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夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

荻原碌山と中村屋インドカリー

2007年10月06日 | 旅行
週末に夫と前々から行きたかった安曇野の碌山美術館に行ってきた。

キリスト者の碌山にちなみ、小さな教会のような建物の中に彼の作品やゆかりの品を展示している。

改めて、彼の人生が、尊敬する師であり友人である相馬愛蔵の妻であるがゆえに、いっそう禁忌である黒光への許されぬ愛に貫かれたものであることを確認した。

「優雅とは禁を犯すものである。しかも至高の禁を」三島由紀夫『春の雪』

もちろん、黒光をモデルとし、膝を地につけ、手を後ろで組み、上半身と顔が限りない高みを目指している(地面から離れない膝が妻であり母であり中村屋の経営者であるという逃れられない立場や地上のしがらみであり、上半身が本当の気持ちを象徴しているのか?後ろに持っていった手は必死の自制心の象徴か)有名な「女」もそうだが(この世では叶わない何かを天上に求めているかのように、見ている者の胸を締め付ける)、ほかにも、以下のような展示物があって、彼の苦悩を思い、胸が苦しくなった。


日記に「ちくまの鍋」という題をつけていたこと。
これは、滋賀県にある筑摩神社に、鍋を被って詣でれば、不義が許されるという言い伝えにちなむもの。

また、「文覚」という彫刻作品。
(いうまでもなく、文覚=遠藤盛遠と袈裟御前の伝説を自分になぞらえている。
が、京都出身で読書家の夫がそれを知らなかったのにはびっくりしたが。
ヨーロッパの哲学者や政治思想家、現代史のことなら、ものすごく詳しいんだが。こういうのを灯台もと暗しというのか)

それにしても、荻原守衛という本名は、明治時代の農村の農家の五男坊にして、フランス人みたいな名前じゃないか(姓はオーギュスト=碌山がパリ時代に指導をうけたというロダンの名に似ているし、名前はモリエールみたいだ)。

実は、私が相馬黒光を知ったのは、碌山の思い人としてでなく、ボースという、インド独立運動家の義母であり、庇護者としてが先である。

夫に勧められて読んだ(恥ずかしながら勧められなければボースの名も知らなかった、この辺が夫と私の守備範囲の違い)

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義 (単行本)
中島 岳志 (著)

に詳しい。

インド独立運動の中心人物であり、暗殺されそうになって日本に亡命していたボースを庇護し、長女俊子と結婚までさせたのが相馬愛蔵夫妻なのである。
本格的な味であるインドカリーを開発したのは婿であるボースだったのだ。

もちろん、小さなパン屋をあそこまで大きくする実業家としての才覚もすごいし、危険を顧みずボーズを保護したり、碌山をはじめたくさんの芸術家をパトロナイズして、サロンのような場所を提供していた。

あの時代の女性にはどんなにか大きな制約があっただろう(旧民法では妻は無能力だったのだから)に、なんと先進的なキャリアウーマンなのだろうと憧れの気持ちを持ったのである。しかも、ビジネスにも、政治、芸術にも通じるだけでなく、年下の碌山に生涯渇仰されるほど女性としての魅力もあったのだろう。

今年の2月に、『碌山の恋』というドラマを、平山広行、水野美紀の主演でやっていたが、なかなか面白かった。

それにしても、相馬愛蔵は、二人の関係をどう考えていたのだろうか?
中村屋の敷地内に碌山のアトリエを建てたくらい(碌山が黒光に看取られ亡くなるのは完成直後)なんだが、まさか、クリスチャンの彼が三島の『獣の戯れ』のようなシチュエーションを好むほど倒錯的だったはずはないし。

中学生の頃、遺族から訴えられた『事故の顛末』(川端康成の自殺の原因が若いお手伝いさんへの失恋だとする小説)を読んで以来、読んだことなかった臼井吉見の『安曇野』を読んでみようと思う。


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「まあつひ」ってなんだ?!

2007年10月03日 | 旅行
気分がすっかり自殺念慮モードなので、少し明るい話題を。

忙中閑あり、9月の連休に父と夫と三人で「信州方面に」旅行した。

父は免許を取った瞬間から50年以上ペーパードライバーなので、「家族とドライブ」という経験自体が初めてで、夫の運転する車に楽しそうに乗ってくれた。

私の父は、生まれてから現在まで一冊も小説というものを読んだことのない人で、およそ教養というものとは縁がないので、いろいろな傑作語録がある。

私がHarvard Law Schoolに合格した時も、
父「お父さんな、お前が行く大学知ってるぞ。」
私「え?!」
父「日本語にしたら『港大学』っていうんだろ?」
私 (絶句)
(HarborとHarvardの区別がついていない)

Harvard Law Schoolの卒業式の後、父を呼んで、一緒にニューイングランドや中南米を旅行したのだが、ボストンで、
私「お父さん、ここが、アメリカがイギリスから独立したときの戦争があった場所なんだよ」
父「えええええ!!アメリカってイギリスから独立したの?!じゃあ今でも仲悪いのかな、どうしよう(おろおろする)」

冗談でもなんでもないのでよろしく。

今回も新たに父語録が加わった。

今回、黒姫高原の一茶記念館に行ったとき、

父「小林一茶って女だよな」
夫「お義父さん、もしかして、樋口一葉とまちがえてませんか?」
父「あ、そうだった。名前似ているからまちがえたよ、ははは」
私「ていうか、一しかあってないじゃん!」

一茶記念館の裏庭の句碑の前で
父「なあ、『まあつひ』ってどういう意味だ?」
私「それはね、『これがまあつひのすみかか雪五尺』っていう句でね。一茶が50歳で骨を埋めるつもりで生まれ故郷のこの村に帰ってきたのが旧暦の11月でね、もう雪がたくさん積もっていたのを見てそう詠んだのよ」
父「『まあ』ってどういう意味だ」
私「だから感嘆詞だってば」
父「かんたんしってなんだ?なんで『い』なのに『ひ』って書いてあるんだ」
私「お父さん本当に昭和一桁?その頃旧仮名遣いだったでしょう?」

とこんな調子である。

ちなみに、「痩せがえる、負けるな一茶ここにあり」ってどこで詠まれたか知ってます?
小布施にある、北斎の天井画で有名な岩松院の庭の池で、繁殖期にたくさんのオスがえるがメスを争っているのを見て詠んだ句なんだよ、と父に説明しても、あまりよくわかってないようだった。

一茶旧居にいったら、売店のおじさんが話しかけてきて、なんと、長野オリンピックで清水選手が金メダルをお母さんにかけてあげたのを見て感動して60歳でスピードスケートを始めて、全国大会にも出るレベルになったそうだ。

ナウマン象博物館で知ったが、野尻湖の発掘って毎年やっていて誰でも参加できるそうだ。

父はこんな人だけど、ものすごく性格がよくて、一緒にいると本当に癒される。

翌日、千畳敷カールに行った時、天気が悪くてロープウェイの窓がすっかり曇っていたが、一生懸命自分のタオルで窓の曇りを拭っては、近くにいる見知らぬ親子連れの小さな男の子に、「ほら、僕、見えるでしょう?」といっている。それが全然わざとらしくないのだ。

だから、若い人にも失業者や非正規労働者の多い今日、74歳の今でも、常勤の仕事が続いている。

教養はないけど、性格がすごくいい父、
それに対して、教養はあるかもしれないけど、性格が…な私、
こんな極端に正反対な二人が本当に親子なんだろうか。

知識を得るという私の人生の目標が無力化されそうな気もする。
私が命がけでやっていることって大して重要ではないのだろう。

父に孫の顔を見せてやれないことには心が痛む。
(妹二人はバツ一で再婚の見込みはない)

父に心配させてしまったのは、煙草のこと。

だって、自然保護のためにマイカー規制されていて、ごみも全部持ち帰らなきゃいけない場所で煙草を捨てるなんて人のやることでしょう?注意するのが当たり前じゃないの?

でも、逆切れされて、車で発車した後も追いかけられてボディを叩かれた、怖かった!!

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日帰りで相国寺伊藤若冲展へ

2007年05月31日 | 旅行
とうとう行ってきた。

http://jakuchu.jp/jotenkaku/

今月は、がんばって複数の論文(査読付を含む)を発表したり研究会で発表したりしたので少し自分への語ご褒美。

スケジュール的に無理だったのだが、どうしても諦めきれず、東京で研究会その他の用事があった日の夜行バスで京都に行き、到着した朝展覧会を見てその日のうちに大学に戻るという強行軍をやってのけた。(いちゃもん大好きな人がいるのでいっとくが、ちゃんと代休とっているしその日のうちに大学に戻っているから。そんな暇があったら勉強しようね。お互いに)

若冲が相国寺の大典禅師に師事し、禅の修行の一環として描いた釈迦三尊像と動植綵絵30枚だったが、明治政府の廃仏毀釈を生き延びるため後者が皇室に献上され、120年ぶりに再会を果す。
また、前々から見たかった金閣寺の障壁画も公開されている。
感激の一言だ。

昨年夏、石峯寺で若冲の羅漢像と墓を見、秋には国立博物館でプライス展を見、この春には砺波チューリップ公園内の美術館で川島織物が1904年セントルイス博物館に展示した動植綵絵のタペストリーの下絵などを見、そして今回この夢のような展示を見ることができた。

枯淡の趣のある障壁画と極彩色の動植綵絵という両極端な画法なのに、どちらにも若冲らしさがあふれ、一点一点を飽きるまで鑑賞した。幸せ。
三島も描いた金閣寺の放火犯林養賢は毎日この障壁画を見てたのか、いいなあ。

