みんながみんなそうじゃないという奴はアホだ

2017-06-24 | Weblog

よく群れる集団は嫌いだと言っているが、しかし私は何も人間の集団を否定しているわけではない。問題なのはどういう人たちが集まるかと言うことで、私が言うところの正しい集団と言うのはコモンセンスや広い価値観を持って互いを受け入れる助け合うことができる集団、しかし一方私が嫌いな群れる集団と言うのは価値観がせまい、教養がとぼしい、仲間意識を助け合いだと勘違いしている集団のことである。

そういう考え方は友達と言う考え方に出てくる。友達とは何かと聞かれて、なんかあった時助けてくれるのが友達だと言うのだ。確かにそうかも知れないが、しかしこの言葉はそれを言う人間によって違和感を感じる。本来ならば何かあっても迷惑かけないようにするのが友達だ。我々はそういうことも含めて自立して生きているのであるから、あえてそのようには考えないだろう。しかし何かあった時になんて言う考え方は常に何かを期待している、自分たちには限界があるから仲間意識でかたまって生きる。それはわるい意味での弱者の生き方そのものではないか。

群れを形成するにあたって大事なことは自立した人間が集まると言うことだ。自立した人間たちが集まる群れは機能している。若い人の手本になったり、お互いが刺激を受けることができるのは自立しているからで、そういう人間関係を通してお互いが刺激し合い成長する。私はそう言う群れが健全であると考えている。大きく夢を持てとか大会で優勝すると言う刺激で集まるのもいいが、そういうでかいことを言って目立つ集団と言うのは中身がない。そういう集団に限って世の中ではたいしたことがないような人間がそれしかできないからとまけおしみで集まって武勇伝や自慢話をしあう、恰好や髪型で目立とうとするのはまさにそうだが、責任者の教養がとぼしいとそういう人間たちが集まる。私はそういう奴らを灰色の人間と呼んでいるが、基準も道徳も非常に曖昧で体育会のルールが世の中の常識みたいに思っている人間たちである。うちのクラブにはあいさつしろとかそういう小学生のようなルールは存在しない。それはみなさんがきちんとしたコモンセンスを持っているからで、威嚇したようなファッションで髪をど派手に染めて改造車にのっているアウトローくさい奴にろくな奴はいないと言って、みんながみんなそうじゃないなんて言わない当たり前の感覚を持った自立した人たちが多く集まるのがうちのクラブである。群れると言うのは一つのイデオロギーに向かっていないからだ。それはサルの群れと同じで、言葉を言いかえればきちんとした哲学がその群れに存在するかどうかと言うことである。しかしそれは俺は俺はと言いたいことを言わせてもらえるから言うと言う哲学ではなく、きちんと学問的にも裏付けされた少々インテリが聞いても納得するようなものでなくては哲学とは言えない、そういう哲学的な考え方が群れに存在するとその群れは少々のことではずれることはない。そのためには責任者が教養をつむことが大事だ。

 


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Φιλαδέλφεια(Philadelphia)を日系人から学んだ

2017-06-22 | Weblog

ある日ジョージから今度の日曜日50ドルやるから仕事を手伝えと言われ手伝った。行くとそこは空き地のようなところ。何をするんだと聞いたら「簡単だとにかく3つあなを掘れ」と、まさか死体をうめるためじゃないだろうなと多少の躊躇はあったが、しかし50ドルは闇以外ではアルバイトできない私にとって大きい金額、言われる通りあな堀にせっせと勤しんだ。あなはさほど深く掘らなかったが(この地点で死体じゃないなと確信したのだが)、それでも3つ掘るのに時間がかかり、たぶん6時間ぐらいはかかったと思う。そして仕事をおえた私はジョージのおごりでジッピーズへ、この後あなは何につかわれたかはわからないが想像の範囲でおまかせする。ちなみに彼は不動産関係の仕事である。このジョージ、今は不動産関係の仕事をしているが、しかし昔はギャンブラーだと言っていた。彼の話によると結構それで稼いだそうだ。そして娘がいるのだがこの娘とはずいぶん長くあっていないといっていた。この話を聞いて私は「社会不適合型なんだ」と思ったのだが、たぶんそう言ったらお前もそうだろと言われていただろう。確かに私が大胆なことをするたびにお前みたいな奴はまずいないと言われたし、事実そうだったと思うのだがそう考えたら我々はよく似ていたと思う。

ジョージと私の出会いはカラカウアジム、そこはリングが2つある体育館のようなジムで、チームが自由にトレーニングできるボクシングのために開放された施設である。当時学生のチームの一員であった私はそこでトレーニングしていた。当時のアメリカはボクシングがすごく盛んでそこでやったスパーリングでまったく相手にならず、すごく悔しがってリングを見ていたら「強くなりたかったら明日またここに来い」と声をかけてくれたのが彼との出会いである。

カラテキットと言う映画がある。私が好きなのはパート3まである古いほうのやつ。この映画の主人公はダニエルラルーソ、転校してあることがきっかけで不良グループに目をつけられいじめられる。しかしそこでひとりの老人と出会い、空手を習いそしてそのことを通して成長していく物語である。この映画ではいずれもダニエルに立ちはだかる悪役が登場する。卑劣ともいえるやり方で彼を苦しめようとするのだが、その悪役に立ち向かう姿がすごく日本的で私はそこがこの映画の素晴らしさだと思っている。何が日本的かと言うとその解決が平和的で決して相手を徹底的にやっつけようとしないところだ。その不良グループにいじめられた時も決して強くなってやり返そうと言うのではなくトーナメントを通して正々堂々と戦おうとしたし、たとえ勝って自分が優位になっても徹底的にやらない。ロッキーとかでは勝利すると大歓声の中ヒーローになり負けた人間はみじめにさっていくのだが、この映画では勝負はもう終わったのだからと相手をゆるす。私は空手と言う日本の武道の精神がここに語られているんだと感動した。

スポーツをやっていて思ったことは日本人のコミュニティと西洋人のコミュニティは違うと言うことだ。まず西洋は競争第一、ゴールデングラブで優勝した奴がかっこをつけて明日からみんな俺の首を狙いに来るなんて歯の浮くのうなことを言ってやがったが、アメリカはよしもわるしも競争の原理で動いている。日本のように試合が終わってわざわざ相手のところに行ってありがとうございましたなんて言わないし、コミュニティでお互いがそこまで深く教えあったりはしない。競争社会では自分が習得したことをいともたやすくライバルに教えることなんてまずない。さらによくクラブなどで自分が休んだら人に迷惑がかかると言うが向こうでは休んだらライバルがひとりへるのでラッキーだ、そういう社会と比べたら私は日本人的なコミュニティのほうが人の心を成長させる上では機能的であると思う。日本人は競争心がないと言うがしかしともに支え合い助け合って生きると言う精神がある。

