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脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

「力とは何か」権力の逆構造からみるコミュニティ

2025-05-26 | Weblog
マックスウエーバーは「職業としての政治」でまず国家であるためにはmonopoly on violence(暴力の独占)が第一だと言っている。所謂力なきは無意味であり、国家としての意味をなさないということであろう。確かにそれは国の秩序を守るためには当然のことだ。しかしその権力は時にゲバルトになる。私は国家権力=ゲバルトと考えているが、その権力側の言動が時には相手に対する威圧になったり、強制になったりするもので、そこをよく理解しなければ権力者側と国民との間に摩擦が生じる。為政者や国家権力にたずさわる人間はそこをよく理解して行動しなければならないのだろうと思う。卑近な例だが、刑事が犯人をつかまえるためにまわりの迷惑おかまいなしに勢いだけでつっぱしっていいということはない。人権やモラルを無視して国家権力を乱用しずけずけと人の空間に入り込んで、たとえそのことによって検挙率があがったとしてもそれはゆるさせるべき行為ではないだろう。権力を行使する側は当然のモラルや常識そして時には思いやりと言うものを示さなくては国民には理解されないと思うのだが、それは当たり前のことであろう。そしてこれは監督やコーチも同じこと、いくら自分たちは上下関係がないとか言っていても監督やトレーナーは競技者から見たらある意味権力者であり、我々の言動が時にその競技者にとっては威圧になったり、強制になったりするものだ。人を指導するというのは熱意や勢いだけでは、相手の権利や人権を侵害することさえありうる。私はそこをよく理解して我々の言動を気をつけなくてはならないと思っている。指導者には教養が必要だというのは、物事の本質を深くとらえて、コモンセンスを理解する能力が必要だからだ。子供でも読めるスポーツのハウツー本やスポーツ選手の自慢話を書いた薄っぺらい本を読むよりもマックスウエーバーの「職業としての政治」やハンナアーレントを読んで暴力とは何かということを学ぶ方が競技者との関係をよくするし、コミュニティをよくするものだと信じている。言い方をかえればそれぐらいのことを理解できなければ力を行使するなということである。もちろんコミュニティと政治は違うが、しかしコミュニティにも小さな権力が存在している。そしてこの権力がどう行使されるかということが重要なことであり、その権力を行使することが暴力的になったり、相手を支配するものになってはいけないと思っている。

参考文献「職業としての政治」マックスウエーバー 岩波文庫

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Dear George

2025-05-16 | Weblog
ある日ジョージから今度の日曜日50ドルやるから仕事を手伝えと言われ手伝った。行くとそこは空き地のようなところ。何をするんだと聞いたら「簡単だとにかく3つあなを掘れ」と、まさか死体をうめるためじゃないだろうなと多少の躊躇はあったが、しかし50ドルは闇以外ではアルバイトできない私にとって大きい金額、言われる通りあな堀にせっせと勤しんだ。あなはさほど深く掘らなかったが(この地点で死体じゃないなと確信したのだが)、それでも3つ掘るのに時間がかかり、たぶん5時間ぐらいはかかったと思う。そして仕事をおえた私はジョージのおごりでジッピーズへ、この後あなは何につかわれたかはわからないが想像の範囲でおまかせする。ちなみに彼は不動産関係の仕事であるが、しかし昔はギャンブラーだと言っていた。そして彼には娘がいるのだがこの娘とはずいぶん長くあっていないともいっていた。
ジョージと私の出会いはカラカウアジム、そこはリングが2つある体育館のようなジムで、チームが自由にトレーニングできるボクシングのために開放された施設である。当時学生のチームの一員であった私はそこでトレーニングしていた。当時のアメリカはボクシングがすごく盛んでそこでやったスパーリングでまったく相手にならず、すごく悔しがってリングを見ていたら「強くなりたかったら明日またここに来い」と声をかけてくれたのが彼との出会いである。
カラテキットと言う映画がある。私が好きなのはパート3まである古いほうのやつ。この映画の主人公はダニエルラルーソ、転校してあることがきっかけで不良グループに目をつけられいじめられる。しかしそこでひとりの老人と出会い、空手を習いそしてそのことを通して成長していく物語である。この映画ではいずれもダニエルに立ちはだかる悪役が登場する。卑劣ともいえるやり方で彼を苦しめようとするのだが、その悪役に立ち向かう姿がすごく日本的で私はそこがこの映画の素晴らしさだと思っている。何が日本的かと言うとその解決が平和的で決して相手を徹底的にやっつけようとしないところだ。その不良グループにいじめられた時も決して強くなってやり返そうと言うのではなくトーナメントを通して正々堂々と戦おうとしたし、たとえ勝って自分が優位になっても徹底的にやらない。ロッキーとかでは勝利すると大歓声の中ヒーローになり負けた人間はみじめにさっていくのだが、この映画では勝負はもう終わったのだからと相手をゆるす。私は日本の武道の精神がここに語られているんだと感動した。スポーツをやっていて思ったことは日本人のコミュニティと西洋人のコミュニティは違うと言うことだ。まず西洋は競争第一、ゴールデングラブで優勝した奴がかっこをつけて明日からみんな俺の首を狙いに来るなんて歯の浮くのうなことを言ってやがったが、アメリカはよしもわるしも競争の原理で動いている。日本のように試合が終わってわざわざ相手のところに行ってありがとうございましたなんて言わないし、コミュニティでお互いがそこまで深く教えあったりはしない。競争社会では自分が習得したことをいともたやすくライバルに教えることなんてまずない。さらによくクラブなどで自分が休んだら人に迷惑がかかると言うが向こうでは休んだらライバルがひとりへるのでラッキーだ、そういう社会と比べたら日本人は競争心がないと言えるのだが、しかしともに支え合い助け合って生きると言う精神がある。そこが日本人のコミュニティのよさで、私はこのよさを最大限に引き出したいと思っている。
ジョージは日系人そしてカラテキットの老人も日系人だが、たぶん二人は同じ世代で日系人がすごく苦労させられた時代に生きた人たちだ。私はこの映画を見るたびに彼との出会いを思い出す。私は思う。人間は絶対に誰かがいないと成長しない。私が彼に声をかけられたように誰かがその人間を顧みて声をかけてくれなければそこからはいあがったり、さらに上の世界を目指すことはできないと思っているが、ジョージもカラテキットの老人も日本人が持っている助け合いの精神を持っていたその人たちで、私はそのことを日系人である彼らから学んだ。



