1年前のブログ

2017-04-28 | Weblog

うちのクラブは女性が多い、時にはほぼ女性だけで占められることもあって、その時入ってきた男性はすごくやりにくそうである。うちのクラブではどちらかと言うと女性のほうが真剣にやっている。男はほぼ遊びで途中でしゃべっている光景をよく見る。ちょっとやったら水を飲んで休憩、そしておしゃべりと言う人もめずらしくはない、前に私があまり動かない人間に限って2リットルぐらいの水を持ってくると言うとうなづいていたが、うちはそういうペースでできるクラブだ。しかし女性はストイックに黙々と、女性がサンドバッグをうっている時にすごい執念やなあと茶化したことがあったが、ある意味女の執念は体育会系の言う根性よりもえげつない、たぶん女の執念は男の根性よりも強いと言うことをここのクラブに来たらわかるだろう。

よくある思春期の子供の相談。自分は透明の存在だとか言う。たぶん彼は人の輪にうまく入って行くことができない、友達との関係がうまくいかずに悩んでいるのだろう。私は彼にこうアドバイスした。「人間は絶えず自分が何者かわからないし、自分が自分であると言う自信なんてない。君が今自分は人とうまくやっていけないということで悩んでいるようであるが、人間は不安だから固まる、固まって仲良くすることでお互いが安心しあう。そういう意味では人間はすべて自分が何者かわからない透明な存在なんだよ。多くの人間は透明であるからかたまって安心する。けれどもそれができない人間がいる。たぶん君のような人間はそうだと思うのだが、人間は固まって生きるか相手にその存在を認めさせるかだ。たぶん私のような人間はそう生きてきたかも知れない。けれどもそういう生き方よりももっと大事なのは自分が今生きている証をつくることである。何かを一生懸命やっている間は自分は透明ではない。くやしさをバネにとかマイナスエネルギーをつかって自分を向上させるのではなく、今生きている自分を大切に何かを一生懸命まじめにやればそれ自体が生きている証となる。人間の存在証明なんて履歴書のようなものではない。進行形で何かをし続けるから自分は自分でありうるわけで、そういう生き方ができる人間は自分の生き方に自信が持てる。透明だなんて言っていないで、今自分に何ができるかと言うことを考えて、そしてそれがわからなかったら今ある身近なことから一生懸命取り組んでみろ。そうすれば君はもはや透明ではなくなる。」

韓国語の映画にこういうセリフがある。그래, 굴레를 씌운 건 고약한 세상이지만, 그 걸 벗는 건 김윤식. 미 몫이야(偏見を作ったのは世間だが、克服するかは、キム・ユンシク、君次第だ。)思わずジーンときた。これは身分制度のある朝鮮において、身分の違いにあきらめようとする女性に男性が言った言葉である。自分は透明な存在だと言って感傷に浸るのもいいが、人間はうごかなきゃ何もかえることはできないし、そして自らをかえていくこともできない。自分たちは命が与えられて生きている、その自分が与えられた命の中で生きることがゆるされている、権利としてあるということは素晴らしいことである。世界や世の中は動きづづけている。そういう動き続ける世界の中で化石にならないようにとにかく何かを始めること、それをはじめることで自分は透明ではなくなる。

 


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お疲れ様でした。 수고했어요

2017-04-27 | Weblog

うちのクラブでは帰る時にほとんどの人が「お疲れ様でした」と言う。私も「お疲れーっ」とか「お疲れ様でした」と返すが、私は日本語のこの言葉が好きだ。「お疲れ様でした」と言う表現はは英語や他の国の表現にはない、これは日本語と韓国語特有の表現だ、欧米圏の人間は仕事をした後にお疲れ様なんておかしいと言うが、しかしこれは相手を思いやる表現、西洋にはない高い文化だと思っている。昨日韓国人のヘギョンから相談があると言われて話を聞いた。どうやら彼女は大学院に行くか迷っているらしくて、大学で国語の勉強をして母国語が十分に理解できない子供たちに母国語を教える仕事をしたいと言うようなことを言っていた。「で俺に用って何なの?」と聞いたら英語を教えてほしいと言う。韓国の大学院は最低でも英語が読めないと入学できないので、せめて読めるようになりたい、そこで私に時間をつくって教えてほしいそうである。私は彼女の子供たちの役に立ちたいそういう仕事がしたいと言う気持ちに押されて連休明けに週1回の教えることになったが、私自身人のために何かをしたい、役に立ちたいと言う気持ちは、コミュニティや社会そして世界を支える上では非常に重要なことだと思っている。

 自分で言うのも何だが一般的に見て、知能が高いのである程度のことはできる人間だと思っている。たぶん総合的に見たら家族などのことを含めてもここでは余裕のある生活ができていると思うのだが、しかし私には大きな限界がある。それは今まで憎しみや怒りを原動にして生きてきたことだ。もっと偉くなろうと思えばできていたのだろうが、しかしある程度自分が満たされることで野心がなくなった。怒りや憎しみなんて言うのは個人の利益しか生まない。そこからこえていくことはできない。ニーチェが言うルサンチマンと言うのはまさにこのことだが、そういうことをばねにして生きてきても人間は本当の意味で成長しないし、幸せにはなれない。格闘技のクラブなんかでよく俺は逆境をばねにしてここまでやったとか言う奴がいるが、しかしそんなことは教育上よくない話だ、そういうことを言う奴に限って教育レベルがひくくて実際はたいしたことなどやっていない、ただ能力がないからそういう話をして認められようとしているだけである。確かに人によっては今ある境遇からぬけだすために怒りや憎しみをバネにすることも必要であろう、しかしそれよりももっと大事なことは自分が人の役に立つこと、そしてどれだけ人のために何かができるかということで、そういうそういうエネルギーを使う方が自分の成長になるし、幸せになれる、そしてもっと大きな偉業を達することができると信じている。よく格闘技では自分が逆境にいたと言うような苦労話を大きくして盛ってかっこよく話して刺激を与えようとするが、しかしそういう話をする人間は程度がひくい、教育上よくない、本当にバカだと思う。人のために何かをする。人のために何かができるかと言うことは私の考え方のモットーで、こういう気持ちを根底に考えることで、譲り合いや思いやりそして人権を大事にするコミュニティが生まれるのだと思う。ここでは団体を通して募金をしたり、ブログでしばしばマイノリティのことをとりあげるのは自分たちが中心ではない、人間は支え合って生きることが大事だと言う私なりのメッセージだ。