ジョージは日系人そしてカラテキットの老人も日系人だが、たぶん二人は同じ世代で日系人がすごく苦労させられた時代に生きた人たちだ。私はこの映画を見るたびに彼との出会いを思い出す。I do believe.私は思う。人間は絶対に誰かがいないと成長しない。私が彼に声をかけられたように誰かがその人間を顧みて声をかけてくれなければそこからはいあがったり、さらに上の世界を目指すことはできないと思っているが、ジョージもカラテキットの老人も日本人が持っている助け合いの精神を持っていたその人たちで、私はそのことを日系人である彼らから学んだ。

 

 

 

 

 


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You must berak him.と彼は言った。

2017-06-18 | Weblog

私が日本のスポーツをよく言わないのはその独特の雰囲気や考え方に違和感をおぼえるからだ。日本人は往々にしてスポーツは修業だと思っているので何な全体が醸し出す雰囲気が重苦しく、私が競技していたところとではまったく雰囲気が違う。チームの在り方も上意下達で、それしかできないチームではこの競技に命をかけろみたいな常に真剣さが問われるような雰囲気の中で本当に自分らしく自由に振舞えるのだろうかと思う。私が競技したところはすごく自由にできたと思う。何が自由に競技できたかと言うのは雰囲気の問題だが、向こうでは日本のように管理する側と管理される側と言うような関係もなく、はじめから押しつけられた上下関係もない。ピーターがよくお前はLAとかもう少し治安の悪いところだったら終わってるって言っていたが、彼がそう言うのはそれだけ私が自由に振舞えたからだと思っている。向こうでのコーチや監督との関係はフラットだった。しかしフラットと言っても相手は私を尊重し私も相手を尊敬していたのでそれなりの敬意ははらっていた。そう言う中で競技した目線で見たら日本のスポーツは楽しむと言うより修業していると言う感じだ。

名前を出したらダメなのでイニシャルにするが、NBと言う男がいた。ゴールデングラブでベスト4まで行ったらしく、彼と彼のトレーナーそしてジョージと私の4人で食事に行った。食事に行ったのはいいのだが、そのノー○ンと言う男は私と目を合わそうとはしない。なんか変な奴だなあと思っていたが、彼はのちの強盗したらしいが、真相はどうやらホントの話である。当時ボクシングは我々のような学生もいたが、素行のわるい人間もいたようだ、事実よく顔をあわせるギャングの集団みたいな奴らですごくうっとうしい奴らがいた。横ででかい音で音楽を流してシャドウしたり、我々は威圧的な雰囲気に不快感を持っていた。そしてそのうちのリーダー格のひとりと私が対戦することになった。特にバーガーと言う男はこいつらを嫌っていて、でもこわいから直接何も言えない、彼は私に頼むぞと言う、私はおうまかせとけボコボコにしてやるから安心して見とけ見たいなことを言ったと思うが、しかし試合が始まるとみんなさっきの勢いはどこにいったのやらビビッて応援しないのだ。でも試合が進むにつれ私が有利に試合を運ぶやいなやすごい応援が、いつもはばらばらだけどこの時ばかりはチームがひとつになって私を応援、そして最終ラウンドを終えて判定、そこで私の手が上がるとオーッと言う大歓声、私は調子にのって相手のグローブをどうじゃとばかりにポンとたたく、そんなたいした試合でもないのにそこだけすごく盛り上がっていたのだが、たぶんまわりから見たら何をこんなに盛り上がっているんだろうと思ったと思う。今考えたら本当に楽しい思い出であった。日本人のスポーツ経験者のほとんどは先輩にいじめられた話や、自分がどれだけしごかれてしんどいことをしたかと言うことを話しそれで盛り上がるが、その感覚が私にはわからない。スポーツは修業ではない、楽しむものだ、それが管理する側と管理させる側の関係だとわからない。スポーツは目的だけではない、そこまで行く過程があるが、その過程を全国に行けとか優勝しろと煽られて、こうしないと勝てないぞと管理されて競技するのと目的を自分で決めてトレーナーの協力のもとにやっていくのではどちらが楽しくできるかということである。

試合が終わった時よく友達とハンバーガーショップに行ったことを思い出す。シーユーレイターハンバーガーを合言葉に試合が終わるとハンバーガーショップに行く、遠征などにも行くのでその帰りにノースにある有名なクアアイナにもよったことがあるが、特にピーターが運転する車の中で窓を全開にして潮風にあたりながら食べるハンバーガーは本当においしかったことをおぼえている。私はたいした競技者ではなかったが、トップノッチアスリートぐらい楽しく競技できた。それはその場所が平等で自由であったからだと思う。

 


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ひそひそ話は日本語で

2017-06-15 | Weblog

原人岩さんが中国語はやかましいけど何かあるのかと聞いて来た。私は中国語はできないが韓国語に関して言えば発音に問題がある。韓国語には激音と言う強く発音する子音がある。おそらく中国語もこれに似た音があると思うのだが、この発音が日本語のように平坦な言葉を話す民族から見たらうるさく聞こえる。英語、韓国語、日本語を話せる人間が二人いたらひそひそ話をするには日本語を使う。日本語はかならず母音でおわるので音が聞き取りやすい、だからひそひそ話は日本語が一番適していると思う。

それしかできない人間は人とかかわる時、人間関係を上か下かで見る。どういう基準かわからないがたぶんそいつらの基準はスポーツとか力的なことで、そのくせインテリにはコンプレックスを持っていて話すのをさけたり敵意を持って接してくる。我々のようにおとなしい人間には威嚇してくるので非常にうっとうしい。その親玉がひきいる軍団は試合会場などで非常にいばっているのだが、私はそれを見るたびに不快感を感じる。サルの惑星と言う映画がある。これは単純に言うとサルが人間を支配する物語だが、この映画を見て不快感を感じた。私はそれしかできないような集団がいかにも自分たちはと独特のオーラを出してかたまっているのを見るとどうしてもそのサルの惑星を思い出してしまう。人間をサルに例えてはいけないが、申し訳ないが親玉と言う曲芸師の指示でミットをたたいている姿は芸にしか見えないし、音楽に合わせてたたくよりも小太鼓のほうがリズムが合うんじゃないかとさえ思ってしまう。

私はいつも思うがこういう輩は日本ではいばっているくせに海外に行くとたちまちおとなしくなるから不思議だ。人に向かって「おいそこ」とか誰がちらかしたかさえわからない状況で「靴がそろっていない」とか頭ごなしに言っても従うからと注意する。時には親でも言えないようなことを平気で子飼いに言うのだが、しかしその威勢はどこにいったのかわからないが、相手や場所がかわるとたちまち何も言えなくなるのだ。これは明らかにコミニケーション能力のひくさを物語っている。いわゆる毎日毎日同じことしかできない、勉強しないと言う自分たちの小さな空間で生きていると大きな社会に出ると自分の立ち位置がわからなくなる。それでも親玉たちはずる賢さを持っているので、逆におとなしくなって、あたかもそれがスポーツマンシップのようにふるまい面目を保っているのだが、言葉がわからない、教養がないと当たり前だが世の中では通用しない。