相国寺のそばにある同志社大学は環境抜群だし、法科大学院の校舎もすごく立派で羨ましい。

もうひとつうれしいことがあったのは、偶然、香港時代の友達と再会したことだ。
ご主人の転勤で香港→東京→オランダと転居していたが、4月に東京に戻ってきたとのこと。
平日だというのに入場するだけで1時間待たされ、入ってからも待たされるという大混雑なのに、ミュージアムショップのレジでたまたま隣にいて声をかけられた。奇跡のようだがやはり縁があるのか。彼女も東京から母上とわざわざ見に来たのだという。しばし、大航海時代のオランダ絵画のすばらしさ、オランダで成功しているワークシェアリング制度などについて話をし、東京での再会を約して別れた。

再会といえば、ゴールデンウイークにフィジーに行った際も、クルーズ船の上で話しかけられたのが、大学時代司法試験予備校で一緒だった他大学の友人で、年賀状のやり取りはしていたが、20年ぶりに再会した。
向こうは弁護士同士の夫婦なのでヒルトン、こちらは貧しい公務員同士なのでゴキブリやダニがいる安いホテルだったのは情けないが、やはり法科大学院で教え、法テラスにも登録している彼女と司法制度改革はおかしいと愚痴りあった。

大学に戻る前、遅い昼食は、錦小路の青物問屋の息子で「錦街居士」を名乗っていた若冲にちなみ、錦市場の「やおやの二階」という本当に八百屋さんのやっているレストランで京野菜中心の定食をいただいた。

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伊藤若冲の羅漢像

2007年03月21日 | 旅行
昨年国立博物館で開催されたプライスコレクションはずばらしかった。

私は香港で日本人の領事館員の人に貸してもらったビデオで初めてプライス氏のコレクションや自宅のドキュメンタリーを見て以来、伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」に一目ぼれしてしまったので、実物が見られて大感動だった。

そして、その前に、比較法学会が龍谷大学で開かれた際、2時間の昼休みの間に近くの石峯寺に行き、若冲の墓と晩年の作品・羅漢像を見ることができたのも幸運だった。

あれほど細密で多彩な色使いの絵を描いた若冲が最晩年にこのような素朴な羅漢像に辿り着いた軌跡の人間らしさにも感動を覚える。

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伊藤若冲の羅漢像

2007年03月21日 | 旅行

昨年国立博物館で開催されたプライスコレクションはずばらしかった。

私は香港で日本人の領事館員の人に貸してもらったビデオで初めてプライス氏のコレクションや自宅のドキュメンタリーを見て以来、伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」に一目ぼれしてしまったので、実物が見られて大感動だった。

そして、その前に、比較法学会が龍谷大学で開かれた際、2時間の昼休みの間に近くの石峯寺に行き、若冲の墓と晩年の作品・羅漢像を見ることができたのも幸運だった。

あれほど細密で多彩な色使いの絵を描いた若冲が最晩年にこのような素朴な羅漢像に辿り着いた軌跡の人間らしさにも感動を覚える。


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Our Trust in Rule of Law

2005年07月11日 | 旅行
事件の翌日、女王と皇太子夫妻が別々に負傷者が収容されている病院を慰問し、フットワークの良さに感心した。

女王がその際のスピーチの中で、テロに屈せず、今までどおりの生活をし、我々の価値を損なわせないことが重要と言ったとき、この言葉が出てきたのに、感動。こういう言葉が王室メンバーからさらっと出てくるところが、さすが、マグナ・カルタの国だわ。(そもそもは王の専横から人権を守るためのものだったのに)

今まで通りの生活をすることこそ、テロを克服する方法、ということが強調されているので、昨日の日曜日予定されていた終戦60周年式典も予定通り行われ、王室全員が出席する式典を見ようと集まった人々で、バッキンガム宮殿前の広場は埋め尽くされた。

マグナ・カルタといえば、実物を大英図書館で見た。
昔大英博物館にあった文書類は今こちらに来ている。

シェークスピアのロンドンの家の抵当権設定証書Blackfriars Mortgage Deed(1613.3.11)もあって、ちょうど不動産登記所を見学した後だったので感激。
“William Shakespeare,(住所), mortgages to Henry Walker,(住所), for £60 a house that he had brought from Walker on the previous day for £140. This secured the balance of the purchase money for the property which stood by the great gate of the former Dominica priory of Blackfriars between Ludgates and the present Blackfriars Bridge”

この図書館には他にも、英国の作家の直筆原稿とか、ビートルズの自筆作詞原稿とか、最古の新約・旧約セットの聖書とか、お宝がたくさんあるのだが、私が思わず落涙したのは、南極探検でアムンゼンに敗れ、かつそこで命を落としたスコット隊長の最後の日記だ。そばにいた見知らぬ男性が「見てご覧、スコット隊長の遺書だよ。すごく感動的だね」と話しかけてきた(英語の発音からして英国人だろうが、英国人は米国人と違ってあまり知らない人に話しかけたりしないんだが)。
最後の言葉は、”For god’s sake, look after our people”(Picture shown)

それから、アンデルセンの生誕200周年ということで、特別展示をやっていた。
私もアンデルセンの童話に親しんで育ったが、結末が悲惨なものばかりなのが不思議だった(無理やりハッピーエンドにするディズニーはすごい!さすがハリウッド![もちろん皮肉]アメリカに留学して初めバークレーの語学学校に入ったとき(ロースクールの前に語学1ヶ月、プレロースクールを、ジョージタウン大学で1ヶ月やった)、Little Mermaidが教材だったので、途中ですでに私や他の日本人が泣いてしまい、教師に不思議がられ、「だって、結末を知っているから」といったら、彼に「ハッピーエンドに決まってるでしょ。だってアメリカ映画だよ」とといわれた)。

しかし、彼の生涯をつぶさに知って理解できた。
デンマークの地方オデンスで貧しい靴職人の息子として生まれ、11歳で父親を亡くし、貧困の中で
“the difficulties, indignities and sense of exclusion that made up Andersen’s childhood underlay every word he wrote: his sympathy for the outsiders, his identification, with the child or an animal such as the duckling or the nightingale, ignored or unheeded above the crows and babble; his vision of life as a solitary
struggle often ending in tragedy.”(“Hans Christian Andersen” Jackie Wullschlagerより。以下、引用は同様)
という人生観を培った。

後にJonas Collinという後援者を得て17歳になってから11歳の同級生に混じって学校に通い始めるが、勉強は苦手で、作家になってからもデンマーク語のスペルも正確にできず(彼と英国で二回会い、二度目は彼を同居させて苦い経験をしたディケンズも、「英語どころか、デンマーク語もちゃんと話せるかどうか怪しい」と述懐している)、校正者が直していたそうだし、後日地図上でコペンハーゲンの位置を正確に示せなかったそうだ。

社会から疎外され、見下されてきたアンデルセンが、作家として比類ない名声を手に入れったことは、「醜いアヒルの子」という作品にもっとも如実に投影されている。

しかし、その名声も彼を癒すことはなく、
“Admiration and fame became a drug for Andersen, who never fully overcame his bitterness at his early hardship, and remained still lonely in spite of his acclaim, nervous in temperament, gawky in appearance, sexually uncertain; he wavered between crushes on men and women, never developing a full relationship with anyone.”

病的なほど疑い深く用心深く、火事になったときにホテルの部屋から逃げ出せるようにといつも9mのロープを旅行中持ち歩いていたそうだ(それも展示してあった)。

アンデルセンは、それまで「年若い大人」としか認識されていなかった子供の「発見」と時代を同じくしたためにもてはやされたという面もあるが、彼のこうした内面が生む暗い物語が、子供に世界に立ち向かう心の準備をさせるからこそ、こうして長く読み継がれているのだと思う。

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アンコール遺跡・偉大な石澤良昭先生

2005年01月29日 | 旅行
「世界不思議発見!」の正月特番で、アンコール研究の第一人者上智大学の石澤良昭教授が出ていた。

石澤先生は、学問的業績はもちろん、人間としてもすばらしい人だ。
専門外だが、三島由紀夫の晩年の戯曲「癩王のテラス」の舞台なので、アンコール遺跡には非常に興味があった。

三島由紀夫の作品の舞台になった場所は、できるだけ訪れるようにしている。

国内では、銀行員時代、大阪出張の帰りに『潮騒』の舞台になった神島に連絡船で行って、観敵廠に道なき道を、虫刺されだらけになりながら登ったし、職場旅行で堂ヶ島温泉に行ったときは、出発前の早朝にタクシーを頼んで、黄金崎の『獣の戯れ』の文学碑まで行った。
そうそう、その時、松崎出身の国鉄マン石田禮吉を描いた城山三郎の『粗にして野だが卑ではない』を読んだばかりだったので、運転手さんにその話をしたら、「でも、あの人の意見で、新幹線が沼津じゃなく三島に停まるようになったんですよ。その方が松崎に行くのは便利だから」というので、「十分卑じゃないか!!」と憤慨した。確かに、沼津じゃなくて三島というのは謎だった。

清水の美保の松原はいいけど、安永透の勤めていた港の通信所の跡地は、正式な文学碑じゃなくて、料理屋の手書きの剥げかけた看板に、「珠玉の名作、三島由紀夫の『豊饒の海』の舞台!」
と書いてあったのに、かなり落胆した。