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賢明な息抜き

2017-04-24 | Weblog

うちのクラブに在籍している中学生は私学に通っている子が多い。私学だから中学受験をするわけであるが、この土地において中学受験はたいへん重要で労力のいることで、勉強しすぎてしばらくの間は燃え尽き症候群に近いような状態になる子供も珍しくはない。実はうちの子も1年足らずで受験の準備をしたので結構ハードな勉強をしてせいもあって試験の後はエグゾーステッド、しばらくはクラスを決めるテストがあるのに全く勉強しなかった。たぶんその子供たちにとって受験は通っていかなくてはならない道である。しかしやるだけやったらインターバルも必要なことで、がむしゃらにやるだけでは成績や学力はのびない。ストレスを発散できるボクシングで時々子供を遊ばせると言うのは賢明な息抜きの方法だ。

ここに来たら英語の学力が上がる。英語は私と接しているうちに興味を持って教えてほしいと頼む子供もいれば、お母さんに教えてもらいなさいと言われてくる子もいる。どっちにしろ私は成績をある程度までなら上げる自信はあるし、実際に教えた子供たちは上がっている。がしかし私は英語教育を専攻したわけでもないし、プロの教師(と言ってもレベルのひくい教師が多いが)ではない。ただ一つ観察していることは、その子の生活面において何かトラブルをかかえていないか、そして適度に息抜きができているかと言うことで、まずそう言う問題を解決できなくて勉強なんてできるはずがないと考えているからだ。学ぶことは本当に楽しいことだ、できる教師はどうやったらうまく伝わるかということを一生懸命工夫して学ばせようとするが、しかし本当に大事なことは彼、彼女がその生活においてリラックスできてエンジョイできているかと言うことで、余裕がなければいくら興味深いことでも楽しいと感じないだろう。中高生の時期はおぼえたことがスポンジのようにぎゅっと吸収できる時期であるが、しかしそのキャパには限界がある。子供のキャパを考えずににんじんをぶらさげてゴールを目指させるような学習の仕方は燃え尽き症候群を生み出すし、先細りの勉強法だ。その子供のライフスタイルが健全であれば語る大人の言葉が正しく意味のあるものならば、その学習は楽しくなるものだと信じている。中高生の学習において大事なのはバランスである。進学校に通っている子供でクラブ活動などをやっている子供のほうがいい大学に進学しているのではないかと、私の経験から推測するが、学習面において大事なのはバランス、私は子供の学力を上げるためには進んで子供の話を聞いてあげて、時にはお父さんやお母さんに気づいたことをアドバイスすることも極めて重要だと思っている。

 


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Watch your step!

2017-04-19 | Weblog

うちのクラブの指導サポート11月のB級検定を受ける予定だがも努力家だ。前回うけたC級も自分たちが運動音痴だと言うことを自覚しているのでその分一生懸命人の言葉をよく聞いて努力する。うちのクラブのモットーは真面目にコツコツと楽しくトレーニングする。そういう意味ではこの二人の指導サポートの女性は楽しく、そして自分の目標を持ってコツコツと頑張っている。その楽しさにひかれて私もやって見ようとトライする人たちも増えてきたが二人の影響は大きくなってきたと思う。最初は本当に大丈夫かと思っていた。さらにまた今回受けた人も同じようなタイプでそういう人たちが最後までトレーニングし続け、検定に合格できたのはトレーナーや指導サポートがやさしく見守る中で楽しくトレーニングできたからだと思っている。

うちのクラブは健全な人間関係重視である。たかだかボクシングができるぐらいでは大きな顔をさせない。はっきり言って才能だけで行くならば私はロープを跳ぶのを見て判断する。私から見たらロープを上手に跳べないのは競技者としてはディスアドバンテージでもし本当にうちのクラブが競技者中心ならばまずそこから優劣を見極めていくだろう。ロープを上手に跳べないのは土踏まずがあがっていないからだ。日本人の足はフラットが多いが、フラットだとストレートをうつ時に前に体重がかかりにくいのと、踏み込みがあまくなる。向こうに行って感じたことは日本人と欧米人の足の違い。欧米人の足は細くて土踏まずが上がっている。それゆえに踏み込みがはやい。下の図はbasic boxing stanceを説明したものだがこの図では前足のつま先がまっすぐ正面を向いてるのがわかる。しかし実際にやって見るとわかるが後ろの土踏まずがしっかりと上がっていなければ、このスタンスがとりにくく、日本人に多くみられるフラット気味の足ではかなりのディスアドバンテージがある。私が向こうに行った時、向こうの競技者が踏み込むのが早いことに驚いて観察した結果、つま先が相手に向いていること、そして足のかたちの違いを理解したのだが、ボクシングと言う競技は足が重要だと言うがそれは足の動かし方のみならずかたちそのものも言えるのではないだろうか?(しかしボクサーインソールとか言うのが開発されたそうだが、そのことは足そのものにディスアドバンテージがある日本人いとっては大きな進歩となりうるだろう)。

Good Boxing Stance

うちのクラブにおいてこの運動音痴であった二人の存在は大きく、この二人の頑張りを通してクラブが活気づいたのも確かなことだ。運動音痴とかおおげさにいってるんじゃないかと思う人もいるだろうが、でも本当に二人とも最初はへんな動きをしていて、その二人が検定を受けると言ったのだから驚いた。にゃんは今でも新しい動きがくわわるとえっと思うようなことをするが、しかし二人ともコツコツと楽しみながら11月の検定にむけて頑張っている。

 