個人的な意見で特に若い人にではあるが、自分の個を成長させコミュニケーション能力を養うためには語学が大きくその成長にかかわっていると思う。ここで英語学習を奨励するのも若い人の成長には必要だと思っているからだ。私は人の痛みがわかるがサイコ的傾向があり、コミニケーション能力がひくかった人間だ。今そう言うことを言えばみんな驚くだろうが、しかし事実そうであったと言わざるを得ない。ではなぜ成長できたかと言うのは日本語以外の言語を理解できたからである。えらそうに言うが日本語だけしか話せない人間の考え方は似たり寄ったりだ、そういう中で民族や文化考え方が違うとはじかれる。当たり前だが学校でも友達が少なく私は宇宙人のような扱いを受けていたことは事実であり、そしてそれは日本では当たり前のことだと思っている。でもしかし日本語だけではない他の言葉特に英語が話せるとたくさんの人と交流できるし、そこで得た体験は大きい。外国と言うのは広いもので話せば当然自分と同じような考え方の人がいるだろうし、全く違う人もいる。そこで自分が受け入れられ、時にははじかれそして受け入れていく体験が本当の自分のスタンスをつくり、そう言う経験が人にかかわっていくことの自信となる。

私は国語力のひくい人間が稚拙なルールで押さえつけて強制していくことで本当に人間は成長しないと思っているし、今そう言うことを正しいとすることは時代錯誤である。これからの集団はそういういろいろなものを受け入れていく能力のある群れが必要だ。私が責任者は知性を磨けと言うのはその群れの質をよくし、健全な相互関係においてかかわっていく群れを形成するためで、そういう中でこそ人間の個性が磨かれ成長するのだと思う。
                          
 
 


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私のペットボトル理論

2017-06-14 | Weblog

「すみませんペットボトル置きっぱなしにしてました」「このペットボトル昨日すてるのわすれてしまって」と会員の人が申し訳なさそうにそれをとって持って帰る。時々こういう光景がオリーブでは見られる。本来ならば私がペットボトルをすてるゴミ箱を用意すればいいのだが、しかし私なりにクラブのことを考えた上で水は持参してもらい、ペットボトルはきちんと自分で処分してもらうようにしている。なぜそうするかというのは小さな思いやりを大切にしたいからだ。うちの会員の人は何も言わずとも自分で持ってきたものは自分で処分してくれるし、できた人は忘れたらそれをわざわざとりに来て処分してくれるのだが、それはペットボトルをおきっぱなしにしたらごみになるとか、迷惑になる思っているみなさんの小さな思いやりの気持ちであるが、そういうちょっとした気づかいがあるかないかでクラブの雰囲気は大きく変わると思っている。心理学にブロークンウインドウズと言う理論がある。これは窓ガラスが割れると犯罪率が増えると言う理論であるが、ペットボトル理論はこの積極的版と言ってもいいだろう。クラブを汚してはいけない置いていったら迷惑がかかると言うちょっとした気遣いや思いやりがクラブの雰囲気をよくし、安心でき信頼できるクラブをつくると思っている。でもしかし私はこのことに関しては何も言ってはいないし、ルールなどもうけていない。ただごみ箱を用意していないだけ、でもひとりでもそういう思いやりの気持ちがあればこういう環境ではその思いやりの気持ちが伝わりやすいであろう。よくクラブの雰囲気がいいので人選してますかと聞かれることがよくある。もちろんアウトローは入会させることはしないが、根本的に私が考えていることは、その人の中にある善の気持ちを気持ちよく引き出せるクラブにすることである。


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Friends come in and out of your life like busboys in a restaurant.

2017-06-13 | Weblog

私の好きな映画でスタンドバイミーと言う有名な映画がある。物語はある日、バーンは不良グループである兄たちの会話を盗み聞きしてしまう。3日前から行方不明になっている少年が、森の奥で列車に跳ねられ死体のまま野ざらしになっている噂。死体を見つければ有名になる。英雄になれるとそう考えた彼は仲のいい友達を誘って死体探しの旅に4人で出かける。彼らは途中、喧嘩もするが、お互い助け合いながら、鉄道の線路に沿って、冒険のような旅を続ける。鉄橋で危うく列車に轢かれそうになったり、沼ではヒルにかまれながら、その夜は森で野宿をする。物語を書く才能があるゴーディは、親に嫌われていることが傷になり、将来ものを書く希望も持てない悩みを打ち明けるが、クリスから物書きの才能を守るから必ず伸ばすように言われる。一方でクリスは家庭環境の悪さから自分の将来に希望が無い上、自分が教師の私利私欲に利用されたということを打ち明ける。しかしゴーディはクリスに進学することを勧め、励ますのだった。翌日、4人はついに死体を発見する。そこに不良グループが現れ、死体を渡せとせまるが持ってきた銃でおどし退散させる。そしてひと夏の冒険が終わり4人はいつものように町外れで別れた。その後は進路もバラバラになり、お互い疎遠になっていく。大人になったゴーディは作家となり、クリスは猛勉強して弁護士になる。そのクリスとも最近は10年以上会っていなかったが、クリスの刺殺事件を切っ掛けに「複雑な家庭環境のなかで仲間との友情を感じた12歳の頃のような友達は二度とできることはない」とゴーディは少年時代を静かに思い返す。その映画のシーンで私の好きなセリフがある。それは冒険を終えてそれぞれが帰って行く中でながれたセリフ「Friends come in and out of your life like busboys in a restaurant(友達というのは、レストランの後片付け係りみたいに、人の人生に入ってきては出て行くものだ。)」であるが、これはスタンドバイミーの名言である。

このセリフを聞くと少年時代を思い出すのだが、誰でも子供の頃の思い出はある。この物語でもそれぞれ複雑な家庭環境を持った子供たちを描いているが、私が子供の頃も家庭環境が複雑な子がまわりにたくさんいた。中でも親が酒乱で虐待されてたチングは時々親父の暴力から逃れるために家に避難してきたものだ。ある時そいつにその殴られた日におやじを殺すのを手伝ってくれと頼まれた。何を言ってるんじゃと一蹴したがどうやら本人は本気であったようだ。当時は迷惑をかけたりかけられたり、そういう人間関係が我々のその住む世界では当たり前だったような気がするが今思えば我々も我々なりに一生懸命生きてきたんだなあと思う。