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A essay about boxing children in the underdevelopment stage

2025-05-12 | Weblog
MOBでは絶対に小中学生にコンタクトトレーニングはさせない。理由は15歳までの頭蓋骨は発達段階でそこに衝撃をくわえると危険であるからだ。少し古いが、アメリカとカナダの小児科の団体による共同声明がある。英語のものからの抜粋であるが"Thousands of boys and girls younger than 19 years participate in boxing in North America. Although boxing provides benefits for participants, including exercise, self-discipline, and self-confidence, the sport of boxing encourages and rewards deliberate blows to the head and face. Participants in boxing are at risk of head, face, and neck injuries, including chronic and even fatal neurologic injuries. Concussions are one of the most common injuries that occur with boxing. Because of the risk of head and facial injuries, the American Academy of Pediatrics and the Canadian Paediatric Society oppose boxing as a sport for children and adolescents. These organizations recommend that physicians vigorously oppose boxing in youth and encourage patients to participate in alternative sports in which intentional head blows are not central to the sport."
「北米では19歳以下の少年少女が何千人もボクシングに参加しています。ボクシングは、運動、自己鍛錬、自信など、参加者に利益をもたらしますが、ボクシングは、頭や顔面への意図的な打撃を奨励し、その応酬があります。ボクシングの参加者は、慢性的で致命的な神経学的損傷も含め、頭部、顔面、頸部の損傷の危険にさらされています。脳震盪はボクシングで最もよく起こる傷害の一つであり、頭部や顔面を負傷するリスクがあるため、米国小児科学会とカナダ小児科学会は、ボクシングを子供や青少年のスポーツとして行うことに反対しています。これらの団体は、青少年へのボクシングに強く反対し、意図的に頭部に打撃をあたえるスポーツにかわって、他のスポーツに参加するよう患者に勧めるよう医師に勧告しています。」
ボクシングは危険なスポーツだ。実際イギリスのBBCは2023年に19歳、2024年に23歳のアマチュアボクサーが脳のダメージで死亡していることを報告しているが、頭をたたくというのは非常にデリケートな問題で、それは子供であればなおさらのこと、さらに「ボクシング廃止論」と言う論文によると、ボクシングだけが相手にダメージを与えること(頭部への攻撃)が目的で、このことがほかのスポーツとの大きな違いであり、そこを問題視していることはさらにボクシングがほかのスポーツに比べて危険だということが理解できる。ボクシングは危険だ。そしてそのアクシデントは一瞬で夢や可能性をうばうスポーツであることを理解しなくてはならないだろう。子供にたいして、あぶなくなったらとめる、軽くたたいているとか、私が一番アホだと思うのは競技させるのは本人の希望、何を基準に言っているのかわからないが、そういうことをさせる親は、その危険性についてよくわからないのだから、こちらからその危険性について説明しなくてはいけない責任があると思う。しかしそれを自己責任とか言って責任を相手に一方的に押し付けるのは非常に無責任だ。自己責任にはアカウンタビリティがともなう。これができない人間は責任者の資格なし、本当にバカだと思う。MOBでは高校生からコンタクトトレーニングができるが、会員が親以外は保護者にきちんと死亡例などをあげて説明し、親の承諾を得てからしてもらうようにしている。もちろんけががないように最大の注意をはらってはいるが、しかし我々には競技する子供や保護者にボクシングの危険性を説明する義務がある。脳へのダメージは今どうという短いスパンではなく、長期的にその安全性について問題視する必要がある。ジムの管理者に必要なことはボクシングの技術的なことが誰よりも分かると言うことではない、トレーナーには必要かもしれないが、大事なことはこのように子供にコンタクトトレーニングをさせていいのかと問われた時に、ひとつ上の次元でそれを解釈し、判断できる能力だ。USAのオリンピックのコーチングの本は約3分の1がケガに対すす対処と予防であるが、管理者は危険だと言われているボクシングにおいて競技者を保護する責任と義務があると思う。


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A justice in MOB

2025-05-06 | Weblog
「Each person has an equal claim to a fully adequate scheme of basic rights and liberties, which scheme is compatible with the same scheme for all; and in this scheme the equal political liberties, and only those liberties, are to be guaranteed their fair value. 」A Theory of Justice(正義論 第一原理)

