夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

吉田玉男さん逝く

2006年09月26日 | 演劇
このところ、舞台に出ないので体調を心配していた玉様がとうとうお亡くなりになった。号泣…。

そのことは、最近見た文楽のことと合わせてまた近日中に詳しくアップするが、丹波哲郎氏の訃報の方が格段に大きな扱いなのは仕方ないんだろうな。

昨年の大河ドラマで源頼政の役をやっていたときも、「ずいぶん痩せたな、病気なのかな」と心配していたが。

霊界の他のことはともかく、「タバコのポイ捨てと殺人はこの世では全く違う扱いだが、霊界では全く同罪としてひどい扱いを受けます、どちらも自分さえ良ければ他の人はどうでもいいという点で同じです。」という生前のコメントには全面的に同意!!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問題は解決せず

2006年09月26日 | profession
しばらくおとなしくしていようと思っていたのだが、トラックバックされたせいで、アクセスが千件近くになっている。そこで、多少の補足的な説明をしておこうと思う。どうせここでは私に失うものなど何もない。

1.法学論集
私が、6月13日に、不祥事で「掲載証明書の提出までに脱稿していないだけでなく、申請書によれば完結したはずの論文をいまだ完結していない」として処分された(このことは文科省のHPにも出ている)2人の教授(前学部長兼研究科長Yと前理事兼教授D)が、問題の法学論集は4号だったが、2005年3月に出た5号には何も書かず、2006年3月に出た6号には申し訳に「その2」を書いただけで、未だ完結していない、ということを書いたのは訳がある。

実は、6月30日が次に出る7号の原稿の締め切りだったのだ。
これを読んだ二人が、7号の原稿を提出して完結してくれれば…と願っていたのだが、結局二人とも原稿を提出せず、7号には二人の原稿が掲載されないことが確定した。
8号が出るのは2007年3月だから、この二人は、文科省に「○○という論文を完結させました」と誓約した2004年6月から3年近くそれの誓約を破り続けることになる。それによって非難され実名報道までされながらである。

その二人のうちの一人D氏を理事をやめさせただけで何ら人事記録に残る「処分」をしていないうえ、学長が学長補佐として重用していたことも、この大学の体質
を表しているだろう。

先日業績捏造で懲戒免職された助教授について、大学は「私文書偽造で刑事告発を考えている」とまで発表した。彼の弁護士による反論記者会見で、「法科大学院では、虚偽公文書作成罪にあたる行為なのに告発のこの字も出さないのと比べて著しく公平を欠く」といったのは筋が通っている。

職員組合が、不祥事問題について大学側に説明を求めた際にも、その後、現研究科長が処分された5名の教授の一人を「コンプライアンス委員会」の委員に指名したために学生募集の解禁がまた延びた際に説明を求めた際にもこのD氏が大学側の一員として労使交渉の場に同席したというのだから笑ってしまう。

2.人権侵害の原因
人権侵害の内容については、現在ここで書くのは時期尚早である(しかし、いずれは全てを何らかの形でメディアに発表する予定である)。

しかし、不当な人権侵害を受ける理由については心当たりがあるのでその一部を説明する。

それは、ひとえに私が法科大学院の不祥事について内部告発した人間だと疑われていることによる。

では、なぜ、疑われるのか。それは、私が、新任の助教授の分際で(そして多分Yらから見ると女の癖に)以下の前学部長兼研究科長Yの(1)~(3)の不適切な行為について公然と批判したからである。

(1) 引き抜かれた教員の講義の問題
2003年4月に、憲法のN教員が、2004年4月からM大学(旧帝大)に転出することが決まった。
私が同年6月に赴任したときには、彼は、裏切り者扱いされ、教授会への出席を拒否されていた。

(彼のその後のM大での大活躍をみると、本当に良かったと思うが。)

9月になり、民訴の教員が、補正のためにL大学から引き抜かれることになった。
彼に対しては、「また裏切り者が出た」ということで、教授会だけでなく、授業からも干すことになった。
そこで、彼のゼミまでも、「C第二ゼミ」として商法担当のCが引き継ぐことになった。学生は民訴のゼミに入ったのにいつのまにか大学の都合で商法のゼミにされてしまったのだ。
(このY,D,Cの3名が、不祥事により、2005年6月に法科大学院から外され学部に戻された)

また、N氏も同罪ということで、彼も授業から干すことになった。N氏は、一般教養の「くらしと憲法」(教職に必要なので、全学部の400名以上の1年生がとっていて、遠隔地キャンパスにはTVで中継される授業)を担当していた。これを、A講師に引き継ぐことにして、それも、前日になって、YがA氏に「明日から君やりなさい」といった。しかし、YはN氏に引導を渡すのを忘れていたので、A氏が教室で「今日から私がやることになりました」と説明しているところに、N氏が来てしまい、400名の学生の前で鉢合わせするという醜態を演じた。

話はそれでは終わらない。A氏は12月に産休に入り、他に公法の教員がいないので、その後は行政法担当のYが引き継いだが、会議等による休講が多く、さんざん学生に迷惑をかけた。

大体、教職に必要な重要な科目を、学部の都合(しかも村の掟に違反したから許せないというような理由で)で、担当教員が3回も変わるというのは、他の学部の学生を馬鹿にした非常識な行為である。