そして私が一番心に残っているのは学生時代の友人たちだ。彼ら彼女らとは励ましあったりなぐさめあったりそして時にはすごい激論さえしたものだ。最近の若い人はラインの返事が来ることか来ないとかでごちゃごちゃ言っているが、しかしそんなことを気にするようではもはやそれを友とは呼べないのではないか。親や教師には勇ましいことを言って迷惑をかけるが、しかし友達にはすごく気をつかって生きる、一体何のための友達かはわからないが、若いうちは多少友達に迷惑をかけてもいいと思うし、考え方が違えば時にはぶつかり合うことも必要である。私自身よくチングたちとはすごい激論をした。特に日本と韓国の問題はもうこれで関係は終わるんじゃないかと思うぐらい激論した。時にはお互い傷つけあうこともあったが、そういうことを議論でき、そして葛藤して受け入れることができるのは若さゆえの特権だと思っているが、我々はそういう激しい言い合いをすることでお互いの友情を深めていったと思う。私の学生時代はすごく楽しくて有意義なものであったと思う。しかし学生時代友達だった人間たちとはもうあっていない。ジョージ、アレン、ピーター、韓国人の女の子、たぶんもう会うことはないだろうが、でももし彼ら彼女らと明日会っても昨日あったように話せると思う。


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考えろって、まずお前が考えろ。そして本を読め

2017-06-10 | Weblog

日本のスポーツの監督はコミュニケーション能力がひくく考え方が稚拙だと思う。いかめしい雰囲気をつくって、通用する相手には恫喝する。人を押さえつけたり自分に従わせることがその群れをうまくまとめることだと勘違いしている人間が多く、おそらくこの手の人たちが考えていることは相手をどう支配することだと思っている。しかしスポーツはただ単にその技術を向上させるものではない、そのコミュニティにおいて人としても成長しなくてはいけない場であると思う。人間のコミュニティにおいてただ技術を向上させたり、礼儀と称して同じようなことをやらせるのはレベルがひくい、そういう集団はサルに芸を仕込むのと同じである。人間には個性がある。その個性を生かすためにはそれにふさわしい成長のさせ方がある。ただ技術を芸のように仕込む、できなければ怒りをあらわにしたり、あいさつは基本だと言って根拠もない様な事を命令のように従わせるのは人間の群れとしては非常にレベルがひくく、こういう群れにおいては社会的なコミュニケーション能力や精神的な成長などあり得ないと思ってる。

私自身もそのスポーツの群れを指導する立場であるが、私の場合はその群れにおいて人を支配するのではなく、どうしたらその人たちが生かされるかと言うことを考えて指導している。Facebookでハーバーマスと言う政治哲学者のコミュニケーション的理性を挙げた。これは対話において相手を説得しようと試みる理性は相手を目的達成の手段にしている道具的理性と言うのに対して、相手を尊重しともに合意を目指そうとする理性のことであるが、コミュニケーションと言うのは一方通行ではいけない。うちのクラブにおいて大事なことは人の話に耳を傾けると言うことだ。しかし耳を傾けると言ってもただ聞いているだけではだめだ、まず相手が話しても安心できて信用できるキャパをつくらなければ意味がない。そういう意味で勉強してものの見方を広げ考え方を深めることは非常に大事なことだが、そういう対話や人間の存在において人間、特に若い人たちは心や精神が鍛えられ成長するのではないかと思っている。

英語の論文を読めまでとはいかないが、指導者にとって多少の英語力や読書することは義務的なものだ。しかし本を読めと言ってもセンスのない人間がいて、リーダーとして何々とか何とか哲学とか名言集的なものスポーツ選手などの自慢話が盛り込まれた本を読むことが読書と思っている人間がいるが、こう言う手ごたえがなく内容が単純な本は単純な考え方をつくる。せめてニーチェとかヒルティとかNHKの講座ぐらいの本を読めと思うのだが、コミュニティにおいて言葉は大事だ。そして人を生かすためにはそのコミュニケーションツールである言葉が大事で、その言葉は練られたものでなければならない。それゆえにその指導者の知的レベルや読む本と言うのはその群れを意味づけ価値を示すものとして一つの目安になると思う。

 

 


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個をみがけ

2017-06-10 | Weblog

宗教学の授業でSchleiermacherと言うドイツの哲学者が宗教は絶対依存の絶対感情だと言っていたことを習った。でもしかしそんなことを言ったら犬が一番信仰心が強い動物になってしまう。はっきり言って彼の宗教の定義は支持されるものではないが、しかし日本の監督中心のスポーツのヒエラルキーと言うものはそれに近いのではないかと思っている。私から見たらスポーツのヒエラルキーに順応すると言うことは監督やその他の先輩などの輩の子分になること、監督と言うお父さんを尊敬あるいは尊敬の意を表すことが求められる上部依存型のヒエラルキーシステム的にはやくざのヒエラルキーと何らかわらないと思っている。はっきりいってそんな親玉の監視下にあるような軍団に入っていたら自由に自分を表現できない。こういう輩はトレーニング中にほえたり、勢いあることは言えるが、しかしそれは血気盛んで勢いはあって、ただ暑苦しくてうるさいだけだ、持論であるが本当にやってやろうと言う気持ちはそういう奴らのパフォーマンスのようなものではなくて、離れたところで自分を磨き個を確立させることで出てくるものだ。

私が競技者の時こいつはすごいと思った男がいる。彼はのちに世界ランカーまで行ったが、そのボクシングにかける情熱がすごかった。ある試合で彼は勝ったにもかかわらず思い切り悔しそうにしていた。たぶん自分の試合に満足がいかなかったのだろう、のちに世界をとろうとする男は我々と見ているものがちがって、これぐらいの内容じゃあ世界は通用しないと思って悔しがっていたのだと思うが、その時私はその彼の悔しがる様子を見て、こいつは俺たちとは違う絶対に強くなると思った。こう言うことを言うとフェミニズムにおこられるが、男が一度悔し涙や悔しいと言う思いをしたら、その時本気にならなければいけないと思う。我々のように趣味であれば別だが、しかし試合に出て上を目指しているというのなら、何度も何度も次は勝ちますとか同じパフォーマンスを繰り返さない。一度やられて悔しい思いをするというのは競技者にとってそれは成長させるための糧である。本当に悔しい思いをしてそこから本当に強くなっていく、そしてそういう体験が競技者を成長させるのだと思う。才能がなかった私自身もその悔しさをバネにしたと思っている。はじめてのスパーで相手にならなかった時も悔しくて悔しくてずっとリングを見ていたのだが、その時悔しくて涙がでそうだったけど泣いてたまるかとこらえたのだが、本気で強くなったやろうと思ったからこそ、その気持ちをたやすことなく一生懸命トレーニングし続けることができた。たぶんそういう気持ちがあったからたいしたことがないBサイドレベルの人間がある程度活躍できたのだと思う。一度こてんぱんにやられることは競技者として成長するためには必要なことかもしれない。しかしその経験を生かせばもっとさらに強くなれるだろう、でもしかし悔しがるにしても涙を流すにしてもそれは本気でなければ意味がない。

