風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

「尊王」と「佐幕」は矛盾しない?

2017-09-25 03:52:26 | 歴史・民俗





江戸時代も幕末になってきますと、社会文化も高度に発展しています。特に社会を動かす中心である武士階級は、高い教養を身に着けるようになっていきました。


この時代、「尊王」という観念は日本の隅々にまで行き渡っており、特に武士階級は「尊王」であることが当たり前の常識となっていました。


それとともに、幕府は朝廷より、政治を行う権利を委任されているのだとする、「大政委任論」もまた、常識とされていました。


幕府は朝廷より政務を委任されている。つまり幕府の存在は朝廷の意志、天子様の意志なのである。



従って幕府に忠節を尽くすことは、そのまま朝廷への、天子様への忠節に繋がるのです。



幕末の天皇、孝明天皇は大の外人嫌いで、幕府に攘夷を迫りました。しかしながら孝明天皇は「大政委任論」の正当な継承者であり、幕府から政権を奪おうなどとは露ほどもお考えになってはおられなかった。むしろ幕府との関係をうまく進めていくために、公武一和を積極的に進めようとされておられました。

幕府との仲を壊そうとする長州藩のことは芯から嫌っており、純粋に勤王に務める会津藩を心より信頼していたのです。


当時の常識において「尊王」と「佐幕」はなんら矛盾することがない。「尊王佐幕」思想は、当時の武士たちの極々当たり前の、普遍的な思想だったと云って良いわけです。





一方の「攘夷」思想ですが、これは黄門様こと徳川光圀公が興した「水戸学」によって広められた思想です。


水戸学は宋より伝えられた朱子学を基にしております。朱子学は宋の「特殊事情」より生まれた一種の「危険思想」であって、本来日本にそのまま当てはめられるような普遍性はないのですが、光圀公はこれを無理矢理日本の歴史に結び付け、「大日本史」編纂という、水戸藩挙げての一大事業を起こすわけです。


中国大陸においては、漢民族の王朝と異民族の王朝とが入れ代わり立ち代わり、興っては消え興っては消えしてきました。宋は漢民族の王朝であり、王朝を守るために異民族を徹底的に排除せよという思想が勃興したわけです。

これは宋独自の極めて特殊な事情から生まれた思想なわけで、本来普遍性はないわけです。しかし光圀公はこれを無理矢理日本に結び付け、これが、天子様に仇なす外国人をすべて排斥せよという過激な「攘夷」思想を生むわけです。



こうした過激な思想はナショナリズムに火をつけ、時代を動かす原動力とはなり得ます。しかしスローガンとしてはまことに威勢がいいですが、そこに深い理念はありません。この極めて底の浅い、勇ましい「だけ」の思想は、確かに時代を動かし、幕府を潰してしまった。しかしその後に行われたことは、攘夷とはまったく真逆の、西欧文化礼賛主義でした。



要するに、幕府を潰した後の世の中をどうするのかという具体的なビジョンなど、ほとんどなかったわけです。だからひたすら外国文化に追従するしかなかった。


「尊王攘夷」は幕府を潰すための「手段」として使われただけだった。しかしなぜ、そうまでして幕府を倒す必要があったのか?たしかに幕府の力は衰えていたとはいえ、優秀な官僚が多数育っており(小栗上野介、川路聖謨など)こうした者たちの改革により、幕府は自然解体され、やがては中央集権の国家体制に移行していたかもしれない。原田伊織氏などは、スイスのような自存自衛の立憲君主国家となり得ていた可能性を指摘しておられます。



歴史に「たられば」はないので、こんなことを考えたところで意味はありません。それに幕府が潰されなかったとしたら、ある決定的な要因が欠けてしまうことになる。


それはつまり


明治天皇のことです。



なにがなんでも幕府を潰し、明治帝を即位させ、天皇親政による新しい世を作る。そのためには後先などかまってはいられなかった。取り得ず明治帝さえ即位されれば、皇統を南朝に戻しさえすれば、

後はなんとかなる。



それくらい切羽詰まった裏事情があったのだとすれば、なにか納得がいく気がします。



明治天皇の御即位は、今日に至るまでの日本の運命を左右する位の、重要事項だったのだ。




しかしそれはそれとして、薩長が行った蛮行の数々は見過ごすわけにはいきません。

それはそれ、これはこれ。彼らの蛮行はやはり天下に知らしめる必要ありだと、



私は思いますね。



それでは次回。