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あいさつよりもエチケット

2017-04-11 | Weblog

時々スーパーなどで同義で入って来る人間、黒帯を巻いていかにも俺は○○やってるぞって言うような感じのオーラが漂うが、これってエチケット違反だと思う。そもそも格闘技なんて暴力を扱うものだそういう人間に威圧感を感じる人は少なくはない。だからむしろあえてそういうことを公共の場で出さないことがひとつのエチケットだと思っているが、これ見よがしに人の聞こえるところでボクシングの話をしたり、武勇伝を語るのは非常に下品である。格闘技をやっている奴は礼儀とかあいさつとかエラソウニ言うけれどもエチケットにかける奴が結構いる。女性や子供の前で暴力的な表現をしたり武勇伝を語る奴、トレーニングを裸でするなんていうのはまさにそうだ。クラブと言うのは公共の場、女性も利用するのだからそういう場で上半身裸でトレーニングするなんて言うのはエチケット違反だ。うちではそんなことさせると管理者の教育レベルがうたがわれるので絶対にしないさせないが、はっきり言って礼儀とかあいさつとか言うよりもこういうコモンセンスやエチケットを守ることのほうが大事なことだと思う。格闘技はどちらかと言うと男社会だその男社会に女性が入ってくるのだから我々のようなスポーツクラブはこのことには十分気をつかう必要がある。いわゆるその世界でのマイノリティを考えて配慮するのは当たり前のことだと思う。もともと格闘技をやる人間は内弁慶で気が小さく目立ちたがり屋が多い。とにかく目立ちたいでも他のスポーツでは勝負できないからマイナースポーツでこういう特殊なスポーツで目立とうとするような輩が多いことは事実で、人前で裸になったり武勇伝をこれみよがしにべらべらと話すというのはまさにそういうたぐいの人間だと思う。今我々のようないろいろな人間が利用するスポーツクラブに必要なのはあいさつとか礼儀ではない、エチケットやコモンセンスだ。よくあ運動系のるあいさつとか礼儀とか言うのはサルでもできるが、しかしエチケットやコモンセンスはある程度教養が必要、責任者の教育のレベルが問題になってくる。指導者はもっと勉強しろと言うのはまさにその群れの質を上げるためだ。

ついでに言うとボクシングや格闘技で自信なんてつかないし、スポーツでおぼえるコミュニケーション能力と社会でのコミュニケーションは別、特にグローバル社会ではあの縦社会の掟など通用するはずがない。それよりも語学をおぼえて人とディスカッションしたり、話して世界を広げるほうが自信がつくし、コミュニケーション能力もつく。日本のスポーツの親玉は自分の子飼いには親でも言えないことを言えるが、海外では何も言えない、何も言えないのでなめられる。国際大会やオリンピックで日本が不当なあつかいや非難されたりするのは言葉がわからないし、そういう場でのコミュニケーション能力がひくく内弁慶だからだ。外の世界を知らないので外国人になると相手がわからない、わからないからどうしていいかわからないのだと思う。海外では女性や自分よりも明らかに年下の人間にはっきりと言われるし、時にはぼろくそ言われることもある。そしてそういう中でいろいろな人間の考え方を吸収していくのが異文化コミュニケーションで、そういう異文化コミュニケーションをしていくためには語学とリテラシーが必要である。日本ではそうでもないが、外国はスポーツする人間もきちんと勉強している。にもかかわらずそれしかできません。勉強嫌いですでは通用しない。自分の世界を広げて、理解の枠を広げていくためには積極的に外の世界を見なくてはいけないだろう。はっきり言ってスポーツでの礼儀とかあいさつなんて時代錯誤で稚拙である。

 


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What do you see into the mirror?

2017-04-08 | Weblog

日本のアイドルの親がアジア系の外国人だということを明かしたことが話題になっていた。私からしたらそんなことが話題になること自体不思議なことだが、日本ではしばしばこういうことが話題になる。少し興味があったのでザーッと記事を見てそのアイドルに関連する記事などを読んだが、暴言的な発言が多くまわりから嫌われていると言う話題が事欠かない。でも思ったアッこの子だいぶ昔の自分に似ている。私も若い時はえげつないことを言ってまわりをひかせたことがある。態度のでかかったボクシングで足を使うアウトボクサーに頭を使えと言ったことなどは序の口、元世界チャンピオンをおこらせた話は地元では有名で、優勝宣言なんかプロでもないのに平気でできるメンタリティは今考えたら本当に恥ずかしい話、当時私のことをあいつだけはぶちのめしてやると言っていたのが7,8人ぐらいいたことはおおげさではない、それだけえげつなかったと思う。今はまわりからは安定していると言われるが、しかし若い時はビッグマウスだったと思っている。家庭環境や自分の生い立ちなどがあって複雑で、なかなかダイレクトに本当のことが表現できない、何を考えているかわからないと言われるが、実はそれはいろいろと複雑な事情をかかえているのでまわりの人間にはわかってもらえない、自分をさらけだせない。本心は玉ねぎのようにたくさんのころもにつつまれていて理解できないが、自分に嘘がつけないので表現する言葉がえげつない言葉になる。しかしそれは自分を見て言うシグナルと社会に対する威嚇でもある。

日本人は忍耐強く素晴らしい民族だが、しかし多用性にかける民族だ。同じと言うことで共感し、人との違いに違和感を感じる。こういう違いを感じる違和感がいじめにつながると思うが、私は特に日本のスポーツ界は閉鎖的で個性を認めない場だと思っている。そのスポーツをするのに坊主頭にさせると言うクラブやスポーツがあるが、なぜスポーツをするのに坊主頭にしなくてはならないのか?スポーツで頭をまるめさせるなどというのは人権侵害ではないのか?勉強もしない、それしかさせないクラブによっては寮などに半ば隔離させるようなクラブがあるそうだが、そういう場で成長期で多くのことを吸収しなければならない子供が健全に成長するか疑問だ。アマチュアスポーツは勝つか負けるかではない、それを競技していて楽しいかどうかと言うことだ。私は向こうで競技していたが本当に楽しかった。おそらく日本人はスポーツの過酷さや苦労は語れるが、しかしその楽しさは語れない。アメリカでは減量などさほど問題にしなかったのでそう言う話はしなかった記憶があるが、しかし日本はそういう話を自慢話のように語る人間がいるが、そういうことからしてスポーツに対する考え方がネガティブである。そういう中で本当に楽しくスポーツなどできるわけがない。それは閉ざされた社会のようだ。私は外国でマイノリティたちが生き生きと楽しく競技するボクシングに魅了され救われたわけだが、うちのクラブがサービスがいいと言うわけではないが女性が多く、子供やおっさんたちが楽しめるのは私の経験があってその気持ちが伝わっているからだと思っている。たかだかスポーツをすることぐらいでもったいぶる人間がいるが、しかしスポーツは平等で誰でも競技する権利はある。日本にはそういうしばりが結構存在する。だからせめてスポーツは個性を認め、そして多様性を認めるものでならなくてはならない。そのためには小さい伝統とか監督の権威などすてさるべきであると思っている。

 

 