うちのクラブは暴力や暴言、とにかく女性や子供がこわがったり不快になったりするような行為はしないさせない。そしてもしそういう行為が繰り返されたら迷わず退会していただくことにしている。私がDQNとかやんちゃですを入会させないのは、こういうやつを入会させたら、まさに「悪貨は良貨を駆逐する」まともな人間がここでトレーニングしにくくなるからだ。そういう類の人間は少し一般では理解できない自分を正当化するための屁理屈を持っている。こんなこと普通はやったらだめだよということを無視して、独特の屁理屈で自分を正当化、しかも仲間たちも同じような思考回路をしているから固まると非常に厄介、こいつらの考え方は我々の理解をこえてそれでも不思議なことに共通として持っているので、もはやそれはDNAの問題ではないかと疑っているが、どんなことでも自分たちにだけ都合のいいようにしか物事を解釈しない。こういう人間を一人でも入れたら仲間を集めて厄介なことになるので、絶対に入会させないようにしている。うちのクラブのモットーは平等と言うことだ。しかしその平等はそういう類の人間が中心になって自分たちは楽しく自由にやらさせもらってまーすと言うような自分勝手な特定な人間たちから見た平等ではなく、ジェンダーや国籍そしてその人たちが持っている立場や考え方をよく考えて、そこから何が一番公平と言えるのかと言うことを考えた上での平等や公平である。ロールズの考え方に無知のベールと言う考え方がある。これは自分たちの利益ばかりを考えないで、おのおのがお互いの立場を考えて利益になるように平等性を考える、単純な言葉で述べると自分たちのことばかり考えないで、その自分勝手な考えをいったん置いといて互いの利益になるように考えましょうということである。クラブが平等であるというのはそこに来た人間たちに好きなようにやらせる、放置状態と言うことではない。放置状態にしたらそれこそ力の強いものがそこでは中心になり、弱い人間は隅においやられる。そしてそこでもしトレーニングしたかったら、そういう類のやつらに気をつかわなくてはならない。まともに仕事をしてある程度社会的信用を得てきた人間よりも目立つことしか考えていないそれしかできない人間のほうがそこでは立場が上だというのはどう考えても不平等だ。なぜそこまでそんなやつらに気をつかわなくてはならないのかわからない。無知のベールをかけて見えてくるのは、自分たちのクラブでは誰が一番マイノリティか、そしてそのマイノリティを大事にすることがうちのクラブにとっては全体の益となり、平等性を導く結果となりうるということだ。平等であるかどうかと言うのは心の問題だ、根本的には自分たちは大事にされていると感じることが平等を感じる時だ。自分たちの勝手をすてて、弱い存在、クラブに来ても自分はやっていけるだろうか、本当にやって大丈夫なのだろうかと言う存在が見えたならばその存在を大事にすることが全体の益であり平和であろう。クラブが公共の場であるならば、目立ちたがり屋で血気盛んな奴らがいかにも自分たちこそがクラブのメンバーだと言うような振る舞いで、そのクラブの中心になるとしたら、それはその群れの管理能力がひくいからだ。女性がいても平気で汗をまきちらして、しかも裸でトレーニングするなんて言うのは公共の場であってはならぬこと。本当に平等だと言うならば私はその群れで誰が一番マイノリティかと言うことを考えることが大事なことで、全体の益になると信じている。

Refarence
John Bordley Rawls  "A Theory of Justice"

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スポーツにおける競技者の人権

2025-04-28 | Weblog
MOBでは徹底して暴力を排除している。それは人権を含む人の人格を軽んじた行為で、そういう行為に対してMOBでは徹底して厳しい態度をとっている。しかしながら未だクラブでは一部では暴力的な行為が問題になっているし、暴言や人格否定的なことは未だ横行していることは容易に想像がつく。私が聞いてて気持ち悪いと思うことは、特に我々の世代がそうだが、部活で先輩や監督におこられたり、無理難題を言われて、いじめられたこと面白おかしく話し、盛り上がることである。ここまで行けばマゾの極みだと思ってしまうが、ある意味倫理感がマヒしてる。我々の世代は体罰が当たり前のようにあった時代であるが、クラブで当たり前のように体罰をうけてた世代の人は暴言を含む体罰を最近巷がうるさくなってきたので気をつけなくてはならない程度にしかうけとっていなくて、根本的に悪いことだと理解していないと思う。おそらくそれらは自分が競技者時代に経験したことと関係があって、競技者時代に監督やコーチから体罰をうけたり、おいそことか犬のように呼びつけられたり、人を軽んじるようなことを当たり前に受けいれて来た世代は、人格を尊重されると言う経験がないので、根本的にそれがなぜいけないのかということがわからないのだろう。未だ競技者を犬のようによびつけたり、おいそこと物扱いするような行為はしばしばみられるが、介護でもないのに監督の食事の世話までさせるのはかなりばかげている。こういうことを言うと礼儀を教えている的な屁理屈を言う人間がいるが、礼儀を学ぶのであれば、まず正しい敬語と日本語を話し、それを身をもって実践することが大事なのではないかと思う。今や共通語である英語を理解することは常識であるし、人に何かを伝えたり、教えたりするのに正しい日本語を理解することは必要なことである。若い時に一つの事に没頭することは時には必要かもしれない、しかし年をとったらある程度常識的な学力は必要なことだし、そういう能力がないとコミュニケーションがうまくとれない。自分が頂点に君臨するためにわけのわからないルールを押し付けてくだらないヒエラルキーをつくるのではなくて、英語を積極的に話し、正しい日本語を話して相手を尊重する。私の監督はすごく知的な人で、リングをおりたらジェントルマンであれといっていたが、それは決してそういうふりをするということではなく、根本的には知性を磨いて作法を重んじる、マイノリティをおぼえてその人たちを尊重しろということだと理解しているが、やはりこういった事は言葉をしっかりと理解して、知的な要素を養う事とは無関係ではない。スポーツにおいてお互いを尊重することは大事なことだし、オリンピズムの精神はまさにこのことであるが、スポーツをやっているのに人格を無視したり、否定されたり、子分のようにあつかわれるのはスポーツ精神に完全に反している。おいそこ(It)、犬のように呼びつける、自分を偉そうに見せるために競技者をひよっこ扱いすることは本当にだめだと思う。