 


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Dear George

2017-06-07 | Weblog

外国でのデビュー戦、自分ひとりで相手は外国人そしてセコンドも外国人、はい誰を信用しますか?答えは自分自身を信じると答える人間はブーッ、答えはセコンド、セコンドを信用しなければ勝てることはない。セコンドを信じてコミュニケーションをとることができなければ外国のリングで有利に試合を運ぶことができないし、有意義なボクシングはできないと思う。私のボクシング人生はすごく楽しかったがそれはコーチや監督のおかげだと思っている。ケグジェンイで個性が強い私をうまく引っ張って行ってくれて、たいした偉業ではないが、しかし私のポテンシャルでここまでにしてくれたのは間違いなく彼らがボクシングを有意義に競技させてくれたからだ。

私のコーチであるジョージの出会いはカラカウアジムと言う大きなジムで私がヒスパニックのボクサーに全く相手にならずにたたきのめされて悔しくて悔しくてずっとそこに立ち尽していた時に声をかけてくれたことである。強くなりたかったら明日もう一度ここに来いみたいなことを言われて、その日から私はボクシングを教えてもらうようになった。そしてこのことはブログでも書いたが、彼は私がすごく速くパンチがうてるのを見抜いていて、その能力をうまくトレーニングで引き出してくれたがこのおかげで才能がなかった私が多少なりとも活躍できたと思っている。よくジョージはボクシングはお前のように悪坊主じゃないとだめだと言っていた。そしてその悪坊主とコンビを組んでカラカウアジムにいられなくなってカリヒというところに行くようになったが70パーセントはジョージのせいだ。ジョージとはよく口論になったが、でも試合が終わって勝ってリングをおりるとお前は天才だと言ってくれる。向こうではコーチが競技者をボーイと呼ぶがこれは尊敬と愛情を込めた呼び方でそれは本当の我が子のように接してくれ、リングで戦うのは私ひとりであったがジョージがセコンドにつくとまるで自分が対戦するかのように応援し見守ってくれ、まさに二人三脚のようにファイトしたと思う。パーティに彼が私をおくってくれた時に、韓国人の女の子があのおじいさん本当にあなたが大好きだねと言っていたが、本当に彼は私を家族のように扱ってくれその二人で歩んだボクシングの1パージ1ページは本当に楽しく貴重であったと思う。ボクシングは個人スポーツだ、でも自分を理解し支えてくれる人がいないと勝てないスポーツでもある。ボクシングの素晴らしさはこういう出会いがあることだ。私はこのボクシングを通して多くの人たちと出会って来た。そしてその中でも私とジョージは最高のコンビであったかも知れない。

 

 


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Rident stolidi verba latina

2017-06-03 | Weblog

も哲学の講義に「トロッコ問題」と言うのがある。これはフィリッパ フットと言うイギリスの哲学者が提示したことをNHKの白熱教室でサンデルが引用した有名な話である。制御不能になった猛スピードで走るトロッコの先には5人の作業員が、左の進路をかえれば一人の作業員がいる。あなたそのまま進むかあるいは左に進路を変えるかどちらを選ぶかと言う問いである。白熱教室ではこの問いに対して様々な意見が出ていた。しかしこの問いに対して正しい答えはなく、答えは我々が思考しながら導き出していくものである。日本人は比較的善悪の基準がはっきりしているし、世の中の価値基準が変わったとしても変わらない黄金律と言うものは存在すると思っている。しかし思考しつつ導き出していかなくてはならない正しさも然りで、まさにこの哲学の講義はそのことを物語っているのだが、特に我々のようないろいろな人たちが集まるクラブにおいてもそれは言えることで、思考することは重要である。思考しない集団はズレていく。ジェンダーの問題や倫理の問題など今やスポーツと言えど医学や科学そして哲学をものさしにして考えて行かなくてはいけないことがたくさんある。子供にボクシングさせることだってそうである。させる側の意見としては子供の時からやらせたらアドバンテージがとれるようだが、医学上は間違いなく問題がある。しかも成長期の子供、頭をたたくことである。私などはあんな小さい頭をたたくと言うことに関してはすごく抵抗があって、まだ十分に精神的にも未熟な子供にスパーリングさせたりリングにあげたりするのは倫理上問題がある。軽くあてているとか危なくなったらとめると言うが、こういう輩は医師に話を聞いたのだろうか。私の倫理的な見解ではこういう問題は医学上危険であると言ったら危険、いくら軽くあててるとか危なくなったらとめるとか、本人の希望とかアホなことを言っていないで疑わしいことはしないさせないというのが教育的であり一般的な常識だと思う。さらにリングサイドから大声でどなったり、監督などがやくざの親玉のような感じで君臨しているのなんて言うのも人権の問題だ。私は医学上のことはなるべく医師やその他の専門家のアドバイスを聞くことにしているし、これは教育上よくないと思うことは排除しているが、それは恣意的なものや感覚的なものではなく、日ごろから何が正しいかと言うことを思考したことを結果としてとらえている。今グローバルで複雑化された社会で何が正しいかと言うものさしを持ってその群れを導いていくためには思考すること、そしてその方法である哲学を学ぶと言うことは非常に大事なことだと思う。

よく俺には哲学があると言う人間がいるが、しかしこういうことを言う人間に限ってものさしが小さく基本的な事柄がわかっていない。実存主義、Occam's razor、アウフヘーベンなんて言う基本的な言葉を理解してもいないのに、何とか哲学なんてエラそうに言うのは非常にみっともないことだ。哲学は持つものではなくするもの、現在進行形である。俺には哲学があると言うことを言う人間は自分の考えに固執しているだけである。もうよく例に出しているのでそれ以上例に出す必要はないがそれしかやったことがない、それしかできない人間と言うのは俺とか俺たちと言う一人称でしゃべる、所謂物事を客観視できていないものさしが小さいのだ。哲学は誰にでもできるものだが同時にもっと深く考え、正しさを導き出すためには広い物差しが必要である。はっきり言ってスポーツのルールや集団ごときを経験したぐらいですべてをわかったような気になっている人間がいるが、こういう人間はまさに井の中の蛙、スポーツ指導者にこういうタイプは少なくはない。はっきり言って教師や教育機関に携わっているものはただそのスポーツの記録をのばせばいいとと言うことを考えるだけではだめだ、子供の心理や成長を考えて、心も体も成長するようなスポーツ指導を目指さなくては意味がない。それを成長期に無理な減量をさせたり、医学的なことを無視したスパーリングをさせたりするのは言語道断、私は医学的なことはあまりわからないので時々ドクターからアドバイスをうけるが、ドクターは非常に重要で一番アドバイスをうけなくてはいけない重要な存在だ。これは個人的な意見であるが群れの質を上げるためには専門家やインテリ層の意見を聞くことは大事なことだ。しかしそういう輩はコンプレックスかどうかわからないが、インテリ層である人間たちの話を聞こうとしない、遠ざけようとしているような気がしてならない。たぶんそれしかできないと言うのはしょうむないメンツにこだわるので、そこまでのレベルで話ができないのではないかと思っているが、はっきりいってそれは賢明ではないだろう。

