脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

サンドバッグは担ぐものだ

2019-04-11 | Weblog
この前が外国の大学に留学していた会員と和製英語について話していた。スポーツには結構まちがってつかっている英語がある。ラスト30なんて言うのは典型的であるが、ジムで使っている「サンドバッグ」これはどういう起源でそうなったのかはわからないが、このままつかうと工事現場で使う「土袋」みたいな感じで、ボクシングの練習の道具ではない。もうサンドバッグ自体が言葉になっているので使っているが、正確には「パンチングバッグ」英語ではサンドバッグはたたくものではなく担ぐものである。

前に試合で審判の印象をよくしろと言うのは馬鹿げていると言った。誰のためにやっているのかわからないが、そういうことを強調する人間は国際社会でも通用すると思っているのだろうか?しかし審判の印象をよくしろと言っても、国際社会では英語が話せないと審判の印象などよくならない。日本人は自分たちの国の人間には偉そうにできても、よその国の人間には何も言うことができないから笑える。国際舞台では偉そうにできないから、反則をしないとか正々堂々と戦うと言ってみたとしても、なめられるだけだ。これからは子供にボクシングをさせるさせないということもあって、アメリカや、ヨーロッパのアマチュアボクシングは衰退していくであろう。そんな中ボクシングがさかんになってきている国は、中国をはじめ、死刑制度を認めていて、人権でしばしばたたかれる国である。ボクシングなどもともと荒いスポーツであるのだから、そんなところでおとなしくなって優等生ぶっても意味がない。とにかく自分たちの有利なように、あらゆる手をつかって勝つと言うことが求められるように思えて仕方がないのだが、こういう場で求められるのは日本人の持つ独りよがりの価値観ではない。言葉をおぼえて主張することではないだろうか?

言葉と言うのは生きている。私はそのことを実感しているが、コミュニティに何でこんなやつらがが集めってくるんだというようなところは、その責任者の言葉のレベルがひくい。きちんと正しい適切な日本語を話せばおのずとそのコミュニティはととのえられてよくなっていくと言うのが私の考え方であるが、コミュニティを平和で平等で誰が来ても安心できるコミュニティにしたかったら、語彙をふやし、さらに外国語をおぼえることだ。今どき、多少なりとも英語が話せないとみじめな思いをするし、国際社会では通用しない、単一民族でひとつの言葉しか話せないというのはその小さい世界にいたらそれがどれだけディスアドバンテージになるかということがわかっていない。語学が苦手、たいして本も読まない、言葉も稚拙、そういう人間がいくら何とか道とか薄っぺらい哲学もどきのことを話しても、一般化された常識とグローバルな視点んで見たらおかしいことはたくさんある。今日本はそういう膿がでかかっているのだろうが、これは西側諸国でスポーツをやっていた会員が言っていたが、特に日本の格闘技は向こうでやったら問題になるようなことをやっている。たぶんそういうことを理解していないと言っていた。少し前までテレビでスポーツ指導者が強くするには体罰は必要だとか言っていたが、相手を強くするためにたたくというのは個人の問題ではない。DVがやられる側が納得しているからいいという理論は通らない。それができないからどなったりなぐったりすると言うのは人権の問題、本人が納得しているからというのは無責任すぎる。どういうかたちであれ暴力は容認してはいけない、それはまわりの人間もほおっておいてはいけないことだろう。最近偉そうにテレビで強くするためには体罰は必要だと言っていた人間は世の中がそうではないという傾向になってきたので、そういうことを言わなくなった。あれだけ勇ましく堂々と言っていたが、形勢が不利になると言葉をひかえる何もいわなくなる身代わりのはやさ、やはりスポーツをやってきた人は違うと思うのだが、体罰と言うのは人権や子供が自殺した問題を考えても勉強不足で無責任な意見、それに対して自分は間違っていたなどとはいわない。私はこういう人たちがいくら熱血指導者であっても信用はしないであろう。おそらく縦社会中心の集団は自由とか平等、そして権利と言うものを考えない世界だ。そういう難しい問題は勉強しているかしていないかの問題で、これからのスポーツ指導者は私もそうだが、そう言ったことをよく理解するために勉強しなくてはいけないと思っている。







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