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The sense of community

2025-04-21 | Weblog
私は常日頃からジムにはどういう人たちが集まってくるかと言うことを問題にしてるが、それはそのコミュニティに集まる人たちの感覚や価値観がコミュニティのモラルや倫理を決定するからである。倫理や道徳と言う概念は説明するには少し時間がかかるし、抽象的であるともいえる。なぜならその倫理やモラルは国や習慣あるいは人によって違うからである。私は倫理やモラルはセンス(感覚)の問題だと理解している。そのコミュニティの倫理やモラルはそこに存在する人が持っているセンスによって決定されるもので、倫理やモラルはその複合体を通してあらわれるものだ。ブリタニアディクショナリーは倫理をこう説明している。
”The term ethics may refer to the philosophical study of the concepts of moral right and wrong and moral good and bad, to any philosophical theory of what is morally right and wrong or morally good and bad, and to any system or code of moral rules, principles, or values.”「倫理という用語は、道徳的な善悪の概念の哲学的研究、何が道徳的に正しいか悪いか、良いか悪いかについての哲学的理論、道徳的規則、原則、価値観の体系や規範を指す」cited from Britannica Dictionary
倫理は集合体が生み出すひとつの規範や法である。何々するなと禁止のかたちで書かれたルールであるモーゼの十戒は、代表的なその集合体の持つ共通感覚であり、倫理や道徳はその集合体の感覚によって決定され絶対的なものとなりうるわけであるが、倫理はセンスの問題であり、その群れに正しい価値判断があり、共通の正しさを持っていればおのずとその正しさが基準となり、その群れの人間は正しい行動をとろうとするだろう。
うちの会員の人たちは一般的にこういう奴が半グレみたいなやつで、そういうやつはろくな人間じゃないと言うとみんながみんなそうではないと言うのではなく、みなさんだいたいこういう人間はダメだと言う基準をしっかりと持っているし、そういう意味ではみなさん倫理や道徳に関しては高いセンスを持っている人が多く、それゆえに安心してジムに来ていただくことができる。
一方いくらあいさつができて自分と利害関係にある目上のものに対して取り入るのがうまく服従の姿勢を示しても、日本語がでたらめ、道徳を語るときも漫画日本昔話程度のことしか話せない人間があいさつとか言っても組織やコミュニティは形骸化する。結局でたらめな人間が集まってくるであろう。
教員なんかもそうであるがコンプライアンスの問題を多少解決できるとしたら、採用する地点で倫理あるいは道徳的センスを持った人間を集めることだと思う。順守すべき何とかとか言っても、もともとそういうセンスがなければ意味がない。入社試験に「倫理とは」「ジェンダーについて」「日本におけるハラスメント」などのレポートを提出させると、自ずとその書いた人の倫理的センスが理解できるし、研修などもそういう哲学的なことを講義して議論させるような場を持つことも必要ではないかと思っている。


参考文献
中村昇「ヴィトゲンシュタイン、最初の一歩」


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ユートピア ὀυ τοπος

2025-03-25 | Weblog
MOBのおもな目的は、ダイエットと社会人のストレス発散である。特にプチウツが多いと言われている現代社会で、真面目な人たちがここでストレスを解消してくれるようにということを願っている社会人にむけられた大人のスポーツクラブで、中高生の運動部の延長ではないということははっきり宣言する。
「プチウツ」の正式名は「非定型うつ」女性に多く、うつとは違って夜にそういう症状がおこるというように不定期で、それらは不安が根底にありパニック障害や対人恐怖症を併発するおそれもあるらしい。実際オリーヴにも自分はプチウツだと言う人たちがいるが、そういう人たちのほとんどは真面目で、人に対する気づかいがあり、社会的に責任のある仕事をしている人たちが多く、一般的には社会的にアドヴァンテージのある人たちに多い。たぶんある程度責任のある仕事をしていれば、そのことに対する責任からくる不安や悩みはあるだろう。しかしそういったことはなかなか人には言いにくく、そういうことがストレスになっていると思う。
少し古いが箱庭セラピーと言う言葉を聞いたことがあるだろうか?
箱庭セラピーは教育学や心理学を勉強してきた人間は聞いたことのある言葉だが、これはユング派の心理学者の河合隼雄が日本に導入したセラピーの方法で、言語や表現が不十分な子供にたいして、箱庭のミニチュアをつくることを体験させて、その作品を見て心理状態を表現させるテラピーのひとつである。
日本人は子供問わず、どちらかと言うと自己主張が苦手で言いたいことが言えない民族である。そういう性格を持った人間が実際にカウンセラーに向き合って対話できるとは思えないし、立場上言いたいことすらいえないと言う人たちもいると思う。ここのメンバーはほとんどが社会人であるが、現代社会に生きる社会人はストレスが多く、そのストレスは責任のある仕事につけばつくほど重くのしかかってくるもので、私はそういう人たちが何も言わずに公平にスポーツを楽しむことで、多少なりとも自分たちがかかえているストレスを発散してくれたらと願っているが、そうなるためにはコミュニティーの質を上げていくことが大事であり、情やしがらみの関係で集まる封建的な社会ではなく、公平でひろく物事を見て、その時代にあわせた正しい価値判断を持ったクラブにしたいと思っているが、中高生のクラブの延長ではなく、社会人がここで安心して思い切り楽しめる環境を提供したいと思っている。スポーツは健全に行えば非常にいいストレス発散の場となるいいおっさんたちが夜に集まってなぐりあいをして、その後いろいろと楽しく語り合う姿は、非常に楽しそうであるし、本当にこのことを通してストレス発散できているなあと実感しているが、今後もそういうクラブであり続けたい。