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Go for it 

2017-04-06 | Weblog

最近特にアマチュアボクシングの規則がうるさくなってきた。
けがが多く、不良のスポーツという代名詞を払拭したいのか、とにかく安全性とかスポーツマンシップということばかりを強調しすぎるきらいがある。もともとけがをしないスポーツなんてない、特にボクシングをやるということは、ある程度のけがを覚悟して競技に参加するということであり、本人もそれをわかってやっている。日本人はどうかわからないが、ボクシングをやる人間というのは、人にへいこらと、こびへつらうことができない一匹狼の集まりである。
だからボクシングに必要以上に安全性とか、礼儀ということを強調すること自体、おかしなことであって、選手ひとりひとりの芽を摘むようなものではないだろうか。
ボクシングの魅力はこの荒々しさである。リングにあがりワンバイワンで殴り合うからこそ、競技する者は、そこから得るものは大きいし、本当にやったという充実感が生まれる。自分も競技者であったひとりであるが、ボクシングで得た充実感はほかでは得ることができなかったし、このことによって自信を得ることができた。
自分事で恐縮ではあるが、特にこのボクシングを通して勉強させられたことは相手を認めるということだ、よく日本人はみんなとなかよくしなさいというが、そんなことは無理であると思う。
人間は考えていることが違うのであるから、当然あわない者もいれば、嫌いな人間も出てくる。
でもボクシングをやって分かったことは、たとえ相手が違う考え方でも、自分に合わない人間であろうとそれを認めなくてはならないということだ。最初は憎たらしい敵であった人間があの荒々しい殴り合いの中で変えられ、最後はお互い勝っても負けてもたたえることができる。おおげさかもしれないが、この激しい殴り合いを通して、一人の人間の価値が見えてくるのである。
そういうことを言葉ではなく、実際に殴り合うことで分かることができた。
人はこういうスポーツは野蛮だというかもしれない、しかしこの野蛮なスポーツにはスポーツなりに、他のスポーツを越えた何かがあると言うことを、自分は実感している。
だからこそ体裁や世間の目ではなく、本当の意味でこの競技を大切にして欲しいと願う。
自分のクラブがリングに立つ前、胸に手を当てて言った言葉がある。
それは「ALEA JACTA EST」これはラテン語でカエサルの言葉日本語では「賽は投げられた」である。
さほど歴史に詳しく知らない人でも、彼がどのような状況で、この言葉を発したかということは分かっていると思うが、これはガリアを制圧したカエサルが、ガリア州総督解任を元老院から命じられ、内戦を余儀なくされてルビコン川を渡ったときに部下に覚悟を決めさせるためにいった言葉である。
私自身アマチュアボクシングに命をかけるということは、めちゃくちゃなことだと思っている。
しかしこのスポーツはある程度の覚悟を決めなければ、確かなものは見えてはこない。
覚悟を決めていろんなことを乗り越えてやるからこそ、得るものは大きいのである。
この後カエサルは「さあ行こう我々の神々が待つ地へ」と語っているが、まさに我々が覚悟を決めた向こう側にはおおきなものがあるのだ。


 

 

 


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同情するなら寄付をしろ

2017-03-26 | Weblog

女の子だから、10代で結婚させられる。
女の子だから、学校に行かせてもらえない。
女の子だから、生まれてさえこられないこともある。
女の子だから、泣きたいときに泣くことも、
笑いたいときに笑うことも、怒りたいときに怒ることもできない。

もしも、この文章が間違っているように感じたら、
この世界の間違いを、まずは知ってください。

Because I am a Girl(女の子だから)
その後に来る言葉は、私たちの力で変えられる未来です。

これは人身売買の被害にあっている子供を救うための団体の言葉である。うちのクラブではこういう団体をおぼえて寄付をしている。前にも書いたがそれは哲学とか理念とかではなくちょっとした同情心で自己満足のたぐいともとれるかもしれないが、しかしそこで痛みを少しでも感じるならばその同情は正しさへと向かっていくことを信じていると前回のブログで書いた。今やインターネットを通して世界のことがわかる時代だ。日本語だけでも相当の情報が入ってくるのだが、世界と言うのは小さくなってきている。そういう中で感じることは自分は日本と言う国で生きることができて幸せだと言うことである。一方で我々が想像もできないような現実に生きている子供が我々が考える以上に存在している。世界に行けとか世界を見ろと言うのであればまずそういう現実に気づくべきだ。クーベルタンが提唱したオリンピズムとはまさにそういう趣旨も含んでいるのだが、こういうことも自分の欲望をみたすような生活をしているだけでは決して見えてこないだろう。ショーペンハウワーと言う人は同情と言う言葉を他者の苦痛を共にすると考えたが、我々はその痛みを感じることが大事なことだ。同情されると言うと何か上から目線でいい感じはしないだろうが、しかし同情とは痛みを感じることで、人間は自分に無力さや同じようなみじめさやあわれさを他人の中に感じる時、痛みを感じるショーペンハウワーはまさにその痛みが同情だというのである。

偉そうに言うが私は社会的にも差別をうける側である。いろいろととんでもないことを経験してきた。それでも若い時は群れずに一人で強くなければ生きていけないと思ったものだ、だがしかし今思うことは同情されることは尊いことで、必要だと言うことだ。人間はまず自分の弱さをおぼえてこの痛みを分かち合うことができなければ、群れの存在自体が無意味である。その弱さをおぼえて共感しあって助け合うことができるからこそ人間の群れは成長し、ひとりびとりが生かされるのではないかと思う。人間は弱い弱いから支え合う、ショーペンハウワー的に言うならば同情されると言うことは痛みを共有していることだ、その痛みを共有し補い合うことで一歩ずつ前に進んでいくことができる。私はそういう共同体こそが社会的であると言えると思っている。

試合は殺し合いだとなんてことを言うようなアホが結構いる。でも誰も本気でそうは思っていない、当たり前だがそれはスポーツ、そういうことを言っている人間はただ虚勢を張っているだけだ。でも私は本当にこいつ叩きのめしてやると明らかにスポーツの領域とは違う感情をぶつけていっていたが、社会的な差別や疎外感を感じるとそういう気持ちがおこってくる。そういう気持ちを込めて私は学生の時ボクシングを思いっきり競技した。今から考えたら弱いなりに一生懸命頑張ったが、でも結局ああっ俺って才能ないと言うことがわかった。強くなろうとしてもなれなかった。ただわかったのは自分のちっぽけな存在だ。でもそのことに気づくことで一歩また前に出て歩んでいくことができたと思う。虚勢を張っている奴にはわからないが、人間はその弱さを認めることで見えてくるものがたくさんある。昔韓国人の女の子があなたは強いけど弱いって言っていた、でもひょっとしたら本当に自分の弱さを認めることで弱いけど強いに変えられるかもしれない。しかしその強さはまわりから同情され支えられていく上での強さだ。

 

 


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Go and do likewise.