バンコクのワット・ポーにも『暁の寺』を片手に登ったし、
香港のタイガー・バーム・ガーデンも、『美に逆らうもの』というエッセイを持ってったし。

インドは、三島由紀夫がその人生観を変えたところだ。
1998年に旅行したとき、バラナシで、ガンジスを船から体験したとき、流れてきた子供の死体[子供は火葬してもらえないことが多い)を見たときも、アジャンタ・エローラの遺跡を見たときも、『暁の寺』を読みながら、「滝の位置が現実と違うな」などとチェックしながらだった。
また話が逸れるが、この時の現地ガイドがカーンさんという、『河童が覗いたインド』の妹尾河童のガイドを勤めた人だった。「妹尾先生に日本語習いました」といって、「これは法隆寺の蓮華手菩薩像の原型になったものでごじゃいまっすー」という変な丁寧語が面白かった。
アジャンタは、仏教遺跡だったものが、時代を経るにしたがってヒンズー教のものになっていくが、レリーフの人物の彫り方[体がS字型)が共通しているなど、自然な移り変わり、それが日本の仏教美術につながっていく歴史が実感できた。
エローラのカイラーサナータ寺院の、どうやってもカメラに収めきれない巨大さ(3代以上の石工が彫り続けたのだという。孫の代に完成するものを彫り続ける石工たちの気持ち、想像しただけでドラマだな)にも驚嘆した。

2000年3月にアンコール遺跡にツアーで行く前も、『癩王のテラス』を読み返したし、遺跡見学の前はいつもそうだが[1994年12月にペルーに行く前も3冊くらい読んだ)、石澤先生の研究書も2冊読んだ。

実物のアンコール遺跡は、本当にすばらしいものだったが、改めて三島の天才ぶりを再認識した。
取材期間は短かったはずなのに、遺跡の随所にレリーフが刻まれている、さまざまの伝説や、ジャヤバルマン2世の時代の歴史を、その本質まで完璧に理解した上で、彼独特の精神と肉体の二元論に昇華させている。もちろん、戯曲としての結構も完璧だ。

ちなみに、同行するはずだった夫は直前に仕事でドタキャンした。
旅行から戻ってきて、友達とやっている三島の読書会で発表した際に作ったレジュメは以下の通り。

「らい王のテラス」とアンコール遺跡
2000.4.19
1. アンコール時代とは
802年   ジャヤバルマン2世が創始。
1150年頃  スールヤバルマン2世がアンコールワットを建立。ヒンズー教(ヴィシュヌ神    信仰)に基づく。
1181年   ジャヤバルマン7世(戯曲の主人公)がチャンパ王国に勝利。
       アンコール・トムの建立。大乗仏教に基づく。
2. 当時の王政
必ずしも世襲でなく、力のある者が王になった。王が変わるたびに新しく建造物を建立するが、その大きさ、豪華さが王の権力を象徴するが、前王からの正統性の継承という面もあったため、一部前の建造物の特徴を引き継ぎながらも、独自性を出さねばならなかった。→「余はアンコールワットにひけをとらない独特の寺を建てたいのだ」p37(1-2)
3. 王即身崇拝(デヴァラージャ)
 王を、神の化身と考え、死後はその神そのものになるという考え方であり、その意味で、アンコールワットやアンコールトムは王の墓所であるともいえる。
スールヤバルマン2世はヒンズー教のヴィシュヌ神の化身、ジャヤバルマン7世は観世音菩薩の化身と考えられていた(p39、1-2)。
4. ナーギとの契り(p26、1-2、p82,2-3)
(1) ピミアナカス神殿(写真:アンコールへの道p101)
(2) 建国伝説(p25、1-2)
(3) 毎晩妻妾と同衾する前にナーギと交接しなければならない。←1290年代に滞在した中国人周達観の「真蝋風土記」が典拠(アンコールの遺跡p60)
(4) カンボジアの土着の蛇信仰がヒンズー教のナーガ信仰と結びついたもの。→ここから、ライ病罹患の伝説(5.参照)にもつながる。
5. ライ病伝説の根拠
(1) アンコールトムにある、毒蛇の血を受け、手当てを受けているレリーフ←アジアの至宝p33、アンコールの遺跡p121)
(2) ライ王のテラスの像が裸身でしかも性器がないこと
←ただし、ヤショーバルマン1世、シバ神像という諸説があり、現在は閻魔大王とする説が有力。(閻魔大王はアンコールワットのレリーフ「天国と地獄」にも出てくる。)
(3) ニャック・ポアン(アンコールの遺跡p169)等の施療院を実際にジャヤバルマン7世がたくさん建設していたこと。
(4) 以上から、ジャヤバルマン7世はライ病でなく、戦没したという説が有力になっている。
6. 繰り返し出てくる月のイメージ(p25、1-2、p49、2-1)
バンテイアイスレイのレリーフ(アジアの至宝p42):太陽に組み伏せられる月のイメージ。太陽がライ=精神の象徴か?
7. 遺跡の様式、建設の実際
金箔を施したもの:p18、1-1
手抜きがあった:p19棟梁の科白←歩き方p41
8. 精神と肉体の二元論(p67,p110~)
肉体の崩壊と引換に作品が完成される=「豊饒の海こそ私のバイヨン」(宗谷真爾の解説)
9. 他の三島らしいところ
(1) 第一王妃,第二王妃の科白のシンメトリー(p75とp81)
(2) 宰相の冷感症(p58)←「沈める滝」の城所昇を思 わせる。

最近、南野法務大臣が「らい」という言葉を使ったからといって謝罪していたが、らいという言葉は使ってはいけないから、この名作が上演できないのか?
この戯曲を見ると、三島が既に死を決意していたことがわかるのだが。
初演では北欧路欣也が主人公を演じたが、彼のインタビュー番組できいたところ、楽屋でシャワーを浴びていたら、突然三島が入ってきてびっくりしたそうだ。

「らい」という言葉さえ使わなければいいのか?
それよりも、名前も奪われ、強制的に不妊手術をされたり(中絶や産後の殺害の対象となった胎児やえい児のホルマリン漬けが大量に発見されたと27日の日経新聞に出ていた)、人権を奪われた事実のほうが重要ではないのか?
興味ある人は、北條民雄『いのちの初夜』、高山文彦『火花』を読んでください。

それにしても、南野法相へのバッシング、明らかに看護師という職業の軽視や女性差別に関係がある、絶対に許せない現象だ。担当官庁についての専門知識がない大臣ならほかにいくらでもいるだろう(それがいいといっているのではありません)。


この旅行で、実物を見て、石澤先生の著書では解決できない、いくつか考古学上の疑問点が生じた。
また、三島由紀夫がアンコール遺跡に取材に訪れたときの、遺跡のそばで撮った写真が、1979年伊勢丹で開催された「三島由紀夫展」で買ったカタログ(私は高2で月3000円の小遣いの中から捻出したのである)に載っており、その場所を突き止めたいとコピーを持っていって、ずっと探していたのだが、とうとうそれらしい場所がわからなかったので、なんと、会ったこともない石澤先生に、それらの質問と、三島の写真のコピーを入れて、「この場所はどこでしょうか?」という質問を書いた手紙を、上智大学宛に出してしまった!!

そうしたら、なんと、すぐに、大変丁寧な回答が来たのだ。
三島のいた場所については、先生も見覚えがなく、ポルポト時代の内戦で、遺跡がかなり破壊されたり盗掘されたので、[三島が行ったのは1960年代でその前)もうその当時の原型をとどめていないのだろう、とのことだった。

アンドレマルローが仏像を持ち出したエピソードは有名だが、アンコールの遺跡の盗掘が現在も組織がかりで行われていることは、三留理男「悲しきアンコールワット」(光文社新書)に詳しい。

非常に感動した。
今まで、著者に質問を送っても(パラサイトの山田昌弘とか、小谷野敦とか)返事など来たことがない。(それはそれで仕方ないだろう)
それが、教え子でもOGでもなく、ましてや同学者でもない、ただの銀行員に、そんなに誠実に対応してくれるなんて!!

以来、先生の大ファンになり、年賀状をやりとりさせていただいている。

「世界不思議発見!」でも紹介されていたが、今年の年賀状によると、先生は、COEプログラムで、カンボジアの青少年が遺跡の補修という仕事で身を立てられるように、専門学校を現地に作ったそうだ。すごいなー、と素直に思う。
援助って、一時的に金を出せばすむものでなく、かといって、外国人ボランティアが現地で作業するにもやっぱり限界がある。やっぱり、現地の若い人たちが、永続的・発展的な仕事をもつようにする、ということが一番無理なく安定し、しかもプライドを傷つけない援助だろう。しかも、その仕事が、遺跡という、国の歴史に理解と誇りを持てるようなものだったらなお素敵だ。
大学にいてつくづく思う、COEって、その件数で大学間が競争したり、本当に「ためにする」議論みたいになっているが、こういう石澤先生のような、国際社会で意味のある試みってできないのだろうか?