ちなみにタイトルのユートピアはギリシャ語のουτοπος ουは(ない)とτοπος(場所)の合成語でどこにもない場所と言う言葉である。



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ノスタルジア

2025-02-22 | Weblog
久しぶりにフランス人の友人が高知に来てくれた。土曜日大阪で会議があるということで、そこからわざわざ高知まで会いに来てくれた。時々英語が話せる友人たちにフランス人と仲がいいと言うと、少し顔をくもらせて、そうはいってもどこまで仲がいいのというような感じで少し疑いの気持ちを持つ人もいる。確かに人によってはアジア人から見て性格がわるいとも思えるような人間の方が多いかも知れないし、私も実際F〇〇k!ぐらいの勢いで言い合いになったこともある。でもなぜか私の仲のいい友人は韓国人は別として、台湾人とフランス人である。そして実際フランス人は合計約1年半年ぐらいの期間、二人のフランス人と同居したことがあるが、私の感想では彼ら彼女らは日本人にはない粋な部分を持っている。どう粋かというと、まずフランス人は客として訪問した時にはワインを持参してくるのだが、彼がその時持ってきてくれたのは赤ワイン、「あにきは酒が飲めないから、フルーティで飲みやすいのを選んで持ってきた」というのだが、彼はワインをみやげとして持参するにも日本人のように適当に選ぶのではなく、その人に喜んでワインを飲んでもらえるようにと相手のことを考えてワインを選んでくるが、そこには招かれたものとしての作法がある。そして今でも覚えているのは交換留学生を1年間預かった時の事、彼女はまだ10代、日本の高校で勉強していたが、しかしその年福島の大地震がおこる。その時おこった原発事故をフランス政府は危険としたのか、帰ってこいと指定便用意し、その二日後彼女は帰国を余儀なくされた。連絡を受けた時は突然でその日の夜行バスに乗ると言うことであったので、十分な帰り支度もできず、彼女の部屋はほとんどそのままの状態でその夜、彼女が一杯の紅茶を飲んだ後、私はそのままバスターミナルへと送って行った。そしてその後彼女の部屋をかたずけていると、報告書のようなものが出てきた。それは留学生への質問が書かれてあって、それを日本語で答えるフォームであった。学校はどうか、家族とはうまくやっているか、お手伝いはできているかとか、日常生活に関してのことがおもであったが、最後のところの項目に、「あなたが日本で一番楽しかったことは何か」と書かれてあった。たぶんこれは留学がおわってから答える質問だと思うが、前日に書いたのであろう、そこには「一番楽しかったことは何もない、なぜならすべてが一番楽しかった」と日本語で書かれてあったのだが、この彼女の言葉に10代ではあるが私は粋を感じたのは間違いなかった。フランス人は人によってはややこしい人間もいるが、しかし私が一緒に生活をして感じたことは、きちんと教育を受けた人はある種の作法を持っていて、それが彼ら彼女らの日本人にはない粋な部分ではないかと理解している。


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今年もお世話になりました

2024-12-16 | Weblog
2024年もあと残りわずかですが、今年も皆様に助けられ運営を続けることができありがとうございます。ボクシングクラブはコミュニティのひとつですが、人間関係を縦軸で見るのと横軸で見るのとではコミュニティの質が違います。縦軸の人間関係は力による服従の社会で、力によってジムの優先順位が決まります。「自分たちは協力しあって楽しくやっている、ジムは楽しい、雰囲気がいい、みんな平等だ」と一部の人間がのたまう一方で、中年や女性がゲストのようにしか扱われず、一部の人間に遠慮しているようではその群れは平等とは言えないでしょう。MOBではそういった不平等をなくすために人間関係を横軸でとらえます。横軸の人間関係はフラットな関係です。フラットな人間関係は力によるものではありません。お互いを認めレスペクトしなくてはいけませんので、そこにはおのずと協力関係が存在します。MOBではあくまで横軸の人間関係に基準をおき、会員の人たちひとりびとりが平等にあつかわれるように心がけています。また平等性を問う時、能力や年齢、立場などを考慮しつつ、ジムでは誰が一番弱い存在かという事を考えてその人たちを大事にすること、そのことを全体の平等だと考えることが、ジムの雰囲気をよくするものであり、みなさんが安心してトレーニングできることだと考えています。今年も皆様にはこれらのことをご理解、そしてご協力いただきジムは平和かつ安全に運営できたと思っています。ジムではベテランの人や若い人たちがシニアの方や女性に場所をゆずってくれる光景はしばしば見られることですが、50代以上のシニアの方や女性が生き生きとジムでトレーニングできていることはひとえにみなさんのおかげだと思っています。私自身決して能力の高い人間ではありませんが、自分の能力や限界を知って、会員のひとたちひとりびとりをリスペクトし、心からリスペクトしあえる関係を築き、ジムを後ろから支えていきたいと思っています。2024年は本当にみなさんに助けられました。ありがとうございました。そして2025年もご協力よろしくお願いします。少し早いですがこれらをもって年末年始のあいさつの言葉とさせていただきます。
Glória in excélsis Deoet in terra pax homínibus bonæ voluntátis. Pax MOB, Happy holidays!

We have only a few days left in 2024, and I would like to thank everyone for helping us this year. A boxing club is a community, but the quality of the community is different if you look on relationships as a vertical axis or a horizontal axis. Relationships on the vertical axis are a society of subjugation by power, where power determines the priorities of the gym.If some people say, “We train together and have fun, the gym is fun, the atmosphere is great, everyone is equal,” while middle aged people and female members are treated like guests and hesitate to train, then the we are not equal. MOB look on relationships as a horizontal axis in order to eliminate such inequalities. Relationships on the horizontal axis are flat. Flat relationships are not based on power. Since we must recognize and respect each other, there is naturally a cooperative relationship. At MOB,we respect horizontal relationships and treat each of our members equally. When we ask about equality, we consider who is the most vulnerable in the gym and take care of them, while taking into account their abilities, age, position, etc. We believe that this is what makes the atmosphere of the gym good and everyone can train with peace of mind. Thanks to your understanding and cooperation, the gym has been peacefully and safely this year. We see ofthen experienced and young members suggest their places to senior and female members in the gym, but it is thanks to you that they are able to train at the gym with a lot of energy. I am not a very capable person myself, but I know my own abilities and limitations, respect each and every one of our members, and want to build a relationship where we can respect each other from the bottom of our hearts and support the gym from behind. Thank you very much for your support in 2024, and I look forward to working with you again in 2025. 
Glória in excélsis Deoet in terra pax homínibus bonæ voluntátis. Pax MOB, Happy holidays!