余談かもしれないが本を選ぶのもある意味センスが問われる。成功哲学とかリーダーとしての条件とか格闘家とかボクサーの伝記、そういう単純でこうだからこうという出来上がったものを読んでわかったような気になるメンタリティが理解できない。本を読むと言うことは思考すると言うことである。思考しなくては世界が広がらない。確かにその手の本は多少なりとも思考はできるだろうが、しかし内容が単純すぎる。それはロールズの正義論やサンデルのこれから正義の話をしようの目次にも及ばない直線思考の人間には理解しやすい本だと思っている。

はっきり言うが私は哲学を持っているとは思ってはいない。なぜなら哲学は進行形で今現在していることである。現在進行形だからこそそれは進歩していくものである。自慢になるが私は英字新聞を読んでいるし、最近買った本はアドラー心理学の論文の英語版である。私はそのコミュニティの責任者は羅針盤のようなものであると思っているが、その混沌とした世界で何が正しいことかそして自分たちはどこに向かうべきなのかと言う方向を示す役割、それがそのコミュニティ群れの責任者の仕事であると理解しているが、そのためには自分の視野を広げひろいものさしを持つことが大事なことだ。


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コーチの言葉

2017-05-30 | Weblog

スポーツ指導者は教育的センスがなければだめだと思う。スポーツの技術や体力だけではなく人を精神的にも成長させるためためには共同体がどういう方向に向かっているか、そしてその指導者が何を考えて運営しているかと言うことに大きくかかわっていると思う。

私のヨーロッパ系のコーチがリングを降りたらジェントルマンであれとよく言っていた。しかし彼がそういったのは運動系が言うようなあいさつしろとか先輩や親玉に服従するとかヤクザまがいのパフォーマンス的なものではなく、相手をいたわる気持ちを持てと言うことだと思っている。ボクシングと言うスポーツは女性がマイノリティである。だからジム内で裸になってトレーニングしたり、やんちゃ自慢や武勇伝をほざいたり、男性が自由にふるまうというのは女性にとっていささか威圧感があったり、不快であったりするものだ。ボクシングは男性だけのものでもないし、競技者だけのものでもない、そういうことを無視して相手のことを気づかわずに自由にふるまうのは弱いものいじめに等しい。共同体のレベルは特に格闘技のような男性中心の世界では女性や子どもをどう扱うかによると思ってる。個性か何か知らないがど派手な威嚇したようなファッション、堂々と武勇伝をほざいて、裸になって肉体をさらしてトレーニング、そういう人間があいさつや敬語もどきの言葉を使えたからと言って、礼儀正しい人間だと言えるのかどうかはわからないが、こういう人たちはうちのクラブではアウトローとみなすので入会はお断りしている。

私はよくある日本の運動系の礼儀とか言うのがよくわからない。それよりもコモンセンスとエチケットだろと思う。よく試合に終わった後に相手にあいさつに行く。おそらく勝っても負けてもお互いをたたえ合うと言う名目でいくのだろうが、ラグビーならまだしもボクシングと言うのは個人スポーツだ、負けた相手にならわからんでもないが、しかし自分がうちまかした相手のところにあいさつにいくのがよくわからない。なぜ自分が勝った相手にあえてそこに出向いて行ってありがとうございましたなんていうのか理解できないが、私がリーダーの時もしそんな奴が近づいてきたらF○ck you! コジョ(失せろ)!と中指を立てて追い返しただろう。自分が勝った相手にありがとうなんていやみでもなんでもない、その負けたくやしさがわかるのならほおっておいてやるのが武士の情けと言うものだ。お互いをたたえるとかわけのわからないことを言っているが、私は負けて悔しい時、そっとしておいてほしいと思うからあいさつになんて行かなかった。ただ試合が終わった時にthank you!とグローブをポンとあわしただけだ。あいさつに行かなかったら先輩や監督があいさつに行けとか言うこともあるらしいが、そいつらは自分の意思がないのかとさえ思う。私にしてみたらなぜ負けた相手をそっとしてあげないのか不思議だ、パフォーマンスばかりを優先させないで、見えないところでのいたわりの気持ちを持つことも大事なことだと思うのだが、パフォーマンスばかり優先させると思いやりの気持ちにかけるであろう。

前に試合に行った時に試合を終えた競技者が監督にあやまっていた。なぜあやまっていたかというのはこんな奴相手にすぐに倒せなかったことすみません的なことを言ってあやまっていたと思うのだが、パフォーマンスも行き過ぎるとこういう歪んだ形ででてくる。私はそいつらの話を聞いて不快極まりなかったが、こう言う奴らがあいさつや敬語もどきの言葉をつかえたからと言って礼儀正しいとは言えない。人をいたわる気持ちにかけている。メンタリティが子供、たかだかスポーツができても精神的な面が成長していないとウジ虫がハエになったレベルだ、監督やコーチなどがきちんとコミュニティを通してその精神的な面を成長させなくてはいけないと思う。そして精神的な面を成長させたかったならば、まず共同体の質を上げることが必要、そのためには特に監督やコーチにはある程度の知的レベルが求められるのだが、私の考え方では共同体でその弱さをおぼえていたわり、配慮の気持ちを持つためにはある程度の哲学的なものの考え方ができなければならない。そのため指導者は責任者はきちんと勉強しなければならないと思う。

たぶんそのコーチがたいした教養もなく、パフォーマンス的にリングを降りたらジェントルマンであれと言っているだけならアホかと思ったであろう。しかし彼は教養があって知性がにじみ出ている。そう言う人の声だからこそ心に響いて考える、そしてそこで考えさせられるから考える力がついてくるのだと思う。


