必死で鞄に詰め替えている日本人の女の子がいたなあ。
四、一番残念だったこと
今回の旅行はもちろんとても楽しかったのですが、心に鉛のようにつかえていることがあり、こんなことで悩む自分自身が変なんじゃないかと、意見をお聞きしたいのです。
というのは、ルーブル美術館の日本語のオーディオガイドの問題です。
翻訳自体は、自然でとても良い日本語だし、喋っているのも、発音から明らかに日本人の中年男性と若い女性で、素人とも思えない感じなのに、漢字の読みが間違いだらけなのです。思わず書きとめてしまいました(こういうことすること自体が異常でしょうか?)
男性の間違え
手法=テホウ
礼賛=レイサン
福音書=フクオンショ
神々しい=カミガミシイ
荘厳=ソウゲン
死刑執行=シケイシュッコウ
ここに記されている=ココニキサレテイル
技(一語)=ギ
設立時=セツリツドキ
女性の間違え
豊饒=ホウギョウ
建立=ケンリツ
心酔=シントウ
頻繁に出てくる言葉もありますから、まちがいを聞くたびに、同じ日本人として情けなさにその場にしゃがみこみたくなるほどの絶望感を感じ、その恥ずかしい思いを今もひきずっています。
日本人の教養ってこんなレベルまで落ちているのでしょうか。日本人であることをやめたくなるほどがっかりしています。
また、他人事なのにこんなふうな感じ方をする私は異常なのでしょうか。
また、ルーブル美術館に(フランス語は書けないので英語になりますが)手紙をだす、在パリ日本大使館の文化部に手紙を出す、等の方法で直してもらうことを考えていますが、どう思いますか?
五、オランダ人とフランス人
それから、オランダ人とフランス人についても思いを新たにしました。
オランダ人て私の性格に似ている、って思いました。
友達のユーディットに、最近あなたの国はワークシェアリングの成功と安楽死の合法化で有名よ、という話しをしました。
また、「なぜ飾り窓を合法にしているの」ときいたら、「適法でも違法でもいずれにせよ、そういったものは存在するでしょ、だったらちゃんと管理して病気の予防をしたり税金も取ったほうが合理的じゃない」とのこと。
ちょっとした公園にも点字ボードがあるし、道路には獣道のトンネルがあるし、老人用施設もモダンできれい。弱者や環境にはやさしいんです。
そうなんです。徹底した合理主義で、表面だけのきれい事が大嫌いで、お世辞やお追従も苦手で、でも本当は誠実で弱いもののことを考えている。
英語がすごくよく通じるのも北欧とここで一ニを争う感じです。
フランス人は、苦手です。フランスファンの方、ごめんなさい。
まず、はっきりいって怠け者、そしていいかげん。
パンフレットの基本的な開館時間の誤りをはじめ、約束違反ばかり。
美術館の職員も、自分たちが時間通りに帰りたいものだから30分前には客を追い出しにかかる。たいてい自分の配置にはいず、隣の部屋で同僚としゃべくっている。禁止のフラッシュ撮影をしても誰一人注意しない。カタログに載っている作品を示して「この部屋のどこにあるのか」と聞いても、「知らない」と答えたり、あごをしゃくるだけ。脳みそのある動物だったら、「門前の小僧習わぬ経を覚える」じゃないけど、どうせそこにいなければならないなら、自分の受け持ちの部屋くらい作品を鑑賞したらどうなのか?そのくせ白人の客には親切。
その姿を見て、一等客用の待合室のトイレが三週間壊れたままでも同僚と喋ったりトランプしたりしている中国人の服務員を思い出しました。中国人とフランス人て似ているっていわれているらしいですね。
ある夜、ちょっと気分が悪くて、ホテルの部屋から電話でモーニングコールを頼もうとしたら、フロントがずっと話し中です。もうパジャマに着替えていたのですが、仕方なく上着をはおってフロントに降りて行ったら、従業員が電話で話しこんでいます。文句言ったら「イタリアから友達が架けてきたんだよ,切れないだろ?」っていうんですよ。
最後の日、ぎりぎりまで美術館にいたかったので、2日前にシャトルバスを20時半に頼んだら、他の客の都合で20時にしてくれと。
当日は遅れに遅れ結局20時半ですよ.来たのは。でも謝りもしない。
空港までずっと英語で嫌味言っていました。What a developed country! I feel sorry for
the other member countries of EU to have France. You will live on what your
ancestors left forever! 一生祖先の遺産で食ってろ!とかね。でも「だからワールドカッ
プで負けるのよ」は、英語で言うと殺されかねないので日本語にしておきました。
10年前も犬の糞の多さにびっくりし、いくら芸術の都といってもこんなことして平気なやつらは絶対に信用しない!と心に決め、香港でも犬の糞を見るたび「近所に住んでるフランス人に違いない」と毒づいていたほどでしたが、今回もフランス嫌いの気持ちを新たにしました。それにしても、どうして、フランス人であるとか、フランス語をしゃべるというだけで、自分たちは世界一、なんていう根拠のないプライドを持てるのか、全く不思議ですよ。
フランス語が外国語として勉強するものとしてメジャーなのも、フランス人が英語できない(また話さない)という要素が大きいしね。ユーディットもいっていましたよ。オランダ人はつい英語に切り替えちゃうから、外国人はオランダ語がなかなか上達しないって。
言いたい放題,失礼しました。
でも、日本の過去の経済発展の理由もよくわかりますよね。
ひとりひとりの労働者がなるべく手を抜いて早く帰りたい、と思う代わりに、なるべくいい仕事をして、認められたいと思って働いたらどうなるか、その見本が戦後日本でしょう。
でも、そのかわり日本人は物理的にはquality of lifeを失い、精神的には「みんな同じじゃ
なきゃだめ」というプレッシャーに苦しめられる。
よいサービスを享受することと、quality of life、個人の本当の意味での自由や自立は両
立しないものなのだろうか、という永遠に解決できない疑問に突き当たるのはこういう時です。