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劣っていることは不利ではなくむしろ資産である

2024-12-09 | Weblog
「劣っていることは不利ではなくむしろ資産である」はアドラーの有名な言葉だが、彼が診療所を開いたころの話、その近くには遊園地があってそこで働く大道芸人や軽業師などが診療に来ていたそうである。そして彼が彼ら彼女らの話を聞いてわかったことはそのほとんどが小さい頃から体が弱く、それを克服するためにそのトレーニングに励んで、今の仕事を選んだことであった。人間はだめだと思っているところに関心を持ってそれを克服しようとすれば、逆にそれが自分を成長させる大きな目的になる。私の身近に人と話すのが苦手、ひとづきあいがうまくできないと言うコミュ障に近い子供がいる。その子の夢は小説家だそうだが、小説家になりたいと言うのは自分が人とかかわったり、話したりするのが苦手でみじめな思いをしてきたから、もっと自分を表現したいということからであろう。彼がたとえ悔しくてみじめな思いをしたとしても、それは自分に与えられた試練であり、それに関心をもって克服しようとする時、その劣等感が大きな目的、夢へとかわるのだ。確かに以前彼はそのことで悩んでいたが、しかし俺は小説家になると言う夢を持ったことで大きく成長したことは確かなことだ。劣っていたり劣等感があるからこそそこから克服しようとするエネルギーが生れる。人間が劣っている部分はある意味神が与えたギフトかも知れない、その劣った部分に関心を持って、それが大きな目的にかえられるならば、その時その劣った部分であるギフトを通して、メッセージが語られる、それがある意味奇跡なのだろう。

実は私自身もできないことは極端にできない。未だにパソコンは指ひとつでうつ、軽度であるが特有のハンデがあって、人よりも劣った部分はあることは確かである。私のことを知っている人間にそのことを言うとほぼ全員がいやむしろ人よりもアドバンテージがたくさんあるし、外国人でも語学をつかってコミュニケーションがとれるので、コミュニケーション能力だって極めて高いと言うが、しかし以前はまったくそうではない。これじゃあだめだとそれと向き合って生きて来たからコミニケーション能力が高くなったことは確かなことだ。以前の私は人とうまくコミュニケーションをとるのも仲良くなるには特有の性格とかが邪魔をしてうまくいかない。だから仲良くするのではなく人をどう扱うかと言うことを問題にして人とかかわる、そのためには共通語である英語を話す、学生の時哲学や宗教学、時には心理学の本を人の倍以上読んで勉強したことは確かなことで、そのことが今のコミュニケーション能力を培ってきた。その経験がジムのコミュニティづくりに生かせている。人には劣った部分は必ずある。けれどもそのことを認めてそれを克服しようとするならば、それは自分にとっての試練や訓練になり、そしてその試練や訓練が自分の大きな成長につながり、それはやがて希望となることを信じたいと思う。

私は彼に言っている。「小説書いたら俺に見せろ。君はひとりでもそれを待ち遠しいと思って読む読者がいれば小説家だ。」

Reference  Alfred Adler  "What life should mean to you" Alfred Adler

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Bis vincit, qui se vincit in victoria.

2024-11-04 | Weblog
10月ももう過ぎてしまったが、私の初試合は確か10月だったと思う。相手は
フィリピン系で州の大会で一度優勝しているらしい。こりゃ勝てば金星だと思った私は絶対ぶちのめしてやると敵意むき出しであったと思う。今から考えたらふとときなやつであるが、当時の私は病気だと考えてくれていいだろう。そして試合がはじまった。私はブルーコーナーだ。そして開始直後彼が視界からふっと消えた。あれっと思って気がついたらレフリーがカウントをとっていた。たぶんスイッチしながらホックをうたれそれがあごをかすめたのだろう。私はキャンバスにしずめられてしまったのである。ボクシング経験者はわかるが、ダウンして立ち上がった時、一瞬だが記憶が途切れる。実際私も「あれおれなぜここにいるんだろ、あっそうか試合してるんだ。」となったが、ほんとダウンする時って、あれっていう感じでパンチをもらってダウンしている。たぶんダウンするパンチのほとんどは死角から入ってくるのだろう。だからうちおわりのガードはしっかりしなくてはいけないと言うのはよくわかる。人間には効き目と言うのがあって右なら右目、左目なら左目らしい。しかしボクシングを長くやると斜にかまえるのでその効目が逆になる。即ち右は左目、左は右目となる。私の見解ではサウスポーとオーソドックスが対戦する時、お互いクロスパンチをうつのが定石であるが、これは直接あたるからということだけではなく、互いの死角に向かって放たれるからだ。実際接近した時のショートパンチはあたりやすいと考えているが、これはホックについても言えることである。オーソドックスvsオーソドックスだと左ホックは死角からくる。だから特にアマチュアはホックを中心にしたコンビネーションを増やしてトレーニングしたら、それは実戦的であると言えるだろう。で私の試合は、どうなったかと言うと、相手はスイッチするので距離をつめてボコボコにしなくては勝てんと察した私は、ひたすら前に出てパンチをうちまくり、たぶん相手もあそこまで手を出してくるとは思わなかったのだろう、意表をついて僅差ではあったが判定勝ちをおさめた。これが私のハワイでの初試合である。試合後勝利こそしたものの私の顔はすごくはれあがり、見た目はまるでエイリアン、友人のピーターが記念にとった写真にはまさしくそれが映っていた。

Bis vincit, qui se vincit in victoria. は直訳すると「勝利において自分に勝つその人は二回勝利する」はBC1世紀ローマの喜劇作家、プブリリウス・シュルスの言葉です。 

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MOB共同体

2024-10-28 | Weblog

腹痛が続くのですごく久しぶりに病院に行って診てもらったところ胃潰瘍と診断された。胃潰瘍のおもな原因はストレス、暴飲暴食etと言われているがおそらく若い時であれば絶対にかかっていない病気だ。若い時はストレスなどためることなく、精神的にも何があっても持ちこたえてきたが、しかし年と共に弱くなってきたのだろう、胃潰瘍になると言うのはまさに私自身が弱くもろくなったということであり、そのことを自覚しなければならないと思う。
私がジムを設立した目的はおもに社会人を励ますためである。日頃仕事でたまる人間関係のストレス、家族や個人的なこと、そしてそういった事だけではなく、日ごろの重荷やストレスから解放されて楽しくトレーニングできる場として活動しているのがMOBである。MOBはスポーツ共同体であるが、私がそのスポーツ共同体を形成する上で参考にしているのがアドラー心理学である。心をいやす手段としてカウンセリングと言う手法が一般的ではあるが、一般的なカウンセリングはフロイトなどがそうであるように、過去の原因を現在につなげて解決していく、過去に固執する傾向がある。確かにそういった作業も必要であるのだが、しかし私はスポーツクラブとしてのアドヴァンテージを考えて、アドラーを参考にしているのだが、アドラーの心理学は臨床心理学には向かない、なぜならアドラー心理学は個人よりもむしろ共同体をどうとらえるかが大事だからだ。アドラーの共同体感覚は他者を敵ではなく、仲間だとみなすことが第一前提である。そしてその仲間が存在するからそこに自分の居場所があると感じるのが共同体感覚である。しかし仲間と言ってもごくごく狭い集団ではなく、年齢、性別、職業、国籍などをこえてお互いを尊重できるかが大事なことだし、このことを実現させるためには現実問題として知的レベルが高い人たちが一定数であつまることでその理解が深まると言うのが私の見解である。私がアホだと思う人間はこういう人間は「ろくな人間じゃない」と言うと「みんながみんなそうじゃない」という人間、本当にこのレベルの人間が集まって善悪の基準を決めることは非常に難しいことで、人間はそれぞれ善悪や道徳の基準を持っていて、こういうことをしたら人が不快になる、迷惑になるという事を考えて行動しているが、そういう感覚が一般常識であったり、コモンセンスであるのだがまともな人はそういう基準をしっかりともっている。私は質のわるい集団はグレーゾーンで生きてる人間たちと、こういう感覚を持っている人間で構成されていると考えているが、そういう無神経な感覚を持った人間がグレーゾーンで生きる人間たちを助長している。こういう場ではまじめな人ほど馬鹿を見るのかもしれない。そしてお互いを尊重するという事であるが、これはアドラーの言うところの「Encouragement (勇気づけ)」であり、自己啓発的な本には励ます時どういう言葉をかけるかとか書いているが、しかし根本的には相手を心から尊重できるか、そしてその上で声をかけることが大事だと思う。私は管理者として一つ大事なことをあげるとしたら、それは「観察力」だと思っている。観察力は会員ひとりびとりをよく理解し、その上で認めて尊敬すること。そうすることで彼、彼女らは協力者になってくれると信じている。さらに気づいていないいいところをよく見て気づかせてあげることで自信が出てくる場合もある。そういう人を見る観察力は群れを管理する管理者として必要な事であろう。

先日The Late Showに今話題の映画「将軍」に出演していたAnna Sawaiがインタヴューをうけていた。彼女は映画のセリフの古い日本語に感銘を受けたそうだが、例えば「こちらにいます」は「こちらにおりまする」と日本語の敬語は非常に素晴らしいという事を表現していたが、日本語は優雅で美しい、そして共同体においても正しい日本語が話されれば、ジムはもっと居心地のいい場になるのと理解している。彼女は外国で育ったどうだが、我々のようにアイデンティティがあいまいな人間は日本語のよさが一般の日本人よりもより理解できるのではないかと思う。

Reference "What life could mean to you" "The pattern of life"  Alfred Adler

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ジムでの品格

2024-10-13 | Weblog
「言葉改革は必要だ」
ジムでは使う言葉を選んでいる。運動クラブ系のコミュニティは私からしたら人を軽んじる言葉や表現を平気で使う。特に目上の人間が年下の人間に偉そうに接する態度には嫌気がさしているが、おいといって犬のようによびつけたり、会員の人たち特に女性を女の子あつかいしたり、若い人たちをひよっこあつかいするような言葉や態度をとらないように気をつけている。よくジムで練習生と言う言葉をつかうが、これはあくまで私のイメージだが下品で偉そうだ、ただでさえサンドバッグとか会長とか下品な表現が多いのに、そもそも年配の人や女性にたいして練習生などと言うのはあまり感じのいいものではないし、練習と言う言葉ができるできないという優劣につながりかねない。ヒエラルキーをあらわすような言葉なので排除、MOBはあくまでフィットネスクラブなので、そういう軍隊で使うような用語は使わず。なるべく現実的でPCワードを使うようにしている。

「作法は大事」
あまり意味がない本として私があげる代表的な本はリーダとしてなんちゃらとか自己啓発的な本、そもそも自己啓発的な本は私の中では読むに値しない本だと理解しているが、私が思うリーダーの条件は作法をしっかりと持っている人。日本語をきちんと話す、そして何よりも相手を心からリスペクト出来る、そういうふるまいができる人、こういう人はまわりからリスペクトされるだろうし、黙っていても群れの秩序が保たれ、その影響力は大きいと思う。学生時代監督がある聖書の話をしてくれた。それは「The Book Of Judges」のギデオンと言う士師の物語だが、当時イスラエルには王がいなかった。そのイスラエルの弱体化をさけるために神はその部族の中からリーダーを選んだわけだが、ギデオンと言う人もその選ばれたひとりのリーダである。彼は烏合の衆を集めるよりも洗練された兵士だけを集めて戦った方が合理的だと考え、戦いが終わった後、まわりの兵士たちが水を犬のようにがぶがぶと前かがみで飲んでいたのにたいして、片膝をたてて、そしてその剣を横においていつでも戦える準備をして水を飲んでいた300人の兵士をイスラエル復興のために選びともに戦ったわけであるが、しっかりと自分なりの作法を持つという事は大事なことだという事を世界最古といってもいい書物が我々に伝えてくれている。

Reference "The Book Of Judges" in the Bible. 