私は、「裏切り者は許せない」という感情によって顧客である学生に迷惑をかけるということに非常にショックをうけ、教授会の場で、この顛末について批判した。

(2) Yの採点放棄

①2003年度の後期、私はY、W講師と3人で1年生向けの社会科学ゼミナールという授業を担当した。これは、3名がそれぞれレポートを課して、その平均点で最終成績をつけるというものだったのに、Yは、忙しいという理由で、自分の部分については採点を放棄し、私とW氏のレポートだけで最終成績を決めさせた。のみならず、自分が学生に課したレポートを自分の研究室にももっていかず、2004年6月まで学務係に置きっぱなしにしていたのである。

ちなみに、このことを私が共同研究室で、Cや経営学のL教員に憤慨して話したところ、この二人は笑いながら、「そんなの序の口だよ。Y先生は、数年前、4年生の期末試験の答案をなくして、そのために何人かの学生の名前が卒業生名簿に載らなくて、青くなった複数の学生が『おかしいです』といってきたので、みんなで『あの人に違いない』と思ってY先生の研究室を捜索したら未採点の答案が出てきたので慌てて採点させて卒業生を追加発表したこともあったんだよ」といった。(私がこういう話を聞いたという事実のみを書く。)

②Yは2003年前期の行政法の採点をせず、そのために、9月に配布された前期成績表の欄外に「行政法については後日」と注記してあった。結局、行政法の成績は、後期の成績表にしか載らなかった。

③Yは、2004年前期の行政法の採点もせず、そのために、9月に配布された前期成績表の欄外に「行政法については後日」と注記してあった。

前期に必要単位をとり終えて就職活動に専念するつもりだった4年生は、特に困り(しかし、Yに苦情をいいに行くと悪い点をつけられそうなのでいけない、といっていた)、中でも、下宿を引き払って実家で就職活動しているのに、保険のために私の1限の講義に出ている学生が気の毒で、私は、学長に直訴した。

学長が、Yに直接採点を命令したため、Yは11月29日にやっと前期の行政法の期末試験の成績を提出した。

なお、私はこのとき、「Yの採点放棄は常習化しているので、何らかの措置をすべきである」と学長に進言したが、その進言は門前払いされた。

猪口邦子大臣は、「中間」テストの採点が一度遅れただけで上智大学法学部の教授会で「懲戒処分すべきだ」という声が上がり、結局彼女が大学を辞任していることからわかるように、このYの採点放棄とそれを許す周囲の状況は異常である。

(3)法科大学院設置申請問題
①人事の問題
経済学部の内規では、助教授から教授への昇任には少なくとも5点以上の業績が必要である。その形式要件を満たす者が、学部長の承諾を得て昇任候補者になり、投票で5名の人事委員を選び、人事委員会が業績を精査し、内容が基準に達していれば人事教授会に昇任を提案して、業績を縦覧し、一ヵ月後の人事教授会で投票によって決定する。

にもかかわらず、Yは、論文の数においてその基準を満たさず、ゆえに人事教授会に昇任を諮ることができないCを人事教授会を経ずに教授にしてやるために、法科大学院設置申請書のCの肩書を「教授」とすることによってこっそり教授に昇任させようとした。

肩書の件は法科大学院準備室の決定も経ず、秘密にされていたが、2004年6月に私はあるきっかけでそれを知ったので、Yに面会を申し込み、「法曹を養成する機関で人事のような重要事項でそのような不透明なことをするのは世間のconfidenceを失うのでやめてください。それに、第三者評価では、研究業績が厳しく評価されるのに、業績もないのに昇任できたという事実は研究意欲をそぎます」という正論を述べたが、Yは、「Cさんがいなければ法科大学院の申請はできなかった。仲間の悪口をいうなんて人間として最低だ。そんな人とはやっていけないので辞めてください」といった。
それ以降、私とYの仲は決定的に険悪になった。

しかし、Cは不祥事で処分を受けたのにそのまま教授になってしまった。

②論文の問題
前述のとおり。

③人事計画の狂い
Yがそこまで贔屓したCだが、Cも現研究科長も、「ある事情で」(これは書いてはいけないらしいので控える)、彼らが学部で教えていた会社法を、法科大学院では教えることができないことになり、商法の教員を新たに採用しなければならなくなり、人事計画が大幅に狂った。
法学科には私を含め3名の民法教員がいたが、3人とも法科大学院専任になる予定で、プラス2005年4月に他大学から1人くる予定だったがその人も法科大学院専任なので、学部で1人民法教員を採用する予定だったが、その枠を使って、他大学から若い商法の助教授を採用することになってしまったので、学部では民法教員がゼロということになった。

これについては、経済学科の教授から「学部の民法専任がゼロというのはいくらなんでも困る」という意見があったので、2005年9月にやっと学部専任の民法教員を雇ったが、それまで、学部には法学科があるのに民法の専任教員はゼロだったのである。

これだけでも驚くでしょう、でもここに書いたことも、ほんの一部で、まだ発表できないもっとすごいこともある。

これらのおかしい点について私がYに面と向かって、あるいは教授会で、あるいは学長に直訴して正そうとしたことが、私が内部告発者と疑われ、大学の理事の一人が、公の席で「法科大学院の問題は、内部告発者を処分するまでは終わらない」と発言したことに代表されるように、現在苛烈な人権侵害を受けている原因なのであるが、ここまで腐っているところを正そうとしたこと自体が全く無駄な行動だったのだなと今は考えている。

さあ、ここにも「職務上知りえた秘密」は書いていませんよ。
何かできるものならやってごらんなさい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする