脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

I don’t have to be what you want me to be 皇帝海外でネコになる 

2020-10-21 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

I don’t have to be what you want me to be. 「あなたが、私に対してなって欲しいという者に、私はなる義務がない」
ムハメッドアリの言葉である。これはおそらく人が何と言われても気にしないで、自分らしく生きろと言う意味に理解しているが、自分らしく生きると言うのは非常に難しいことだ。
私は当時の日本の運動クラブが大嫌いだった、監督を皇帝のように奉ったり、筋肉バカが多く、たかだかスポーツをするぐらいで責任を押し付けられる下達上位の世界は私にはまったく受け入れることができなかったのだ。最近では私たち自由にやらせてもらっていますと言う人たちもいるだろうが、しかし私はまずシステムに問題ありきだと疑っている。日本の運動クラブは家父長制である(英語のPatriarchyはネガティブな意味でつかわれることが多いが)監督がお父さんで部員たちがその子供たち、そのシステムは強豪といわれればいわれるほど強く、親玉に服従し、人の言うことをきくことが成長だと勘違いしているお父さん中心の家父長制の世界は非常に狭い世界であったと思う。前にも言ったがトレーニングしていてそれがたとえかかわりもなく知らない人でも人が来たらあえて手をとめてこんにちはとあいさつさせられることが正しいことなのだろうか、後ろに手を組んで監督の話を聞いたり、好きなスポーツができないとこっぴどくおこられたり、全寮制を強いられたり、これって不自然なことではないのか、なぜたかだかスポーツをするぐらいでここまでしなくてはいけないのか、我々はスポーツをする権利があるし、それを楽しむ権利はある、たかだかそれがやりたいぐらいで自分の自由を放棄するなんてことは私にとってあり得ないことだ。

10年ぐらい前に体罰は必要かどうかと言うことを問題にしていたテレビ番組があった、そこでは多くの監督やアスリートが強くするのだったら体罰は必要だ、私などはなぐって手がおれたみたいなことをあたかもそれが自分の信念で自分は正しいことをしたみたいなことを言っていたが、(しかし現在は世論も世論なのでそういうことを堂々と言わない、むしろ私はそういうことを受けて来たから体罰は反対だと言う人間もいて、世論がかわればこれかよと本当に卑怯だと思っている。)しかしスポーツはそういった人間たちだけのものではない、そういった奇特な人たちはごく少数派である。その時この人たちは物事を一般化して理解しようとしない、常に自分たちがやってきたことだけを正しいと思う最悪な指導者だと思ったのだが、こういう考え方の人は一世代前には多くいて、未だに多くかかわっていると思うのだが、それが我々の世代である。それしかできないと頭がそういう思考になってくる、日本のスポーツ指導者はひとつの考え方しかできない、物事を一般化できない人が多いというのが私の感想である。
一部の世界では未だ体罰が容認されているが、それは体罰を容認する人間がいるからだ、こういうシステムと言うかメンタリティをかえなければ、体罰なんて一部ではおこるし、暴力は絶対にふるってはいけないという常識にはならないだろう。強くするとか言う前に人をたたくことは暴力である、こういうことは小学生の低学年でもわかることだ、学校や社会ではやってはいけないことをなぜスポーツの世界だからやっていいのかわからない。個性とか自己主張と言っているけれども、まずその考え方がグローバルな世界で通用するかと言うことを考えなくては井の中の蛙だ。まずクーベルタンのオリンピズムとは何か、日本は裕福であるが、しかしこの世界にはまだまだ貧困層の人たちがたくさんいる、そして暴力によって支配され自由をうばわれている人たちもいる。世界を見ると言うことはそういった問題とは無関係ではない、クーベルタンのオリンピズムはまさにそういうことである。
もっとひろく世界を見たら我々の時代の運動クラブがいかにあほらしいかと言うことがわかる。自分たちのテリトリーでは皇帝のようにふるまうが、しかし外の世界に行ったらかりてきた猫の子のようにおとなしくなる、本当にみっともない、そういう人間たちを奉ったところで何の意味があるのか。
言葉を理解する、特に英語を理解するということは見聞を広めるには大事なことだ、言葉を理解出来てオープンにしたら、いろいろな体験ができる。辛辣な意見も言われるし、時には憎しみの目を向けられることもある、私はそういう中でいろいろと悩んだり、考えさせられたり、刺激をうけることで成長できた、そしてそういう貴重な体験を通して自分がどう生きるか、そして行動するかと言うことを決断してきたように思える。おしめをかえてもらったわけでもあるまいし、親でも言わないようなことを平気で言って、人をひよっこ扱いして、成長したとか余計なお世話、F〇ck y〇u!だ。自分らしく生きると言うのは自由に生きると言うことだが、しかし自由と言うのは自分さえよければいいと言うものではない。そうなると体罰をふるわれてもそれがよければ俺の自由となるが、しかしそういったことではなく、自由は権利だ、その誰もがもっている権利を自分だけではなく、暴力や不平等や差別を生み出さないように他者とのかかわりや、そのことばの本質をとらえつつ考えて行かなくてはならない問題でもあるだろう。そしてそういうことから解放され、おびやかされることがない世界で選択の権利を持っている、そういう中でこそ人は生かされ自由を謳歌できるのだと思っている。自由は英語で2つある「Freedom」と「Liberty」だが、「Freedom」がto be free FROM something であるのに対して「Liberty」がto be free to DO something である。前置詞のニュアンスからもわかるように自由は日本人が思っている当然の権利で感覚として持つているものではない、英語の自由は獲得するものであり、自由だと言いたければ悩み葛藤し、行動をおこすことも求められるのだろう。

うちのクラブではいくつかの団体にドネーションしている、うちでドネイションしているということはここにいる会員の人たちもそれにかかわってくれているということである。うちでは特に一番弱いと思われる人たちにドネーションしているが、例えば震災の時は新生児のためにおむつをおくったり、クリスマスには教育をうけれなくて人身売買で売られていく子供たちにドネーションしている。スポーツは共同体だ、そしてスポーツだからこそ、その共同体は国境を越えて人と交流したり、そこで仲良くなって友とよばれる存在をつくることもできる、そしてだからこそその痛みを多少なりとも共有することも大事だと考えている。

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