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脱親玉宣言

2024-09-30 | Weblog
「While sports has been practiced since pre historic times, it is a relatively new subject of systematic philosophical enquiry(スポーツは先史時代以前から実践されてきたが体系的な哲学的探究の対象としては比較的新しいものである)」The Stanford Encyclopedia of Philosophy より
フィロソフィーはギリシャ語が語源で「知を愛する」と言う意味。知を愛することによって生まれる考え方はポジティブでなければならない。よってその考え方がそこにいる人たちを幸福にすると言うのが哲学の目的である。三大幸福論と言えばアラン、ラッセル、ヒルティだが、ヒルティの幸福論は、人間が不幸になる理由を分析し、頑張っていても満たされないのは、自分の内ばかりに目を向けて主観的になっているからだ、幸福になる方法は、外に目を向けて客観的に生きることであると説き、この「外に目を向ける」ということが、ラッセルの重要なメッセージである。ラッセルは客観的に生きることは「趣味」を持つことだと言う。運動でも推し活でも、なんでもいい、外部に興味を持って熱中することで主観的なとらわれから逃れ、心のバランスを保つのを助けてくれる。MOBはコミュニティである。みなさんがあれこれと自分たちの考え方を述べそこで教えあう、そのスタイルがThe MOB styleであるが、そういうコミュニティがヒルティの言うところの趣味と言えるのではないかと思う。そのクラブやジムのスタイルが出来上がっている、ジムに来ていてもただ言われたことだけをやっているだけではもはや趣味とは言えず、それは受験や会社と同じである。大事なのはいろいろな人たちの話を聞いてあれこれと自分もクリエイティブ考えて、自分がそこでかわれるかどうかだ、そういう新しい発見があるとそれ自体が楽しくなってそれが生きるためにバランスを与えてくれるだろう。5年以上の会員の割合が多く、様々なカラーを持つ人たちが集まるボクシングクラブを新しく入会する人も疎外感を感じることなく、運営することにあたって、それは非常に難しいことだという事を実感している。私の運営の基本は管理者が目立ったり、主役になるのではなく、黒子に徹することであるが、そうすることで会員主体のコミュニティが形成されると信じているからだ。そしてそういうカラーを持つ人たちが意見を出し合って互いに教えあい、上手になっていくことが理想であるが、今のところ会員のみなさんのおかげでそれが実現できていると思う。

参考文献 
超訳 「ヒルティの幸福論: 世界で一番幸せになる「思考力」」斎藤孝訳 三笠書房



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デリダと日本人

2024-09-09 | Weblog
左翼が強い時代は日本で一般論を語る時「日本人なら」と言う言葉を問題視する人がいた。例えば日本人ならコメを食べるとか、日本人ならこうだとかいう民族をひとくくりにした発言は日本には在日外国人もいるのだから適切ではない。本当に難癖と言うかそういう些細なことを問題視していた人間がいたことは確かである。よく日本人の曖昧さを指摘する人がいるが、私はそれがある意味日本人の長所だと思っている。たぶんこういう考え方も政治的なもくろみは別として、わるい意味での曖昧さをあらわしているのだが、私などは外国人の参政権が政治の議会で上がることは驚きであるが、いいか悪いかは別にして日本人は曖昧、よく言えば多様性を認めようとする民族であると思う。
日本は平和である。よく人は平和ボケとか言うけれども、しかし平和であると言うのは確かに環境のおかげもあるのだろうが、もともと日本人が持つ性格も相まってそういう環境を生み出すのだろう。おそらくそういったことは日本人の持つ宗教観、すべてに神々のの存在を認めてそれらを大事にする神道の影響が大きいと思う。少し前うちのベテランの職人さんがダンベルをつけてパンチングの前でシャドウしていて、その流れでパンチングバッグをたたいていたので、「傷がつくからダンベルをつけてたたいたらだめですよ」と言おうとしたら、パンチングバッグをたたく時、きちんとそれをはずしてたたいていたのだが、その時思った「あっこの人職人さんだ。職人さんが道具を粗末にはしない」と、確かにうちのクラブには職人さんが在籍しているが本当に道具を大事にする。グローブなんかは毎回ピカピカに磨いていて、道具はジムにおきっぱなしにしないで毎回持ってかえって手入れしている。私が競技したところはそこまで道具を大事にすると言う感じではなかったので、彼らを見て深く感心させられたが、やはりこれらはすべてのものには神が宿ると言う神道の宗教観と無関係ではない、彼ら彼女らは自然や物に対してい系の念を持つ、そのような考えかたができるから平和で多様性を理解できるのだろうと思う。これに対して西洋哲学はどちらかと言うと白か黒かをはっきりとつけたがる習性がある。特に一神教の影響が強いのだろうが、彼らの思考回路は二項対立だ、善か悪かそれが正しいかそうでないかの世界である。脱構造主義のデリダは、二項対立で物事を理解するのではなく、価値判断の保留に重きを置いた。すなわち物事は考え方次第でそれはよいものにもわるいものにもなるのだから、余白をのこして物事をとらえる。それがデリダの言うところの変化であり、そういう考え方を理解できるセンスを日本人は持っていると思う。私は学生に本をすすめられてある程度理解力が深まったら、デリダと読んだらいいとすすめるが、日本人は別の見方で哲学を理解するセンスを持っている、だからもっと哲学を学ぶことをすすめたい。

参考文献
「脱構築と正義」高橋 哲哉 講談社学術文庫

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