それにしても、ポルポト時代というのは、同じ毛沢東主義でも、中国の文革よりもずっと悲惨だ。
「最初に父が殺された―飢餓と虐殺の恐怖を越えて」
ルオン・ウン (著), [無名舎)を読んで、本当に泣いた。
完成度は『ワイルド・スワン』ほど高くないが、ぜひたくさんの人に読んでほしい。

インテリだからという理由で命を奪われるなんて、人類の発展への犯罪じゃないか、と思う。
なんせ、法務支援プロジェクトでカンボジアの民法制定で活躍された早稲田大学の鎌田薫教授によると、法律文書は全て焼かれており、法学者や法曹もほとんど殺されたか亡命したので、元々民法がどんな条文だったか(おそらくナポレオン法典の系譜を引くものなのだろうが)誰一人正確に知らない、というのだ。

親から仕送りを受け、勉強に集中できる境遇が、どんなに幸せなのか、この時代の日本に生まれたことがただの偶然なのだとわかっていない学生が多いのにいらつくことがある。(私自身が学費も本代も全部バイトでまかなった僻みも入っているが)

私は70カ国近く旅行に行ったが、その度に、1960年代に日本という国で生まれたことは、ただの偶然にすぎないのだ、と謙虚な気持ちになる。もし、ちがう時代、ちがう国に生まれたら、たとえば、カンボジアに生まれるということだってありえたのだ。
そうしたら、法学部の学生だというだけで命を落としていたのだ。

カンボジアに前記の旅行に行ったとき、現地ガイドの若い男性が、遺跡の上で、泣きながら、家族が殺されたときのことを話したことを、沈みかけた西日に、彼のクメール人独特の目からあふれた涙が反射して光った光景を、私は一生忘れない。

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ランカウイ島のクロ

2005年01月08日 | 旅行
私たちが初めて会ってから10年目だったので、記念に旅行に行った。

行き先はランカウイ島、久しぶりにダイビングを楽しんだ。

バンガロー型の部屋だったが、滞在中何回か野良猫がベランダに来て、入れてやって「クロ」と呼んで遊んだ。
やんちゃで、お湯を沸かしたりしていると、飛びついてくるのが危なくてしょうがなかった。

大津波で、命を落としたのではないか、と心配している。

今回被害にあった場所は、いずれもダイビングに訪れたところばかり。
他人事でないなと、犠牲者の方々に哀悼の意を表します。


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平良とみさんに会った!

2004年12月31日 | 旅行
クリスマスに沖縄に旅行した。
沖縄は大好きで6回目。

高校のときの地理の先生(現在は琉球大学教授)が授業で沖縄問題(2度にわたる琉球処分、基地問題等)を取り上げてから、本土が近代史の負の部分を全て押し付けてきた所なのだという負い目があった。
 とくに、大和の人間になりたい、だから人一倍愛国心を示さなければならない、という沖縄人の気持ちを利用した第二次大戦の時の扱いはあまりにひどい。
米国留学中に見たワシントンの歴史博物館の日系人の歴史展示で、日系人のヨーロッパ戦線での勇敢な戦いぶりを見たときもそれを思い出した。

今も、内地の文化に合わせようとする気持ちから、やまとんちゅーが失った古き良きものを残していたりすることに気づく。言葉遣いもそうだし、たとえば、今の十代の女の子で子のつく名前はかなり少ないのに、speedの4人中3人がそうだったりする。(speedは大好きで、東京ドームの解散コンサートにも行った。)

でも、数年前に離島に行った時、宮古島にある人頭石(沖縄本島が離島に課した重税)を見たり、小浜島、竹富島等は石垣とは違う町なのに町役場は石垣島にあり、また、それらの行き来は直接する航路は公のものはなく、一度石垣島に行かなければならないこと等を知って、内地→沖縄の抑圧の構造は、本島→メジャーな離島、メジャーな離島→マイナーな離島というように重層的になっているのだと気づいた。さらに、その外側には、安保の名を借りた米国→日本の抑圧の構造があるだ(それが基地問題に表れている)のだ。

沖縄に行って癒されるのは、そのような悲劇を背負いながら、この地が現代人が失った生の根源的なものをもっているから。生と死、生者と死者、人間と神がないまぜになった、民俗学の世界が今もある。実際、どこまでも青い海、サトウキビ畑、それを望む丘にある亀甲墓を見ていると、死は単に丘の下から上への移動に過ぎないような気がしてくる。

さて、今回は、やちむんの里という焼き物の工房が集まっているところで、女優の平良とみさんに会った。「ナビイの恋」を見て大感激して以来のファンだったからとてもうれしかった。
同じ監督の作品「ホテル・ハイビスカス」は期待ほどではなかったが。
「ちゅらさん」については稿を改める。

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情は人のためならず ―ミャンマー・ミラクル

2004年09月23日 | 旅行
夫の転勤で香港に住んでいた2002年の正月休みに、夫婦でミャンマーに10日間ほど旅行した。
予め香港の旅行社を通じて日程等を作成し、専属の英語ガイド・ウィンさん(本職は経営コンサルタント)と若い運転手のオジ(軍事クーデターのために、名門ヤンゴン大学の中退を余儀なくされたという)が付いてくれた。40代独身男性のウィンさんは、歌うような英語で歴史や神話の詳細まで語ってくれ、いつもロンジ-(巻スカート状の衣服)をはき、靴を脱いで寺院を参拝する時、両踵を180度の角度にしてぺたぺた歩くのが微笑ましい人だった。
ミャンマーは敬虔な小乗仏教の国で、人々は宗教の中に生きている。1年の稼ぎを全て金箔に換えてそれをパゴダに貼りつけることだけを生きがいにしているような人もいる。首都ヤンゴンのシュエダゴォンパゴダの壮麗さも息を呑むほどだが、のどかな農村の田んぼの緑の中に忽然と金色に輝くパゴダが現れ、その周りで牛がのんびりと草を食んでいる景色こそこよなく美しい。パガンという、世界遺産にもなっている遺跡の町では、今でも続々と寄進者により新しいパゴダが建っている。聞けば日本円にして40万円くらいで新しいパゴダが寄進できるそうだ。エルメスのバッグ一つ分もしない値段で自分の名で立派なパゴダが建てられる、自分たちの金銭感覚の方がまちがっているのではないか、と考え始めたあたりから私達は不思議なミャンマー・ミラクル・ワールドに徐々に入っていったのだ。

←ここで夫から突っ込みが入りそうなので予め書いておく。
この時はこんなに殊勝なことを考えたのに、今年(2004年)冬のNY出張でエルメスの店頭にあった40cmバーキンを買ってしまい、夫から借金している小うさぎ状態なのである。ちゃんと借用書を書かされたし。

輪廻転生も当然のように信じられており、オジは自分の前世を全て覚えているそうだ。3歳の頃、家具の行商人だった両親に連れられてある村に行った時、自分が前世でその村に住んでいたことを突然思い出したとのこと。前世では早世したために息子や孫がまだ生きており、前世であったことを彼らの前で事細かに正確に話して驚かれたそうだ。今でも、井戸を掘る手伝いをしたりして、前世の息子や孫を助けているそうだ。
良いことをすれば次の生れ変わりの時、良い身分に生れ変わることができるという信仰があるので、皆一様に優しく、他の東南アジアの国のように、外国からの旅行者にふっかけたりしない。寺院の参道では、参拝者が善行を積む手助けにと、鳥屋が店を広げている。参拝者は買った鳥をすぐ空に放って善行を施すのである。
そんなミャンマーの人達に感化され、「何かいいことをしたい」という気持ちになっていた私は、観光名所・ウンタマン湖に200年前から架かっている全長1.2kmの木橋を渡っている時、一人の老人に声をかけられた。ウィンさんの通訳によると、日本のボランティア団体から寄付された古着をもらったら、ポケットに日本円が入っていたのでミャンマーの通貨に両替してほしいとのこと。軍事政権下で外貨の両替は厳しくコントロールされているのだ。夫は止めたが、私は「善行のチャンス」とばかり、良いレートで両替してあげた。

首都ヤンゴンの高級ホテルでも時々停電が起き、都市部の住居でも電気や水道の行き渡っていない貧しい暮らしでも、人々は敬虔な祈りの中で、来世に望みをかけて真摯に生きている。人間が生きていく上で本当に大切なことは何かを気づかせてくれた貴重なミャンマーへの旅はほどなく終わったが、ミャンマー・ミラクルが私の身に本当に起こったのはその2ヶ月後のことだった。

その年の3月に私は東京に所用があり香港から1週間里帰りした。たまっていたJALのマイレージを使ったのだが、途中国内で一箇所立ち寄っても同じマイレージでOKというので、大好きな沖縄に立ち寄った。土曜日の夜、那覇国際空港に降り立った私は、青くなった。予め香港の銀行で両替しておいた日本円の封筒と、香港からしょっちゅう中国に行くために両替しておいた人民元の封筒を、出発時に慌てて間違って持ってきたことに気づいたのだ。空港は閑散としており、銀行や郵便局も閉まっていて、クレジットカードでキャッシングしようにもATMも終了している。売店でも米ドルならともかく香港ドルは両替できないという。香港ドルと人民元はあっても日本円が一銭もない状況でどうやって那覇市内に行こうかと困っていた私は、その時、財布の底に、香港ドル硬貨に混じって500円玉があることに気づいた。だらしない私はミャンマーであの老人から両替したものをそのまま入れっぱなしにしておいたのだ。そして、その500円を使って市バスに乗り(モノレールは当時まだできていなかった)、なんとか那覇市内の予約したホテルにたどり着くことができたのである。ミャンマーの古い木橋の上で出会った老人から両替した500円に2ヶ月後沖縄で助けられた私。
情は人のためならず、というミャンマー・ミラクルを実感し、毎日のささやかな生活を大切にすることが、来世の幸せに通じるのだと素朴に信じることができるようになった私なのである。


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2002年オランダ・ベルギー・フランス美術館めぐりその3

2004年09月23日 | 旅行
三、フランス篇
1.パリ
6月6日の夜遅く、ブリュッセルから列車でパリに到着し、ひかりさんのお勧めでJCBを通じ予約しておいた、Louvre Saint Anneというホテルへ。ひかりさんがいっていた「ひぐま」のまん前です。ホテルのあるSaint Anne通りは、東京三菱銀行があるせいか、日本食屋さんがずっと続く日本村みたいな場所になっていました。ホカ弁屋さんもあって、8日の夜買いに行ったら、ロシア戦勝利の読売新聞の号外を配っていました。