2017-03-20 | Weblog

この前障害者と思われる人がつきそいの人とスターバックスに来ていた。少しからだが不自由なのでその付き添いの人に助けてもらってケーキを食べていたのだが、その時ふと気づいたことがある。それは自分を理解ししてくれる人がいるかどうかということである。たぶんその人はその支えてくれる人がいなければここに来て何かを食べることはできない。しかしその様子を見てそういうディスアドバンテージを理解し、支えてくれる人の存在がいるということは幸せなことではないかと思った。たとえ体が丈夫であっても誰からも相手にされない、理解されないと心がやんでくる。マザーテレサはカルカッタには誰にも気づかれないで死んでいく人間がいる。そう言う人たちの隣人になるために活動をしたと言っていたが、人間に必要なことは誰かが自分を理解してくれること、そして自分を必要としてくれる人間の存在である。おそらく若い時の私であったならば、自分で何でもできないのはかわいそうだと思ったかもしれない、しかし年をとって見方をかえれば、自分を理解しそして支えてくれる人がいることは幸せなことだと言うことができる、たとえ同情的であったとしても自分の存在をうけとめて支えてくれることはある意味そこによい理解者がいるということでもあろう。

聖書の中にGood Samarianと言う有名な物語がある。もう何度も例えているので説明しない、そのまま原書をここにはりつけるが、On one occasion an expert in the law stood up to test Jesus. “Teacher,” he asked, “what must I do to inherit eternal life?”“What is written in the Law?” he replied. “How do you read it?” He answered, “‘Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your strength and with all your mind’; and, ‘Love your neighbor as yourself.’”“You have answered correctly,” Jesus replied. “Do this and you will live.”But he wanted to justify himself, so he asked Jesus, “And who is my neighbor?” In reply Jesus said: “A man was going down from Jerusalem to Jericho, when he was attacked by robbers. They stripped him of his clothes, beat him and went away, leaving him half dead. A priest happened to be going down the same road, and when he saw the man, he passed by on the other side. So too, a Levite, when he came to the place and saw him, passed by on the other side. But a Samaritan, as he traveled, came where the man was; and when he saw him, he took pity on him. He went to him and bandaged his wounds, pouring on oil and wine. Then he put the man on his own donkey, brought him to an inn and took care of him. The next day he took out two denarii and gave them to the innkeeper. ‘Look after him,’ he said, ‘and when I return, I will reimburse you for any extra expense you may have.’ “Which of these three do you think was a neighbor to the man who fell into the hands of robbers?”The expert in the law replied, “The one who had mercy on him.”Jesus told him, “Go and do likewise.”

そのサマリア人が倒れた男にかけよった理由がHe took pity on him.と書かれているが、日本語訳では憐れに思ってと訳されている。もともとpityと言うのは自分よりも弱い立場の人間に示す気持ちである。おそらく他の英訳ではSympathizeと訳されているのもあるが、しかし原書ではここはσπλγχνινομαιという言葉で、それは内臓をあらわす言葉だ。日本語でも断腸の思いと言う言葉があるが、英訳としてはpityのほうがσπλγχνινομαι近い言葉であると思う。まさに彼はその倒れた人を見て憐れに思って心を突き動かされ、いたたまれなくなったからそうしたのだ。おそらく自分たちが弱い人立場の人たちに何かをするとしたら、それは同情である。それはある意味、余裕のある人間が何かをしてやろうと言う傲慢にもつながるだろうが、しかし大事なことはそこに痛みを感じるかどうか、その人を見て心が痛むかどうかと言うことではないかと思う。うちのボクシングクラブも人身売買から子供を救うことを支援する団体に毎月少額ではあるが寄付しているし、クリスマスやその他の行事に弱い存在をおぼえて寄付しているが、そういったことは自分の体験や経験からくる同情のようなもので、信念や哲学とかそういうことではなく、そういう存在をおぼえるといたたまれないからそうしていると言ったほうがいいだろう。たぶんもともと弁が立つので私がこういうことを強調したらきれいごとや学問的な考察のように聞こえるかもしれない、そしてひょっとしたらそれは自己満足であるようにさえ聞こえる。でもしかしもしそこに痛みを感じるならば、それは決して間違った方向に向かわない、それはやがて真実に一歩でも近づくのだと信じている。


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Go Abroad!

2017-03-15 | Weblog

昨日大学生が交換留学に行くと言う話をしていた。私は海外に行くことはプラスになることだから絶対に言ったほうがいいと押したが、見聞を広めたかったら外国に行って何かを学ぶことは必須である。

私も海外に行って帰られた一人だ。学生の時、私は俺、俺、俺の自己中心的な人間だったと思う。とにかく一人称でしゃべる、人の言うことを聞かない、ピーターが留学に来た奴でf○ck you的な言葉を連発する奴はそういない、お前もう少し治安の悪いところだったら終わってると言っていたが、それゆえにこうと思ったら一直線に突き進むエネルギーは半端じゃなく自分が一番だと思っていたことは確かなことだ。年をとってそういう傾向のある奴はみっともないを通り越して哀れであるが、若い時は大なり小なりそういう時期があると思う。しかしそういう俺、俺、俺と言う自己主張があっても考え方が未熟のままでせまい世界にとどまっていると成長しない、ど派手な格好をして自分たちだけが通用する世界で滑稽なことを言うことが自己主張だと思っているDQNがまさにそうであるが、そういう奴らのする自己主張もどきは主張ではなく、言いたいことを言って仲間で認めてかばい合っているだけだ。私が海外に出ろと言うのは、小さい世界にとどまっていたら客観的に自分を知ることができないと思うからだ。受け入れられることも必要であるが、しかし時にはけちょんけちょんに否定されて一度考え方をバラバラにされることも大事なことであり、そういう経験を通して見えてくるものは大きい、そういう経験をするためには自分とは違う世界に身を置くことは必要なことで、そういう経験が大人へと成長する上での必要な過渡期であると理解している。最近の若い人はおとなしくなったのか、かわってへんな輩のえせ自己主張が跋扈している。ど派手な格好にど派手な髪型、そしてでかい声で聞いてもらえるからと武勇伝まがいの自慢話をしてあたかもそれが素晴らしい経験のように語る。格闘技の世界はいささかそういう輩が多いと思っているが、とにかく目立つことが自己主張で自分の存在感をあらわすことだと勘違いしている輩がコンビニやファミレスでかたまっている。そういう輩は時には違法改造車にのって元旦にごきぶりのようにごそごそと出てきて集団ではしる、こういう輩は車を磨く前に頭をみがけとさえ思うが、頭を使えないから車をつかう、私の理解ではこいつらは車にのっているのではなく車にのられている。子供には罪はないが子供に車の名前をつけたりするのはそういうことではないのか。自己主張は若い人たちの特権であり、そしてそれをお互いがぶつけ合い時には否定し受け入れあうことは青年の過渡期には必要なことだ。でもしかし本当にそれができる場所に身を置かないとただの内弁慶におわってしまう。若いうちはエネルギーがあるし、やりなおしがきくのだから時には大胆に外にむかってそのエネルギーを発散することは大きく成長するためには必要なことであろう。