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井の中の蛙大海を知る

2017-05-30 | Weblog

ジムに何とかタイガーとか言うベタな名前のプロのランカーが来た。なんかちょっとアホそうな奴だなあと思ってみていたのだが、私がそいつにつけたあだ名はデビルチンパンジー、ばれたら半殺しにされるようなあだ名である。そいつがスパーリングの相手が必要だと言うことでジムで有力な人間を何人か集めていた。私はジョージにやって見るかと言われていい経験になると二つ返事でイエッサーと、実力差があるので、向こうは左しか出さないからうって大丈夫みたいなことを言っていたが、しかし私はその時大胆にも倒すつもりでいたのである。スパーはこっちが3人で一人2ラウンドずつ、そして私はトップバッターでゴングが鳴るとボコボコにしてやると意気揚々と飛び出していった。しかし実力差がありすぎるので相手にならない。向こうはイッーと言ってジャブをうってくるのだが、そのジャブがあまりに速すぎてよけることができない。まるで近距離からでかい石をボコボコ投げつけられているようで、1ラウンドが終った時はフラフラでコーナーに千鳥足で帰って行ったことをおぼえている。大丈夫かと聞くジョージ、私は大丈夫だと答える。しかし内心大丈夫なわけがないだろと思っていたが、ここで引きさがっては男としてのメンツが立たんと、私は2ラウンド根性でやりとげた。しかしその後スパーリングをした奴はパンチをもらってすぐ放棄、3番目の奴も私を見てビビッてやらず、結局私が2ラウンド頑張ってしただけで、男の意地は必要なかった。異国では結構痛い思いをした。はじめてやった最初のスパーリングも相手に全く歯が立たなかったし、LAから来たアマチュアチャンピオンとか言う奴とはガチでうちあったが、これも全く歯が立たず3日ぐらいはまともに食事ができなかった。当時のアメリカは本当にすごい人間がたちがいたと思う。結局トーナメントの決勝でまけて自分は才能がない所詮Bサイドレベルだと言うことがわかり、これ以上は無理だと引退した。

私は思う。優しさと言うのは持って生まれたものであったり、親のしつけや愛情からくるものでもある。でもしかし何かに向かって行って、自分がそこでけちょんけちょんにされて悔しい思いや、傷ついたり弱さをおぼえたりすることで見えるやさしさ、そういう優しさが自分よりも弱いものをいたわる弱者へのやさしさにつながるのではないかと思う。私はスポーツ、特に格闘技はそういう機会を与えてくれるよい教師だと思う。


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ethicsとgenderを考えるクラブ

2017-05-23 | Weblog

うちのクラブは格闘技系のクラブでも雰囲気がかなり違う。どう違うかと言うときちんとした哲学的な考え方がベースにあって、その考察を通して倫理的な基準がある。その上で構成されている社会人中心のボクシングクラブだ。よく礼儀とかあいさつとか言う人間がいるが、しかし親玉が教養がなくて、たとえそこで敬語もどきの言葉やあいさつなどできても、きちんとした哲学や倫理的基準がなければそのコミュニティが健全に機能するとは考え難い。クラブの雰囲気はクラブの責任者の考え方が大きく反映する。きちんとした理念や哲学なくしてはその群れは健全な方向には向かわない。いくらボクシングにのめりこんでも、指導者の考え方がまともでなければやんちゃですとかアウトローが集まってきて独特の雰囲気を醸し出す。わたしはそれを灰色の空間を生み出す奴らと呼んでいるが、そういう人間が集まる群れは決して健全とは言えないだろう。

ボクシング廃止論と言うのがある。このボクシング廃止論と言うのは医学的な問題もそうだが、倫理的な問題をついた論文である。確かに他のスポーツもケガをすると言う点では危険性をともなっている。しかしボクシングはそのケガをさせるためのスポーツで、そこに問題があると言うのがボクシング廃止論の倫理的な考察である。ボクシングはある意味暴力を扱ったスポーツである。頭をたたくと言うことは医学的にも問題があるので試合に出す時はもちろんのこと試合にスパーリングをする時は必ずその危険性を促し、相手の同意を得ることが必要だ。さらに子供の頭をたたくことは言語道断、これはDRたちも言っているが成長期に頭をたたくことはその成長のさまたげになるし、減量なども成長期にさせることは正しいスポーツ指導とは言えない。子供にボクシングをさせて大丈夫ですかと聞くと軽くあてているとか、あぶなくなったらとめると言う人間がいるが、こういう言い訳は中学生のいいわけと同じで、ボクシングと言う競技が学校などの教育機関にかかわっているならば、そういう疑わしきことはしないと言うのが教育的配慮だ。もしさせるのであれば成長期に頭をたたくことは危険だということを十分に親に説明してから競技させるべきで、本人の希望とか自己責任とか言うけれども高校生未満の人間がどこまでそれを判断で来て責任を持てるかと言うことはわからないが、私から言わせればこういうことを何の説明もなしに、しかも未成年に自己責任を問うと言うことは無責任で非常におろかなことだ倫理観が欠落しているとしか言えない。

さらにジェンダーについてもよく考えなくてはならない。特に格闘技のクラブでは男性が中心の世界、女性はマイノリティだ。そんなところで上半身裸でトレーニングしたり女性が嫌がる話を平気でする奴がいる。よく武勇伝などを自慢に語る奴がいるが、そんな話を女性が好むはずはないし、そういう話に威圧感や怖さを感じる女性も少なくはない。こういうことを平気でする人間は非常にエチケットにかけていると思うのだが、公共の場で肉体をみせつけて、武勇伝を語ったら女性がかっこいいと思ってくれるのかはどうかわからないが、そう言う奴は我々のような倫理観をしっかり持った落ち着いたコミュニティではアウトロー以外の何者でもない。武勇伝を自慢だと思っている人間はそれでしか自分の存在価値をあらわせないからみじめだ。うちのクラブは元ボクサーみたいな人間が刑務所仲間をたよるように集まって、そこでボクシングの自慢話をしたり、特別感を出して教えるような場ではないし、そういう人間が来る場所ではない。私はボクシンググラブがそういう場所に絶対にならないようにしている。

これは私の持論だがスポーツと言うのは実際にやっている時よりも引退してからのほうが学ぶことが多く得るものも大きい。そしてそれを本当の学びにするのはその本人次第だ。若いうちに頭を耕していないと得るものも少ない。しかし若いうちに本やいろいろなことを学んで頭を耕すと得るものも多い。

 

 


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까불지마!(ふざけるな!)

2017-05-21 | Weblog

私が競技者時代に一番腹が立ったことは、試合で明らかに練習不足で出てくる人間だ。こっちは強くなることを求めてトレーニングして来ているのだから、明らかに相手が練習不足で不甲斐ないボクシングをして、すぐに勝ってしまったら「F○ck you!真剣にやれよ」と本当に腹ただしい気持ちになる。試合に出てくる人間は真剣だ。試合は自分が成長する上では一番大事な経験である。私の学生時代の一日のトレーニングはロープスキッピングを3ラウンド、シャドウボクシングを7ラウンドぐらい、そしてスパーリングがある時はそれを4ラウンド、確かミットうちは4ラウンド、さらにサンドバッグやスピードボールをうって筋トレを3セット、たぶん訳2時間近くはトレーニングに費やしていたと思う。当たり前だが試合に出てくる人間はそれぐらいのトレーニングいやそれ以上のトレーニングはしている。お互いがそれ以上のトレーニングをつんで試合に出場するからこそお互いの成長も大きい。それをちょっとトレーニングをつんだだけで試合に出てくるなどと言うのは一生懸命やっている者に対して失礼、一生懸命頑張っている人から見たら不快極まりない。年に数回しか来ていないのに試合だけは出て体力不足とかで負けるということを何回も繰り返す。リピーターと言う英語はこういうことを繰り返す人間に使う言葉だが、私自身は初めて出たハワイアントーナメントの決勝で判定で負けた時、くやしくてくやしくて15分ぐらいリングをずっと見ていた。チームメイトは決して近づいてはこなかったが、一生懸命やって負けると言うことはそれだけくやしいことだ。トレーニングしていない人間はそんなくやしい気持ちなんか出てこないだろうが、そういう一生懸命やっている人間を相手にするのだからそれなりの礼儀とマナーがある。特にそういうことを臆面もなく何回も繰り返すのは言語道断、減量して一生懸命トレーニングしている人たちに悪いと言う気はないのかわからないが、こういうことを何度も繰り返す人間は社会人としても失格、厚顔無恥でズレた感覚の人間を決して信用することはないだろう。