2.モンサンミッシェル
次の日は、パリビジョンのツアーでモンサンミッシェルに行きました。

ノルマンディー地方の、林のような生垣、Bocageの続く場所をバスでずーっと走っていき、やがてモンサンミッシェルが見えてくる。
私のイメージでは、引き潮の時のみ渡れるところというイメージだったが、舗装された堤防のようなものがあり、車ですぐ下まで行ける。ただ、堤防の脇にはたくさんの羊が放牧されており、塩水を含む草を食べるので独特の美味しさで、名物料理になっているとのこと。また、ノルマンディー地方では大西洋からの海風が湿気を運ぶためぶどうが育たず、かわりにりんごを植えていて、シードルが名産。さらに蒸留したものがカルバドス。

8世紀、司教オベールの夢に大天使ミカエルが3度現れ、この地に聖堂を建てろというお告げをしたところ。信じないオベールに、ならば証拠を見せようとミカエルが司教の額に指を当ててそこに穴ができたという逸話が城砦内の壁に彫刻として描かれている。それからも、ミカエルはさまざまな奇跡を起こした。
巡礼者が海を渡っている時に大波が来て、逃げ遅れた妊婦がミカエルの加護で海中で出産し授乳までしているというかなり古い絵をブリュッセルの王立美術館で見たのを思い出した。

城砦に入ってすぐ、オムレツで有名なレストランがある。マダム・プーラーが始めた店で、卵を入念にかき混ぜるのでスフレのようになるのが特徴。大きなボールでかき混ぜているところも、観光客に見せてくれる。周恩来が欧州を放浪していた頃、お金がなくてここで無銭飲食したが、首相になってからここを再訪してお金を払ったというエピソードが彼の写真とともに残っている。
外壁をとおって階段を上り、西のテラスへ。ここからは、はるか英国まで見渡すことができ、ガイドがノルマンディー上陸作戦について話してくれた。大きな鉄板を海に沈め、その上に廃船になった軍艦を沈めてそこから上陸したと。
そばにあるトンブレンヌという小さい島は、ここからモンサンミッシェルの城砦を造る花崗岩を運んだ場所。ルイ14世の寵臣フーケが豪勢な城を建てたため、王の怒りに触れて壊されてしまったというが、パリ近郊にある贅沢な城はそのままなので、やはりパリビジョンからツアーが出ている。
修道院附属教会は、階段から見ると、教会には見えない(逆から見ると壮麗)のは、百年戦争等で要塞として使われていたので、敵になめられないようにするためとのこと。

屋根の天辺には1897年エマニュエル・フレミエの作った32mのミカエルの像があり、1989年革命200周年のとき、修復されてヘリコプターで再びつけられたとのこと。
一部がロマネスクで3段構造になっており、主祭壇はゴシックになっているが、ロマネスクでは壁と柱を強化しなければならない結果、窓を大きくできないということから、柱をそのまま天井に繋げるゴシック建築が生み出され、それによって美しい大きなステンドグラスを作ることができた、というロマネスクからゴシックへの変化を目の当たりにできる場所。また、ノルマン人らしく、天井は、バイキング船のように樫の木でできておりしかも湾曲している。本当に、10年前の旅行で北欧の博物館で見たバイキング船にそっくりでした。また、修復するたびに当時の最新流行を取り入れるため違って様式が部分的に出現することや、職人が誇りを持って仕事をし、石畳の各パーツにそれぞれアルファベットが彫ってあるのはどの職人の仕事かわかるようにするためとのこと。
大理石でできた柱をめぐらせた中庭は、僧たちの瞑想の場所だったとのこと。柱の上には美しい花等のレリーフがあるが、一箇所だけ4人の人間の顔になっている。12使徒の内、福音書を残した4人の顔とのこと。
次に僧たちの食堂は、壁一面に窓があるが、短い間隔で桟がでているため、入口からは見えないという凝ったつくりになっている。
その真下が王や貴族の食堂。僧たちの食堂の下に貴族の食堂があるというのが宗教的建築物らしい。
隣のサント・マドレーヌという小さな部屋には、ステンドグラスに巡礼者の印、貝殻と香油壷の絵が。当時、エルサレム、ローマ、サンチャゴ・デ・コンポステーラに次いで巡礼者がたくさん訪れた場所であったせい。貝殻は巡礼者の象徴、マドレーヌはマグダラのマリア(香油壷は彼女の象徴)を語源としていると思うのだが、貝殻型のマドレーヌが定番なのは何か意味があるのだろうか?また、プルーストの『失われた時を求めて』で紅茶にマドレーヌを浸す思い出が出てくるのは何かの符丁なのか?
その後、下から物資を運んだ巨大水車のレプリカがある部屋、死んだ僧の骨壷を納めてた部屋(火葬でなく、薬品で肉を溶かしたらしい)を訪れた。
ガイドは、日帝時代の1934年に韓国で生まれたため日本語のできるガイドのキムさんという女性。説明が詳しく、とても面白かった。

3.ロワール城めぐり
6月8日は再びパリビジョンでロワール城めぐりです。
10年前にブロワ城だけは行ったのですが。

(1)シャンボール城
世界遺産にもなっており、二重らせん階段(昇りと下りが別々)がダヴィンチの発案といわれているところ。
格子天井にはフランソワ1世の紋章である火吹きトカゲが彫刻されていたり、外壁に、菱形やマル形のスレートが貼りつけられているのが特異だった。
2階の広間にあるユリシーズのタペストリーの続きは、シュベルニー城にある。
フランソワ1世は、天才でありながら流浪の人生を余儀なくされたダヴィンチをここに呼び寄せて創作を援助し、その最期をも看取ったとされている王です。
だから、ダヴィンチが肌身離さずもっていたモナリザがルーブルにあるのです。

(2)シュベルニー城
ここは王族でなく、アンリ4世の大法官の息子・アンリ・ユローの持ち物でした。
そのせいか、ティチアーノの「コシモデメディチ」等の名画や調度品がかなりよい保存状態で残っています。
とくに、離れの館は、フランス革命中ミロのヴィーナス等の避難場所になっていて、今でもオークションが開かれるそうです。廊下の壁にアメリカ独立戦争への助力を請うワシントンの直筆の手紙が飾られていたり、食堂の数十枚のパネルがドンキホーテの物語になっていたりするのも見事でした。

(3)シュノンソー城
アンリ2世が20歳も年上だったとされるディアンヌドポワチエと住んだ城です。そのため、デイアンヌを狩の女神ダイアナになぞらえた絵があります(似たような絵や彫刻がルーブルにもあります)。
アンリ2世が御前試合で選手の槍がささって事故死した後、正妻のカトリーヌ・ド・メディシスがこの城を取り上げて、建て増ししたのが、よく写真に出てくる河をわたり向こう岸まで続く美しい部分です。
アンリのHとカトリーヌのCをふたつシャネルのマークのように組合せた紋章が使われていますが、それはディアンヌのDにも見えるとことが皮肉です。ルーベンスやムリーリョの絵もあります。
この城を1733年に購入した徴税請負人デュパンが息子エミールの家庭教師に雇ったのがジャンジャックルソー(教育に関する有名著作はここからきている)で、そのために革命のときも城は無傷ですんだとか。

ここで、フォンテーヌブロー派のことも勉強できて、ルーブルの予習になったのはいいが、日本人の男性ガイドの説明はいまいちいいかげんで、カトリーヌドメディシスとマリ−ドメディシスを混同しているのが、プロとは思えず前の日の人と比較しても残念でならなかった。いい年して、こんな仕事ぶりで日本人として恥ずかしくないのだろうかと思った。

4.ルーブル
6月9日、10日、12日、三日間ルーブルに通って、アジアオセアニア以外は全部見た。

10年前は団体旅行なので、主要な作品しか見られなかったので。文字通り、足は棒になり、最後には目も霞んできたが、作品は全部見たし、オーデイオガイドマークのあるものは全て説明も聞いた。部屋によっては各国語(日本語もあり)の説明ボードがあるところもあり、それもほとんど読んだ。
もちろん、素晴らしかったのはいうまでもない。
三島由紀夫が一番好きだというワトーの「シテール島への船出」、ミケランジェロの「瀕死の奴隷」もじっくり見たし。彼は遺作で主人公にマンテーニャが一番好きと語らせているので、マンテーニャのサンセバスチャンやキリストの磔刑も堪能した。エジプトの特別展をやっていたので、それも見た。

5.シテ王宮
9日の夜、夫は先に香港に帰りました。
11日は火曜日でルーブルが休みでした。
まず、ひかりさんのアドバイスにしたがってJCBプラザへ。
そこで、レストランの予約ができるのを知って、Guy Savoyという凱旋門の近くの三ツ星レストランへランチに行きました。味もサービスも大満足でした。バターが甘いのとソルティなのと両方出てくるのも初めてでしたし、生牡蠣に合うのはこれ、鴨に合うのはこれ、とその度に違うパンを配ってくれるのも初めてでした。また、担当ギャルソンの人が、「いちご」とか「ごゆっくり」とか日本語が少しできるのにもびっくり。一人きりの食事でもなんの手持ち無沙汰さもなく、3時間もかかって食事しました。それで、あづさ姐さんのおすすめのロダン美術館(月曜休み)に行く時間はなくなってしまいました。三ツ星レストランなんて日本人を馬鹿にしていると思ったのに。でも、逆に、「日本人観光客なんかあてにしなくても三ツ星ならやっていけるはずなのに、こんなに親切なのはかえってあやしい」なんて思ってしまった自分が悲しひ。