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amateurの語源

2017-03-13 | Weblog

昨日なつかしい写真が出て来た。アレンのジムでミットを持ってもらっているスナップ写真だが、すごく懐かしい。ボクシングはおもしろいし平等なスポーツであってほしい。日本では活躍している競技者が少々不利じゃないかと言う試合で、名前で勝つなんて言うことがいわれるが、そんなこと向こうで言ったらまずアホだと思われる。アメリカは日本のように内弁慶ではなく国内では公平である。実は一度負けたんじゃないかと言う試合があった。結構うたれななあという実感があって、向こうの相手も俺の勝ちだという雰囲気でリングの中央へ、でもしかし意外にも勝者の手が上がったのは私のほうで私自身もあれと驚いた。しかし自分が勝ったことに納得できなかったので、それでその後ジョージがもういいやめとけと言ったが納得いかなかったので、審判にあれは俺の負けじゃないのかと聞きに行った。そう聞くとまずアマチュアのルールを説明して、確実なヒットと何よりもアグレッシブにファイトしたことそういったことも優勢とみなしてギリギリだが君の勝ちだとうことで説明してくれた。負けたと思っていたけどまぐれやたまたまではなく自分が買ったことには理由があるということを示してくれたことは、ギリギリでも勝てたがそれは自信になったことは確かであった。あまり言いたくないが私には競技する上でのプライドがあった。プロになるためにやっているのではないのだからひと試合ひと試合を納得できる形で競技したかったのだが、その審判も同様にプライドをかけて私の試合を取り仕切ってくれたのだ。その時からあくまでそこだけの話だが、私は審判と言うものを信用することができた。自分たちも一生懸命やっている分、彼ら彼女らも一生懸命プライドをかけて公平に試合を見てくれているんだと、そう思うと自分のやっているボクシングが好きになれるし、誇りに思える。時々スポーツで犯罪や不正がおこるが、そういう話を聞くたびにこの人たちは自分の仕事に誇りを持っているのかと思う。プライドを持つと言うことはその競技に勝つとか負けるとかにこだわることではない。アマチュアの語源はその事柄を愛するものというラテン語に由来しているが、その競技をやっていく上で公平であるかないか、そしてその正しい信念をもって、審判も含めて競技で来ているかと言うことではないかと思う。


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個性を認めるコミュニティとは

2017-03-09 | Weblog

前回ボクシング廃止論に関する記事をあげた。私の意見では特に格闘技の指導者は倫理観にかけた人間が多い。体育会系のルールが黄金律のように思い、そして何かに向かって行くことがあたかも崇高な生き方だと説く。しかしその向かって行くこともスポ根まがいの単純なもので、何を言ったら人は感動するかとかかっこいいと思われるかと言うようなたぐいのもので、そういう文句は暴走族の親玉でも説ける。そういう単純で稚拙なことしか言えないような人間が偉そうにしている群れはまさにボス猿を中心にしたサル山だ。まわりの取り巻きも取り巻きで自分がつながれている大きな首輪が見えないのかと思うのだが、人間と言うのは言葉によって生きているのだから、語る人間の知性がとぼしければその群れを生かすことはできないだろう。

これからのスポーツは人権を理解し、バランスを持った倫理観、そして群れを通して人間がどう成長していくかと言うことを考えなくては、共同体としての力を持つことはできないと考えている。今医学や心理学などが進んできた時代、今まで見えてこなかった存在が見えてきている。ADHDや発達障害、性同一性障害、そしてそれだけではなくいじめや女性差別などスポーツクラブと言えどいろいろな問題に直面していると思う。そういう中で私はその群れというか共同体が持つ力は非常に重要だと思っている。人権を重んじ偏らないバランスのとれた倫理観、そして何よりも言葉を大事にすることによって群れを管理していくことで、群れの質をよくしていくことができるし、その集まる人間がよければお互いが影響し合い刺激し合って正しい方向に導かれていくと信じている。あいさつは基本だとか体育会のルールを持ってそれで相手をだ出すようなやり方は、更生施設とかわらない。よく札付きの不良がボクシングを通して構成したという話はまさにそういうことだろうが、そういうたまたまチャンピオンとかになった人間をあげてボクシングは人間の生き方をかえる、ボクシングを一生懸命やったら成長するなんて言うのはちゃんちゃらおかしいことで、非常に特定した考え方だと思う。本当に大事なことはそういう更生施設のような環境で誰かにかえられるのではなく、他者とかかわりその相互作用によってかえらていく姿であって、そのかかわりを通してこそ本当の自分が見えてくるのだと思う。自分が受け入れられたり、人を理解すると言うことは人間の成長には必要なことでそれはすべての人間にいえることだと思っている。

私は人の痛みがわかるがサイコ的傾向があり、コミニケーション能力がひくかった人間だ。今そう言うことを言えばみんな驚くだろうが、しかし事実そうであったと言わざるを得ない。ではなぜ成長できたかと言うのは日本語以外の言語を理解できたからである。えらそうに言うが日本語だけしか話せない人間の考え方は似たり寄ったりだ、そういう中で民族や文化考え方が違うとはじかれる。当たり前だが学校でも友達が少なく私は宇宙人のような扱いを受けていたことは事実であり、そしてそれは日本では当たり前のことだと思っている。でもしかし日本語だけではない他の言葉特に英語が話せるとたくさんの人と交流できるし、そこで得た体験は大きい。外国と言うのは広いもので話せば当然自分と同じような考え方の人がいるだろうし、全く違う人もいる。そこで自分が受け入れられ、そして受け入れていく体験が本当の自分のスタンスをつくり、そう言う経験が人にかかわっていくことの自信となる。

私は国語力のひくい人間があいさつは基本とかわかったようなことを言って体育会のようなルールで押さえつけて強制していくことで本当に人間は成長しないと思っているし、今そう言うことを正しいとすることは時代錯誤である。これからの集団はそういういろいろなものを受け入れていく能力のある群れが必要だ。私が責任者は知性を磨けと言うのはその群れの質をよくし、健全な相互関係においてかかわっていく群れを形成するためで、そういう中でこそ人間の個性が磨かれ成長するのだと思う。

 

 


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ボクシング廃止論

2017-03-08 | Weblog

ボクシング廃止論!?