さらにボクシングと言うスポーツは危険なスポーツだ。学生時代私の二つぐらい前の試合ですごい倒れ方をした競技者がいた。フックをくらって受け身ができてない状態でズドンと倒れたのだが、その時シーンと静まりかえってこれはひょっとしたらと言う雰囲気で、たぶんその後競技者を見ていないので想像通りであろう、その時本当にボクシングは危険だと言うことを本能的に感じた。ボクシングは真剣にやったものにはわかることだが、本当に危険なスポーツだ。私は鼻の穴の位置が違うし、両親指が奥に入っているし、人差し指が曲がっている。幸い頭には異常はないが、しかしそれだけの犠牲を払って競技してきたのだ。だからリングの上に立つと言うことはそれなりの覚悟と準備がいる。もしそこで大きいけがをしてしまったらその人間の家族をも巻き込んでしまうのだから、こういう問題は自己責任の範囲ではない。ボクシングの試合に出ると言うことは覚悟と準備が必要だ。そして準備が不十分なら試合には出ない出さないのが責任者としての正しい判断だ。ラテン語の格言にAmat victoria curam.と言う言葉がある。日本語訳では勝利は苦労するものを愛するとなっているが、しかしCuramは世話とか準備と言う意味で直訳すると勝利は準備を愛するだ。なぐりあいの試合に出場するためには覚悟と準備が必要だ、ボクシングの試合と言うのは危険であるからどちらがかけてもケガをするおそれがあるということを試合に出る人はよく理解してほしいと思う。

ボクシングは目的に関係なく誰もが競技できる。しかし試合に出ると言うことは危険をともなっているので、絶対にケガをしてほしくないと言う思いがある。

 

 


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スポーツを一般化できない人たち

2017-05-17 | Weblog

昨日バレーボールで競技者の顔の近くにバンバンとボールをあびせるかのごとくうち続けるトレーニングが動画でとられていて問題になっていた。解説者があれは追い込んで精神力を鍛えるトレーニングで体罰ではなくてやっているものにしかわからないトレーニングだ、本人も体罰ではないと言っているから問題ないと言っていた。いつも思うがそれしかやって来なかった人の考え方は非常に恣意的である。この人たちは物事を一般化できていない。スポーツと言うのはこういうことを言う一部の人たちだけのものではない、それを強くさせるためだとか言ってこういう暴力を容認するのだが、この人たちはだいぶ前におこったバスケットボール部の事件をどう思っているのだろうか、あの事件で問題になったのはチームを強くするための愛のある体罰だというような詭弁だ。愛情があるとかないとかどこで判断するのかわからないが、自分たちの世界だけでとらえて物事を矮小化してしまう考え方は非常にいいかげんで危ないし、言ってることも灰色でうさんくさい。こういうことを容認するからスポーツでの暴力やいじめ人権蹂躙は繰り返されると思う。基本的にスポーツは遊びだ、大多数の人たちがプロになったり、それで生計をたてようなんて考えてはいない、よく解説者が自分たちがやってきたことがいかにすごいか、そしてスポーツとはこういうもんだと持論を唱えそれが恰もスポーツの目的のように聞こえるが、しかし誰にだってスポーツを競技する権利がある。だからすべての人たちに開かれなくてはならない。しごいて洗脳し人権を無視して結果を出すスポーツはもはやスポーツではない、それは解放軍とか言うどこかの軍隊と同じ、スポーツをする上で大事なことは平等にそれを楽しむことができるかと言うことである。

バレーボールの話もああいう激しい暴力ともとれるようなトレーニングを見たらこわがってその競技をしようとは思わない子供たちもたくさんいる。たかだか球技ごときであそこまでしなくてはならないのかとさえ思う子供もでてくるだろうし、強くなるためにはとか言っているが、その強くさせるための方法論がとにかく鍛えればいいと言うようにしか見えない、非常に浅はかである。どれだけのことを学んだのかわからないが、暴力とさえ思えるしごきがスポーツ学的にも倫理学的にも正しいこととは思えない。

日本人のスポーツ指導者、特にそれしかできない人は物事を一般化できない人が結構いる。こういう人たちの特徴は常に俺はとか俺たちはとか言う一人称主体で話をする。俺たちにしかわからない世界とか、やってる人間にしかわからないとか。前に柔道でレイプ事件や体罰などの問題が続いた時、柔道家としてと言う言葉をしきりに使っていたが、しかしレイプや暴力なんて人としてやってはいけないことだ。それを特別な言葉をつかって自分たちは違うんだと言いたいのだろうが、しかしレイプや暴力に柔道家がとか何をいっとるんだろうと思う。こういう言葉や態度ひとつにしても彼ら彼女らが物事を一般化できない、すべて自分たちのフィールドで物事を判断すると言うことをうかがい知ることができるであろう。スポーツは楽しむものだ、そこでいろいろな人たちとふれあいそれを楽しく競技できるところにスポーツの意味がある。私自身もボクシングでマイノリティがそこで生き生きと競技するボクシングに救われたことは確かなことだし、スポーツでの思い出は楽しいことばかりだ、だから私にしてみたらスポーツで責任を感じて子供が自殺するなんてありえないことだ。

精神力とか根性とか言うのだったら大学の授業、英語の会議、シンポジウムどれでもいいからきちんと自分の意見を言ってみろと思う。たいていの監督は怖気づいて何も言えないと思うのだが、彼ら彼女らの言う精神力と言うものその世界だけのもので、自分たちの子飼いに親も言えないことをえらそうに言っているが、実は内弁慶で井の中の蛙である。

とどのつまり何を言いたいのかと言うとスポーツと言う枠を一部の人間んが考えるような狭い枠でとらえるなということである。うちのクラブはアウトローとかならず者は別だが年齢や性別に関係なく多くの人が集まってトレーニングしている。社会人が多く女性が半数以上在籍しているのも一般のスポーツジムとしては珍しいと思うのだが、それはたぶんスポーツを一部の人間ではなく一般化できているからだと思う。

 


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