ギャラリーラファイエットでは、香港で買いそびれていた期間限定販売のランコムのアイラインを安く買いました。
その後、シテ王宮にいく途中、地下鉄を降りたところで、ある白人が私の顔を見て「カワグチ」というので、GKの川口かな、と思って思わず振り向いたら、彼が引き返して来て、話しかけてきました。川口というのは川口市のことで、アメリカ人の彼は今はパリ赴任ですが、以前東京赴任で、川口にあった工場にも行っていたそう。名前を聞いたり、今晩食事でもどう、とか聞いていきます。(どうやらナンパのようです)
どうやって断ったらいいかなと思っていたら、ちょうど「東京のどこ」「今香港に住んでる
の」「どうして香港に?」「夫が領事館に転勤になったから」といったら、「約束があるか
ら」とちょうどシテ王宮の前で離れてくれました。

シテ王宮のコンシェルジュリーでは、ベルサイユのばらに夢中になった小学生時代を思い出して、マリーアントワネットの独房とかを見学しました。
その後隣接したサントシャペルに入ろうとしたら、もう終わったと。
3日間有効の共通チケットを買っていたのですが、その2002年版のパンフレットでは、18時半までのはずなんですが、18時の間違いだそうです。こんな情報が間違っているなんて呆れてものも言えませんよ。

それから、cottoncandyさんもいっていたHerve Chapelierのブティックで鞄を三つかいました。
このブランド、全然知らなかったのですが、街で何度も見かけて「かわいい!」と思って、ギャラリーラファイエットの人に絵を描いてみせてブランド名を聞いたのです。
それにしても、パリのブティックって早く閉まってしまうので、買物するのが大変。
ルイヴィトンだけ20時までなのでどうして、とJCBの人にきいたら、行列を18時半に締めきってもその客をさばき終わるのはそれくらいになってしまうとのこと。
日本人観光客ってどうしてパリ本店にこだわるのでしょう。香港の店はがらがらなのに.値段はそうかわらないはずです。何より悔しいのは、お金を落としてやって、不景気のフランス経済に貢献すればするほど馬鹿にされるという構図です。どうせお金を使うのなら、感謝されるところで買物はしたいですよね。
街に出たのはこの日だけ(あとは郊外観光や美術館のみ)ですが、会う日本人らしい女の子という女の子はみなヴィトンの紙袋をもっていて、帰りの空港カウンターでも「超過料金です」と言われて後ろに並んでいる人も構わずその場で必死で鞄に詰め替えている日本人の女の子がいたなあ。

四、一番残念だったこと
今回の旅行はもちろんとても楽しかったのですが、心に鉛のようにつかえていることがあり、こんなことで悩む自分自身が変なんじゃないかと、意見をお聞きしたいのです。

というのは、ルーブル美術館の日本語のオーディオガイドの問題です。
翻訳自体は、自然でとても良い日本語だし、喋っているのも、発音から明らかに日本人の中年男性と若い女性で、素人とも思えない感じなのに、漢字の読みが間違いだらけなのです。思わず書きとめてしまいました(こういうことすること自体が異常でしょうか?)

男性の間違え
手法=テホウ
礼賛=レイサン
福音書=フクオンショ
神々しい=カミガミシイ
荘厳=ソウゲン
死刑執行=シケイシュッコウ
ここに記されている=ココニキサレテイル
技(一語)=ギ
設立時=セツリツドキ
女性の間違え
豊饒=ホウギョウ
建立=ケンリツ
心酔=シントウ

頻繁に出てくる言葉もありますから、まちがいを聞くたびに、同じ日本人として情けなさにその場にしゃがみこみたくなるほどの絶望感を感じ、その恥ずかしい思いを今もひきずっています。
日本人の教養ってこんなレベルまで落ちているのでしょうか。日本人であることをやめたくなるほどがっかりしています。
また、他人事なのにこんなふうな感じ方をする私は異常なのでしょうか。

また、ルーブル美術館に(フランス語は書けないので英語になりますが)手紙をだす、在パリ日本大使館の文化部に手紙を出す、等の方法で直してもらうことを考えていますが、どう思いますか?

五、オランダ人とフランス人
それから、オランダ人とフランス人についても思いを新たにしました。

オランダ人て私の性格に似ている、って思いました。
友達のユーディットに、最近あなたの国はワークシェアリングの成功と安楽死の合法化で有名よ、という話しをしました。
また、「なぜ飾り窓を合法にしているの」ときいたら、「適法でも違法でもいずれにせよ、そういったものは存在するでしょ、だったらちゃんと管理して病気の予防をしたり税金も取ったほうが合理的じゃない」とのこと。
ちょっとした公園にも点字ボードがあるし、道路には獣道のトンネルがあるし、老人用施設もモダンできれい。弱者や環境にはやさしいんです。
そうなんです。徹底した合理主義で、表面だけのきれい事が大嫌いで、お世辞やお追従も苦手で、でも本当は誠実で弱いもののことを考えている。

英語がすごくよく通じるのも北欧とここで一ニを争う感じです。

フランス人は、苦手です。フランスファンの方、ごめんなさい。
まず、はっきりいって怠け者、そしていいかげん。
パンフレットの基本的な開館時間の誤りをはじめ、約束違反ばかり。
美術館の職員も、自分たちが時間通りに帰りたいものだから30分前には客を追い出しにかかる。たいてい自分の配置にはいず、隣の部屋で同僚としゃべくっている。禁止のフラッシュ撮影をしても誰一人注意しない。カタログに載っている作品を示して「この部屋のどこにあるのか」と聞いても、「知らない」と答えたり、あごをしゃくるだけ。脳みそのある動物だったら、「門前の小僧習わぬ経を覚える」じゃないけど、どうせそこにいなければならないなら、自分の受け持ちの部屋くらい作品を鑑賞したらどうなのか?そのくせ白人の客には親切。
その姿を見て、一等客用の待合室のトイレが三週間壊れたままでも同僚と喋ったりトランプしたりしている中国人の服務員を思い出しました。中国人とフランス人て似ているっていわれているらしいですね。
ある夜、ちょっと気分が悪くて、ホテルの部屋から電話でモーニングコールを頼もうとしたら、フロントがずっと話し中です。もうパジャマに着替えていたのですが、仕方なく上着をはおってフロントに降りて行ったら、従業員が電話で話しこんでいます。文句言ったら「イタリアから友達が架けてきたんだよ,切れないだろ?」っていうんですよ。
最後の日、ぎりぎりまで美術館にいたかったので、2日前にシャトルバスを20時半に頼んだら、他の客の都合で20時にしてくれと。
当日は遅れに遅れ結局20時半ですよ.来たのは。でも謝りもしない。
空港までずっと英語で嫌味言っていました。What a developed country! I feel sorry for
the other member countries of EU to have France. You will live on what your
ancestors left forever! 一生祖先の遺産で食ってろ!とかね。でも「だからワールドカッ
プで負けるのよ」は、英語で言うと殺されかねないので日本語にしておきました。
10年前も犬の糞の多さにびっくりし、いくら芸術の都といってもこんなことして平気なやつらは絶対に信用しない!と心に決め、香港でも犬の糞を見るたび「近所に住んでるフランス人に違いない」と毒づいていたほどでしたが、今回もフランス嫌いの気持ちを新たにしました。それにしても、どうして、フランス人であるとか、フランス語をしゃべるというだけで、自分たちは世界一、なんていう根拠のないプライドを持てるのか、全く不思議ですよ。
フランス語が外国語として勉強するものとしてメジャーなのも、フランス人が英語できない(また話さない)という要素が大きいしね。ユーディットもいっていましたよ。オランダ人はつい英語に切り替えちゃうから、外国人はオランダ語がなかなか上達しないって。

言いたい放題,失礼しました。
でも、日本の過去の経済発展の理由もよくわかりますよね。
ひとりひとりの労働者がなるべく手を抜いて早く帰りたい、と思う代わりに、なるべくいい仕事をして、認められたいと思って働いたらどうなるか、その見本が戦後日本でしょう。
でも、そのかわり日本人は物理的にはquality of lifeを失い、精神的には「みんな同じじゃ
なきゃだめ」というプレッシャーに苦しめられる。
よいサービスを享受することと、quality of life、個人の本当の意味での自由や自立は両
立しないものなのだろうか、という永遠に解決できない疑問に突き当たるのはこういう時です。


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2002年オランダ・ベルギー・フランス美術館めぐりその2

2004年09月23日 | 旅行
二、ベルギー篇です。
オランダで4泊したあと、6月3日の夕方の列車でアントワープへ。最後のキンデルダイクはアントワープのインフォーメーションの閉まる時間を気にしての観光になってしまいました。
3泊したアントワープでは、希望通り、駅前の三ツ星Agoraホテルに予約が取れました。一部屋64ユーロ(朝食付)です。

1.ゲント
翌6月4日にはゲントへ。
バーフ大聖堂のファン・アイク兄弟の「神秘の子羊」、もう感涙ものです。
キリストに擬せられた子羊の犠牲の絵を中心に、マリア、ヨハネ、アダム、イブ、カインとアベル等が無数の聖人とともに描かれている祭壇画です。
日本語のオーデイオガイドがとてもすばらしく、一つの絵なのに、1時間もたっぷり説明してくれます。
これで私はすっかりフレミッシュ絵画のすばらしさに開眼しました。
ミニチュアも買って、居間に飾っています。