 

―― なるほど、では研究しているときに面白いと感じるときってどんなときでしょう?

 

ひとそれぞれとは思いますが、私だったら、英米圏の倫理思想史を勉強しているときに浮かび上がってくる論点が現代の問題にも現れてきて、その結びつきを発見するときは面白いですね。歴史は繰り返すと言いますが、思想史のなかで現れた問題が現代でも現れていると、面白い指摘がいろいろと出てくるんですよね。

 

 

―― 具体的にどんな議論が面白いと思いましたか?

 

そうですね、なにかあったかな……最近あんまりそういう経験がないんですよね。昔はもっとあった気がするんだけど(笑)。

 

ああ、ボクシングを廃止すべきだという議論は面白かったですね。

 

 

―― 気になります! どんな議論ですか?

 

私がイギリスにいたときに、イギリスを中心に議論されていて。ボクシングの他にも危険なスポーツっていっぱいありますね。でもボクシングってどうですかね。柔道や剣道と違って、基本的に相手を殴って気絶させて倒したら勝ちというスポーツなんですよね。これって他のスポーツとは危険の質も目的もちょっと違いますよね。もちろん「違いはない」と考える人もいるのですが……。

 

私はどちらかというと廃止したほうがいいんじゃないかと思っている方で、まあ『はじめの一歩』を読んでいるとすごく面白いと思うんですけど(笑)。

 

ボクシングについては、アマチュアボクシングみたいにポイント制にするなり、別のルールにするなりすればいいんじゃないかという議論があるんです。ただ「そんなことしたらボクシングがボクシングじゃなくなる」という人もいて。でもスポーツのルールってどんどん変わっているので、変えてもいいんじゃないかなと思うんですけどね……。

 

いろいろと議論はありますが、たとえば「ボクシングはスラム街での貧困生活から抜け出す重要な手段だ」という意見もあります。

 

1998年、試合中に脳出血を起こして引退したスペンサー・オリバーというボクサーは、「おれたちがボクシングを始めた理由は、生きていくのが困難で、しばしば他には何もやれることがないような環境で育ったからだ。だが、このスポーツはおれたちにいろいろなものを与えてくれる」と語っています。

 

オリバーの意見には共感するところもあります。でもたとえすべてのボクサーがスラム街で育ってきたとしても、スラム街全員の少年がボクサーになるわけではありませんし、ボクシングがスラム街の問題を根本的に解決するわけではありません。ボクシングを奨励するよりは、スラム街の問題を根本的に解決すべきです。

 

「現にボクシングを必要としている少年たちがスラム街にいるじゃないか」という反論もあります。でもボクシングはスラム街からの「唯一の抜け道」ではありません。音楽やバスケットボールによってスラム街から抜け出せるならば、そちらのほうがよいと思います。

 

 

―― それこそ「人の価値観はそれぞれで、ボクサーだっていろいろな危険は覚悟の上でボクシングをやっているじゃないか」っていうこともできますよね。

 

ええ、それは医療で言うインフォームド・コンセントの問題と近い話なんです。例えば何歳からボクシングを始めて、そのとき以来、本当に危険性を知ったうえで同意しているのか、とか。また、同意殺人や安楽死の問題でも言えることだと思いますが、仮に本当に危険を知ったうえで同意したとしても、その同意を有効と見なすべきかどうなのかについても考えないといけません。

 

 

―― どこからどこまでをオッケーとするか、線引きが難しいんですね。

 

ラドフォードという哲学者は、イギリスの哲学者であるジョン・スチュワート・ミルの自由主義の立場から、ボクシングについて次のように擁護しています。

 

 

もしこうした危険、苦痛、さらには苦難が、自分のものであり、またそれらを自発的にかつ危険を承知のうえで選んでいるのであれば、しかも他人に危害を与えないのであれば、われわれは、道徳的に、そうした危険をともなう活動に参加することが許されるべきだ。というのは、そういった活動を禁止することは、われわれの自由と幸福に干渉するだけでなく、人間の生の完全さと強烈さを減じることによって、人間の生を小さくすることになるからだ。

 

そこで、ボクシングが自由に選ばれ、このスポーツに従事することを選んだ者以外はだれも傷つけず、 また彼らが危険を承知しているならば、ボクシングは[…]禁止されるべきではない。

 

 

でもいまお話したように、そもそもボクシングの危険性をちゃんとわかったうえでボクシングをやっていたのか、とくに、もしスラム街の少年が「唯一の抜け道」としてボクシングを選んだ場合、それは自ら同意したといえるのかという疑問があります。苦しい状況から抜け出すために、危険なことを選ぶしかなかったのかもしれません。

 

さらに「同意しているのであればよい」のだとしたら、同意の上であればロシアンルーレットを行ってもよいことになってしまう。ボクシングはよくてロシアンルーレットはいけない理由はどこにあるのでしょうか? あるいはわれわれはロシアンルーレットも認めるべきなのでしょうか。

 

自由主義の重要な論点に「同意したとしても、決して奴隷にはなれない」というものが昔からあります。仮に奴隷契約は許されないことを認めた場合、それではどこまでなら許されるのか、安楽死は許されるのか、ボクシングは許されるのか、やはりどこかで線を引かなくてはいけないんですよね。自由主義をどこまで追求するか。過剰な自由主義を認めないのであれば、ボクシングの是非をもう一度よく考えなくちゃいけません。

 

ボクシングは面白いスポーツだと思います。ボクサーはおそらく、人間のいろいろなものが試されている非常に重要なスポーツだと思うのですが、それでも、「それでいいのだろうか?」という疑問がある。面白いものを許してしまったら、古代ローマのグラディエーターでもなんでもできてしまうし、同意だけですべて片付くかと言うと、そうでもないという話なんじゃないかなと。

 

 


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Who Am I?

2017-02-26 | Weblog

日本語はユニークな言語だ。おそらくすべての言葉が母音でおわるのは日本語ぐらいだと思っている。韓国語と日本語は語順がほぼ同じなので理解しやすい言葉である。しかしこと発音ともなると少々勝手が違ってくる。例えば警察は「경찰」と言う。日本語で読むとキョンチャルって読むのだが、このキョンチャルの「ン」の発音を間違えるととんでもないことになる。キョンチャルの「ン」は普通英語表記では「ng」と表記されるㅇイウンの音だ、ところが日本人が発音すると、そのngがㄴニウンのnになる、パッチムのイウンがニウンにかわっただけで犬警察という意味になり、犬は儒教ではどこでも交尾するみだらな生き物、それは最大の侮辱言葉となる。意図的でないとはいえあまりい言葉ではない、よく怒った時ケ○○と言うが、これも犬をあらわした罵り言葉だ。ヨーロッパや日本は比較的犬は人間の友達ともいえるペットであって犬を大事にする文化があるが、しかしお隣の国ではふしだらな生き物とみなされる。ソウルオリンピックで韓国人は犬を食べると言うことが問題になりかけたが、たぶん犬を粗末に扱う文化は日本人には理解しがたいことだと思う。

1週間ぐらい前食事をしていて感じたことだが、その時、久しぶりにみそ汁をのんだ。ホント私がみそ汁をのむのは1年に10回ぐらいでまれである。そして久しぶりにのんだみそ汁。しかしその前に食べたキムチが独特のきつさゆえにみそ汁の味をけしてしまって、それはもはやみそ汁ではない。キムチとみそ汁はあわんなと思ったのだが、私はこの時ああ日本人と韓国人もこういう関係なんだなあ、食べ物自体があわないのだから遠くて近い文化の民族通しが理解でいるはずはないと実感したのだが、この前韓国人の女の子から仕事のことで相談された。いろいろと話を聞いていたのだが、彼女は自信過剰、現に私は仕事ができるとはっきりと、確かに優秀で仕事はできるのだろうが、少し性格がきつくて方向性が違うので、人からは変人扱されて敬遠される。私は彼女が日本人だったら彼女にそういうことにはふれずにそれぞれのスタイルは違うからとか、そういう選択肢もあるだろうと中立的な意見を言うだろうが、しかし韓国人の場合ははっきりと自分が今思っていること、お前変人だと思われてるぞと言うようなことをダイレクトで言わなくては親身になって話を聞いているとうけとってくれない。自分でも話す民族によって言葉や立場そして文化をつかいわけて話をすることに器用な人間だと驚いてはいるものの、しかし昔はアイデンティティクライシスを何度も経験した。そして今生き方として選んだのは流れて生きることだ。流れると言うのは流されることではない。集団や組織につながらず、きちんとした考え方を持って世の中を賢者のように自由に生きてやろうと言うのが私の考え方だ。流れると言うのはアイデンティティやその他のことにさからって対立せずに自分自身の立場をを認めてうけいれて生きると言うことで、それは振り返らないと言うことでもある。よくボクサーとかで逆境をこえて自分はここまでやったというようなことを誇張して、あたかも偉業をなしとげたみたいなことを言う奴がいるが、しかしそんな話は自己満足に近いと思っているし、その人間をみたらそれがいかにたいしたことではないと言うことがよくわかることだ。ボクシングとか格闘技の世界にいたら、そういう逆境を自らがさがさなくては成長しないと言うような錯覚にさえおちいるが、しかしそれは自分が今いる集団の程度がひくいからである。たぶん人間は生まれてきた以上は必ず目的、そしてその人が生かされてる理由と言うものがあると思う。それらの理由と言うものはただ単にがむしゃらに生きていくだけでは見えない目的でよくある運動クラブ系には理解できないことだと思っている。今子供たちだけではなく多くの人間がいろいろな問題をかかえている。ひとつの目標に向かってと言うのもいいだろうが、しかしその個性を認められて自由に流れていく生き方もひとつの生き方で、そうい生きていくことで見えてくる目的や生かされている意味があると思う。うちのクラブはまさにそういう雰囲気を醸し出している自由人の集まりである。

 

 


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Old soldiers never die, but fade away.

2017-02-21 | Weblog

日本のコーチや監督は自分の自慢話をこれみよがしにすると言う話を聞く。よくあるのが逆境を乗り越えて試合に勝った話、じぶんはそのためにどれだけ努力して、気合をいれたかということを紙芝居のように語る。じゃあ今のお前は何なんだ、それマンガのストーリーじゃないのかと突っ込みをいれたくなるが、そういう輩は往々にして自分の話を針小棒大化する。今から書くことはマンガや映画の話ではなく実話である。だいぶ昔の話しで100パーセント正確ではないが、それはアレンと言うヒスパニック系のコーチとダウンタウンの近くにあるバーに飲みに連れて行ってもらった時の話。土曜日の夜アレンにさそわれて、行きつけだと思われるダウンタウンの近くにあるバーに行った、そこはよくアメリカ映画にでてくるようなさびれたバーで、私はアレンとオレンジジュースを飲みながらいろいろと話をしていた。しばらくのんでいると酔いがまわったのか、おもむろにアレンはこう言った「俺は昔ボクサーだったことは知ってるだろ」いやいやあんたコーチしてるやろ、ボクサーだったんじゃないのか??と心の中で思いながら「知ってるよ」と言ったら、こう言った「ああ、ヴェトナムがなかったらもう少し活躍できていたのになあ」と、私はその言葉の意味がすぐにわかった、実は彼の右手には小指がかけていて、当時私はなぜなんだろうと気にはなっていたのだが、その理由が今わかった。私の経験する限り向こうのコーチは武勇伝を言わない語らない、アレンの俺はボクサーだったと言う話を聞いたのはこの時一度限りで、私のクラブチームのコーチは決して自分たちの実績など語らなかった。そう考えると自分たちは特別なんだと特別感を出し、武勇伝を語ったり、賞状などを自慢げに見せびらかすのは私から見たら少しはずかしいことのようにさえ思えてしまう。何をやったかは知らないがそんなことはもう過去の話、そういう輩は自分たちが目立つことしか考えていなくて特別感をやたら出したがるが、クラブと言うのはそういう輩が中心ではない。

「Old soldiers never die, but fade away.」老兵は死なず、ただ消え去るのみ。と言うマッカーサーの言葉がある。これはneverと言う強い否定があるので、ニュアンス的には自分たちは去ってもスピリットは死なずに存在し続けると言う意味だと思うのだが、しかしこの言葉は俺たちは引退したがそれでも存在すると言うような未練たっぷりの言葉ではない。訳した人も潔く散ると言う武士道的なニュアンスを持って訳した言葉だと思うが、競争社会の中で去っていく人間は何も言うなただ黙って去れと言う美学だと思っている。


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