2.ブルージュ
大急ぎでブルージュに移動。インフォーメーションに寄ったらカウンターでラジオがサッカーを中継していて、「どうですか?」ときいたら、ベルギーが1点入れたよ、と。やっぱり負けるのかなと思いつつ、まず、鐘楼へ。366段の階段はきついけど、安野光雅の絵のようなブルージュの美しい街並みが一望できます。
降りる時、狭い階段で遠足らしい子供たちとすれ違うと、フレミッシュ語はわからないのですが、口々に私達に何か攻撃的なことを言っている。「負けたからざまあみろ」とでもいってるんだろう、と思っていたら、引き分けがよほど悔しかったのだと後でわかりましたが。

世界遺産になっているぺギン会修道院。ここにも日本語の手書きのガイドがあります。

メムリンク美術館。英語のオーデイオガイドがあります。元々聖ヨハネ施療院だったところなので、病院の遺品(手術道具等)や、病院の依頼で描かれたために、尼僧が描かれている絵、その精神に添った良きサマリア人の絵等がありました。もちろん、目玉はメムリンクの「聖ウルスラの聖遺物箱」ですが、「聖家とリーヌの神秘の結婚」も素晴らしく、またミニチュアを買って飾ってあります。
それと、鏡に映る被写体の姿を描きこむ手法は、10年前マドリードのプラド美術館にあるベラスケスの「ラス・メニーナス」(1656年)を見て感心したのですが、ここにある、「ファン・ニウベンホフと聖母の連祭壇画」(1487年)にも既に、そうした手法が用いられていると知ったのも新鮮な驚きでした。但し、もう一つのパネルにある人物も含めた二人の人物の後姿が鏡に映っているので、ベラスケスのような意外性はないのですが。ルーブルにある「両替商の夫婦」(マセイス1514年)の鏡にも、絵には描かれていない聖書を読む人物を映して、夫婦の俗物性と対照させていますよね。

グルーニング美術館。ラッキーなことに、ヤン・ファン・アイク特別展をやっていました。
テーマ別に、軸になるファン・アイクの絵と、それから影響を受けたと思われる他の画家の作品を並べています。そのために世界中の美術館から絵を借りたようで、ブリュッセル王立美術館にもここに貸しているからない、という絵がたくさんありました。
アルプスを超えて、イタリアの画家たちにまでこれほど影響を与えていたなんてすばらしいです。
「ファン・デル・パールの聖母子」では、聖ゲオリギウスの盾に外にいる群集が映っています。
英語のオーディオガイドと日本語のガイドブックがあります。

昼は時間の節約のため、持ってきたパンをゲントからブリュージュまでの列車内で食べ、ブリュージュでワッフルを立ち食いしましたが、夜は、アラン・シャベルの愛弟子の、ベルギー一といわれているレストランDeKarmelietで食事しました。

3.アントワープ
(1)ホーボーケン
6月5日は、まず、「フランダースの犬」ゆかりのホーボーケン村へ行きました。地下鉄の終点です。NYにもホーボーケンという地名があるのは、旧オランダ領だったことの名残ですね。
アントワープのインフォメーションで「ネロとパトラッシュの散歩道」という日本語のブローシャーが入手できます(1.24ユーロ)。ホテルでホーボーケンの行き方を聞いたらフロントの人に「パトラッシュ(ただし現地語ではペトラルカ)でしょう」といわれるくらい、日本人のこの話好きは有名。
村といっても、住宅地ですが、そこに着いて地図を見ているだけで、町の人が「パトラッシュはそこだよ」と教えてくれるネロとパトラッシュの像は、観光案内所の前にあります。地元の彫刻家が作ったそれはアニメとはかなりちがいますが、写真を撮って感激。1985年の除幕式には在ベルギー日本大使がテープカットしたということです。案内所の中は、「フランダースの犬」に関する出版物があり、懐かしいアニメの絵を見ただけで、私は最終回を思い出して号泣してしまい、夫がなぐさめてくれました。
このイギリス人女性作家の童話は地元では知られていなかったのを、あまり日本人観光客の問い合わせが多いので、観光案内所の職員が日本語を勉強して原作を調査し、どうもモデルになったのはホーボーケン村らしいとつきとめたのです。アロアの家のような水車小屋もあったようですし(現在は売られているのでその場所(小学校)にミニチュアの水車が建っています)、作者ウィーダのいた頃、アロアと同じ年頃の女の子も粉屋にいたようです。散歩道は、ネロとパトラッシュが手厚く葬られたとされる教会から始まり、銅像を通って、原作によく出て来る並木道を通り、水車のミニチュアまで行きます。ベルギー人にこの話が今でもあまりうけないのは、村人が彼らを見捨てるような冷たいことをするわけがない、いくらでも助かる道はあったはずだ、ということらしいです。日本人のセンチメンタリズムはどうも理解しにくいのでしょう。
観光案内所は、このことがなければ絶対に造られなかったでしょうし、日本人のためだけにあるような場所です。それでも常勤職員が二人いるのだからたいしたものですが、言葉はわからないながら、私達を見てサッカーの話をしているのだけはわかりました。日本人がたくさん来るとわかっても、日本のように便乗して土産物屋がたくさんできているわけでもなく、銅像を象ったプラリネが売られているお菓子やさん(といっても目立たない)やパトラッシュという名のレストランが1件あるくらいで、町がとくにそれがために潤っているわけでもないのに、この親切さはどうでしょうか。そこにまた感動します。

(2)アントワープ市内
ネロの憧れたノートルダム大聖堂も外せません。ルーベンスの「キリストの昇架」「キリストの降架」「聖母被昇天」は見られましたが、「キリストの復活」は残念ながら修復中でした。お金を払った人だけが見られるというのは、最近まで続いていた制度だということです。ルーベンスの斜めのラインの使用によるダイナミズムに圧倒されました。

王立美術館でもすばらしいルーベンスのコレクションを見ました。

夕方、マルクト広場のカフェでベルギービールを飲んでいたら、ドイツと引き分けたアイルランド人が狂喜乱舞して、並んでお尻を出したり、大騒ぎしていました。
夜、ミシュラン一つ星の'l Formuisは、イマイチでした。
2日前にいったサーアントニーファンダイクの方が、圧倒的に味もサービスも雰囲気も値段
もよかったので、こちらの方がお勧めです。ホテルで予約してもらったらフロントの人がびびっていましたが、50ユーロのコースだってものすごくおいしいし、サービスも洗練されている割に気取りはなくてすばらしいです。
それから、昼行ったBacinoの白アスパラガススープ(日本では缶詰が普通だがヨーロッパでは初夏の風物詩である白アスパラガスは旬だったので毎日のように,いろいろな料理を食べていました)とムール貝を5種類のスープで煮た料理は絶品でした。

4.ブリュッセル
(1)王立美術館
6月6日の朝、ブリュッセルに到着し、何はさておいても、王立美術館へ。英語のオーディオガイドと日本語のガイドブックあり。
またまたラッキーなことに、ここではブリューゲル特別展をやっていました。
ブリューゲルは、一番有名なピーター・ブリューゲル(父)と息子のヤン・ブリューゲル、ピーター・ブリューゲル(息子)の3人がいますが、息子たちは父を超えられなかったようで、(当時は名画のコピーは頻繁に行われていたとはいえ)父の名画の模写ばかりしている感じです。この特別展では、父のオリジナルと息子たちのコピーを10枚以上展示しているのです。
「イカロスの失墜」のコピーには、オリジナルにはなかった父の飛ぶ姿があったり、「鳥の
罠」という絵のコピーの一つには、他の村人に混じって、うんとちいさく、イエス親子のエジプト逃亡の図が描かれているし、「ベツレヘムの戸籍調査」は、オリジナルだけ右の方でスケートを履いている男性がいる、といった具合です。館員に「ベツレヘムには雪は降らないはずですが」と質問したら、当時は地理的な知識もないから、画家は自分の知っている村の風景をベツレヘムとして描いたのだということでした。
名画がたくさんありましたが、メムリンクの「聖セバスチャン」が珍しくタイツをはいているのが印象的でした。私の大好きな三島由紀夫が聖セバスチャンに異常な執着を示した人だったので(ダヌンツィオの翻訳もしたし)、つい聖セバスチャンの絵は真剣に見てしまいます。今回の旅行ではあちこちで見ましたが、可能な限り写真も撮りました。読書会の仲間に送るつもりです。
結婚前に夫と渋谷のbunkamuraにマグリット展を見に行ったのですが、彼の特別展もあって、たくさん見られたのが幸せでした。

それにしても、フレミッシュ絵画はすばらしい。今までは、素朴だとか、稚気にあふれているとしか思っていなかったけど、不明でした。
基本的に文盲の多かった庶民にキリスト教教育をするために描かれているので、一つの絵に新旧聖書上のいろいろなエピソードや教訓がびっしり描きこまれています。おかげで、聖人とそのシンボルを覚えてしまいました。預言者ヨハネ:子羊、福音者ヨハネ:毒蛇の杯、マグダラのマリア:香油壷、聖バルバラ:塔(父親に閉じ込められた)、聖カテリーナ:車輪(キリストと結婚したといって君主の求婚を拒んで車輪に轢かれた)。でも、自分が殺された道具をもっているというのはいくら殉教のシンボルとはいえ、日本人の感覚ではちょっとわからない面もありますが。受胎告知には、聖母の純潔を表わす百合、水の入った透明なガラス瓶というのが定番です。そして、祭壇画の場合、両脇のパネルには、絵の依頼者が祈る姿で、背後にそれぞれの守護聖人を従えて描かれています。これは、中国のシルクロードの石窟仏教壁画でも、供養人といって、寄付者の姿が描かれていますから、そこのところは洋の東西を問わないのでしょうね。祭壇画は、普段閉じられていますから、閉じた時見える部分にも絵が描いてありますから、美術館でも後ろに回って見てみて下さい。

(2)その他
サンミッシェル大聖堂を見てから、グランプラス、そして小便小僧。世界三大がっかりのひとつらしいがすごい人だかり。(もう2つは、コペンハーゲンの人魚姫(確かに思ったより小さい)とシドニーのオペラハウスとか、三番目には諸説ありますが)。お土産にコルネのチョコを買い、マグリットの絵のついた(青い空に雲が鳥の形に切り取られている)傘を買い、慌ててブリュッセル・ワッフルを買って、パリ行きの列車に乗るために駅へ。この列車では、近くの席に画家の奈良美智がいました。


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2002年オランダ・ベルギー・フランス美術館めぐりその1

2004年09月23日 | 旅行
夫からHPの更新をさぼっているだろう、といわれた。
時間がないので、昔書いた旅行記などをupすることにする。

以下は、2002年5月から6月まで、香港大学の期末試験の直後に、アムステルダムにゴッホ・ゴーギャン展を見に行き、ついでに2カ国の美術館めぐりをした体験をあるMLに流したもの。呼びかけはその参加者のHNです。
素朴と洗練がぎりぎりのところで調和を保っている、15世紀フレミッシュ絵画にはまるきっかけになった旅でした。



先週の木曜日の深夜帰ってきて、4ヶ月ぶりに夫人会があったり、端午節のドラゴンボートレースを見に行ったり、日本人倶楽部で中国法のことで講演したり、点字の講習会をやったり、深土川にいって、オーダーメイド、エステ,ネイルをしたり、広東語の授業に出たり、始まったバーゲンで買物の梯子したり、いまだ時差ぼけが取れずボーっとしながらも、忙しい日々でした。
一、オランダ篇
1.Enschede
スキポール空港から列車で2時間ほどのEnschedeという町の友人ユーディットを訪ね、2泊させてもらいました。車でクローラーミューラー美術館に連れて行ってもらい、ゴッホの絵を見た時は、感涙に咽びました。
ユーディットとは9年前イスラエル旅行で知り合ったのですが、その時は離婚後長く付き合っていた恋人と別れたばかりで元気がありませんでしたが、昨年再婚し、初孫にも恵まれ本当に幸せそうでした。出産後専業主婦になったものの、どうしても働きたいという気持ちから努力して職をもち、市会議員も務めたという指向が夫とぶつかり離婚原因になったという話は、本当に身につまされました。離婚後も、法律上は認められる生活費の送金を断り,独力で資格をとって自活したという話には感動しました。
彼女は、ユダヤ人で、隠れ家で1944年に生まれたのですが、その隠れ家の写真を見せてもらったり、「シンドラーのリスト」の配給収入から作られたホロコースト記録基金からインタビューを受けたという83歳の母上にも会えたことがとてもいい経験でした。ユーディットは、何よりも、私のひどい日本語訛りの英語(文法やボキャブラリー的にはOKですが、いかんせん発音が)を一生懸命聞いてくれて(中にはわからなくてもわかったふりをする人もいるのに)、それに集中するあまり車の運転で道をまちがえたりするという誠実さには感動しました。前々から考えていた、英語の訛りを直すコースにいくことをさらに堅く決心したことはいうまでもありませんが、2日の間に私達が話した互いの人生のこと、一生忘れないでしょう。
年齢や国籍さえ超えるこういう魂のふれあいのために、人は生きているのではないかと思ったほどでした。

2.デンハーグ
amiさんに教えていただいたマウリッツハイス、とてもよかったです。
英語のオーディオガイドがとても充実しています。
フェルメールの「デルフトの眺望」、「青いターバンの少女」、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」等が素晴らしかった。
「マドゥローダム」という、東武ワールドスクエアのようなところもお勧めです。
なかなか仕掛けが凝っていて、大人でも楽しめます。行くのなら、小銭をたくさん用意してください。所定の小銭を入れると、いろいろなおまけの楽しみがあるアトラクションがあります。とくに、78番の木靴工場では、50セント入れると、ミニチュアのトラックがデルフト焼きの木靴の記念品を工場から運んできてくれて、それを観光客がお土産にもらって帰ることになっていて、楽しいです。

3.アムステルダム
(1)ゴッホ美術館
念願のゴッホ・ゴーギャン特別展。
今回の旅行は構想10年というこの展示を見るためのものでした。
すごい人でしたが、日本語のオーデイオガイドがとてもよくできていました。
二人の画家の出会い、同居、別離それぞれの時期に、どんなふうに影響を与え合ってきたかを、テーマ別に展示しています。
たとえば、1888年10月にゴーギャンがゴッホの黄色い家に来た時携えていた共通の友人ベルナールの「牧場のブルターニュ人女性」という絵を、ゴッホが模写したり、二人して同じ風景を描いたりしています。
ゴッホのゴーギャンを慕う気持ちはいじらしいほどで、ひまわりも、友情の象徴として、元々は、これで黄色い家を飾ってゴーギャンを歓待するために描いた作品でした。1888年8月に元々12枚描いた内、気に入った2枚だけを飾ることにし、その内の1枚がロンドンナショナルギャラリーにあるものです。花瓶にVincentのサインがあります。
安田火災の買ったものは、ゴッホがゴーギャンと同居中の12月に描いたもので、これは最近までClaude-Emile Schuffehecker(1861-1934)の贋作ではないかと疑われていました。(安田火災はいい面の皮と思われていたようです)しかし、今回この展示のための調査で、本物であることが確認されたのです。というのは、この作品だけジュートに描かれている(他はカンバス)のですが、そのジュートの繊維の流れ等を調べた結果、ゴーギャンが注文したジュートを二人で分けて使ったのだとわかったとのことです!ただし、花瓶にVincentのサインがありません。
ゴッホ美術館所蔵のものは、ゴーギャンが去った後、1889年1月に描いたもので、花瓶にVincentのサインがあります。
これら三つの作品が一堂に並ぶのは100年以上振りとのことです。それから、よく「14本のひまわり」と誤訳されていますが、14本の作品も初期にはありますが、この有名な三枚の絵はいずれも15本です。
「アルルの女」は、モデルのジノー夫人を、脇でゴーギャンがデッサンしている間に、ゴッホが熱に浮かされたように完成させてしまった作品ですが、ゴーギャンが残していったこのデッサンを元に、ゴッホは5枚も新しいアルルの女を描いて、その内の1枚をゴーギャンに送ったりもしています。
二人の決定的な違いは、想像力で描けるゴーギャンに対して、眼前にあるものしか描けないゴッホということにもありました。だから、ゴッホはモデルを雇う金がなかったこともあり、自画像や自己作品のコピーをあれほどたくさん描いているのです(ルーラン夫人の絵もたくさんある)。そのことは、1888年12月、ゴーギャンがゴッホがひまわりの絵を描いている肖像画(ひまわりの生花も入っている)を描いたこと(12月に生のひまわりはないはずだが、ゴーギャンには描ける)に端的に表れています。
ゴッホが描いた椅子も、一方は自分を象徴する、石の床にパイプとともにあるもの、一方はゴーギャンを象徴する、豪華な床に知性を象徴するろうそくと本が置かれているというように好対照になっています。
企画展の二人のそれぞれの(この展示における)最後の作品の演出もとてもきいています。ゴッホのは、糸杉の側にゴッホとゴーギャンらしい二人づれのいる絵、これを見て、いまだに友情の復活を信じる彼に涙が止まらなくなりました。ゴーギャンのそれは、タヒチで故国フランスを懐かしむあまり友人に送らせた種子からその庭に成長したひまわりを描いた「肘掛椅子とひまわり」です。ゴッホの影響を本人は強く否定したようですが。数々の現地妻の絵もあいまってゴーギャンの非情さとゴッホの純粋さが対比されている展覧会といえるでしょう。
それにしても、60以上の美術館から作品を借り、調査し、テーマ別に分類するという膨大な作業にはほとほと感心しました(ただし、ゴッホの耳切り事件直後の包帯した自画像はこの美術館所蔵なのに、この特別展ではコピーしか見せないというのはどういうこっちゃ)。

(2)国立美術館
英語のオーディオガイドが充実。見所の代表的な20絵画だけを外さないための地図もくれますので、まずそれを見てから残りを見るというのはどうでしょう。
レンブラントの「夜警」、フェルメールの「恋文」「手紙を読む女」「台所女」「デルフトの家並みの眺め」、ファン・ハーレルムの「ベツレヘムの嬰児虐殺」等が印象的でした。

4.キンデルケルク
のんびりした田舎の水郷地帯にたくさんの水車がある世界遺産です。7、8月の土曜日のうち1日は全部が回るそうですから、確認して合わせていったらどうでしょう
か。一つの水車だけ中を見せてくれます。管理人が、客がきた時だけ、どこからともなく自転車で現れるし、木靴を履いているのにもびっくり。
個人で行くとなると、ロッテルダムから地下鉄でZuidpleinにいき、154番のバスでまた1時間くらいなので、本数も少なく不便です。
ロッテルダムから、船で行くツアーが午前と午後2回(10:45と14:15)、12.5ユーロ、でていますから、それで行ったほうが効率的だと思います。
TEl:010-2183131, info@rebus-organisatiebureau.nl
ロッテルダムのインフォメーションで予約するのが一番わかりやすいと思います。


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